髪を切り、その足で大学へ向かい友人たちと合流。ひと時、嫌な事を忘れて楽しく過ごした後には独り、電車に乗って寂しく帰路に着く。結局のところ、バカ騒ぎもただの気休めで、何の解決にもならなかった。時が解決してくれるからと。それまでは毎日でも付き合ってあげるからという、友人たちの言葉に救われなければ、きっとこのまま電車に揺られていつまでも環状線をぐるぐると回っていただろう。

 この憂鬱は、棄てられ女の惨めさだけのものではなくなっていて、せっかく替えた新居までがわたしの期待を裏切って、何か曰くありげな予感がしたからかも知れない。結局のところ、わたしの運の悪さが彼にあの女を引き合わせたのかも知れなかったし、あの気味の悪い部屋を引き当てさせたのかも知れなかったし、当面の問題は、今ではあの部屋に戻ると考えるのさえ憂鬱で仕方ないという事だった。

 気分が少しでも晴れたのは、結局、友達と飲んでいる間と、髪を切った後の自分を鏡の中に発見した瞬間だけだった。


 電車を降りて、バスに乗り、最寄りのバス停を降りてすぐに見える新居のマンションは、やっぱり静かな街並みの中で黙ってわたしを出迎えてくれた。昼過ぎ頃には雨脚が強まり、曇天の空は、夕暮れ時にはすっかり日を隠して、街を夜の暗さに染めている。銀糸のように、降り落ちる雨の粒だけが白く光って、他はすべてが黒い景色に沈みこんでいた。

 電車とバスを乗り継ぎ、アーケードの商店街で用事を済ませた頃には、普段でも真っ暗になる時刻になっていた。駅から商店街までの短い時間だけ差していた雨傘は、さほど濡れてはいなかった。交通の便が良いから、わたしも雨の被害に遭わずに済んでいる。残る機会はマンション前のバス停からロビーまでの距離だけで、これも少し雨脚が緩んだ今ならさほど心配は要らないと思えた。バスを降りる際で傘を差し、わたしはマンションのエントランスに向けてゆっくりと歩き出した。

 ふと、今朝の会話を思い出したのはこの時だった。境界線に置かれた丸い皿。お隣さんは、雨の日ではないから、なんだと言っていたっけ。傘の隙間から、どんよりと黒い雨雲を見上げた。

 お隣さんの、好奇の目が思い出された。閑静な住宅街の、立地条件にしては破格の家賃の部屋だった。いいや、何か問題があるなら告知義務があるはずじゃない、と自身に言い聞かせた。真新しく替えられた洗面台やキッチンの蛇口と、風呂場のシャワーは、なぜだったんだろう。まさか。今朝は思いもしなかった懸念が、唐突に湧き上がってきた。

 濡れるのも嫌でしぶしぶと潜ったマンションのロビーは、わたしの他には誰も居なくて、心細さは募るばかりだ。誰かが一人でも居てくれたら、少しは気が紛れるのに。

 陰気なマンションホール、大理石は模造品で全体は暖色系に纏められているのに、やけに冷たい感じがした。ガラス張りの玄関ホールの向こう側にある外界は、墨色に塗りたくられている。雨にけぶる街並みと、ぽつんと佇むバス停の標識。ずぶ濡れの木製ベンチが雨を吸って黒く染められている。外灯が一つきり、三角に切り取った陣地を懸命に照らしている。陰気な景色だった。

 わたしは逃げるように足を速め、ロビー奥にあるエレベーターへ向かった。何度も住居の階数ボタンを押して、催促するように登りのボタンを叩いた。得体のしれない不安が背中を這い登るようで、ここに居るくらいなら、あの部屋の方がずいぶんとマシだと思っていた。


 ベルの音が鋭く、短く鳴る。到着を知らせる音と同時にエレベーターのドアは開いた。

「すいません、」

 さっ、と後ろから影が走り込んでわたしの乗った箱内に飛び込む。眼で追うと、それはずぶ濡れになった男性だった。竦み上がるような恐怖の感覚は、彼のお蔭で少しだけ和らいだ。けれど、それは本当に一瞬だけの事で、またじりじりと不安が心の隅から沸き出してくる。ぬぅと立っているこの男性をわたしは見知ってなどいない。

 彼は、全身がずぶ濡れになっている様子だった。足元には小さな水たまりが出来ている。傘も持たずに出かけていたのだろうか。天気予報は朝から、今日は雨が降ると自信満々で言っていたのに。男性は目深に野球帽をかぶり、少し俯いてそれきり無言を通している。

 誰かと行き会わないかと願っていたのが嘘のように、わたしの心は落ち着きを失った。見知らぬ男と狭い箱の中で二人きりだ。嫌な感じ。お互いに目が合わないように俯きあって。エレベーターの速度が遅いと感じているのは多分、わたしだけじゃない。

 わたしが降りる階の真下の階を、男は指定してボタンを押した。しばらくの間、無言の気まずい空気が流れた。到着階を示すランプが、それでもこの時間は確実に終わるのだと教えてくれている事が救いのように感じていた。

 軽い振動の後にドアが音もなく開かれると、男は箱の外へ踏み出した。三歩進んで、こちらを振り返った。口元は最初から最後まで動くことなく、一言も発しなかった。エレベーターが閉じる瞬間まで、男はまっすぐにこちらを向いていた。嫌な感じがする。こちらからは見えない帽子の下の目が、何を観ていたのかは解からなかった。

 わたしは帽子をじっと見つめながら、手は焦った調子で開閉ボタンを懸命に押していた。ほんの数秒、それなのにまるで数十分もの間、男と見つめ合っていたような気がした。

 エレベーターは無音で扉を閉ざし、わたしを上階へと運ぶ。今の今までなんともなかったのに、室内灯がチカチカと明滅を繰り返した。嫌な感じがする。早く部屋に帰りたい。

 廊下には転がるように飛び出した。エレベーターのドアが開ききるかどうかの時点で、無理に身体を押し出していた。はっきりと、嫌な感じは恐怖に変わっていた。雨の日の湿度が、みっしりと身体を押し包む感じが嫌だ。雨の降りしきる音が、すべてのささやかな音響を消し去ってしまう感じが怖い。何もかもが雨に隠されて、危険が迫っていても解からなくなりそうで、不安が心臓を締め付けた。

 慌てて部屋のキーを外し、慌てて中に入って鍵を掛けた。キーチェーンなどこのかた使ったこともなかったのに、この日は当然のようにロックして、それでもまだ不安は消えなかった。

 怖い。何が。自問自答で、玄関のドアに背を預けた。

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