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支度を終えてマンションを出る時にもちょっとした出来事があった。玄関のドアを開けると、お隣さんがちょうど通路を掃除している最中だった。おはようございます、と挨拶を交わし、ついでに一言二言とたあいない天気の話を交えた。
わたしは愛想笑いと相槌に気を割いていて、お蔭で戸締りの動作に手間取ってしまっていた。まだ近隣住民とは遭遇したくなかったのに、予定外だった。越してきたばかりで、あまり話をしたくはなかったのに。何を話せばいいのか解からなくて困るし、この緊張感に耐えるだけの心構えもまだ出来てはいない。
「あの、あなた、昨日、お隣に越していらしたのよね?」
遠慮がちな言葉と、何かを探る眼差しでお隣さんはわたしの顔を見た。何かを訴えかけるような、それでいて秘密を隠してこちらの反応を楽しんでいるような、そんな微妙な笑みがお隣さんの中年女性の顔には浮かんでいた。
「昨日、お荷物が来てたみたいだけど。それで、あの、昨夜はお泊りになったのよね? ああ、昨夜は晴れていたし、何もなかったんじゃないかとは思うんだけど。何か、気になることとか、ありませんでした?」
ねっとりとした口調、厭らしく細められた両の目が、言いにくそうにしながら何かを言おうとしている。それでいて意地悪な口元は、理由を話す気などさらさらない事を教えていた。彼女の視線が下を向いた拍子に、わたしもまた発見してしまった。お隣さんとわたしの部屋の境界線あたりに置かれた白い小さな丸皿には、綺麗に盛りつけられた塩の塊が乗っていた。
「ごめんなさい、おかしな事を聞いちゃって。何もなかったならいいの。本当にねぇ、おかしな事を言うおばさんでごめんなさいねぇ。」
何か都合の悪い物を見られたとばかりに、お隣さんはそそくさと会話を切り上げに掛かった。ほうきと塵取りを持ち直し、慌てた素振りで自分の家の玄関を開けて中へ入っていった。なんだか気分が悪い、何か言いたい事があるなら言えばいいのに、と腹立たしかった。
しん、と静まった朝のマンションの廊下。喧騒は遠く、朧に色んな音が混じりあって微かに響いている。誰かの泣き声と自転車か三輪車の車輪が軋む音も、ずっと向うで起きている出来事のように遠い。子供の笑い声がとても遠くから響いた。マンションは閑静な住宅街に建っているけど、街のあらゆる音が雪崩れて来るかのように、玄関通路は密やかに騒がしかった。幻のように微かな音が遠く滲んでいる。
廊下の柵ごしに見た空は、落ちて来そうなほど低く、雲が垂れ込めていた。傘を忘れないようにしないと。きっと今日中に一雨くるだろうと思った。マンションのロビーを出た辺りで、すでに小粒の雨がぽつぽつと降り始めていた。バス停はすぐ正面にあるけれど、バスは遅れているようだった。時刻表ではもう見えてこないといけない時間なのに、マンションの前を横切る道路には車一台通りはしなかった。
誰かがわたしを見ている気がした。振り返ってみたけど、誰も居なかった。嫌だ、気持ち悪い。あのお隣さんが悪い、先ほどのやり取りを思い返して一層気分が悪くなった。バスの遅れは日常茶飯事なのだろうか。どんよりとした低い曇り空と、当てにならない時刻表と、自身の腕時計とを交互に見比べる間にも、どこかからねっとりとした視線がわたしを見つめているような気がして落ち着かなかった。
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