終章
朝の光
どれだけ傷ついても、苦しんでも、泣き喚いても、すべては過去となり埋もれていく。
どんなに悲しい出会いでも、どんなに辛い別れでも、まるで夢か幻であったかのように、底へと沈んで消えていく。
――それを無情とは言うまい。
人は変わらぬまま存在し続けることはできない。
鮮烈な痛みを抱えたまま歩き続けることはできない。
忘却という救いがあるからこそ、現実を受け入れ、進んでいけるのだ。
永遠不変の朝など存在し得ない。
陽が昇るたび変わっていく。
それが生きるということなのだから。
「え!? オルガ、二人目できたの!?」
場所はとある定食屋。
カウンター席でセリーヌが声を上げた。
「そうなの。三ヶ月ですって」
と、セリーヌの隣で答えたのはオルガである。
「そいつはめでたいな。ヨーシャが狂喜したんじゃねえか?」
カウンターの向こうからノウルが顔を出した。
「ええ。もう一人欲しいねーって言ってたところだったから、すごく喜んでいたわ」
「今度はどっちかしらねぇ」
「私はどっちでもいいんだけど、ヨーシャは女の子がいいみたい」
「オルガに似ればいいけどな……」
三人は笑い合い、会話を弾ませる。
赤ん坊の名前の候補だの、教育だの、服や靴のデザインだの、果ては女の子だったら結婚相手は――等々、気が早すぎる話である。
「そういえば」
果実水に口をつけながら、ふとオルガが話を変える。
「セリーヌはいい加減結婚しないわけ? 恋人とは結構付き合い長いわよね」
「あたし達は、お互い束縛しない関係になろうって言ってるから」
「何それ。結婚する気はないの?」
「ないわね。それぞれが好きな事していたいのよ」
オルガは理解不能とばかりに頭を振る。空の食器をノウルに押しつけながら、続けて目を光らせた。
「じゃ、ノウルは?」
「俺は相手がいねえよ」
迷惑そうに、ノウル。
「えー? 大量に見合い話を持ってこられてるって聞いたけど?」
「セリーヌ。余計なこと言ったのおまえだろ」
「何のことかしら」
「そろそろ身を固めたらどう? お店だって、お嫁さんがいた方がやりやすいでしょうに。候補なら沢山いると思うわ。ほら、ソフィとか」
「……オルガ」
ノウルは神妙な顔で言った。
「他人の結婚の世話を焼き始めたら、ババアだぞ」
「ちょっと! 失礼なこと言わないでよ! 私はね、まだ二十二なの! ピッチピチよ! お嬢さんみたいねって言われるんだから!」
「ムキになるところがなぁ」
「オルガ、胎教に悪いから落ち着いて」
オルガは残った果実水を一気に飲み干し、ノウルを睨みつける。が、突如はっとした様子で立ち上がった。
「ババアで思い出した。義母から買い物頼まれてたんだったわ」
「思い出し方に問題があるぞ」
「ここはもちろんノウルのおごりよね。それじゃ!」
ノウルが抗議を発する前に。
オルガは素早く身を翻し、店から駆け出ていった。
調理を中断していたノウルは、溜め息をついて作業を再開する。
「あら。となるとあたしもおごり?」
「そんなわけあるか。おまえはちゃんと払えよ」
「ケチ」
セリーヌは残りのクリームパスタをくるくるとフォークに巻いた。
「――ねえ」
「なんだよ」
「もしかして、ソフィが幸せになるのを見届けてから……なんて思ってない?」
「……………」
ノウルは顔をしかめ、黙り込む。
ナプキンで口をぬぐったセリーヌが意地の悪い笑みを浮かべた。
「弱ったところに付け込まないのがノウルらしいけど。何ていうか、馬鹿としか言いようがないわ」
「あのな、元々俺はソフィとどうにかなりたいなんて思ってねえよ。笑ってりゃいいとは思うけど」
「自分が笑顔にさせてあげればいいじゃない?」
残念な子を見るような目で微笑むセリーヌ。
ギイがいなくなった日――ソフィは、セリーヌにはすべてを打ち明けた。他の者には、ギイは事情があって故郷へ帰ったとだけ伝えている。
直後のソフィの落ち込みようはひどく、オルガなどは特に心配しているようで、今でもやたらとノウルにソフィを薦めてくる。
だが、ノウルはソフィを見るたびに無理だと思うのだ。
――がらんごろん、と大きな音が鳴った。最近取りつけたばかりのドアベルである。
「あ、来た来た」
セリーヌが手を振ると、入店した少女が気づいて近づいてくる。
薄手の長いコートに、汚れのついたブーツ、大きな鞄、少し乱れた髪。旅行先から帰ってきたばかりといった風体だ。
銀の髪が肩口で揺れている。そしてその髪には――瞳の色と同じ、青い石のついた髪飾りが密やかに輝いていた。
「ソフィ」
少女は――ソフィは、ふわりと笑ってノウルの呼びかけに応える。
「二週間ぶりか。おかえり」
「うん、ただいま」
ソフィはセリーヌの隣に腰掛けた。
「今回は結構長かったわねー。お目当ての人は捜しだせたの?」
「何とか。協会の人が手伝ってくれて……これで話が進むよ」
「森の湿地帯に住んでるとかって言ってたよな。大丈夫だったか?」
「うん。なんであんなところに住んでるんだろうね。本当、公認人形技師って変わり者ばっかりだよ」
公認人形技師であるソフィが言うことではないが、事実には違いないので、ノウルは笑っておく。
「でもこれで……存命の人形技師には全員連絡が取れた。王都の方でもね、許可がおりたの。兄が頑張ってくれて。いま形を決めているところ」
「そうか。おめでとう」
「すごいじゃない。王都の公園に石碑ができるんでしょ?」
「隅っこだけどね」
――六十年前に死んだ人形達の、石碑の建立。
それが、ソフィのやろうとしていることだった。
過去にとどまるのではなく、受け継いでいくために。
決して忘れないために。
「元々協会の方でも提案自体は出ていたみたいなんだ。でも、自律人形への偏見を心配して、反対意見も多かったらしくて」
膠着していたところ、ソフィという小石が投げ込まれ、事態が一気に動いたようだった。
「もう六十年経ってるんだもんね……いつの間にか時代も変わってたってことだと思う。今は、自律人形に嫌悪感を抱く人は少数みたいだから」
「何にしろ、ひとまず一段落かしら。頑張ったわね」
ソフィの実年齢を聞いても、セリーヌは変わらず子供扱いである。
ソフィは苦笑し、出された果実水で喉を潤した。
「そうそう、オルガが妊娠したんですって」
「え!? 本当? あとでお祝いを言ってこなくちゃ」
「よせよせ、見合いだの結婚だのってうるさく言われるぞ」
「言われたんだ?」
うんざりとした様子で眉根を寄せたノウルに、ソフィは笑いをこぼす。
――ソフィは明るくなった。
以前感じていた壁が消え、達観したような淡白さがなくなった。積極的に人と関わり、表情豊かに自分の心情も話すようになった。
だが、ふとした瞬間、彼女は髪飾りに触れる。何かを確かめるように。
その都度ノウルは、あの金髪の人形を殴りたくなる衝動に駆られるのだ。
残念ながら、本人がいないので実行はできないのだが。
「……と、そうだ。私、会長に手紙を書いてこないと」
しばらくして、ソフィは鞄を手に腰を上げる。
「ああ、お疲れ。――あ、金はいいぞ。俺のおごりだ」
「あ。ありがとう」
「ちょっとノウル、あたしへの対応と随分差があるんじゃない?」
「理由は自分の胸に聞け」
ソフィは楽しそうに笑った。
初めて会ったのは、この公園だった。
静かに足を進めながら、ソフィは園内を見渡す。
周囲に植えられた木々。いくつかのベンチ。花壇。中央の噴水。
夕暮れ時だからか、人の姿はなかった。男は仕事を終え、女は食事の支度、子供達は遊びをやめて帰路につく。もう少し時間が過ぎれば、恋人達が逢瀬を楽しむかもしれない。ほんの束の間の、空白の時間だ。
春先だが、まだあちこちに冬の名残が溶け残っている。風も少し肌に痛い。生き生きと植物が芽吹くのはもう少し先だろう。冬ではない。春とも言えない。そんな無人の公園は、どこか
「……………」
ソフィは髪飾りに手を伸ばす。
――忘れることは、まだできそうになかった。
肩まで伸びた髪に触れる。
――それでも、前に進めていた。
辛くないわけではない。今でも、一人の時ふいに涙が出そうになる。
強烈な悲嘆は時間が薄めてくれたが、心の空洞はいまだに埋まることがない。ぽっかりと穴が開いたまま、空風にさらされている。
(……でも)
死んだわけではない。
彼は生きている。生きて、きっと主人の元で幸せに暮らしている。
「……大丈夫」
今は強がりだ。だがきっと、いつか本当になるだろう。
ソフィは顔を上げて、踵を返した。
――刹那、強い風が吹いた。
ソフィは目を細め、立ち止まる。
かざした手のひらの下に、人影が見えた。
「…………!」
ソフィの手から鞄が滑り落ちていく。
人影は――二十歳ほどの青年だった。
柔らかそうな金髪に、深い森を思わせる緑の瞳。品のある立ち姿と歩き方。穏やかな雰囲気を持った――綺麗な人形。
その瞬間、世界が反転した。
たった一人が、現れただけで。
「……………」
彼はゆっくりと――ソフィの所までやってくる。
ソフィは魂を抜かれたように立ち尽くしていた。
向かい合い、見つめ合う。
やがて彼は口元をほころばせて腕を上げた。その指先が優しく髪飾りをなぞる。
「……髪が、伸びたね」
響く甘い声。
ソフィは信じられない思いで言葉を返す。
「……覚え……てるの?」
「思い出したんだよ」
ギイは愛おしそうに銀髪を指に絡めた。
「ほら、自己修復するから」
「嘘。だって……いくら直したって……心までは、戻せない」
ギイは困ったように首をかしげる。しばらく考え込み、何事か思いついた様子で言った。
「――覚えた記憶がないのに、オムライスを作れたんだ」
「…………?」
「主が読みもしない少女小説がなぜか本棚にあって、読んだ覚えがないのに、読んでいる自分に既視感があった。月が出ている夜は、自然と外に出て空を見上げた。飲む必要がないのに、気づくと紅茶を淹れてた。――たまにすごく、肩のあたりが寂しい時があった。今まで隣に誰かいたみたいに」
髪をもてあそんでいた指が、頬に移る。
「形が覚えていて、心がそれにつられたのかもね」
「……………」
ソフィの頬を涙が伝った。ギイは指先でそれを拭う。
「ごめんね。待っててって言われたのに、きみを待たせることになってしまって」
ソフィは顔を伏せ、頭を振った。ためらいがちに額をギイの首元に寄せる。指先だけで彼の服の袖をつまんだ。
感触はどちらも本物だ。夢でも幻でもない。
「……本当、は」
出した声は思いのほか掠れていた。
「何度も……用事で、王都に行って。行くたびに、本当は、会いたかった」
「……………」
「だけど、ギイに会ったら……思い出してって、言っちゃいそうで。思い出せるわけ、ないのに……ギイを傷つけるだけだって、思った、から」
「……うん」
優しく頭を撫でる手に、ソフィは泣き崩れそうだった。
どうにか涙を呑みこむ。体を支える。息を吸う。
そして、告げた。
「――好きなの」
ぴたりとギイの手が止まる。
「好きなの――ギイが好きなの。どこにも行かないで。そばにいて。離れて……いかないで」
「……前と逆だね」
ギイはソフィの体に腕を回し、応えるように抱きしめる。
その温もりに、ソフィはまた目の奥が熱くなった。服の上からでも心臓板の脈動が感じられる。速い。生きている。生きて、ここに居る。
「主から伝言があるよ」
ギイが耳元で囁いた。
「『やっぱりおまえは人形師に向いていないね』」
「…………?」
意味が分からず、ソフィはギイを見上げる。
「どういう意味?」
「感情移入しすぎるあまり、人形の可能性を見落とした……かな」
幸せそうに目を細め、ギイは首筋に顔をうずめた。鼻先が肌をかすり、吐息が産毛を撫でる。ソフィはさすがに恥ずかしくなって離れようとした。が、ギイの腕は意外としっかり体を拘束している。
「主は最初から予想していたみたいだ。心が形を作るなら、形が心を変えることもあるかもしれないって」
ソフィは前者だった。
ギイは、形に沿って心が再び生まれた。
変わるのは心か形か――結局のところ、どちらかが正しいわけではなかったのだ。
二つは互いにつながっているのだから。
「……………」
ギイが小さく溜め息をついた。
「――幸せだなぁ」
とろけるような呟き。
胸の隙間がじわりと満たされていく。
ソフィは静かに目を閉じ、恥じらうように答えた。
「うん……」
永遠不変の朝など存在し得ない。
陽が昇るたび変わっていく。
望めばいくらでも――明るい方へと。
完
不変の朝の光 白石令 @hakuseki
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