選択の結末7
ソフィは呆然とその光景を眺めていた。
弛緩し、床に投げ出された二つの身体。素知らぬ顔で転がる二つの剣。一枚絵のごとく凍りついた空間。耳鳴りのする静寂。
自身さえも止まったような錯覚に陥る。
瞬きもせず、震えもせず、硬直したまま、呼吸も忘れ、ソフィはただ見入っていた。
二つの身体は動かない。指先一つ、髪の一筋すら、揺れることもなく横たわっている。動かない。何一つ。動かない。たった一瞬さえも――
「――ソフィ!」
鋭い声が両頬を打った。
ソフィはびくりと身をすくませ、睨むように見据えてくる青年に焦点を合わせる。ノウルがソフィの頬を両手で挟みこんでいた。
「しっかりしろ! おまえがそんなんでどうする!」
「ノ……ウル。ギイが……」
「まだ生きてる!」
その一言はソフィの心を大きく揺さぶった。
瞳に熱が戻り、手は強く拳を作る。視線が素早く彼らを確認した。
「あっちの――ルネって奴は多分無理だ。完全に止まってる。だけどギイはまだ呼吸をしてるんだ」
ソフィは弾かれたように駆け出す。
ギイの唇に耳を寄せ、それから胸の上に手を置いた。確かに呼吸はしているし、心臓板もわずかに脈打っている。
心臓板が修復不可能なほど破損したのなら、その瞬間に停止しているはずだ。そして『停止』していない限り、助けることはできる。
「ノウル、ギイを――ギイを、そこの台に」
「ああ」
ノウルがギイを抱え上げ、移動させている間に、ルネを診る。
左胸からは、かすかな振動さえ感じなかった。ソフィは自分の
ルネは六十年の間に凝固してしまったのだろう。誰とも関わらず、誰とも話さず、ただ思い出の中の主を唯一として、心を凝りかためた。人形は純粋な分、一度染まればなかなか色を変えられない。
ソフィではもう駄目だったのだ。主でなければ。六十年前に死んだ、たった一人の主でなければ。
「ソフィ!」
ノウルに呼ばれ、ソフィははっと顔を上げた。いつの間にか鞄も台の上に乗せられている。
「……………」
死んだようにまぶたを閉ざすギイ。
ソフィは心が凪いでいくのを感じた。
鞄を開け、深呼吸する。
(……大丈夫)
覚悟は、決めた。
ソフィの作業中、ノウルは隣室で待機していた。
人間の手術とは違い、見ていても問題はなかったのだろうが、できるだけソフィの集中を散らしたくなかったのである。
隣は狭い仮眠室になっていた。簡素な寝台が一つ。本当に寝るだけの、しかも一人分のスペースしか確保されていない部屋だった。すぐに休憩でき、すぐに作業を再開できる。この上なく合理的ではあるが、少々排他的なにおいもした。
人との交流や会話を好むノウルからすれば、理解しがたい性質である。
人付き合いが苦手なのは仕方ない。嫌なら積極的に関わらなくても良いとは思う。だが、最初から一切合切を拒絶するのはいかがなものか。
拒絶した挙句が――ルネという人形だ。
受け入れること。
他者を。自分を。環境を。時代を。ありのままの現実を。受け入れ、変わっていくことで、人は立ち止まらずにいられるのではないだろうか。――きっと人形も。
「……………」
ノウルは重たい気持ちを霧散させるように頭を掻いた。足を組みかえ、ドアの方を見やる。
時計がないため時間の経過は分からない。一分が十分に、十分が三十分にも感じられた。
――実際には三十分も経っていまい。
ドアが軋んだ。ソフィがそっと顔を出す。
「ソフィ。ギイは――」
「大丈夫だよ」
ソフィは静かな微笑みを浮かべた。後ろを振り返り、部屋の奥に横たわるギイを示す。
「幸い傷ついたのは表面だけだったから、私でも何とかなった。でもあくまで応急処置だから、ギイのご主人にちゃんとした処置をしてもらわないといけない」
「ギイの主人って……」
「多分ギイの部屋に手紙があると思う。すぐに町に戻って、彼に報せるよ」
「――知り合いなのか?」
ソフィは小さく苦笑した。
「……エジード・シルヴェスタ。私の兄弟子」
「兄弟子?」
「ギイの心臓板を見て分かった。作りにね、特徴があるんだよ。まさかギイのご主人だったなんて思わなかった。もう六十年も会ってなかったのに」
ソフィは懐かしむようにギイを見る。
ギイはぴたりとまぶたを閉じ、眠っていた。微動だにせず仰向けになっている。死んでいるように思えてしまい、ノウルはギイの身体を軽く叩いた。体温がある。
「今、心臓板の動きを最小限にしているから……息をしてないように見えるけど。ちゃんと生きてるよ」
やわらかに笑うソフィに、ノウルは違和感を覚えた。
安堵しているふうではない。喜んでいるようにも、逆に悲しみをこらえているようにも見えない。それは不自然に澄みきった、安らかな顔だった。
「……ギイは、無事なんだよな?」
ソフィの顔から表情が消えた。
彼女は唇を噛み、言葉を探すように視線をさまよわせる。
「……うん。命は、無事」
「命、は?」
「心臓板の根幹部分は無傷だった。だから、ギイの主が定めた原則と、その主のこと、自分が作られた理由とかは、覚えてると思う。だけど後天的に学習したこととか、経験したこととか――そういうのは、多分、全部消えてる」
「消え……てるって」
ノウルは愕然として呻く。
「つまり、俺達のことも、覚えてないってことか?」
「そう」
――それは。
それでは、ギイが得た心はどうなる。
定食屋でマイペースに給仕係をやっていたとか。
むしろ客と話すことにばかり夢中になっていたとか。
包丁すら握ったこともなかったというのに、散々失敗をして――ノウルの指示を聞かずに好き勝手やった結果だが――ようやくオムライスをまともに作れるようになったとか。
やたらと少女小説にはまったとか。
気味が悪いくらい隙がなかったのに、ぼんやりしたり、ミスをしたり、忠犬のごとくソフィを待っていたり、かと思えば世界崩壊とばかりにへこんだり――
「全部、覚えてないのか? 後々思い出したりは」
「……しないと思う。残念だけど」
唇だけを動かしながら答えるソフィ。
「ある程度の傷なら自己修復するけど、記憶の復元までは……望めない」
――恋心も。
ノウルは猛烈に腹が立った。ギイに、である。理不尽な怒りだと自覚はしていたが、今までのことを綺麗さっぱり忘れましたと告げられたところで、到底納得などできなかった。
「ふざけんなよ、ギイ!」
「ちょ、ちょっとノウル!」
怒りに任せてギイの胸倉を掴み上げるが、ソフィが慌てて止めに入った。
「こいつ起こせないのか?」
「駄目だよ! 完全には直ってないんだから――今の状態で起こしたら、心臓板の傷が広がっちゃう」
ノウルは舌打ちしてギイから手を離した。苛々と髪を掻きむしった後、深く息を吐く。
「……くそ。とりあえず、こいつの主人だったか? 手紙だよな。俺が行って取ってくる。ソフィは疲れたろ。ちょっと休んでな」
「大丈夫だよ。私が行く」
「いいからここにいろ。もう暗いし――八つ当たりをしちまいそうだ」
困ったようなソフィを残し、ノウルは早足で工房を出ていく。
扉の前でちらりとソフィを窺った時には、すでに彼女はノウルに背を向けて、じっとギイの方を見つめていた。
(……くそ)
ノウルは胸中で毒づく。
――これが結末か。
ソフィが悩み続けた六十年間の。
ギイが得た、たった二年間の。
これが結末なのだ。
結末は必ず幸せなものを。
それがソフィ・ブライトの主義である。
どれだけ辛い試練があっても、どれだけ悲しいすれ違いがあっても、どれだけ厳しい闘いがあっても――劇の結末は、必ず幸せにしていた。
優しい気持ちで終われるような。あるいは、爽快な気分で終われるような。
心残りも後腐れもなく、笑顔で閉じられるような終わり方を。
――無論、現実はそう甘くない。
決して甘くはないのだ。
「……変わっていないね」
その老人は、ソフィの姿を見るなりそう言って破顔した。
「兄さんは老けました」
ソフィも悪戯っぽく返してやる。
ソフィの記憶が正しければ、彼は今年七十九になるはずだ。
漆黒だった髪はすっかり灰色に変わっている。顔には多くのしわが刻まれ、鋭かった目は随分と丸みを帯びて垂れていた。
だが背筋はぴんと伸び、足取りもしっかりしていて、とても八十目前には見えない。強い精気を湛えた眼差しも記憶のままで、本質は変わっていないのだと安心した。
エジード・シルヴェスタ――ソフィの兄弟子である。
「人間だからね。いずれはおまえもこうなる」
エジードの後ろで、馬車の御者台から一人の少女が降りた。黒髪の巻き毛に黒い瞳をした、彼の自律人形である。
「……兄さんが、まさか王都に住んでいるとは思いませんでした。怒って国を出ていきましたよね?」
「まあ、色々あってね。人形作りにはやはりあそこが一番良かったんだ。――こっちもびっくりしたよ。ギイの手紙におまえの名前が出てきた時には」
「私の?」
ソフィは驚き、隣のノウルと顔を見合わせた。
「最初は同姓同名かと思ったんだけどね。手紙が届くたびにおまえのことが書いてあって、どうも特徴が一致しすぎるから、間違いないなと」
「……そ、そんなに私のこと書いてあったんですか?」
「最近はおまえのことばかりだったね」
「……………」
ソフィは工房の中を振り返った。ギイは静かに眠り続けている。
「複雑な気分ではあるけど、どうやらギイは色々なものを得たようだ」
「……でも、失わせて、しまいました」
「……………」
「ごめんなさい、兄さん……」
「何を謝る?」
エジードは苦笑し、ソフィらの横をすり抜けて、ギイの所へ歩いていった。黒髪の自律人形が音もなく付き従う。
「ギイの選択だ。誰の責任でもない。強いていうならギイの主人である私か。おまえが謝ることではないよ」
「でも、私」
「どんな事であれ、選択の責任は本人が負うものだ。ソフィ、おまえはおまえ自身がした選択だけを負えばいい」
「私が、した、選択……」
ソフィは胸元を握りしめる。
「ヴィオレット、ギイを馬車に」
「はい、エジード様」
「あ、俺が運ぶよ」
ノウルが申し出た。華奢な少女人形を
しかし、ヴィオレットはにこっと笑うと、軽々ギイを抱き上げた。
「ご心配なく。こう見えても人間より力はあります」
「そ……そうか」
エジードは続いてルネを見やった。
「その自律人形も私が引き取ろう。心臓板を新しくすれば動くはずだ」
――それは、もう『ルネ』ではないけれど。
「……はい。ありがとうございます」
ソフィは涙をこらえながらうなずいた。
「ギイの目が覚めたら連絡するよ」
「……いえ」
小さく頭を振るソフィ。ノウルが目を見開いた。
「もう戻らないのに、こんなことがあった、なんて言っても……ギイは苦しいだけだと思うので」
まったく知らない相手なのに、知り合いだと。
自分の中にはないのに、こんな思い出があったのだと。
教えてしまえば、ギイは思い出せない自分を責めるだろう。
「戻らないんですか」
ノウルがエジードに言った。
「作った人形師にも、直せないんですか?」
「……無理だろうね。根幹さえ無事なら、心臓板自体は修復可能だけど。人形師には、そこに生まれた心まで復元することはできない」
くそ、とノウルは土を蹴った。苛々しながら腕を組み、近くの柱に寄りかかる。
「だから、いいんです。生きていてくれれば。兄さんのそばなら、ギイも幸せだろうし」
「多少窮屈な思いはさせるだろうけどね」
ギイは本来なら処分していなくてはならない人形だ。王都では自由に町を歩いたり、気軽に出掛けたりすることはできないだろう。
それでも、主人がそばにいるのなら、苦しむことはない。
「ギイとルネを、よろしくお願いします」
「……ふむ」
二人を運び終え、馬車のそばで待機するヴィオレットを確認すると、エジードはソフィの肩をぽんと叩いた。
「おまえは人形師に向いていないね」
「……以前も、同じことを言いました」
「私が? そうだったかな」
ついでに言えば、ギイにも指摘された。
「あの時、結構傷ついたんですよ」
「それは悪かった。当時は無頓着だったんだよ」
「今もそうです」
「今のは違う意味だよ。多分ね」
何が違うというのか。
エジードは答えず、ソフィとノウルから離れていった。馬車に乗り込む寸前で、思いついたように振り向く。
「そうだ、ギイの荷物があるだろう? あとで全部こちらへ送ってくれ。処分に困るだろう」
「……分かりました」
うなずくことに、ためらいがなかったわけではない。ギイの居た痕跡がすべてなくなってしまうのは、やはり辛かった。
だが、これがソフィの選択だ。
「ソフィ」
「はい」
「幸せに」
返答に詰まったソフィを残して、エジードは馬車の中へ消えた。
ヴィオレットがお辞儀をして御者台に乗る。
馬車が動き出した。
ソフィは視線を逸らすことなく見送る。
遠ざかっていく。
離れていく。
土煙が姿をぼかし、曖昧な輪郭がだんだんと小さくなっていく。
ソフィの胸には穴が開いていた。全身の血が抜けていくような喪失感。走って追いかけたい衝動に駆られる。しかしこれはソフィの選択だ。
拳を握り、爪を立て、唇を噛んで耐えた。
(大丈夫……)
別れは多く経験してきた。大したことではない。ギイは生きているのだ。だから、この激しい痛みも耐えられるはずだ――
「ソフィ、本当にいいのか?」
「……うん」
「……渡さない方がいいかと思ったんだけど」
ノウルは頭を掻きながらポケットを探る。
彼が取りだしたのは小さな包みだった。プレゼント用なのか、可愛らしいラッピングがされている。
「それは?」
「ギイの部屋に置きっぱなしだった。祭りの時に買ったみたいだな。ソフィにやるつもりだったらしい」
「……え?」
混乱しながらソフィは包みを受け取った。
中から出てきたのは髪飾りである。シンプルなピンに、小さな青い石が二つほどついている。控えめだが、可憐で繊細な印象の飾りだった。
――ギイの声が蘇る。
『きみにはもう少し控えめな飾りの方が合うかもね。小振りの石が一つ二つくらいの、ネックレスとか髪飾りとか――』
突如として涙があふれ出た。
ソフィは髪飾りを握って膝を折る。
「ソフィ……」
「ご……めん。今、だけ」
嗚咽の合間に声を絞り出す。
「今だけ、だから。すぐ……すぐ、元、にっ……」
――幸せに。
それは無理だ。少なくとも今は、そう思う。
――結末は必ず幸せに。
現実はそんなに甘くない。
辛いまま終わることもある。無念を抱えて終わることもある。笑顔で終われないこともある。
それでも受け入れなくてはならないのだ。
痛みを、悲しみを、傷を、受け止め、受け入れて、そうして歩いていかなければならないのだ。
彼からもらったものを消したくはない。
彼と出会い、経験して、変わっていったものを、なかったことにはしたくない。
それは彼がここに居たという証だ。
たとえ――彼がすべてを忘れていても。
だから。
「……すぐに……立ち直るから……!」
――だから、もう過去にとどまるのは止めよう。
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