選択の結末6
馬車は猛然とひた走っていた。
街道からはすでに逸れている。道が悪く、揺れはひどい。時折大きめの石でも跳ねるのか、車体が浮く瞬間さえあった。
そんな中でしゃべるのは一苦労だったが、どうにかすべて語り終えると、ソフィは小さく息をつく。事の経緯とルネの事情はもちろん、ギイの正体やソフィの過去まで、包み隠さず――である。
正面には難しい顔で腕を組むノウルの姿があった。
彼はソフィが話している最中、一度も口を利かなかった。どんな反応が返ってくるのか、ソフィは身を強張らせる。
やがて――
「……ソフィ」
「う――うん」
「ソフィが、こんなにしゃべったのを、初めて見た」
「……は?」
言葉を区切っているのは、激しい揺れに合わせているのだろう。しかし内容は大きくずれている。
「妙に感動した……」
ノウルはしみじみとうなずく。
「あの、ノウル……」
「あー、分かってる。いや、びっくりした。ソフィのこともだけど、ギイが、人形だったとはなぁ」
口調は変わらず朗らかだった。道端で天気の話を振るくらいに軽い。身構えていたソフィは拍子抜けした。
「……怒って、ないの? 不気味、とか」
「いや? ま、言いにくいことも、あるだろ。ソフィがいくつだろうが、ソフィはソフィだし。ギイもそうだ」
にっ、と笑うノウルに、圧し掛かっていた重さが抜ける。
自分が考えるほど大したことではなかったのかもしれない――と、ソフィは思った。孤独は視野を狭くする。思考を硬直させ、袋小路に追い詰めて、他の出口を見えなくするのだ。
無論、ノウルのような大らかな者ばかりではないだろう。それでも、自分一人では見出せない道を示してくれるはずだ。
「……なんだか、私、馬鹿みたい」
ソフィは恥ずかしくなって顔を隠す。
大切なことも重要なことも、本当はそう多くないのだ。
「真面目なんだろ。馬鹿じゃないし、無駄でもないさ」
「……ありがとう」
がたん、と馬車が一際大きく跳ねた。下手をすれば横転しかねないスピードである。
「……無事ならいいが」
ノウルが呟いた。うん、とソフィは相槌を打つ。
(まだ……きっと、大丈夫)
根拠のない言葉を言い聞かせる。そうでもしなければ、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「――おい! もっとスピード出せねえのか?」
「無茶言うんじゃねえよ! 限界だ!」
ノウルが御者台の方に顔を出すと、すぐさま荒々しい声が返ってくる。
「くっそ、何でいつも俺ばっかり――」
「おまえらのボスに言いつけるぞ! もっと仕事しろ!」
いくらなんでも横暴すぎるとは思ったが、ソフィは異議を唱えなかった。
日が暮れていく。
太陽の灯りが弱まるほど、胸騒ぎは増していく気がした。
――『離れていかないで』
ルネはしばらく不可解そうな顔をしていた。少し眉根を寄せ、まじまじとギイを見ている。珍妙な生物でも発見したような様子だった。
「……なぜ?」
ややあって、ルネは不思議そうに尋ねる。
「なぜ、人形であるわたし達が、要求をするのです?」
「……………」
ギイは静かに微笑みを返した。
「要求するのは人間の方です。わたし達は、それを叶える。そのために存在するのでしょう?」
「……そうだね」
「貴方の言っていることは分かりません」
「……そうだね。分からないん、だろうね……ずっと、六十年間も……引きこもっていたから。きみが……もし、他の人間と……関わっていたら」
その空っぽの器を、誰かが満たしてくれていれば。
「きみも、理解できたかもしれないのにね……」
「……………」
哀れだと、その時ギイは初めて思った。空っぽなまま壊れてしまった人形を。
誰でもいい。人間がそばにいれば。主のことを忘れられずとも、他の人間と接し、その心を受けることができていれば。
こんな風にはならなかったかもしれない。
「……もし」
ルネが平坦な声音で言った。
「もし、貴方の言葉通り……あの時、わたしが主にそう言っていれば……結末は変わったのですか?」
ルネの主は『人間のような反応』を期待していたのだろう。
ただ盲目的に従うのではなく、我を出し、反抗したり意見を主張したりしてほしかったのだろう。最後の賭けのつもりで、命令を出したのだ。
しかしルネは変われなかった。
「あの時、わたしがそう言っていれば……あの人は、出掛けることもなく、事故に遭われることもなかったのですか?」
「……さあ」
今更仮定の話をしても遅い。時の流れが行き着く先は一つしかないのだから。
――相当な時間、ルネは棒立ちになっていた。
考えているのか。迷っているのか。気が変わって思いとどまってくれればいいのだが、それはきっと無理だろう。
「……………」
ルネはやがて、何かを思い出したように瞬きをした。室内をゆったりと回り、明かりを灯しはじめる。
外はすでに暗い。ギイは夜目が利くため不自由はないが、ルネはそうではないのか、あるいは――
「……主はいつもこうして、夜遅くまで、ランプの明かりで研究をなさっていました」
「……………」
「わたしがお役に立てることと言ったら、お食事を作るくらいで――この上、主の命令に背いては、本当に役立たずなのです」
ギイは諦めたように嘆息した。
逃げ道はない。逃げるすべもない。死はギイにとって恐怖ではないが、それによってソフィが悲しむだろうことを考えると、素直に受け入れがたいものがある。
(……ごめんねって、言いたかったなぁ)
――
続いて人の声と、慌ただしい足音。
停滞した空気に、風が鋭く切り込んだ。
「――ギイ!」
第一声が自分の名であることに、ギイは深い幸福感を覚えた。
その場を一目見た瞬間、ソフィは崩れ落ちそうになった。
ルネはゆらりと立っている。ギイはその前で力なく座り込んでいた。
ノウルがとっさにソフィの腕を掴み上げたこと、ギイがわずかに顔を上げて視線をよこしたことで、どうにか体を支える。
――まだ。まだ、大丈夫。
深く息を吐いて、ソフィは一歩室内に踏み込む。
ルネは困惑したような笑みを浮かべていた。
「……貴方は、すぐに帰ってくるのですね。ソフィ」
「ルネ……」
胸元をきつく押さえながら、ソフィは深呼吸する。
「お願い、そんなことをしないで」
「……………」
ギイの心臓板を奪っても無駄だ――などと説得しても、効果はないだろう。彼女は充分承知しているはずだ。
「ルネがそんなことをするのも、ギイがいなくなるのも、私は嫌だよ」
「……けれど、わたしは、主の命令を果たさなくてはならないのです」
「果たしたいっていう気持ちは、分かるよ。ルネがご主人のことを慕ってるのも。だけど、どうしようもないことは分かってるんだよね?」
主人はもう戻らない。
役目を果たして喜ばせたい人はもういない。
それでも――いや、だからこそ、命令しかすがるものがないのだ。
「だから……一緒に考えよう?」
「……考える?」
「ルネが、どうしたら解放されるのか。どうしようもない袋小路から、どうしたら出られるのか。私も一緒に考えるから」
「考えて……どうなるのですか?」
ルネは無垢に首をかしげる。
「考えて、わたしはこの答えを出しました。これ以外に答えがありませんでした。わたしには、他に選択肢がないのです」
「そんなことない。一緒に考えれば、他の道も見つけられるよ。きっと他の答えだってある。一緒に考えよう? ルネが違う答えを出せるまで、ずっとそばにいるから」
ギイが少し不愉快げに眉を顰めた。言いたいことはもちろん察せられたが、今は黙殺する。
「だから――だから、お願い。こっちに来て」
「……………」
ルネはゆっくりと瞬きをした。
ギイは睨むように彼女を見上げている。
ノウルは
冷たい風が外から吹き込み、音もなく空気を揺らす。
ルネがわずかに――どちらに近づこうとしたのかは分からない。わずかに体を動かしたその時、妙に甲高い音を立てて、何かが床の上を跳ねた。
心臓板のかけら。ルネのポケットから落ちたのだろう。
ルネはそれを瞳に映すと、少しだけ笑った。
――暗い予感。
「ルネ!」
「……ごめんなさい、ソフィ」
ルネのコートが落ちた。
彼女の手にはナイフが握られている。
「――――!」
「わたしには、あの人しかいないのです」
ルネはふわりと髪を揺らし、ゆるやかな動きでギイの前にひざまずくと、両手で持ったナイフを振り上げた。
「だめ……!」
――妙に緩慢と流れた一瞬だった。
ソフィは片足を踏み出し。
ノウルは床を蹴り。
ルネの振り上げたナイフが、ギイの胸へと吸い込まれていく。
それまで力なく腕をおろしていたギイが、短剣を取り出して腰を浮かせた。
――おそらく刃は、ギイのものの方が先に目標に到達した。
深々と突き刺さる短剣。ギイが歯を食いしばり、刃をねじる。悲鳴。かすかな金属の――割れる音。
ルネの手からナイフが落ちた。色を失くした瞳が閉ざされ、華奢な身体は糸が切れたように倒れ伏す。
――直後、時の流れは正常に復した。
「ギイ!」
駆け寄ったノウルがギイを支える。
ソフィは足がすくみ、近づくことができなかった。
「……ソフィ……」
ノウルの体の陰から、ギイが弱々しく顔を出す。
「……ごめん、ね。きみは、悲しむと思ったけど……彼女は、もう、ゆがんで、壊れて、いたから。こうするしか……なくて」
ルネはぴくりとも動かない。心臓板が致命的な損傷を受けたのだろう。ソフィは込み上げてくる恐怖と絶望をこらえながら、首を横に振った。
「――ギイは」
本当は聞きたくなかった。
「……ギイは、大丈夫なの……?」
喉がひどく乾いている。声を出せば擦り切れて、血がにじんできそうだった。
ソフィは瞬きもせずギイを見つめる。じっと返事を待った。握りしめた手が小刻みに震え、だんだんと呼吸が乱れていく。
ルネのナイフの切っ先が、確かにギイの胸に食い込んでいたのを、ソフィの目は見ていた。
ギイは胸を押さえ、穏やかな笑みを浮かべてみせる。
その笑顔で、大丈夫だよと言ってほしかった。
いつものように、心配しないでと。
しかしギイは、笑顔を少し困ったふうにゆがめると、なぜかこう言った。
「……ありがとう」
――ソフィが、そばにいると言ってくれた時。
ギイは嬉しかった。途方もなく。
ルネが言った通り、人形は望みを叶える側だ。人のために生まれ、人のために生き、人のために死ぬべき存在である。
人形は望まない。願わない。欲求など持つべきではない。
にもかかわらず、日ごと募る想いに、ギイは当惑していた。
自分はどこか壊れたのかもしれないと、本気で考えた。これが『恋』という感情なのかどうか確証はなかったし、そもそも人形であるギイは、分不相応な望みなど抱いたことがなかったのだ。
その願望を、欲を、どう消化すればいいのか分からなかった。
どう呑み込んで、どう消し去ればいいのか、分からなかった。
ギイにとっては世界が変質するほどの異常であった。
だが――
『そばにいるから』
救われた気がした。
本来なら、ソフィは『そばにいなさい』と命じるべきだった。他の人形師ならそう言っただろう。人形はその方が安心するのだ。安心して、空っぽなまま、人形師に糸を引かれて動いていける。
しかしソフィは『そばにいる』と言った。
――望んでもいいのだと。
願っても、甘えてもいいのだと。
どれだけギイが嬉しかったか、ソフィには分からないだろう。
どれだけ満たされたか。
それが、どれだけ幸福なことであるか。
だからもういいと思った。
諦めではなく、満ち足りた心で。
――約束を守れなかったことには、謝罪をしたかったけれど。
ギイは静かに意識を閉じた。
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