白色奇譚

@syfaris

第〇話 星降る夜の噂 

 そのとき、わたしは忘れ物を取りに学校へと戻る途中だった。

 まだ五時前なのにも関わらず、もうすっかり夜の帳は下りていて、街灯がなければ足元もおぼつかない。昔はもっと街灯の数が少なかったというけれど、昔の人たちはどうしていたのだろう、とふと思う。

 わたしはコートの裾をしっかりと閉め、足元に気をつけながらおっかなびっくり歩いていく――この辺りは油断すると田んぼの中に足を突っ込むこともあり得るのだ、恐ろしいことに。

 そうしてしばらく歩いていくと、突然オレンジ色の明かりが現れた。

 何だろうと近づいてみると、それは工事中であることを知らせる警告灯だった。喧しく明滅する柵の向こう側を覗き込んでみると、その向こうには深い穴がぽっかりと口をあけていた。少し覗き込んでみたけれど、その底は見えない。

 警告灯の下には電灯に照らされて、迂回を促すホワイトボードが掲示されていた。迂回路とされている方角へ眼をやると、その道は電灯もなく本当に真っ暗な道だった。他の道から行く方法もあるが、それでは時間がかかりすぎる。できればドラマが始まる前には帰りたかった。一応、録画予約はしてきたけれど、できることなら生で見たい。

 鞄の中に懐中電灯があることを確認すると、それを手にわたしは横道へと歩みを再開する。この辺りではは夏場はともかく、日の暮れるのが早い冬場は、懐中電灯かそれに代わる灯りが必須だ。それでも電灯が整備されてきてはいるが、このような横道に入ってしまうとそれも期待できない。

 しばらくの間、横道を小さな光を頼りに歩いていると、不意に強い風がわたしに向かって吹き付けてきて、思わず 目を閉じた。そして、目を開けたとき、視界に飛び込んできたそれを見て思わず叫んでいた。

「……雪だ!」

 今年初めて舞う、白くふわりと漂うそれ。見上げると、空から次々に降ってくる。なぜだか私はうれしくなって、鞄を握ったままその場でくるくると回った。電灯の光が雪に当たってキラキラと輝き、とても綺麗だった。

 今、きっと自分の様子は家で飼っている犬のコータのようなんだろうなと思い、わたしは苦笑いを浮かべる。犬は飼い主に似るというけれど、これではまるであべこべだ。

 わたしはしばらくその空から降る白い花を追い回し続けた。


 ※


 そのとき、私は一日を終え、家へと戻る途中だった。

 学校を出たところで時計を見ると、既にもう五時近い。道理でもうこんなに暗いはずだ。

 急いで帰った方がいいと、直感が告げていた。日が落ち、闇が世界を包んでしまえば、そこはもう彼らの領域。暗がりを見通す能力のない私では、彼らに抗うことは難しい。

 普段から歩きなれた道を使い家路を急いでいると、突然道を塞ぐようにして鉄柵が姿を見せた。左手の回り道を行くようにとの警告文がライトに照らし出されている。柵の向こう側に目をやると、そこには路地よりも深い闇が口をあけて侵入者を待ち受けていた。これを乗り越えていくのは無理そうだった。

 仕方なく私は回り道へと足を向けた。この回り道でロスするであろう時間の分、足の回転を速める。

 誰もいない路地に、自分の足音だけが響く。まるで、自分が世界に取り残されたようだと思った。いや、実際に取り残されているのだった。今このとき、私は確かに。

 不意に背中に強い風が当たったかと思うと、視界に白いものがちらつき始めた。

「――雪、か」

 そういえば十二月になろうというのに、今年はまだ雪が降っていなかった。もっとも、雪が降ろうが雨が降ろうが、私には関係のないことだが――

「!!」

 私は『獣』の気配を感じて立ち止まった。息を殺しすり足に切り替える。――近い。恐らくこの曲がり角の先だ。

 塀に背中をつけ、顔だけで曲がり角の先を見る。運良くそこには電灯があり、その姿を確認することができた。それは間違いなく、私の敵である『獣』。だが、今はまだこちらには気づいていないようだった。

 ここで倒すこともできるが、他にもいないとは限らない。こちらに気づいていないのであれば、別の道を使ってやり過ごすことが最良のように思えた。

 だが、どこにでも間の悪い人間というのはいるものだ。『獣』がいる道の先に、一人の少女が姿を見せた。

 まず間違いなく彼女には『獣』が見えていない。無防備に、暢気に雪に気を取られながら、まっすぐ『獣』に向かって近づいてくる。

 それを見て、ちょうどいい獲物を見つけたというように、『獣』がにやりと笑みを浮かべるのがわかる。

 舌打ちし、私は塀の影から全力で飛び出していた。走りながら手に持っていた布袋を開き、中からひやりと冷たい鞘を取り出す。

「そこの人、逃げて!」

 声を挙げることに意味がないことはわかっていた。彼女に『獣』が見えないように、私の声が彼女に聞こえるはずがない。だが、『獣』が私の声に気を取られるでもいい、その手を振り下ろすまでの時間を稼ぐ必要があった。

「危ない! 避けて!」


 ※


「……ふぅ、さて行きますか」

 しばらくして十分に初雪を堪能した私は歩みを再開する。雪は徐々に勢いを増しているようだった。本格的に降ってきたら帰るのが大変なので、息が切れない程度に早足にする。

 と、不意に誰かの声が聞こえたような気がして、わたしは立ち止まった。辺りを見回してみるが、誰の姿もない。塀の向こう側からかと思ったが、周囲の民家には不思議と明かりの点った家がひとつもなかった。

「――げて!」

 にも関わらず、声が再びわたしの耳に届いた。何を言っているかはわからなかったが、語気から警告を受けているような気がして、わたしは咄嗟に鞄で顔を守った。次の瞬間、まるで何かで殴られたかのような衝撃が鞄を襲い、わたしは弾かれるようにして壁に叩きつけられた。その弾みでかけていた眼鏡がはずれて、道路の上を滑っていく。

 打ち付けられた背中がじくじくと熱を放つ。それが『痛み』であることに気づくには、しばらく時間がかかった。

 一体、何が起こったのか――と、顔を上げた所にそれはいた。

 それが何かは、よくわからなかった。なぜなら、『それ』はそこにあるということはわかるものの、おぼろげにシルエットがわかるだけで、色というものがまったくなかった。まるでそう、暗闇の中に暗闇が浮かんでいるかのよう――

 そうしてわたしが呆然としているうちに、『それ』はわたしへとゆっくりと歩み寄り、そして手のようなものを振り上げた。

 思わずわたしは目を閉じ、頭を抱える。

 走馬灯のようにこれまでの長いようで短い人生が思い返される。ああ、父さん母さんごめんなさい。わたしは親不孝な子供でした――


 ※


 二度目の叫びも空しく、私がたどり着く前に『獣』が彼女の顔を殴りつける。間に合わなかった――彼女の砕けた頭を想像したが、現実にはそうはならなかった。

 獣の手が彼女に届く直前、鞄のようなものが間に入り、自分の顔を庇ったように見えた。彼女はまるで突かれたビリヤードの玉のように弾き飛ばされ、壁へと叩きつけられた。

 どういうことだろう、まさか私の声が聞こえたのろうか――いや、今はそんなことを考えている余裕はない。私は『獣』の手前で足を踏みしめ、獲物の柄へと手をかける。

 『獣』がこちらを向くが既に遅い。私は鞘から刃を解放し、敵に向かって行使する。

 的確に踏み込み、正確に押し当て、鋭く引く。どの行動が遅くても、早くても、弱くても、強くてもいけない。何度となく繰り返してきた覚えたその動作は、正確に『獣』の身体を縦に引き裂いた。

 『獣』は悲鳴すら上げずにどっと道路へと倒れこむと、しばらく身体を震わせた後、まるで初めから存在などしなかったかのように塵になって消えた。

「……ふぅ」

 私は息を吐くと、刃を鞘へと戻す。

 あの少女は大丈夫だろうか。彼女が叩きつけられた壁のほうを見ると、視線が交差した――ような気がした。

「大丈夫?」

 私は彼女に近づくと、声をかけながら手を差し出す。どうせ彼女には聞こえないのだろう、と思いながらも、先ほど私の声に反応したように見えたのが見間違いではないという希望を込めて。

「……あ、ありがとう」

 彼女は確かにそう言って、私の手を取り、そして微笑みを浮かべてみせた。雪が降るほど寒いからだろうか、その手は不思議と温かく、懐かしい感じがする。そして、その笑顔は暗闇の中だというのに、まるで宝石のように輝きを放って見えた。

 実際には本当に彼女が輝いていたわけではなく、それは私の瞳に貯まった雫によるものだった。しかし、その時の私はそれに気づくことはなく、ただその眩しさから逃げるようにして、その場を走り去ってしまった。

 初めて出会った私を認識できる彼女の名前を聞くこともないままに。


 ※


 ……どれくらいそうしていただろうか。恐る恐る目を開けると、そこにはもう『それ』は跡形もなくなっていた。

 その代わりにそこにいたのは、一人の少女だった。彼女が自分を助けてくれたのだろうか。少女は背丈はわたしより低いぐらいで、手には何か長いものを持っている。顔は――暗いせいか、よく見えない。いや、暗いせいだけではない、弾き飛ばされた拍子に、メガネをどこかに落としてしまったようだった。

 彼女はわたしに気づくとゆっくりと近づいてきて、そっと手を差し出す。

「あ、ありがとう」

 わたしはその手を握ると、それを支えにしてゆっくりと立ち上がる。背中がやや痛むが、歩けないほどではなかった。

「助けてくれて、ありがとう。あなたの名前は?」

 しかし、顔を上げた時には彼女の姿はもうそこにはなかった。

 どこへ行ったのだろう、と辺りを見回しているうちに何かが足に触れた。手探りで拾い上げてみると、どうやらそれは手帳のようだった。後で見てみようと思って、私はそれを懐へと入れた。



 こうしてわたしたちは出会い、そして一つの物語奇譚が始まった。

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