第三話 銀色の噂
一
――冷静になればなるほど、許されることではないって。
※
「もしもし、あさ――」
「さっちゃん!? どうしよう! わたし、空乃にひどいこと言っちゃった」
相手が受話器口に出るなり、日和は相手の確認も、そして自分の名乗りもせずに早口でまくし立てた。
「その声は――日和ちゃん? 一体どうしたのさ、そんなに慌てて」
「どうしたもこうしたもなくて――わたし、本当にひどいことを」
「ひどいことひどいことって、さっきからそればっかりじゃわかんないよ」
呆れたようなため息が受話器から漏れ聞こえた。
「ちゃんと全部聞いてあげるから、最初からまるっと話してみせてよ、ね?」
「う、うん……」
溢れる涙を拭いながら、日和は昨日、ショッピングモールで起こった出来事をぽつぽつと話し出した。
楽しかったデートのこと、急に襲いかかってきた巨大な『獣』のこと、それと戦う空乃。そしてまた助けてもらったのにも関わらず、拒絶してしまった自分のこと。
「……なるほどね。大体の話はわかったわ」
「ぐすっ。どうしたらいいかな、わたし」
「とりあえず……写真は撮ってあるのよね?」
「写真? いったい何のこと?」
思わず日和はきょとんとして問い返す。
「もしかして、撮ってないの? 一枚も?」
「う、うん……」
あの場にいた日和に写真を撮るどころか、見ているだけで精一杯だった。そもそもそんな余裕があったのなら、こんなことにはなっていない。
「そんな怪奇現象を目の前にして写真を撮らないなんて、新聞部認定部員としての心がけが――」
「……さっちゃんに相談したわたしが馬鹿だったわ」
はぁ、と日和はため息を付く。
(そうだ、彼女はそういう人物だった)
肩を落とした日和がもういいよと言って電話を切りかけたとき、雰囲気を察した陽子が珍しく慌てた口ぶりで、
「じょ、冗談だよ、冗談。あはははは……」
「ほんとにそう思ってる?」
「もちろんですとも!」
「さっちゃんの場合、冗談と受け取れないんだよねぇ……」
というより、ほぼ本気だとは思ったが、他に相談できる相手もいない。日和は自分の交友関係の狭さを嘆きながら、今までの発言は聞かなかったことにする。
「本当にごめんっ。でも、まさかそんなことがあったなんてねぇ……ところで、その様子だとテレビのニュースは見てなさそうね?」
「ニュース? 確かに見てないけど――」
「じゃあ、三十五に合わせてみて」
「わかった」
ニュースなんて一体何のことだろう、と思いつつ日和はリモコンを手して、テレビに向けてスイッチを押す。高校生になったときにお下がりでもらったブラウン管のテレビ。その画面に映し出されたのは、見覚えのある大きな建築物――それを見て、思わず日和は身を乗り出していた。
「これって、あのショッピングモール!?」
「そう。報道によればいきなり外壁が破損して、その落下物で怪我した人がいたってことになってるわね。今のところ、原因は施工ミスってことになってるけど……」
ニュースではその破損した箇所を克明に映し出しながら、アナウンサーがコメントをしている。それは確かに今日、日和達が行った場所であり、『獣』が叩き壊していた場所だった。思えば『獣』に襲われた物が現実にも破壊されるとしたら、これほど恐ろしいものはない。現に、見えずにいた日和も襲われた。
「しかし、日和ちゃんも結構良く狙われるよね。空乃ちゃんがいなかったら、もしかしたら怪我をしてたのは日和ちゃんのほうかも」
日和ははっとなった。
空乃はあの時、自分のために戦ってくれたのではなかったか。折角買って喜んでいた服を破いてまで、一緒にまた行こうと約束した場所を、壊されたことに怒ってくれたのではなかったか。
(それなのに、わたしは――)
日和は、改めて自分のしてしまったことの身勝手さを痛感して、目を覆った。
「それで話は元に戻るんだけど……日和はどうしたいの?」
「ぐすっ、どうしたいって、それは……」
まずはちゃんと謝りたかった。その上でちゃんとお礼を言いたかった。そしてできるのであれば、また友達の間柄に戻りたかった。それを聞いて、陽子は珍しく嘆息する。
「たぶん本当の最善はね、もうこれ以上関わらないことだよ? 危険から離れて普通の女子高生に戻ればいい。空乃ちゃんのことも、今日あったことも忘れて」
「それは……」
陽子の言うそれは単純で、簡単で、安全な方法。だけどそれは日和にとっても、空乃にとっても最良の結果ではない。それになにより、空乃とは二度と会うことはできない。……それだけは絶対に、嫌だった。
「ダメだよ、さっちゃん。わたしは彼女にもう一度会わないと。……だって、もう一度行こうって約束したんだから」
あれから携帯もつながらないし、メールも返事がない。恐らく、電源を切っているのだろう。
もしまだ何か方法があるのならば、もう一度会って、話がしたい。
「まあ、日和ちゃんのことだからそう言うと思ったわ。それならいい方法が一つあるわ……けど、あの子がうまく乗ってくるかなぁ」
「誰か頼りになりそうな人がいるの? だったら紹介して! わたし、自分で頼みに行くから」
「あーうん、頼りにはなるんだけどね……まあ、日和ちゃんのお願いだしな。わかった、じゃあこちらで連絡してみる」
「ほ、本当? お願いします!」
日和は電話だと言うにもかかわらず、頭を下げ額を机にぶつけてしまう。
「いたたた……」
「今すごい音したけど、大丈夫? ……あ、じゃあ、一旦切るね」
「あ、うん。……そういえば、さっちゃんはどうしてわたしにそんなに優しいの?」
「え?」
友人は意外そうに言葉を切ると、なんてことないというようにきっぱりと言った。
「そんなの友達だったら、当然でしょ?」
「そっか……うん、そうだよね」
日和はそれを聞いて、何かを確かめるかのように、小さく頷いた。
二
――止めてもらったのは正解だったかしらね。少なくとも、彼女たちにとっては。
※
早朝、息を切らせて登校した日和は、教室にやってくると空乃の姿を探した。だが、教室には空乃の姿はおろか、鞄すら見当たらなかった。
やはり、昨日のことが原因なのだろうか、と肩を落とすと、そのまま教室を後にする。これから日和は、人と会う約束をしていた。
昨晩、友人から指定された場所は生徒会室。普通の生徒が用もなく立ち入るような場所ではない。ただ誤解のないようにいえば、別段そこは一般生徒の立ち入ることを禁止されているわけではない。日和も差し入れを持った女生徒が入っていくのを見たことがある。
(とはいえ、用もなく入る場所ではないのよね。生徒会室って)
日和には生徒会役員に知り合いはいない。生徒会長の水無月雨はクラスメイトだったが、特に親しいわけでもない。
(でも、生徒会室って一体誰が――もしかして、生徒会長が? ……いや、まさかね)
生徒会長がオカルト好きだという噂はよく聞くところ――というより、その噂の出元は新聞部――だったが、自ら解決に乗り出しているという話は聞いたことがない。
「しかし今日は一段と寒いなぁ」
もう一枚何か着てくれば良かったと思いながら、まだ人の少ない廊下を音を立てながら歩く。上履きのゴムが、リノリウム張りの廊下と擦れ、甲高い音を立てる。澄んで冷たい空気の中、心なしか普段よりよく響いて聞こえた。
やがて階段に差し掛かると、一段飛ばしで四階へ。四階にまで上れば後は生徒会室まで一直線――と、思ったとき、不意に上の方から少女の妙にヒステリックな声が聞こえ、日和は足を止めた。
「ねえ、何とか言ったらどうですの?」
(この上って――確か、屋上?)
あるいは屋上に続く扉の手前なのか。いずれにせよ、そこは生徒が容易に立ち入る場所ではなく、そして誰かを呼び出すにはちょうどいい場所ではある。
日和が時計を見るとまだ待ち合わせまでには少し時間があった、悪いなあと思いながらも、好奇心をくすぐられた日和は少しだけ近寄ってみることにした。
屈んで背を低くして、日和は音を立てずにゆっくりと階段を上っていく。階段の終わりから五段ほど手前になって、薄暗い中にぼんやりと人影が浮かんできた。
「もう一度言いましょうか? 最近、あなた会長に馴れ馴れしいのよ」
「そうよそうよ!」
壁に寄りかかる一人の少女を囲むように、複数の少女が半円を描くように立っていた。その壁際にいる少女には見覚えがあった。砂山瑞樹――以前、空乃を見つけるときに助言をくれた人物だった。それ以外の少女は特に見覚えがある者はいなかったが、何となく、生徒会長の所へ遊びに来た取り巻きの中にいたような気がする。
それにしても、どうしたというのだろう。特に彼女はいじめられたりすっるような存在ではなかったはずだが――いや、だからこそ対象になることもある。いずれにせよ何があったのか、名誉新聞部員の性というわけではないが、気になる話だった。携帯電話の時計を見ると、まだ約束の時間には余裕がある。日和は階段の陰に隠れて、彼女達の成り行きを見守ることにした。
「それで、あなた達は私に何を望むわけ?」
「何を望む、ですって? 私たちはあなたが気に入らないのよ。今すぐ会長から離れてちょうだい」
(なんだ、ただの嫉妬か)
生徒会長絡みである以上そんな気はしていた。確かに瑞樹は雨とは席が近く、何度か談笑しているのを見かけたが、生徒会長は普段から忙しくて教室にはほとんどいないし、また特定の誰かと一緒に登下校したりしているという噂も聞かない。それゆえに、全くの勘違いのようにも思えなくなかった。
「……それだけのために私を呼び出したの? まったく、時間の無駄だわ」
瑞樹は可笑しそうに唇を歪める。だがそれが、彼女たちの気に触ったらしい。徐々に雰囲気が険悪なものになっていくのが、日和には傍目で見ていてよくわかった。
(さて……ここまで見た縁だし、それに借りもあるしね――)
苛めを見逃すなんてことはできないし、それに後で暴力沙汰になったという話を聞くのも後味が悪い。日和は取っておいた眼鏡を普段使用しているものと取り替えると、階段の影から一歩踏み出す。
「例えばここで、わたしが彼女と付き合ってるとでも言えば納得する?」
「そんなことはまかり間違ってもありえないけれど……もしそうなのだとしたら、別れてもらうわ。どんな手を使ってもね」
「……やれるものならやってみなさい」
「この、言わせておけば――」
そう言って手を伸ばそうとする女性徒たち、そして瑞樹が懐に手を伸ばしかけたその時、日和は意を決して声を出した。
「あ! 砂山さん、こんな所にいたのね。探していたのよ」
全員の視線が一斉に日和に向けられる。ピリピリとした緊張感の中、日和は輪に近づいていき、おもむろに瑞樹の手を取って引っ張り出す。
「いや、どうしても教えてもらいたいことがあってさ。悪いんだけどちょっと教えてよ。後で飲み物でも奢るからさ」
そのまま手を引き、その場を離れようとするが、そう簡単にはいかなかった。だがそこまでは予想通り。
「ちょ、ちょっと、待ちなさい!」
あっけに取られていた女生徒の一人が、我に帰って日和の肩を掴む。
「ああっ!」
我ながらわざとらしい、と思いながら日和は引かれた通りに倒れる。その際、眼鏡を落とすのを忘れない。フレームが床に落ちる音、そしてその衝撃でレンズが割れる甲高い音が、周囲の音を奪い去った。
「あ、ああー、数十万した高級レンズが!」
日和はわざとらしい叫び声を上げる。冷静な状態だったら明らかな嘘だと気づいたかもしれないが、状況が状況だけに正常な判断ができたのは瑞樹だけだった。
「し、失礼しますわ!」
「あ、ちょっと、お待ちになって!」
一人が逃げると、それに続いて他の取り巻きも慌ててこの場から去っていく。後には日和と瑞樹が残された。
「……ありがとう、と言えばいいのかしら」
「どういたしまして」
にっこりと笑みを浮かべると瑞樹の差し出した手を取って、日和は立ち上がる。倒れた拍子にスカートについてしまった埃を少し払う。
「どうして助けたの? 別に、あれ位ならどうにかなったのに」
「まあ、砂山さんならきっとそうでしょうね。でもほら前に借りもあったし、ちゃんと返しておかないとと思ったから。……それにね、わたしああいうの好きじゃないんだ。自分も同じような目にあってたことがあって」
「とんだお人好しね」
「……そうでもないよ、結構わたしずるいんだ。こう見えて」
暗い顔をする日和を見て、瑞樹は首を傾げる。
「とてもそうは見えないけどねえ……でも、壊れた眼鏡はどうするの?」
瑞樹は床に散らばった破片を指差しながら、言う。
「ああこれ? 大丈夫大丈夫。元々ヒビがはいってて使い物にならないやつだから」
そう言いながら、直前に取り替えたものを取り出し、掛けてみせる。
「ほら、スペアもあるし。あ、でも、破片はどうしよう――」
「……まあ、後で彼女たちがやりにくるわよ。こんな所に何か残っていたら困るのは彼女たちだから」
言われてみれば確かにそうだ。それに、ここは教師がサボる生徒がいないか確認に来るから、このままにしておけば何らかの形でと生徒会長の耳にも入ることになる。
「そっか、じゃあこのままでもいいか。……あっと、それじゃ、わたしこれから待ち合わせがあるから失礼するね」
日和は眼鏡のフレームだけを拾い上げると、ポケットの中に収める。
「……ええ、またね」
時計を見ると、待ち合わせ時間を少しオーバーしていた。日和は慌てて階段を駆け下りると、生徒会室へと急いだ。
(結局少し遅れちゃった……けど、大丈夫かな……)
そう思いながら、日和は恐る恐るノックをする。しばらくして、部屋の中から凛とした声が聞こえた。
「どうぞ」
「し、失礼します」
重く大きな扉を押し開けると、目に入ったのは部屋の半分を占める大きな長机だった。その向こうに古めかしい大きな机が置かれていて、さらにその向こう、大きな窓の前に置かれた椅子に、黒髪の美しい少女が鎮座していた。
「生徒会へようこそ」
「は、はい。二年B組、雲井日和です!」
緊張のあまり上ずった声で応えると、少女――水無月雨は面白そうに笑った。
「ふふ、自分のクラスメイトのフルネームぐらいは覚えていますよ。……さ、どうぞお座りになって」
「し、失礼します」
促されるまま、日和は来客用にと部屋の脇に置かれたソファへと腰掛けた。クッションがよく効いていて、まるで呑み込まれそうな感触に、上げかけた悲鳴を何とか飲み込む。
「ふふ、皆さんそれに腰掛けると不思議な顔をなさるんですよね。……そういえば、先日も登校中にお会いしましたね」
「あ、はい。あの時はどうもありがとうございました」
眼鏡を拾ってもらった時のことを思い出しながら、日和は頭を下げる。
「いえいえ。ところで日和さんは紅茶派? コーヒー派?」
「あ、どちらかといえばコーヒーですけど……」
「それは良かった。丁度いい豆が手に入った所だったのだけど、生徒会のメンバーは皆紅茶派というか、コーヒーが飲めない方ばかりで。少し、待っていて下さいね」
そう言うと、雨は日和を残して奥へと引っ込み、やがて水の流れる音が聞こえてきた。どうやら奥には給湯設備があるようだった。
(それにしても、こんなところで生徒会役員は仕事をしているのね……)
日和が普段入ることのない生徒会室の中を居心地悪そうにキョロキョロと見回していると、やがてお盆に二つのカップをのせた雨が戻ってきた。
「はい、どうぞ。砂糖はこれ、ミルクはこのポーションを使って下さいね」
そう言って差し出されたカップには、独特の香ばしい香りを放つ漆黒の液体で満たされていた。
「ありがとうございます。……では、頂きます」
「どうぞ召し上がれ。お口に合うといいのだけど」
日和はミルクだけを入れ、熱さに気をつけながら少しだけ口をつける。澄んだ嫌味のない苦味が口に広がっていく。普段飲む、インスタントや缶のそれとは全く別次元の味わいだった。
「とっても美味しいです!」
「ふふ、良かった。紅茶は自信があるのですけど、何分コーヒーはまだ経験が浅いので、心配でしたけど」
そう言って、嬉しそうに微笑むその姿は誰が見ても美人と言うだろうと、日和は思った。
「あの人も、あなた位好き嫌いを言ってくれればいいのだけど」
「え? ……もしかして、お付き合いしている方とか、いらっしゃるのですか?」
「あ、ええ。……意外ですか?」
「ああいえ。そういう訳ではないのですけど」
「ふふ、私だって年頃の女の子ですもの。恋の一つや二つはしますよ」
もこの人を射止める存在がいるとすればどんな人なのだろうか、と日和は少し頭を巡らせる。
仮に彼女が付き合うとしたら雨に肩を並べるぐらいに優れた人間か、逆にむしろ思い切りダメな母性本能をくすぐる人か、そのどちらかという気がした。全校生徒に悲観させないためにも、できるだけ前者であって欲しいとは願うところだが。
「ごちそうさまでした。ところで、そろそろ本題に入ってもいいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
コーヒーを存分に堪能した後、日和は雨に本題を切り出す。
「わたしはここに助けになる人を紹介すると言われてここに来ました。それが生徒会長――」
「名前で構いませんよ」
「……水無月さん、なのですか?」
その問いに、雨はゆっくりと首を振った。
「いいえ、あなたの友人が私に頼んできたのは、あくまで仲介。私はあなたにある人を紹介するだけ……ですがその前に、一つだけ確認をさせてください」
「何を――ですか?」
「あなたの覚悟を、です」
これまでの物腰とは打って変わった強い眼差しで、雨は日和を見つめた。
三
――おこがましい、という批判は甘んじて受け入れます。ですが、私ももう失いたくないのです。
※
「……どういうこと、ですか?」
「言ったとおりです。大筋のことは、あなたのお友達から聞かせてもらっています。それに対して、あなたがどうしたいのかを、そしてあなたの覚悟を確かめたいのです」
「わたしはまず日和を見つけて、まず昨日のことを謝って――」
「今回のようなことが起こるたび、それを繰り返すのですか?」
「いえ、いいえ違う。彼女を助け出してあげたい。色々な人と話したり遊んだりできるようにしてあげたい」
「それを、彼女が望んでいないとしても?」
「はい。……いえ、彼女が望んでいないはずはありません」
空乃と共に買い物やカラオケで遊んだときのことが思い出される。あの時彼女は楽しいと言ったのだ。友達と遊ぶことが、こんなに楽しいなんて、と。彼女は確かにそう言ったのだ。そんな彼女に、もっと色々な楽しいことがあるということを教えてあげたかった。
「わかるんです。……彼女はわたしの大切な友達ですから」
「なるほど。それに、あなたの命を賭す覚悟はは?」
日和は既にもう心に決めていた。これまで空乃は命を懸けて、何度も自分を守ってくれた。それならば、自分も命を懸けても惜しくはない。だから日和ははっきりと言った。
「この命に代えても、空乃を助けたいです!」
それを聞いて、雨は満足そうに頷いた。
「そうですか。……だ、そうですよ」
それを聞いた雨は、日和の背後に向けて目配せをする。日和が振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。それは先ほど助けたばかりのクラスメイト――
「み、瑞樹さん? ど、どういうことですか?」
「どういうことも何も、わたしが彼女曰く、『頼りになる人』よ」
瑞樹は何故か不満げにそう呟きながら、ソファーまでやってくると雨の傍にどっかりと腰を下ろした。
「全く、もう陽子の相談は受けないっていったら、今度は雨を経由してなんて」
「まあまあ。……それで、どうするのですか? 瑞樹」
瑞樹はちらりと日和に視線を向け、小さく溜め息をつく。
「正直面倒臭いから断ろうかと思っていたけど――さっきの借りもあるしね」
「さっきの?」
「ああ、さっき――」
踊り場であったことを話そうとした日和を、瑞樹が鋭い眼で睨む。どうやら雨の前ではさっきの話はされたくないようだった。
(確かに水無月さんが原因で瑞樹さんが苛めを受けかけていたなんてのは、聞かせたくはないよね)
「? どうしたの?」
「あ、いえ、その……ほ、本を、以前貸してあげたんですよ」
日和は記憶の端から瑞樹が文芸部だったことを捻り出し、何とか取り繕う。
「ふうん。瑞樹が他人から本を借りるなんて珍しいですね」
「そう? 彼女からだけではないけど、月に一冊ぐらいは借りているわよ。例えば、『エミエール学園』とか――」
「あ、あれですか? わたしも読んでるんですよ。いいですよね、あれ」
「ええ。色物かと思ったけど、ストーリーも思ったよりしっかりしていて――」
「へえ何だか面白そうですね。今度、私にも貸して――」
「ダメ」
きっぱりと瑞樹は否定する。
「え?」
「ダメよ。雨は知らなくてもいいの」
「そんな……ひどいです、私だけのけ者にするなんて」
「拗ねたふりをしてもダメよ。……さて、それじゃ改めて話を聞かせてもらおうかしら」
いじけてコーヒーをかき混ぜる雨をそのままにして、瑞樹は話をするよう促すが、日和にはとても振りには見えなかった。
「はやく。HRが始まってしまうわ」
「あ、はい。えっと、あれは、先週の初雪の降った日の夜で――」
日和は二人に改めて、あの日からあった出来事を語って聞かせた。空乃のこと、彼女を襲う『獣』のこと、そしてショッピングモールで起こった、あの取り返しのつかない出来事について。
「……なるほどね」
日和から大筋の話を聞き終えた瑞樹は、話を咀嚼するように何度か上下に頭を揺らす。
「何かご疑問点はありますか? わたしのわかる範囲なら答えますけど――」
「そうね……じゃ、二、三点。まずその空乃だけど――何か常に持ち歩いているものはあった?」
「いえ、特にはなかったと思いますけど――強いて言うなら、日本刀ぐらいです」
「日本刀――か。でも、さすがに違うわよね……」
「あの、それが何か?」
「いえ、もしかしたら、と思っただけ。それじゃあ次の質問。あなた、黒い靄のようなものを見たことは?」
「靄、ですか」
『獣』と戦っている空乃を見たのは数回しかないが、その間に靄を見たことは一度もなかった。霧が出たことがあったかもしれないが、それも黒くはなかった。日和がそ答えると、瑞樹は顎に手を当てて何かを考え始めたようだった。
「うーん……雨は、どう思う?」
「あれ、私が言ってもいいのですか? てっきり二人だけのお話かと思っていましたけど」
そう言って雨はつんと顔を逸らす。その仕草は普段の彼女からは全く想像のつかないもので、驚きのあまり日和はぽかんと口を開けた。
「もう、さっきのは言葉のあやだっていうのに」
「あ、あの……水無月さんって、いつもこうなんですか?」
「あー、いや、いつもはこういう訳じゃないわよ、ね? ……って、どうして私がフォローしなきゃならないのよ」
「私をのけ者にした罰です!」
ふん、とそっぽを向く雨に、瑞樹は両手を挙げた。
「あのう……」
日和は少し不安になってきたが、今頼れるのは彼女たちしかいない。
「あ、ごめんなさい。……でも、今までので大体わかってきたわ」
瑞樹は目の前に置かれたコーヒーを一口飲み、話を続ける。
「まず、原因は彼女――空乃さんが全ての原因だと思うわ。これはほぼ間違いなく」
「えっ? どちらかといえば彼女は被害者なんじゃ――」
「本人が原因であることに自覚がないことなんて、よくあることよ。特にこの手の話は本人が気づかぬうちに起こしているってことが多いし」
「そうなんですか?」
「ええ。残念ながら、ね」
瑞樹はそっと目を伏せる。誰か過去にそういう人物でもいたのか、その表情は憂いに満ちていた。
「ともかく思い込みは危険よ。あなたはこれまで色々と見てきたから、大体はわかると思うけど」
日和はゆっくりと頷く。他人の目には見えない少女に、彼女に襲い掛かる『獣』。そして、それらを見ることができる、目の前の少女。全て一ヶ月前なら信じられずにいた存在だが、今やもう当たり前になってしまっている。
「ただ、一つ気になるのはこれまでと違う種類の『獣』が出たってことね。これが意味するのは何か……流石にこれについては情報が足りないわね」
そう言うと、瑞樹は顎に手を当てて考え込む。
「できればその『獣』とやらを見られるといいのだけど……何か、いい方法はないかしら?」
「それがわかれば……と思うのですけれど、残念ですが空乃の居場所はわからないんです。メールの返事もしてくれないし……」
「ふむ……どこか、心当たりはないの?」
「うーん……」
腕を組んで考えを巡らせると、いくつかは頭の中に候補が生じるた
「いくつかならありますけど……今日、行くんですか?」
「ええ、こういうのは早ければ早いほうがいいわ。……雨はどうする?」
「もちろん行きます。二人っきりにしたら大変ですから!」
「……あなたは何を勘違いしているの?」
何故か必死な雨を見ながら、瑞樹は本日一番深いため息をついた。
四
放課後三人は生徒会室の前で待ち合わせ、日和の案内で心当たりの場所を当たってみることにした。
まずは教室、そして工事現場から離れた路地裏――そのどちらも、特に空乃がいた形跡はなかった。続いてショッピングモールにも足を運んだが、今は立入禁止になっていて、たとえ中にいても三人が入れそうな状態ではなかった。
そして最後に残る場所――としてやってきたのが、最初に空乃に行けと言われた学校近くの公園だった。
「ここにいますかねえ……」
「さあ……。でも、いてくれないと困るわね」
どこか他人ごとのように呟く瑞樹の隣で、日和が声を上げた。
「あ、いた! 彼女がそうです!」
日和が指差す先、そこに空乃がいた。噴水の周囲にあるベンチの上で、刀を抱くようにしてじっとうずくまっている。
夕暮れの真紅の輝きを反射して、噴水がキラキラと輝いていて、思わず日和はそれに見とれる。けれど空乃はそれに一切眼もくれず、ただひたすらに何かを待っているようだった。
「ああ、確かに彼女ね……」
日和たちは草木の陰から覗くようにして、空乃の様子を伺っていた。
「……私には何も見えないんですけど」
不満気に、二人の頭の上で雨が呟く。
「そりゃそうよ、あなたはもう普通の人間なんだもの。それを承知で着いてきたんじゃないの?」
呆れたように、瑞樹が息を吐く。
「だって、その、本当に心配だったから。……それに『獣』に襲われたら、瑞樹さんひとりでどうするつもりなのですか?」
「まあ確かにそうだけど――」
「あのー、二人はもしかして、お付き合いしているのですか?」
口論を続ける二人に、日和は疑問をぶつけてみた。雨と相対している時の瑞樹はやけに饒舌で、雨もまた普段の張り詰めた気配が少し和らいでいるように感じられた。
「え!? いや、ち、違いますよ、そんなことはありませ――」
雨は慌てて首を振るが、瑞樹は黙ったまま日和を凝視し、息を吐く。
「……そうよ」
「瑞樹、それは――」
「否定しても仕方ないでしょう、事実なんだから。それに彼女はそんなことでわたし達を否定するような人間じゃないわ。そうでしょう?」
二人に代わる代わる見つめられ、日和はとっさに頷く。
「え、ええまあ。ただ少し、意外ではありましたけど……水無月さんは大人というか、包容力のある人を好きになるのかなと思っていたので」
「……何だか今、凄く失礼なことを言われたような気がするんだけど」
ぴくりと瑞樹のこめかみが動く。
「そ、そんなつもりは」
「ふふ、それは普段の行いが悪いからですよ。でも、そんな風に見られていたのですね……少し嬉しいです」
何故か機嫌を戻したらしい雨がニコニコと微笑む。
(やっぱり好きな人の前だからかな――何だか人が変わったみたい)
それを口にしたら怒られるのかな、と思いながら日和は視線を空乃へと戻す。
「あっ、来たみたいです」
「ふむ……あれが、『獣』?」
姿を見せた『狼』の姿の獣を見て、瑞樹は驚くというよりは少し落胆の色を見せる。『獣』というから、もっと大きなものを想像していたのかもしれない。
「ちなみにあれはどっちなの?」
「あれは――以前からいた方ですね」
一般的な獣というイメージに合う姿、黒い毛並みと鋭い爪を持つ『獣』。
「……なるほど。さしずめ、『狼』といったところかしら」
これまでのそれと同じように『狼』は素早い動きを生かして、空乃へ襲い掛かる。その爪が空乃のマフラーを掠め、その一部が千切れ飛ぶ。代わりに、その頭で敵を殴りつける。
「何を焦っているのかしらね、彼女――」
「……えっ?」
言われて気づいたが、以前の空乃なら敵の攻撃を見極めてから攻める戦い方だったはず。しかし、今日の空乃は敵の攻撃を喰らってでも敵を倒そうとする、『肉を切らせて骨を絶つ』ような戦い方に終始していた。
次第に爪は服、そして髪の毛を掠め始める。それだけ空乃は敵の懐に踏み込んで、危険を冒している。
(空乃、どうか無事に勝って!)
日和は手を合わせて、空乃の無事を願う。
瑞樹はそんな日和に視線をやり、そして眼を見開いた。
「危ないっ!」
瑞樹は日和を突き飛ばすと、突如振るわれた何者かの攻撃を受け流した。その手にはいつの間に手にしたのか、赤く発光するナイフが握られている。
そこにいたのは、まるで熊のように巨大な『獣』――それはショッピングモールで出会った熊のような『獣』と瓜二つだった。
「日和、あなたは下がって。雨!」
「わかっています」
瑞樹は二人を庇うように前に立ち、雨は日和を連れてその場を離れる。
「で、でも、どうして急に――」
疑問に思う間もなく『熊』の手が瑞樹に向けて伸ばされる。見た目の大きさとは異なる素早い動きに、瑞樹の反応が一瞬遅れる。かわすのは無理だと判断し、伸ばされた手に合わせナイフを突き立てる。
ナイフは易々と『熊』の手に突き刺さり――『熊』は刺された掌を痛そうに押さえる。そして、咆哮と共に『熊』の瞳が怒りに燃える。
(……これはやばい、かもね)
ビリビリと鼓膜が震えるような叫びに、思わず瑞樹が耳を抑える――と、そこに再び手が振り下ろされる。今度は身を捩って何とか避けたが瑞樹だったが、続いてそこにもう片方の手が待っていた。
「しまった!」
「瑞樹?!」
瑞樹の身体がぐいと引き寄せられる。それだけで、瑞樹は身動きがとれなくなってしまった。そして『熊』は押さえつけた獲物に向けて、外したばかりのもう片方の手を振りかぶる。
「み、瑞樹さん、逃げて!」
「くっ……ダメ、そう」
瑞樹どうにか逃げようと抵抗するが、腹部を蹴ろうが手をナイフで刺そうが、その腕はびくともしない。
「……日和さん、『獣』はあそこにいるのですね?」
唯一、雨だけが冷静に状況を見据えていた。
「あ、はい! でも、水無月さんには見えないんじゃ――」
「その辺はどうにかなります」
雨が動いた。まるで一条の閃光のように素早く、本当は見えているのではないかと思わせるように、『敵』の真正面から一直線に接近する。
雨の動きに気づいた『敵』が標的を雨に変えたが、その手は盛大に空気を薙いだだけだった。既に懐へと飛び込んでいた雨は、ここまでの勢いそのままに身体ごと『敵』へと突進する。
獣の咆哮が辺りに響き渡った。
雨が『敵』から身体を離すと、その手の中に蒼い光が見えた。雨が『熊』から身体を離すと、その手にはどこから取り出したのか一本のナイフが握られており、どうやらそのナイフが光を放っているようだった。
もう一度周囲を震わせ、その胸から色のない液体を吹き出しながら『熊』は力なく倒れ伏した。雨は顔にかかった液体を制服の袖で拭うと、ゆっくりと瑞樹へと歩み寄る。
「大丈夫? 瑞樹」
「え、ええ。何とかね」
差し出された手を取り、瑞樹は打ち付けた背中が痛むのか、顔をしかめながら立ち上がる。
「み、見えないのに、どうやって?」
「愛の力ですよ、ふふ」
「……あなたのそういう所、苦手だわ」
臆面なく言い放つ雨に、食傷気味にため息をついた。
「ところで、あっちはどうなったの?」
空乃の方へ視線をやると、向こうはもう終わっていた。
刀を振り下ろし『狼』を一刀両断。ふぅ、と息を吐いた空乃はそこで日和の存在に気がついたようだった。
「ど、どうして――どうして、日和がここに」
驚いた様子で、空乃は日和を見る。
「空乃――」
日和は少し俯きがちに、空乃を見据えた。
五
――もう二度と会えないと、会わないほうがいいと、思っていた。それなのに、運命は残酷だ。
※
日和と空乃は相対したまま、未だに沈黙を続けていた。
(一体、何と言えばいいのだろう)
彼女に伝えたい言葉は決めてきたはずなのに、いざ本番となると声が出ない。それは空乃も同じなのか、一言も話さず時間だけが過ぎていく。
「日和さん、とにかく彼女の所へ行ってきなさい。……私は瑞樹をみていますから」
そう言って、雨は日和の背中を強く押し出した。
「わっとっと……」
たたらを踏みながらも何とか転ばず、日和は空乃の前に躍り出た。
「ご、ごめん、日和!」
「ま、待って、空乃!」
いきなり背を向けて逃げようとする空乃の手を、慌てて日和は掴む。
「……どうして、止めるの」
「謝るのは私のほうだから。助けてもらったのはわたしなのに、偉そうなことを言いながら、勝手に怖がって、勝手に拒絶して――」
彼女を助けたいって思っていたのに、結局勝手に背を向けたのは自分。
「だけどもう逃げない。わたしはこの手を離さない。例え空乃が許してくれなくても――」
空乃はそれを聞いて、ゆっくりと振り返る。
「違う、あれは日和が悪いんじゃない。私は折角選んでもらった服を目の前で破って、そして守ると約束した日和に自分で怪我をさせて。嫌われるようなことをしたのは、私の方」
「そんなことない。空乃はわたしをちゃんと守ってくれた。だから悪いのはわたしのほう」
「違う、日和はずっと私に優しくしてくれた。この手を、温もりで満たしてくれた。なのにそれを守れなかった、私が悪いの」
二人は互いに譲らず、自分が悪いのだと言い合い続ける。
「……空乃、意外と頑固なんだね」
「日和こそ」
「ね、約束覚えてる?」
「うん。だけど、あのショッピングモールは……」
テレビでやっていたが、あのショッピングモールは施設の修理と破損の原因がわかるまで、しばらく閉鎖となるらしい。
「ふふ、大丈夫だよ。カラオケがあるのはあそこだけじゃないからさ。でさ、次のデートの時に私は空乃の分を支払って、空乃は私の分を支払うってことでどうかな? このまま言い続けても堂々巡りになっちゃいそうだしさ、それで手打ちにしない?」
「……わかった、私はそれで構わない。」
空乃はゆっくり頷き、右手の小指を差し出した。日和もそれに合わせ、指を絡めあう。
「指切った、と。……ふふ、お帰り、空乃」
「ただいま、日和。これからもよろしく」
「こちらこそ。ふふふふっ」
「あはははっ」
日和と空乃は互いに見つめ合い、やがて笑いあった。散々言い合ったことで、胸のつかえが取れ、清々しい気分だった。
「……何だか、私達の出番はないみたいですね、瑞樹」
離れた場所から、安心して二人を見つめる雨。その姿とは対照的に、瑞樹は渋い顔をして周囲に目を凝らしていた。
「……いえ、そうじゃないみたいよ。来る」
「えっ?」
不意に、公園を大きな地響きが襲った。日和は空乃にしがみ付き、空乃は刀を構える。
「な、何なの、一体」
「わからない。けどこれは、もしかして――」
思わず空乃が口を淀む。
やがて揺れが収まったその時、日和たちの目の前には恐るべき光景が広がっていた。
「なにこれ――こんなことって」
日和の目の前で、無数の『獣』達の咆哮が公園の中に響き渡った。
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