第四話 『空乃』の真実


 一


 ――本当にいきなりそれは現れました。


 ※


「この数、一体どこから――」

 日和たち四人は唐突に出現した『熊』に取り囲まれていた。日和たちを狙う十二匹の『熊』に対し、日和たちは四人。しかもまともに戦えるのは、空乃一人だけ。雨は戦えるが『獣』が見えず、瑞樹には見えるが対等には戦えない。そして、日和にはそのどちらもない。

 どんなに楽観的に見積もっても絶望的な状況だった。しかし、少なくとも空乃は諦めてはいないようだった。

「……やるしかない」

 そう言って空乃は一歩前へ踏み出す。その手にはしっかり刀が握られている。

「そんな! 無理だよあの数相手じゃ」

 慌てて日和が止めに入るが、空乃は黙って首を振る。

「例え無理だったとしても、私は日和を守りたい。この気持ち……水無月さんになら、わかってもらえる?」

 自分が引き合いに出されるとは思っておらず、少し驚いたような表情を浮かべながらも雨は黙って小さく頷く。見ればその手にも、青く光るナイフが握られている。

「瑞樹さんは――」

 すがるような眼で見られた瑞樹もまた、ゆっくりと首を振る。その左手にはナイフが紅い光を放っている。

「わたしは守ってもらう側だからね。できることなら雨と立場を代わりたいぐらい。だから、期待に沿った答えは無理よ」

「そんな……」

「――大丈夫だよ、日和」

 空乃は、不安そうに俯く日和の髪の毛をかき上げると、その額にそっと口づけをした。日和は思わず顔を上げる。

「私は必ず戻ってくる。ちゃんと約束するから……だから、私を信じて?」

 そう言って空乃は笑顔を浮かべ、小指をそっと立ててみせる。そこには絶望も、自分が死ぬかもしれないという不安は全く感じられない。それを見て、もう何を言っても空乃は止まらないのだと日和は理解した。

「……わかった。その代わり、嘘ついたら次のデートは全部空乃の奢りだからね」

「そうならないよう、気をつけるよ」

 せめてもの反抗を口にしながら、日和もまた小指を立て、空乃のそれにそっと絡める。

「いいですね……あんな約束、私もしてみたいです。ねえ瑞樹さん、私たちもやりませんか?」

「雨、いい雰囲気なんだから、静かに」

 うっとりとした様子で小指を差し出す雨を、瑞樹は肘で小突く。

「じゃあ、行ってくる」

 まるでつっかけで買い物に出かけるかのように、空乃は『熊』の群れに向けて飛び出していった。空乃はできるだけ敵をひきつけるように動き、結果としてそのうちの半分が空乃を追っていき、残りの半分は日和たちを取り囲んだまま。

「空乃――」

 心配そうに空乃の行った方向を見つめる日和に、瑞樹はそっと近づき耳打ちする。

「ねえ、ひとつ聞いてもいいかしら」

「な、何でしょう?」

「たしか、今囲まれている『熊』は、この前のショッピングモールに出たのが初めてだって言ってたわね。……ということは、これまでに出てきていたのは、『狼』だったということでいいのかしら」

「ええ、そうです。少なくともあの時、『熊』を見たのは初めてだと、空乃はそう言ってました」

「なるほど。『これまでは一日に一体』、『急に現れた二体目』……大体わかってきたわ」

 瑞樹はぶつぶつと呟きながら、ぴくりとも動かない『熊』の死骸へと近づいていく。

「ねえ、実はさっき攻撃を受け止めたときに一瞬だけ視えたんだけど――これを見て」

 瑞樹は足元の『熊』の死骸に向けて、ナイフを突き立てる。と、切り口からまるで霧のようなものが生じ、代わりに『熊』の身体が萎んでいく。

「こ、これ?」

「……顔を突っ込んでみればわかるわ」

 恐る恐るたずねる日和の頭を、瑞樹は有無を言わさず霧の中に押し込む。

「わぷっ」

 その中で日和が見たものは――雪の降る中、『獣』を倒し、そして倒れていた自分に手を差し出す空乃の姿。……それは、二人が出会った日の出来事だった。

「こ、これ、わたしが空乃に助けてもらったときじゃないですか」

 慌てて顔を出し、中で会ったことを話すと瑞樹はゆっくりと頷く。

「やっぱりそうなのね」

「こ、これは一体、何なんです?」

「はっきりとは言えないけど、『記憶』か『想い』といったものでしょうね。ということはつまり『獣』の正体は、誰かの空乃に対する想いや記憶が具現化したもの、ということになるわ」

「……ということは、彼女は『獣』を殺すことで、他人が彼女に抱いた記憶を消し去ってきたということですか」

 雨の言葉に、瑞樹は頷く。

「言われてみれば、毎日見ていたはずなのに、わたしには彼女の記憶がほとんどないわ。ということは、これまで一体しか出てこなかったのは、彼女を認識できるのが、わたしだけだったからなんでしょうね。そして、それが『狼』」

「じゃあ、この『熊』が……わたし?」

「そういうことになるわね。きっとその大きさや特性は傍観者としてのわたしと友人としてのあなたでは差があるからなんでしょう」

 確かに『熊』の数は、日和と空乃と出会ってからの日数と一致する。もしこの『熊』が日和の『想い』だというのなら、彼らはじっとどこかに身を潜めて待っていたのだろう。彼女へ自分達を認識させるための機会、そして数が揃うのを、じっと。

「そんな、そんなことって――」

 日和はかぶりを振った。

 『熊』が自分の想いであるとすれば、彼女を救おうとしたつもりで、自分が今まさに空乃を苦しめていたということになる。何も出来ないどころか、その元凶になっていたことに日和はショックを受け、屈み込んでしまう。

「……前にも言ったけど」

 日和をよそに、瑞樹は『熊』のあった所からナイフを拾い上げると、それをそのまま日和の目の前に差し出した。

「現実を受け止めなさい。その上でどうするか決めなさい」

「……それは?」

「このナイフは真実を見通す力があるの。もし、あなたが彼女をまだ救いたいと思うのなら――これで彼女の持っている元凶を突きなさい。そうすれば、彼女の真実に踏み込めるはずよ」

「元凶……?」

「恐らく、彼女にはこうなる前からずっと大切にしているモノがあるはずよ。それが何かはわからないけれど……」

 そんなものがあっただろうかと日和は思考を巡らせる。空乃の持っているものといえば制服に刀袋、そして携帯電話。刀はことあるごと変えているようだから、関係ないだろう。しかし、制服は着ていない時でも『獣』は出てきていたし、刀袋や携帯電話も普段から身に着けているとは言いにくい。

 ではそれ以外の何か、となると――何かあったような気もするが……思い出せない。

「――ダメです。思い浮かびません」

 焦れば焦るほど思考が空転し、考えがまとまらない。そうしている間に、周囲の『熊』たちは距離をつめてきている。邪魔な人間たちを確実に仕留めるために。

「焦る必要はないわ。大丈夫、このままここで死んでも、わたしはあなたを恨んだりしないから」

「ちょ、ちょっと、そんなこと勝手に決められては……」

「もう、ここまで来たら一緒に死んであげるから、我慢なさい?」

 でも、とまだ不満そうな雨の頬に瑞樹がそっと口付けをすると、雨は頬を押さえて沈黙する。

「……あの一つ、聞いてもいいですか?」

「あら、何?」

「どうして、お二人はそんな風に堂々としていられるんですか? ……死ぬのが怖くないんですか」

 瑞樹はぽかんと口を開いてから、やがてふっと微笑みを浮かべた。

「ふふ、死ぬのは怖いわよ。だけど、わたしは死ぬことを認めたわけじゃない。まだできることがある限り、わたしはできることをする。あなた達が鍵を握っているならその手助けをするし、あなたがそれを成し遂げるまでは時間ぐらいは稼いでみせる。だけど、やるだけやってダメなら……まあ、仕方ないかな、とは思えるかもしれない」

 そう言いながら、瑞樹は日和の手にナイフをそっと握らせる。

「だから、あなたは自分のすべきことをちゃんとやりなさい。そうでなければ万が一ダメだったときに、悔やんでも悔やみきれないからね」

 瑞樹は日和の瞳をじっと見つめる。瑞樹の目はとても優しい眼をしている。けれどその奥にある輝きは、決して諦めている人間のそれではなかった。例えるならそう、生きるための希望に満ちた輝き。

「わかりました。わたしは、やるべきことをやります。やってきます!」

「その意気よ。がんばってね」

 日和は二人に向けてお辞儀をすると、空乃の去っていった方向へと駆けて行こうとする。それを遮るように、一体の『熊』が日和に襲いかかる。

「雨!」

「……わかっています」

 『熊』が手を振り下ろそうとする寸前で、雨がその手を受け止めた。

「他人の恋路を邪魔する方は、馬に蹴られてなんとやら……です」

「ありがとう、水無月さん」

「いえ、これは生徒会長としての役目ですから。くれぐれもお気をつけて」

「はい!」

 元気よく返事をして日和が行ってしまうのを確認すると、雨は目の前の『熊』から間合いを取った。日和の後を追っていく『熊』はいない。どうやら日和が戦力にならないのを見て、こちらの二人から片付けようと決めたようだった。

「もう一体ぐらい行ってくれたらよかったんだけど……実質こちらはあなた一人なのに、過剰評価よね」

「ふふ、そうですね」

「……しかしまあ世話が焼けること。これだから他人の世話は嫌なのよ」

「でも、あのナイフ、渡してしまってよかったのですか?」

「あれ自体には他に特別な力があるわけじゃないし、特に思い入れがあるわけでもないしね。それに、わたしの背中は雨が守ってくれるんでしょう?」

 そう言うと、瑞樹は雨に背中を預ける。

「もちろん、と言ってさしあげたい所ですが、条件が一つあります」

「何? この際だから、何でも聞いてあげるわよ」

 少し投げやり気味に言う瑞樹に、では、遠慮なくと雨は楽しそうに微笑みを浮かべる。

「じゃあ……今度、遊園地に連れて行って下さい」

「遊園地? なんだ、そんなことでいいの?」

 瑞樹は拍子抜けした。もっと無理な条件を押し付けられるかと思っていた。例えば、この場で――とか。

「もしかして、変なこと考えていませんでした?」

「いえ、全然」

 瑞樹は少し頬を赤らめながら、目を逸らす。

「別に『そんなこと』じゃないですよ。どんな小さな約束でも、あなたとするからこそ意味があるんです」

「……相変わらずそういうことを平気で言えるのよね、雨は。いいわよ、無事生き残ったら遊園地でもどこでも連れて行ってあげる」

「やった。ふふっ、約束ですからね」

 雨は楽しみだとばかりにウィンクしてみせる。徐々に迫ってくる『熊』の気配を感じながら、二人は生き残るため、そしてそれぞれの約束を守るために身構える。

「それじゃあ、行きましょう」

「……程々にね」


 二


 ――覚悟は決まりました。だから後は、後悔しないように突き進むだけです。


 ※


 日和が彼女の元に辿り着いたとき、丁度三体目に向けて空乃が刀を振り下ろす所だった。既に地には二体の『熊』が倒れ伏している。

 もちろん空乃も無傷では済んではいない。制服はボロボロで、そこから覗く肌には打撲痕と思わしき青痣ができていた。

「――ふっ」

 勢い良く振り下ろされた刃は的確に『熊』の身体を切り裂き、肉を切り裂く手応えを空乃へと伝えてくる。

(これで三体目――この調子なら、行ける)

 と、空乃が油断した瞬間、手応えは唐突に途絶えた。普段より『引き』が少し遅れたこと。刀が消耗していたこと、『熊』の外皮は硬いこと。様々な要因が重なり合った上での事象ではあったが、結果としては一つ。刀が折れ、折れた刃先は高速で回転しながら、日和の前に突き立つ。

「そんな――」

「空乃! 危ない!」

 日和の必死の叫びも空しく、呆然とする空乃を『熊』の豪腕が襲った。空乃はまるで紙くずのように跳ね飛ばされ、宙を舞う。その後、ゆっくり漂った後、空乃は地面へと叩きつけられた。

「空乃!」

 慌てて空乃の元に駆け寄る日和。空乃は声を聞いて、辛うじて身体を起こす。

「日和、どうしてここへ……うっ」

 左腕を押さえ、空乃はうめき声を漏らす。外観では重症には見えなかったが、あれだけの一撃を喰らったのだ、どこか骨が折れていてもおかしくはなかった。

「空乃! しっかりして!」

「……日和は大丈夫? ごめん、どうも約束は守れそうにない――」

「そんな、まだだよ、まだ何も始まってないよ!」

 苦痛に顔を歪めながらなおも自分を心配する空乃を、日和はたしなめる。

 地面が震える。顔を上げると残っていた『熊』が少しずつ近づいてきているのが見えた。

「せめて、日和だけでも逃げて。――そうだ、これを」

 そう言って、動く右腕でポケットから何かを取り出し、日和に手渡す。

「これは――」

 それはこの前のデートでも見た、古びた懐中時計だった。それを見て、日和は電撃が走ったように、閃きを感じた。

(そういえば、これ――!)

「これを持っていれば、きっとおばあちゃんが守ってくれるから。私は、見捨てられちゃったみたい、だけど……うっ」

 左腕が痛みを発したのか、空乃は再び苦しそうに呻き声を上げる。

「空乃、もういい、もういいから。……ごめんね、こんなことになって」

「どうして、日和が謝るの? ……日和は、私に色々なことを教えてくれた。お陰で私は一人じゃなくなった。……私は、それだけで満足」

 そう言って、にっこりと微笑む空乃。その傷だらけの顔、その頬には以前日和が貼った絆創膏が未だに張られていた。

「それ……馬鹿だね。張り替えなさいって言ったのに」

「だって、これをつけていたら、また日和が来てくれるような気がしたから」

 その力ない微笑みを見て、思わず日和の瞳から涙がこぼれる。

 もしあの時出会わなかったら、友達にならなかったのなら、ショッピングモールに出かけなかったのなら、こんなことにならずに済んだのだろうか。

(……いや、それは違う)

 夜に出歩いたからこそ、空乃と会うことができた。二人で出かけたからこそ、空乃を知ることができた。そして、あの時に拒絶したからこそ、より空乃と分かり合うことができた。決して、失ってばかりではない。そしてまだ、完全に空乃を失った訳ではない。

(後で後悔しないように)

 反省はしても、後ろは振り返らない。そもそも後ろを見なくても、すぐそこにまで『熊』が迫っている。

「空乃――今度は、わたしが助けてあげるからね」

 空乃にそっと囁くと、日和は瑞樹から受け取ったナイフを、空乃の懐中時計へと突き立てた。と、突然懐中時計から強烈な光が放たれると周囲が、そして日和の視界が真っ白に染まった。



 それから五分、いや十分ほど経っただろうか。視界がようやく落ち着きを取り戻すと、日和はそっと眼をあけた。

 そこは暗闇の中だった。

 全く先の見通すことのできない暗闇――にもかかわらず、不思議と自分の身体だけはまるで自信が光を放っているかのように見ることができた。

「ここは――どこなんだろう?」

 さっきまで公園にいたはずなのに、急にこんな所に飛ばされて――これが瑞樹の言っていた、真実とやらの中なのだろうか。日和は周囲を見渡してみるが、見えるのは闇だけ。がむしゃらに歩けば、たちまち迷子になってしまいそうだった。

「そうだ、空乃はどこに……空乃! ……空乃ー!」

 何度か名前を呼んでみるが返事が、返事がない――そう思っていると背後から、子供の声がした。

「……呼んだ?」

「え?」

 日和が振り返ると、そこには小さな子供が立っていた。その声と雰囲気は、どことなく空乃に似ているような気がする。

「あなたは――」

 その時手に持っていた紅いナイフが、一際大きな光を放つ。次の瞬間、日和はどこかの校庭に立っていた。

 目の前を、先ほどの子供が通り過ぎる。それは、小学生の空乃だった。その後に、中の良さそうな女の子が続く。二人は中睦まじい、親友のような関係に見えた。

「だけど、それはある時終わってしまう」

 不意に、どこから声が聞こえ、場面が切り替わる。

 女の子が血を流して倒れており、それを空乃が泣きじゃくりながら、どうすることもできずにただじっと見ている。その口から漏れるのは――謝罪の言葉。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 自分のせいで大切な友達を傷つけてしまった――そのことを、空乃は悲しんでいる。

「傷つけてしまうのなら、最初から友達などいらない。友達なんて、作らなければいい。わたしはそう決めた」

 唐突に顔を上げ、空乃がそう呟く。

「……違う、そんなの間違ってるよ。傷つけて、傷つけられて、そして互いにいたわるのが友達であり、親友なんじゃない。それはただの逃げだよ」

「…………」

 小学生の空乃は日和の言葉に応じないままに姿を消し、再び場面が切り替わる。

 次の場面は畳敷きの部屋だった。その上に敷かれた布団の上で横たわる、一人の老婆。その顔には布が掛けられ、表情を伺い知ることはできない。

 空乃は老婆の脇に佇んでいた。あのブレザーには見覚えがある。確か、雨鈴が着ていたものと同じ――だから、恐らく中学生の時の空乃なのだろう。空乃は皆が涙を流しても、決して涙を流そうとはしない。まるで、泣いたら本当に祖母がいなくなってしまうのではないかと、思っているかのように。

「……私は祖母のことが好きだった。どんなときでも優しく、ときには叱ってもくれた、祖母」

 中学生の空乃はそっと呟く。

「人はいつしか死ぬ。ならば、大切な人などいなければいい。愛しているからこそ傷つくのならば、私はもう誰も好きになどならない」

「……それは違うよ。傷つきたくないから愛さなければ、誰もあなたを見えなくなってしまう」

 やはりまた、空乃は何も言わずに姿を消した。……けれどそういう生き方が、日和に出会うまでの空乃だったのかもしれない。そう思った途端、また場面が切り替わった。

 最後に現れたのは、高校生の空乃だった。気づくと日和は自動車の中にいた。

 楽しそうに会話をする両親。それを、二人は後部座席で座って見ていた。

「楽しそうに見えるでしょう?」

 隣に座る空乃が、日和に声をかけてくる。

「でもこの後、不遇の事故で、彼らはこの後死んでしまう。私がそれを知ったのは、会ったこともない親戚からの電話だった。その時はもう、悲しいともなんとも思わなくなっていたけれど――ただ、両親がいなくなったことで、私は吹っ切れた。私の世界には、もう誰も要らない、とね」

 気づくと、日和は元の場所に戻ってきていた。ただ、先ほどと異なり日和の前には三人の空乃が立っており、それぞれの手には刀が握られている。

「そして、願いは叶った。私たちは一人で、これまでやってきた」

「苦しむこともなく、悲しむこともなく」

「誰からも認識されることなく。そして、もし認識されたとしても、それを消し去って」

「なるほど……それが、『獣』なのね」

「そう。全ての私への想いは敵となって襲い掛かってくる。そしてそれを倒せば、本人はその記憶を忘れる。この仕組みがある限り、お前のようなイレギュラーが出てきたとしても、わたしはずっと一人で生きていけるはずだった。……なのに」

 三人の空乃が一斉に日和を指差す。

「お前が全てを変えてしまった」

「他人とと過ごす日々の楽しさを思い出してしまった。共に話し、遊び、そして笑う。そんな日々があることを教えてしまった」

「他人の温もりを思い出してしまった。他人の手の温かさ。そして自分が与えることのできる温もりがあることを、教えてしまった」

「他人を愛することを思い出してしまった。傍にいるだけで満ち足りて、充実した日々。明日を待ち望む生き方があることを、教えてしまった」

「――それのどこが悪いというの? 至極当たり前のことじゃない」

「だまれ!」

 三人は一斉に刀を抜き放ち、日和に向けて突きつける。

「私達はもうこれ以上傷つきたくない。……だからお前を消す。お前を消して、自分の記憶をも消してしまえば、全てが元通りになる。そうに違いない」

「本当にそう? 自分が傷つきたくないからって他人を傷つけて、それで何が変わるというの? そもそも、いつまでもそうやって一人で生きていけると、本当に思っているの?」

 そんなはずはない。人は一人では生きてはいけない。悲しみを昇華し、喜びを作り上げていくことができるのは、他人との関わりの中でだけ。

「どの道、お前とは分かり合えるとは思っていない。……さあ、潔く消えてもらおう。お前の好きな空乃のために、その生命を捧げるんだ、本望だろう?」

 空乃達が刃を振りかぶる。だが、日和は身動き一つせず、三人の動きをただじっと見つめていた。

「……どうして、動かない。生きることをを諦めたのか?」

「いいえ。私は待っているの。彼女が、ここに来るのを」

「何? ――しまった!」

 慌てたように『高校生』は刀を振り下ろす。だが、それよりも早く――

「……そうはさせない!」

 どこからともなく現れた閃光が、『高校生』の刀を弾き飛ばした。




 三


 ――わたしは、彼女を助けたい。ただその一心だった。


 ※


「お前は――」

 三人の空乃が、それを見て驚きの声を上げる。そこには四人目――『今』の空乃が日和を庇うようにして立っていた。

「……もう、遅いよ」

「ごめん、日和。ここを見つけるのに時間がかかった」

 そう呟くと、空乃はこちらに剣を突きつけたままの三人に対してすぐさま動いた。刃が二度閃き、『小学生』と『中学生』の空乃がうめき声と共に刀を取り落とす。

「だ、大丈夫なの? 斬っちゃって」

「一応、刃は返してあるから。それよりも――」

「お前は、私達を――自分を裏切るのか」

 『高校生』は憤怒の形相で、空乃を睨みつけていた。

「私は別に裏切ってなどいない。……確かに昔の私はそう思ったかもしれないが、だからといって今の私がそれを望むとは限らない」

 二人の空乃は同時に踏み込み、その刀を振るう。鍔と鍔がぶつかり、火花を散らせる。

「そんなはずはない。過去の私は、今の私にも通じるはずだ」

「人は日々変わっていくものだと、日和が教えてくれた!」

 叫びと共に、空乃は『高校生』を弾き飛ばし、そして体勢が崩れた隙に袈裟斬りにする。『高校生』はそのまま倒れ伏す。

「それでも『私達』がどうしても日和を消そうとするのなら――」

 空乃はゆっくりと刀を返し、正眼に構え直す。

「私が、お前達を殺す」

 そう宣言をした空乃を、刀を支えに立ち上がろうとする『高校生』が嘲笑する。

「いいのか? 私達過去を殺せば、『今』も消える。……お前にその覚悟があるというのか!」

「構わない。私は日和を守ると決めた。だからこの身がどうなっても――」

「空乃……そんなのダメだよ」

 日和は空乃の後ろからその身体に腕を回し、そっと抱き締める。

「空乃、わたしあなたが消えることなんて望んでない。それにそんなことしたら、約束が果たせなくなっちゃうよ」

 そう言って、日和は空乃に見えるように小指を振ってみせる。

「……日和、だけど」

「だから、ここはわたしに任せて、ね?」

「わかった。でも、気をつけて」

「ええ。ありがとう」

 そう言ってにっこりと微笑むと、日和は空乃から身体を離す。空乃は『高校生』の自分自身を牽制しながら、ゆっくりと日和に道を譲る。

 日和はまず、残った二人の方へと歩み寄る。二人の空乃は未だ手を押さえたまま、日和を凝視していた。

(……まるで捨てられた子猫みたい)

 きっと、あの時の自分もそうだったに違いない。部屋の隅で一人震えて、じっと誰かの救いを待っている。自分には家族が、そして雨鈴がいたから何とかなった。けれどもし、彼女たちに誰もいないのなら――自分がその代わりになってやればいい。

「大丈夫、私は何もしないわ。……ね、思い出して」

 日和は、『小学生』の空乃へと一歩近寄り、瑞樹から借り受けたナイフをそっとその身体に触れさせる。流れ込んでくる、黄色のイメージ。警戒、誤解、怖れの感情。

「なるほど、あなたは怖かったんだね。そのことで友達があなたを嫌いになるんじゃないかって」

「……そうだ」

「でも怪我が治ったあと、謝りにいったあなたに友達はなんて言った?」

「友達は、何も言わずに許してくれた。多分、以前よりも仲良くなったのかも」

 他人を傷つけることはとても怖いこと。でも、傷つけてしまったのなら、きちんと謝ればいい。たとえ二人の関係が一時的に折れてしまったとしても、再びつなげればより強度を増すものだ。

「友達がいなくなった本当の理由を覚えてる?」

「あれは確か、そう。急な転校で、その後すぐ――そうか、だから私は」

 何かに気づいたように、『小学生』は目を見開いた。

「……色々なことがごちゃ混ぜになっていたのね。だから、てっきり嫌われたのだと思い込んでいた」

「どうやらそうみたいだ。……ありがとう、思い出させてくれて」

 そう呟くと、『小学生』はその存在を澄んだ黄色い光の玉へと変えて、空へと昇っていく。

「そんな、馬鹿な――」

 『高校生』が呆然として、呟く。

「さて、お次は――」

 日和は次に『中学生』の空乃へと向き直った。彼女もまた『高校生』と同じく、口を開けたまま固まっている。日和は『小学生』にしたのと同じように、彼女の身体にナイフの刃で触れる。

 彼女から感じられたのは、青のイメージ。悲しみ、悲哀、そして、後悔。

「……あなたは、悲しかったんだよね。大好きな人がいなくなって、しっかり泣いて別れを告げたかった」

「そう。でも、わたしはそれができなかった。ちっぽけな意地が邪魔をして――大切な人を、送れなかった。だからもう、私は二度と」

「それは別に構わないのよ。何も泣くことが、その人にとってよい見送りになるわけじゃないんだから。思い出して、あなたのおばあちゃんは、最後に何て言った?」

「それは……」

「『あまり泣いていてはダメよ、ちゃんと笑って』と、そう言ったはずよ」

 感情と共に、今際に空乃の祖母が言った言葉が流れこんできた。それがどういう意図だったのかは日和には汲み取ることはできない。けれど、空乃達には……身に染みてわかったようだった。

「その言葉をどう捕らえるかはあなたの次第。ただそれでも、少なくともあなたの気持ちは、おばあちゃんにも届いていたのではないかしら」

「……そう、なの?」

「そうに決まってるわ。でなきゃ、今頃怒って出てるわよ」

 日和がにっこりと笑ってみせると、それで安心したのか『中学生』の空乃も姿を光に変えた。その色は、綺麗な青。

「……ありがとう」

 そう呟くと、ゆっくりと昇っていく。

「そんな――」

 『高校生』はすっかりうな垂れていた。

「さ、最後はあなたよ」

「ち、近寄るな。近寄れば――」

「諦めなさい」

 刀を自分に向けて抵抗しようとする『高校生』を、空乃が後ろから羽交い絞めにする。

「さあ、日和」

「うん」

「やめろ、離せ!」

 目と目で示し合わせたようにコンタクトを取ると、ナイフの刃を彼女に当てる。彼女から感じられたのは赤のイメージ。温もり、情熱、そして、愛情。

「……あなたは寂しかったんだよね。だから二人をそそのかした」

「……違う。そんなことはない」

「それなら、なぜ懐中時計をずっと持っていたの? おばあちゃんとの繋がりをどこかで求めていたのではなくて?」

「それは――」

 祖母の遺品である懐中時計。それは、空乃がこうなる一つのきっかけでもあり、そして外の世界との繋がりでもある。それを持ち続けていたということは、人とのつながりを捨てられなかった証拠であり、期待の現われ。

「恥ずかしがることはないよ。それが普通のことなんだから。……さあ、こっちへおいで」

 日和は『高校生』をそっと自分の胸元へと引き寄せる。

「聞こえる? 胸の鼓動が」

「……不思議――何故か、気持ちが安らぐ」

「あなたのお母さんも、こうして抱きしめてくれたのよ。消したつもりでも、きっとその記憶がどこかに残っているのね」

「お母さん――」

 思わず、『高校生』の空乃から涙がこぼれる。

「でも、両親はもういない。私を愛してくれた人は、もうどこにもいない」

「もういないなら、これから作ればいいのよ。それが前に進むってことだわ。……それに、わたしのこと忘れてない? わたしはあなたのこと、ずっと前から大好きだよ」

「こんなに酷いことをした私を、許してくれるのか?」

「許すも何も」

 そう言って、日和はおかしそうに笑う。

「わたし達は友達なんだから、当たり前でしょう?」

「そう、か。だから、『今』の私は――」

 そう呟くと、『高校生』は日和の腕の中で赤い光の玉へと姿を変える。

「おい、『今』の私」

「……何?」

 空に上ろうとする『高校生』が空乃に声をかける。

「彼女のこと、大切にしないと承知しないぞ」

「……言われなくても、わかっているわ」

 その答えに満足したのか、『高校生』はゆっくりと空に登っていき、そして頭頂部にて、三つの光が合わさった。

 赤、青、黄、三つの色が合わさり、白となった光は暗闇を塗りつぶし、そして空間は明るさを取り戻した。

「うわあ……」

 全く気づかなかったが、そこは一面の草原だった。色とりどりの花が、そこかしこに咲いている。日和はそこにゆっくりと仰向けに倒れ込んで、空を見る。雲ひとつない空に、太陽のような輝きが浮んでいる。真っ青な空はどこまでも広がっているようだった。

「……日和は、やっぱり変わっている」

 空乃は日和の傍に腰を下ろし、穏やかな目で日和を見つめていた。

「急に、どうしたの?」

「いや、改めてそう思っただけ、深い意味はない」

「そうなの? ……実をいうとね、わたし『変わってる』って言われるの、苦手だったんだ。ほら、前に話した苛めのことを思い出しちゃって。……でも、今は何故か平気。『変わっている』方がいいんだって、思えるようになってきたのかもね」

「それはまた、どうして?」

「だって、『普通』だったら、誰かの『特別』にはなれないでしょう?」

「……確かにそうかもしれない」

「でしょう?」

 日和は楽しそうに笑うと、空乃へとそっと手を差し出した。

「さてと。……さあ、空乃」

「うん」

「戻ろう……元の世界へ」

 こくりと空乃は頷いた。




 四


 ――気づくと、私たちの前から全ての敵が消えていました。そして、その向こうには――


 ※


 気づくと、二人はあの公園に戻ってきていた。

 あたりにあれだけいた『獣』は姿を消し、残りは目の前に立つ一体だけだった。それはもう熊というより、まるで猫のような小動物がそこに小さくうずくまっているだけだった。

「空乃、あとはあなたが」

「わかった、日和」

 そう言うと、空乃は手に持っていた刀を地面に突き立てると、そのまま両手を挙げ、攻撃の意思がないことを示しながら、『獣』へと一歩ずつ歩み寄る。

「……おいで。私はもう、あなたを拒んだりはしないから。他人の存在を、ちゃんと認めるから。……だから一緒に行こう?」

 『獣』は少し怯えたように小さな声で嘶き……やがてその手を、空乃に向けて、そっと差し出しす。空乃は『獣』の小さなその手を両手で包み込むようにすると、自分の胸へそっと運ぶ。

 『獣』は全く抵抗する素振りも無くそれを受け入れると、ただゆっくりと嬉しそうに鳴いて、ゆっくりとその姿を消した。

「これで、終わり?」

「ええ。周囲には何の気配も感じない。……ありがとう、日和。あなたがいてくれたから、私は――」

「空乃――」

 見詰め合い、二人の世界に入ろうとした日和たちを、二つの声が遮った。

「……わたし達のことも、忘れないで欲しいわね」

「まったくです」

 振り返ると、そこには瑞樹と雨の姿があった。

「瑞樹さん! 水無月さん! 無事だったのね」

「こんな所で死ぬわけが無いでしょう」

「と言いつつ、結構危なかったですけどね」

 瑞樹は服も顔も擦れたり、泥で汚れたりしており、必死に逃げ回ったことを連想させるが、一方で雨は全く汚れた気配はない。

「雨さんは、どうやって凌いでいたのですか?」と聞くと、「逃げ回るにしても、方法というのがあるのですよ」という回答が帰ってきた。

「それにしても……あなたが、円居さんですか。やっと見えました」

「え? ああそうか、空乃が見えるようになったんですね!」

 特に見る力のない雨に見えるというのなら、これで本当に問題は解決したようだった。

「良かったね、空乃」

「ええ、本当に」

「……さてと、それじゃあ折角だし、このまま皆でカラオケでも行きましょうか」

「あ、いいですね。色々ご迷惑をおかけしたお詫びに、私がおごりますよ! 空乃もそれでいい?」

「私は日和がいいなら構わない。……それに――私が音痴なのかどうか、他人にも判断してもらういい機会だから」

「まだあの時のことを気にしてるの? いいのよ、下手でも楽しめれば」

「……まあ、好きこそものの上手なれって言葉もあるけどね。ところで、雨はどうするの?」

「えっと……すいません、カラオケって、何ですか?」

 がくりと瑞樹は膝を砕く。

「……雨、流石にそれは俗世のことを知らなすぎじゃない?」

「だって、以前はカラオケなんてなかったんですよ」

「ここ十年とかそういう話じゃないでしょ、カラオケって。……まあいいわ、カラオケってのはね――」

 カラオケについて説明しながら先を行く二人を見ながら、日和は頭の後ろで手を組み思わず羨ましそうに二人を見る。

「どうしたの、日和」

「あの二人、いいなぁと思って。なんかこう、自然体でさ。わたし達も――あれ?」

 それを聞いて、空乃が不意に足を止めた。

「――空乃?」

 気を悪くしたのかと、日和が後ろを振り返ると、そこには彼女の唇があった。そっと唇同士が触れるだけの、キス。

「私達はまだ始まったばかりだから――これから積み重ねていけばいい。だから焦る必要はない」

「……そうだね、ありがとう」

 微笑む日和の鼻先に、小さな白い浮遊物が止まった。何だろう、と思って手を伸ばすと、指先に小さな冷たさを残すと解けて消える。

「これって――」

「雪、だね」

 空を見上げると、空一面から雪が舞い降りて来ていた。

「今度は積もるかな?」

「どうかな。でも、積もったら、雪合戦でもしよう」

「あ、それいいね。かまくらもいいし、雪だるまも作りたいな」

「……おーい、二人とも。本降りになる前に、さっさと行きましょう!」

「あ、はーい。……行こう、空乃?」

「うん。……日和、手」

 空乃の差し出した手を、日和はしっかりと握り締める。もう、その手から冷たさは感じられない。

 二人は手を繋いだまま、白に染まり始めたばかりの道をゆっくりと歩き出した。

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