第二話 二人の噂
一
――たまには自分が引き起こすんじゃなく、けしかけるのも面白いなと思いました。
※
日和にとって冬の朝は拷問のようだった。
まず布団から出るときに一回、着替えるときにもう一回、冷気の鞭で打たれ、息を吸い込めば空気が肺を冷やす。外に出れば針で突き刺すような寒さが襲い掛かってくる。今日も学校に着くまでに、何度登校を諦めかけたかわからない。
そんな日和が始業時間を大幅に上回って登校するのは非常に稀な出来事だった。しかも、それが今日で一週間続いている。両親には何かあったのではないかと心配され、雨鈴には気でも狂ったのかときつい言葉を浴びせられされながら、今日もきっかり一時間前に到着した。
(まったく、どうしてわたしがそんなことを言われなきゃならいのかしら)
妹には絶対に何か仕返しをしてやろうと考えながら、廊下を歩く。
早朝の学校は不思議な静けさに包まれていた。まだうっすらと靄の残る校庭、青白い窓から入ってくる光、そして人の気配のしない教室。もしかしてその辺りの物陰に何かが潜んでいるかも、などと想像すると年甲斐もなく胸が躍る。
直に触れたら張り付きそうな取っ手に手をかけて開くと、朝の澄んだ空気の向こうに空乃の姿が見えた。空乃は自分の机で何か作業をしているようだった。
「おはよう、空乃」
「……おはよう」
白い息を吐きながら挨拶をすると、空乃は顔を日和に顔を向けて会釈し、また机に向かう。
「今日は何をやってるの?」
「……数学の課題。今日までの」
「ああ、そういえばそんなのもあったね」
空乃は大抵その日までの宿題を朝来てからやることが多いようだった。家に帰ってからは、大抵その前にある『獣』との戦いで疲れ果て、寝てしまうのだと空乃は言っていた。
教師に姿が見えていない空乃は出席になっていないと思われるが、当人曰く出席を取らない教師が多いので課題をちゃんと出していれば割とどうにかなるらしい。
「日和はもう終わったの?」
「うん、出た日のうちに済ませてあるよ。見る?」
「……いい。こういうのは自分の手でやらないと意味がない」
ぶっきらぼうな言葉だったが、不思議と嫌な感じはしない。
「それじゃ、終わったら呼んでね。何か本でも読んでるから」
「わかった」
そう告げると日和は自分の席に戻り、友人から借りた小説を開いて読み出した。
呼んで、と言われても何か用があるわけではなく、ただ他愛の無い話をするだけ。なのだが、日和と空乃がこうして会話をすることができる貴重な時間は、早朝だけだった。日中は日和も何かと友達づきあいがあったし、空乃は日が暮れる前に『獣』との戦いへ赴かなくてはならない。
メールのやり取りもあるにはあるが、空乃が夜早く寝てしまうので、やり取りができる場面は制限される。しかも空乃から話題が来ることはこれまでほとんどなく、投げるのはいつも日和からだった。
「日和、終わったけど」
「ん、んー、ちょっとまって。今いいところだから」
そう言いながら、日和は本のページをめくる。その頬は、朝焼けの橙とは異なる色に染まっていた。
「……それって、この前も読んでたやつ?」
「うん、『エミエール学園』ってやつ。いや、この手のが全部そうだとは言わないけど、これは結構面白いんだよ。これはストーリーもちゃんとくみ上げられているし――」
「私は、基本的に他人の趣味をどうこういうつもりはない。……けど、流石にそれはどうかと思う」
「わかってないなあ空乃は。ありえないのがいいんじゃない」
「いや、それじゃない。……それ!」
「ん?」
珍しく空乃が強い口調で言うので、空乃は本の表紙を指差している。ひっくり返して見てみると、そこだけブックカバーが外れ、本来の男性同士のあられもない姿を描いた表紙が丸見えになってしまっていた。
「……あら、失礼」
頭をかく日和を見て、空乃は小さくため息をついた。
「――それで、あれからどうなの?」
「うーん、それが特には進展はないかなぁ……」
「進展って、お礼とか言ってたのはどうしたのさ」
「ああ、そっちはもう済ませたよ、というか彼女に会って一番最初にしたってば」
恒例の陽子との電話は、まず空乃との事柄の報告から始まった。空乃の置かれた境遇、そして彼女が戦っている『獣』のこと。
「ふむふむ……なるほど。これまだ興味深い話だね」
「うん。あ、でも、紹介してとかダメだよ? どの道見えないからダメだとは思うけど――」
「ちっちっち。そこは蛇の道は蛇っていうじゃない?」
「……斬られても知らないわよ?」
流石にいくら空乃といえどそんなことはしないと思うが、陽子は恨みを買いやすい性格をしているので、友達としては少し心配ではある。
「うーん、それはちょっと怖い、かな。……で、今は普通の友達としての関係を続けている、と」
「ええ。少しずつ会話もできるようになってきた、かな」
空乃はドラマや音楽にはあまり興味がないようだったが、一方で本はよく読むらしく近代文学などに明るかった。何冊か、お勧めの本を貸してもらったりもした。もっとも、その本はいまだに机の上に詰まれたまま一ページも開いてはいないのだが。
「そろそろどこか遊びに誘ってみようとは思うんだけどね……何かいい方法というか、口実はないかな?」
「うーん、助けてもらったお礼、とか?」
「それを盾にすると、意地でもうんとは言わない気がするんだよね……」
空乃はどうしてもあの夜のことは偶然だったことにしたいらしい。人に貸しだと思われるのが面倒なのか、それともまだ信頼されてないのか。
「率直に『デートしよう!』とかでもいいんじゃないの?」
「それって、わたしが言うと違和感ありそうなんだけど」
「大丈夫、日和なら上手い冗談、ぐらいに受け取ってもらえるよ」
(なんかそれはそれで傷つくなぁ……そもそも同性同士でもデートというのかしら?)
折角知り合えたのだからもっと仲良くなりたいとは思うが、デートと言われると少し違う気がしないでもない。
「じゃあ、そのデートの誘い方について、ベテランであろうことのさっちゃんに教えていただきたいのですが?」
「えっ? ……それを彼氏なし暦イコール年齢の私に聞きますか?」
「そんなの私だって同じだよ。それにこの場合彼氏とか関係ないじゃない。別に友達とだっていいわけでしょ? ……わたしはほら、そういうのもなかったからさ」
「ああ……そういえばそうだったね」
日和には高校以前の友達がいない。それについては空乃には話していないが、陽子には以前話したことがあった。
(いつか言わないといけないかな……できれば、秘密にしておきたいけれど)
「んー、でも、わたしの誘い方って万人に通じるかなぁ……。何となく、特定の一人にしか効かない気もするんだけど」
「まあ、やってダメ元ってことで」
ダメなら試した方法を反省して、次に生かせばいいだけだ。何の指針も無くやるよりはよっぽどいい。
「……わかりました。じゃあ、あなたに朝霧式誘惑術の奥義をお教えしましょう」
「お願いします、先生!」
日和はメモを取り出し、友人の言葉を漏らさず書き留める準備をする。
「えー、それでは、まずですね――」
放課後を迎えると、日和は学校近くの公園へと足を向けた。
今週は掃除当番ではなかったので、運がよければまだ彼女はいるはずだった。
(そういえば――この公園だったかしら)
高校生になってからはあまり来ることはなかったが、その昔ここで幼い雨鈴とよく遊んだものだった。
(あの頃の雨鈴はもっと素直で、可愛かったなぁ……)
どこに行くにも『お姉ちゃん』と後をついてきた可愛らしい妹。それが今や、二言目には悪態をつくひねくれた子供になってしまった。一体どこで教育を間違えたのか――と考えて、ふと心当たりを思いつく。
(そっか、あの時期にわたしは――)
「はあっ!」
公園の中から空乃の声が聞こえてきた。どうやら間に合ったらしい。
これで彼女の戦いを見るのは三回目になる。最初こそ姿の見えなかった『獣』だったが、回数を重ねるごとに少しずつその実体が見えるようになってきた。今日見る『獣』は、はっきりとした色がついて見える。
空乃によれば毛づやまで本当の狼と同じらしいが、今の日和にはまだそこまで認識できなかった。もっとも、本物の狼をみたことがあるわけではないので、毛づやがどんなものかわかるわけではないのだが。
今日も狼の形状をした『獣』はスピードを生かして空乃を攻め続ける。日和が眼で追うのがやっとの速度で、一つ一つが必殺の一撃を刀を構えたまま空乃は確実にかわしていく。
その使用している刀について尋ねたところ、彼女は近所の骨董品店や蔵からもらってきたのだと、きっぱりと言ってのけた。
「それって泥棒じゃあ……」
「借りているだけ。永遠に」
もっともそうして『借りた』うちの何本かは折れたり斬れなくなったりして捨ててしまったらしい。それでもまだ調達には困らないというのだから、一体この辺りにはどれだけ刀があるのだろう。
(確かに、大昔のこの辺りは合戦場だったというけど……)
それゆえにこの千種市は、血の出ずる元ということで『血種』とも呼ばれたこともあるという。それにまつわる噂もいくつか読んだり、聞いたことがある。
(この『獣』も殺された人の怨念だったり……なんてね)
しかし、千年近くも不特定多数の誰かを呪っていられるだろうか。恨むということは愛すると同じく、相当のエネルギーを使うはずだった。霊体にもエネルギーがあるなら、恨み続けることによっていつかは消失してしまいそうなものだ。もっとも、そうして失ったエネルギーを得るために、生きた人間を襲っているとも考えられなくもないが。
日和がそんなことを考えている間に、戦いはクライマックスを迎えつつあった。
相手の動きを読み切った空乃が、『獣』の突進をかわす。と、その先には大きな常緑樹が立ち塞がっていた。激突し、大きな音が周囲に響き渡り、『獣』が体制を崩す。『獣』が体勢を整えるまでの間に、日和はその隙を狙って、空乃は刀を振り下ろす。
音もなく、『獣』その姿を両断され、そしてその姿を塵へと変えた。
「ふぅ」
「お疲れさま。はい、タオル。風邪引かないうちに、身体を拭いて?」
「……ありがとう」
空乃は手渡されたタオルで手早く身体を拭き、素早くコートまで纏う。
「ありがとう、お陰で助かった」
「いえいえどうも。……あれ? その頬、どうしたの?」
言われて空乃が頬に手をやると、そこには真っ赤な一筋の線が走り、そこからじわじわと血が滲んでいた。
「多分、木の枝か何かに引っ掛けたんだと思う。まあ、放っておけば、治る」
「ダメよ、木でやったんならどんな菌がいるかわからないし、ちゃんと消毒して――あ、そういえばちょうどいいの持ってるよ、わたし」
「?」
不思議そうに首を傾げる空乃を余所目に、日和は鞄の中に手を突っ込んだ日和が取り出したのは、一枚の絆創膏だった。
「じゃじゃーん」
「……なんだ、普通の絆創膏じゃない」
取り出したものを見て、空乃が落胆の目で日和を見る。
「あ、何その目。これは通常の三倍の早さで傷が治るって評判の絆創膏なんだから。……あ、でもここって水飲み場がないね」
この公園には、普通の公園としてはあるはずの水飲み場やそしてトイレがなかった。噴水がある以上、水道が通ってないはずはないのだが、予算がないのかそれとも不要と判断したのか。
「そのままでも別に――」
「ダメダメ。そのままにしておくと化膿したら大変だって。……じゃ、ちょっとほっぺをこっちに向けて」
「……わかった」
空乃はしぶしぶその頬を日和に差し出す。日和はそのほほをぺろりと舐めた。
「あひゃあ!」
普段の空乃からは全く想像できないような声を上げて、その場から飛び退る。
「あれ? 染みた?」
「い、今一体、な、な、何を」
「消毒だよ消毒。そのまま張ったらばい菌が残っちゃうでしょ。ほら、もう一回」
「…………」
言われるがまま、真っ赤になりながら頬を差し出す空乃を見ながら、日和は昔もこんなことをした覚えがあることを思い出していた。
(昔、こうやって雨鈴に消毒してあげたっけ……)
ここで遊んでいた頃、やはり雨鈴は擦り傷が絶えず、なにかあるたびに唾液をつかって消毒してから、絆創膏を張ってあげたものだった。今にして思えば、鞄の中に絆創膏が入っているのはその時の名残だった。
「はい、これでおしまい」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
空乃は何故か俯いて視線をこちらに向けず、絆創膏で隠れていない頬が林檎のように真っ赤だった。男女ならいざしらず、同性同士なのだからそんなに気にする必要はないはず。
(あ、あれ?)
にもかかわらず、その場の変な雰囲気に飲まれてしまったのか、日和の胸が高鳴るのを感じた。
「ね、ねえ、空乃」
生じた雰囲気を誤魔化そうと、日和はどうにか口を開く。
「……な、何?」
「そういえば、近所に新しいショッピングモールができたの知ってる?」
「ああ」
空乃はこくり、と頷く。
「確か、今朝チラシを配っていた。……私はもらえなかった」
最近、新市街の方に大きなショッピングモールが完成し、全国でも有名な店やブランド店が多く入るらしく、テレビで大々的に取り上げていた。もっとも、古くからの住民や商店街が反対をしていたが、結局新市街側に押し切られる形でオープンとなり、市内のみならず市外からの客を集め、来場者数は上々のようだった。
「さっきのお礼代わりにってわけじゃないんだけど――良かったら、一緒に行かない?」
「え? ……私、と?」
空乃は目を見開き、自分を指差してみせる。
「うん。それとも何か予定ある?」
「いや、特にあるわけじゃない――」
「良かった。じゃあ、日曜日の十時に駅前広場で待ち合わせね! それじゃ、わたしちょっと寄るところがあるから」
「え? あ、日和!?」
朝霧流奥義その一、相手が拒否できない状況を作ったら――逃げるべし。
(本当にこれで大丈夫なのかなぁ……)
メールやら何やらで拒否する手段があるような気がするが、ともかくやるべきことはやったのだ。
奇しくも奥義その二である、後はなるようになれを実践しながら、日和は後ろを振り返ることなく、家路を急いだ。
二
――久しぶりに次の日を迎えるのが楽しみだった。前の晩、思わず眠れないぐらい。
※
日和が待ち合わせ場所に到着したとき、既に空乃は待ち合わせ場所にいた。色の薄い髪をした少女が長細い布の包みを持ってそわそわと立っているというだけでも、遠目からでもそれが空乃だとわかった。
(それにしても……)
日和は広場の時計に目をやる。十時までまだ三十分近くある。日和も早く来たほうだが、一体空乃はいつから待っていたのだろうか。それだけ楽しみにしていてくれたのならいいのだが――
「おはよう。早いね、空乃」
「あ、日和、おはよう。そんなことない、もう、五分前」
「え? いや、五分どころじゃないんだけど」
「え? でもだって、この時計だと――」
そう言って空乃が差し出した古びた懐中時計は、確かに九時五十五分を指している。
(そんな馬鹿な……あれ?)
「これ、止まってない?」
よくよく見るとその秒針は止まっていた。時間的に考えると、昨日の夜に止まってそのままなのだろう。
「え、そんな馬鹿な…………あれ?」
空乃が慌ててねじを巻く。すると、懐中時計はゆっくりと動き出した。それを見て、空乃はほっと息を吐く。
「大切な物なの? それ」
「うん。……死んだおばあちゃんの形見なんだ、これ」
「あ……ごめんなさい、思い出させてしまって」
「ううん、大丈夫。もう四年ぐらい昔のことだから、もう良く覚えていないし」
空乃はなんて事ないことを示すために、小さく首を振ってみせた。
「まあでも、今日は来てくれてよかった。もしかしたら、来てくれないんじゃないかって、ちょっと心配だったんだ」
「……それは私も同じ。五分前だと思って慌てて飛び出してきたら、まだいなかったから」
「ふふ、メールでも何でも聞く手段はあったでしょうに」
一時間ずっとここで待っている空乃を想像して、日和はくすりと微笑む。
「……次からはそうする」
「それにしても――遅刻しそうになったから、制服なの?」
「別にそういう訳じゃ……」
確かに制服なら着替えるのは簡単だが、それにしてもいきなり制服へ手が伸びるものだろうか。
そう思ってまじまじと空乃を見ると、その目は泳いでいてどこにも定まらない。
「まさか……ちゃんとした私服を持ってない、とか?」
「…………そんな、ことは」
図星なのか、俯いて頬を染める空乃。その仕草は寡黙な空乃からは想像できないほどの可愛らしさだった。間違いなく、自分が男性だったら放っておかないのにな、と日和は思った。
「よし、それじゃ、今日は服から見に行きましょう」
「え? でも、私、特には服なんて」
「だって、その格好でデートする気?」
「デ、デートって。それに、私は他人からは見えないし、服は関係な――」
「大丈夫! わたし、これでもセンスには自信あるんだ。……ささ、行こう行こう!」
「ちょ、ちょっと」
抗議の声を上げる空乃を無視し、その手を引いて日和はショッピングモールに向かって歩き出した。
「どう、空乃?」
「こ、これは……ちょっと」
「どれどれ……おお、可愛いじゃない」
試着室から出てきた空乃を見て、日和は思わず感嘆の声を上げた。空乃は恥ずかしそうに、短めのワンピースの裾を押さえている。
「こ、こんなの私には合わないよ。動きやすそうだけど、大体今は冬だし、寒いし……」
確かに、この格好ではいくらなんでも風邪を引きかねない。
「うーん、可愛いのになぁ……じゃあ、これなんてどう?」
「もうちょっと、動きやすいのが――」
次に空乃が着たのはロングスカートとブラウス、そしてセーターの組み合わせ。随分今風の服装にはなったが、空乃はどうにも動きにくそうだった。
「ええー。折角のデートなんだから、これぐらいは」
「……その、デートって、止めて。恥ずかしいから」
単語を聞くだけでだけで赤くなる空乃を見ながら、日和はくすりと微笑みを浮かべる。出会ったときに比べると、大分空乃の表情も柔らかくなってきた。特にその笑顔は同性の日和ですら胸が締め付けられてしまいそうなほど。
(できれば、ずっとわたしだけが見ていられたらいいのに――)
それが彼女の望みではないことは、わかっているつもりだった。彼女が送りたいのは普通の人としての生活。日和もまた、他人から認識されない状態から彼女を解放してあげたいと思う。だがそれとは別に、空乃を独占したいという気持ちが芽生え始めているのを感じた。
(そんなつもりじゃなかったのに――一体どうしたんだろう、わたし)
日和は初めて生まれたその感情に、戸惑いを感じていた。
「……日和。日和!」
カーテンの中から何度も呼んでいたのだろう。次の服に着替えている空乃が、顔だけ出して日和を不安そうに見つめていた。
「あ、ごめん。なに、どうかした?」
「……もしかして、退屈だった?」
捨てられた子犬のように、円らな瞳を向ける空乃。それを見て日和は思わず笑みを浮かべる。自分は彼女の寂しそうな顔を見たくないだけ、今はそれだけでいいじゃないか。
「あ、ううん、ちょっと考え事してただけだよ」
「本当?」
「ほんとほんと。それより、どう? その服は」
「あ、うん。結構いいとは思うんだけど、これはこれで……」
二人の試着は、その後日が高く昇るまで続いた。
三
――このもやもやの正体が一体何なのか。私はあえてわからないままでいようとしていた。
※
「こらこら、そんなにはしゃぐと転んでも知らないよ」
「~♪」
先を行く空乃を、両手に荷物を抱えた日和が追う。
空乃はロングスカートが気に入ったようで、ひらひらと揺れる布を興味深そうに見つめながら、時折くるりと回ってみせる。そうしてはしゃぐ様子はまるで子供のようだった。
「うん、似合う似合う」
「そ、そう?」
思わず拍手をすると、照れて頭を掻く。その仕草がまた愛らしい。例えそこらのアイドルと競うことになったとしても、今の空乃なら負けることはないだろう。
「うーん、我ながら恐ろしい素材を開花させてしまったわ――」
「……素材?」
「ああいや、こっちの話」
買い物を終えた二人は、近くにあったコーヒーショップに入った。日和が二人分の注文を済ませると、あまり人目につかないよう店の奥の席に着いた。
トレイを机に置き、両手にぶら下がった持った袋を床に下ろすと、日和は肩と首を回す。
「ふー、ちょっとはしゃぎすぎたかな。空乃は疲れてない?」
「ううん、全然。今日はとっても楽しい」
そう言って微笑むその顔からは、疲労など全く感じられない。
(でもそりゃそうか。いつもあれだけ激しく戦っても息一つ切れてないんだものなぁ……)
この小さな身体のどこにそんな力があるのだろう、そんな風に思いながら凝視していると空乃の顔は火がついたように赤くなった。
「やっぱり、変かな?」
「え、何が?」
「この服。さっきからじろじろ見てるから――」
「そんな! 似合ってるよ、絶対!」
「あ、ありがとう」
身を乗り出して褒めちぎる日和に気圧されて、空乃はのけぞって呟くのが精一杯だった。
「……でも、本当に今日は日和に感謝してる」
ココアを一口飲み、ふと空乃が言った。
「え? どうしたの、急に」
「いえ、こういう所に来たのはとても久しぶりだったから、楽しくて。……一人だったら、絶対に来ようなんて思わなかっただろうし、全部日和のお陰。だから、ありがとう」
真剣な眼差しで見つめる空乃。その姿は自分と変わらない少女のものだった。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
「なに?」
「日和は、どうして私にこんなに良くしてくれるの? いくら私があなたを助けたからといっても、少し過剰のような気がする。私の気のせいかもしれないけど」
「それは……そうだね、いい機会だから話そうか」
「?」
首を傾げる空乃に、日和は真剣な口調で話し始める。
「……昔ね、わたし、酷いいじめを受けてた時期があったんだ」
それは中学のあるとき『いじめごっこ』というのが流行った。やれ誰かと少し違うとか、勉強が少しばかりできるからとか、そんなことで選ばれたクラスメイトが、一日中無視されたり、何か物を隠されたりという子供の遊び。本来は皆が平等にいじめられ役をやればよかったのだが、皆は当然そんな役をやりたいはずがない。
その頃の日和は雨鈴と遊ぶことが多く、特別なグループに入っていなかったことから格好の標的になった。昨日まで普通に話していた友達に話し変えても無視され、上履きはゴミ箱の中に隠され、そしてそれは次第にエスカレートしていった。
「初めはね、まだ遊びの延長上かなって感じだったんだけどね……髪を切られたり、一番酷いときは叩かれたりもしたかなぁ」
「……誰にも相談とかしなかったの?」
「うん。当然大人に言ったらもっとひどいことをすると脅されてたし……それに、友達をまだ信じたくて。でももう苛められるのは嫌だったから、最終的には登校拒否になったかな」
部屋に閉じこもって、一人でうずくまって過ごす日々。寂しさと、悲しさと、後悔と――いろいろな感情がない交ぜになって、部屋の隅で震えていた。
「……それで、日和はどうして立ち直ったの?」
「わたしの場合はね――妹かな。雨鈴っていう中学生の妹がいるんだけど、あの時はまだ小学生だったかな。ある日、急に私の所にやって来て、いきなり頬を張ったの。そして、私が呆然としていると、急にわんわんと泣き始めたの。『お姉ちゃん、本当の事言って!』って言って、叫び続けて。わたしもね叩かれた痛みと急に泣き出した雨鈴にどうしたらいいかわからなくなって、最後には大声で泣き出したの」
二人でわんわん泣いている所を親に見つかって、そこからは急転直下だった。両親がどんな手を使ったのかはわからなかったが、次の日からいじめはぱったりとなくなっていた。何人かは謝りに来てくれたが流石に元通りの生活を、というわけにはいかないまでも、それなりに快適な生活を送ることができた。
「それからかな。なんか一人でいるひとを見ると、どうにも放っておけなくないの。まあ、結局はわたしのエゴなんだよね。わたしが勝手に思い込んで――わたしが好きなようにやってきたのが、たまたま上手く行ってただけ。……変だよね、こんなの」
そっと目を伏せる日和を見て、ゆっくりと空乃は首を振る。
「ううん、そんなことない。それに前に日和が言ったけど、結果的にでも助かったからお礼を言うんだって。……だから私もそう、ありがとうってあなたに言いたい」
「空乃――」
「あなたがいてくれてよかった。こんなに充実した一日は、本当に久しぶり」
そう言ってにこりと微笑む空乃に、思わず日和は空乃に抱きついていた。
「日和、痛いよ」
「ごめん。でも、もう少しだけ」
「……うん」
他人にどう見られるなど全く気にせず、日和は強く空乃を抱きしめ、空乃はその小さな身体で受け止める。
しばらくして日和が顔を上げると、そこには空乃の顔があった。二人はじっと見つめあい、そして同時に笑った。
「変な顔!」
「それはお互い様だよ」
「あはは。はー、おかしかった。……さて、それじゃ、この後はどうしよっか」
「うーん。……日和は、行きたい所はない?」
「折角来たんだし、色々な所に行ってみたいな。カラオケとか、プリクラとか」
「カラオケ……プリクラ?」
その単語を聞いて、空乃は不思議そうに首を傾げる。
「ああそっか、空乃は全部やったことないんだもんね。それじゃ、行こう!」
日和は空乃の手を取って、立ち上がった。
それから二人は色々な場所を巡った。
ゲームセンターにカラオケ、おもちゃ屋に眼鏡屋まで、それこそショッピングモールの全てを制覇するような勢いで。
そして、空乃の空白を、できるだけ埋めてあげられるように――
気づくとすっかり日は落ちようとしていた。
「いやー、結構回ったね」
「うん」
「ついでに財布も空っぽ」
「うん」
「でも、まさか空乃が音痴だったとはねえ」
「……だって、初めてだったから。でも、楽しかった」
頬を染めて恥じらいを見せる空乃。日和はふと、その右頬にこの前張った絆創膏がまだ張られているのに気づいた。
「そろそろはがしてもいいんじゃない? それ」
「うん、でももう少し、このままがいい。……その、剥がしたら、かじってしまいそうだから」
「ああ、わかるわかる。直りかけが痒くて辛いんだよね。かさぶたになってからも、気づくと剥いちゃってたりして」
小さく頷き、同意する空乃。日々いつ怪我をしてもおかしくない空乃は、結構かさぶたの処理には困っているのかもしれない。
他愛のない話をしながら歩く。いつしか日は暮れ、辺りは夕日の赤に染まりつつあった。
「さて、そろそろ帰りますか」
「うん……」
少し残念そうに空乃は俯く。日和はそんな日和の背中を軽く叩いた。
「なーに寂しそうな顔していの。来たかったら、また来ればいいんだよ」
「また……来る? 本当に?」
「そうそう。だって私達、友達じゃない」
やけに必死な空乃に苦笑いを浮かべながら、日和は笑顔で頷く。
(そう、今はまだ)
「……でもそれまでに、空乃は音痴を直しておくこと」
「もう、だから、私は音痴じゃないって!」
少しムキになってぽかぽかと日和を叩く空乃から、逃げるようにして日和は走り出す。
「こら、日和、待て――」
「待てと言われて待つ人がどこにいませんよー」
空乃の声には耳を貸さず、日和は走り続ける。荷物を抱えた腕は重く、息は切れてとても辛い。それでも、不思議なことにとても楽しかった。
(ああ、こんな日々がずっと続けばいいのに――)
そう思いながら、日和は走り続ける。
「日和、待って! お願いだから、待って!」
不意に、必死な空乃の声が耳に届き――そして、棒で横殴りにされたような衝撃が、唐突に日和を吹き飛ばした。
四
――その時の彼女はとてもきれいで、そして同時に、恐ろしくも感じました
※
「日和! ……日和!」
気づくと、日和は空乃の腕の中にいた。肩から背中にかけて軽い痛みがあったが、どうやら空乃が吹き飛ばされた自分を受け止めてくれたらしく、特に重症はないようだった。
「気づいたんだね。……良かった」
今にも泣き出しそうな空乃をみて、その髪を日和はくしゃりと撫でる。
「また、空乃に助けられちゃったわね。でも、一体何があったの?」
「日和は殴り飛ばされた。――あれに」
そう言って空乃差し出した指の方向には、驚くべき光景が広がっていた。
「な、何あれ――」
思わず日和が叫び声を上げる。
二足歩行をした『獣』がショッピングモールを破壊して回っている。その『獣』はこれまで何度か見たことのある狼のシルエットとは異なり、それより一回りほど大きくそして力も強かった。そのまるで熊のような『獣』が手を振るうたび、モールの外壁が壊れて辺りに散らばる。
「あれも『獣』なの?」
「わからない、私も初めて見るタイプ。……日和は、ここにいて」
「うん。でも、どうするの? ……まさか」
空乃はこくりと頷く。
「私がやらないといけないことだから。――それに、あそこを壊させるわけにはいかないあから」
空乃は手に持った布袋から、刀を取り出して構える。そこで、『獣』も空乃の存在に気がついたようだった。
「よくも、私の大切な場所を!」
空乃は勢い良く『獣』へと飛び掛っていく。比較的動きの鈍い『獣』へと、一撃、二撃と加えていく。だが、その身体は狼のそれとは比べ物にならないほど堅く、また空乃の動きにもキレがないことも影響して、体毛が幾筋か千切れ飛ぶ程度だった。
代わりに『獣』の攻撃はいくらか日和に命中していた。直接身体に当たっているわけではないが、徐々に日和の身体に傷を増やしていく。特に、空乃の動きにキレがないのは気がかりだった。まるで、何かに足を引っ張られているような――
(もしかして――)
「くそっ、このスカート、動きにくい!」
その原因はロングスカートに、普段より動きを制限するブラウスとセーター。違うのはほんの少しの差だったが、ギリギリの戦いではそれが大きな隙になる。
「くそっ――こんなもの!」
「あっ――」
空乃は一旦大きく間合いを開けると、ロングスカートの裾に刃をあて、二箇所ほど大きく切り上げ、簡易的なスリットを入れる。空乃は満足そうにその場で二度ほど跳躍する。その様子を、日和はただ呆然と見ていた。
「ついでに、これで!」
空乃はセーターを脱いで『熊』の眼前に放り投げる。それはまるで目隠しをされたかのように『獣』の視界隠し、その足を止める。その隙を空乃は逃さない。瞬時に背後へ回ると、全力でその足を裏側から斬りつける。その一撃は『獣』の足を大きく痛めつけ、叫び声を上げながら前のめりに倒れる。
「……まだ、終わらせない」
そう叫ぶと、空乃は『獣』の上に立つと、やたらめったらに刀を振り続ける。……そこから先は戦いではなくただの虐殺だった。『獣』も必死になって抵抗するが、その攻撃は空乃にまるで当たる気配はまるでない。
「これは日和の分! これは、壊された建物の分!」
まるで自分の楽しみを邪魔された子供のように、その刃を『獣』の至る所へと叩きつけるたびに『獣』は悲鳴にも似た唸り声を上げる。そしてその度に『獣』の傷口から血が噴出し、空乃を、そして離れた所で見ている日和の眼鏡を汚す。
「もう止めて、空乃!」
思わず日和は駆け出していた。あれではまるで、自分を傷つけているかのようだった。
(止めなくっちゃ……わたしが)
あの時、雨鈴が自分にそうしてくれたように――そう、思った日和の心は、一瞬にして切り裂かれた。
幾度目かの斬撃。乱雑な空乃の扱いに耐えかねた刃が甲高い音を立てて折れ、その切っ先が日和の肩を掠めた。
「キャッ!?」
その影響で、日よりは思わず尻餅を着いた。肩が熱い。視線をやると裂けた服の隙間からうっすらと赤いものが滲んでいた。
「ひ、日和!?」
日和の悲鳴で我に返り、空乃はその手を止める。『獣』はそれを契機とするかのように、小さなうめきを残して塵のように消えた。
「日和、大丈夫?」
腰を抜かしたままの日和に、駆け寄ってくる空乃。心配そうに自分を見つめるその顔にべったりとついた血を見たとき、思わず日和は叫んでしまっていた。
「い、嫌。……嫌っ!」
それは生理的なものであり、これまでに感じたことのない感情――恐怖を日和は空乃に対して感じていた。
「日和? どうしたんだ、日和」
「いや、来ないで!」
不思議そうに首を傾げる空乃が一歩近づくたびに、日和は手と足を使って必死で後ずさる。空乃は不思議に思い、ふと側にあった窓ガラスに映った自分の姿を見た。そして理解した。
二人で折角選んだ服はボロボロ。セーターは真っ二つ、上着は破れ、スリットを入れたスカートはもはや原型を留めていない。そして、その身体にべったりと付着した『獣』の血。これではまるで、どちらが獣なのかわからない。
「ごめん、日和。……さよなら」
空のはもう一度だけ日和を見ると、逃げるようにその場から走り去った。
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