第一話  見えない少女の噂


 一


 ――面白いネタが転がってきたなと、そう思いました。


 ※


「……ってことがあったのよ。もう、危なかったんだから」

 雲井日和くもいひよりは、まだ少し湿った髪をタオルで拭いながら、テーブルの上に置かれた受話器に向かって話しかけていた。上気したように顔が赤らんでいるのは、決して風呂上がりのせいだけではない。

「なるほどねぇ……でも、何かの間違いじゃないの?」

「そんな訳ないじゃない。さっき写メで送ったでしょ、わたしの壊れた鞄」

 やや誇張気味だったとはいえ、先ほど体験したばかりの事実を友人にあっさりと切り捨てられ、日和は強い口調で反論する。だが、やはり友人の反応は冷たいもので、

「あれだって、転んでどこかに引っ掛けたのかもしれないじゃない?」

「もう! 人の話になると疑い深いんだから……」

「裏をちゃんと取ってる、と言って欲しいなぁ」

「あのね、それならいつも変な話を持ってくるのはさっきーの方じゃない。この前してた、『儀式』の話だって、別に証拠はないんでしょ?」

 この前の校内新聞に載った行った者の願いを叶えるという『儀式』、それにまつわる二人の少女の物語。創作にしては良くできていたと思ったが、真実とは到底思えない。大体願いをかなえるというのがそもそも怪しい。そんなものがあるのであれば、皆がこぞって試すに決まっている。

「そんなことないって、あの記事は本当だよ」

「じゃあ証拠か、その根拠は?」

「んー……わたしの勘?」

「こら!」

 一呼吸空け、二人は同時に笑い声を上げた。

 『さっきー』こと朝霧陽子あさぎりようこは、日和が高校生になってからできた友達だった。新聞部に所属しており、新聞のゴシップ面を担当している陽子は主に、学校や街の怪奇現象を追っている。日和も一度だけ調査を手伝ったことがあり、それ以来こうして電話を掛け合い、他愛のない話をしたり聞いた噂を教えあったりしていた。

「じゃあまあ、それが本当だとして」

「本当だってば!」

「まあまあ。それで、日和ちゃんはどうするつもり?」

「とりあえず本人にお礼を言わなくちゃ、とは思ってはいるよ。真相を追うのはその後でいいかなって」

 日和はちらりとカーペットの上に視線をやる。そこにある鞄には、先ほど自分が遭遇した出来事が夢幻ではなかったことを示すように、大きな傷跡が刻まれている、まるで鋭い爪を持つ獣にでもで引っかかれたかのような、三本の筋。あの時、彼女の声に反応して鞄を構えなかったら、そして彼女が助けてくれなかったらと思うと、ぞっとする。

「なるほど、日和ちゃんらしいね」

「……それ、どういう意味?」

「いやいや、褒めてるんだよ。わたしだったら、お礼の前に写真を撮りまくってるだろうからね」

「そうかなぁ」

 両親から『何かしてもらったら必ずお礼を言うように』と育てられた日和にとっては当たり前の出来事だったし、しかも今回は命を救ってもらったのだから、なおさらだ。

「わたしも大概だけど……やっぱり、日和ちゃんもよね」

「!?」

 その言葉を聞いて、日和は急に鼓動が早まるのを感じた。

 ――変わっている、普通じゃない。そんな言葉を投げられ続けた、あの辛い日々のことが脳裏にフラッシュバックする。

(……もう、だいぶ忘れたと思ったんだけどな)

 胸を押さえながら、日和は苦笑いを浮かべる。

「そんな、わたしは普通だよ。……どちらかといえば、さっちゃんの方が規格外だと思うけど」

「そうかなぁ……」

 電話の向こう側で考え始めた友人に合わせて、日和はゆっくりと息を吐く。何度か深呼吸しているうちに鼓動は収まり、どうにかフラッシュバックも収まった。恐らく一分かそこらの時間だったはずだが、日和にはもっと長い時間のように感じられた。

「……んー、でも、まあ、他人から見たらそんなものかもね。みんな違って、みんないい! って感じで」

「うん、そうだと思うよ。……たぶん」

「ところで、その人を探す手がかりは何かあるの?」

「ええ、一応。彼女が去った跡で生徒手帳を拾ったんだ」

 日和はそう話しながら、机の上に置かれた手帳に目を移す。あの後、地面に落ちていたモノ――学園の生徒手帳。それには一般的な生徒と同じように学生証が挟まれていた。

「お、それは手がかりというか正解そのものじゃない。で、で、名前は?」

「うーん、それなんだけどね」

 学生手帳に記されていた名前は『円居空乃まどいそらの』。クラスは二年B組。それは奇しくも日和と同じクラスだったのだが――

(でも、そんな名前の人、クラスにいた記憶がないんだけよね……)



 二


 ――初対面の感想? 礼儀正しい人、といった感じですね。あとは――眼鏡、ぐらいしか。


 ※


「……それじゃ、行ってきまーす」

 生あくびを噛み殺し、未だ居間で食事中の両親に声をかけると、日和は玄関の扉を開き、そして流れ込んでくるあまりの寒気にすぐさま扉を閉じる。

「こりゃダメだ……今日は諦めよう、うん」

「……何してるの? お姉ちゃん」

 思わず振り返ると、妹の雨鈴が怪訝そうに日和を見上げていた。

「だって、寒いんだもん、外。休んじゃおっかな、今日」

「あのね、雪が降ったんだから寒いのは当然でしょう? ……はぁ、全く我が姉ながら情けない。ほら、どいてどいて、わたしが遅刻しちゃう」

 雨鈴は呆れ顔で、自分よりも一回り大きな姉の身体を押しのけ、扉を開けて勢い良く外へ飛び出していく。

「さすが、子供は風の子だねぇ」

 しみじみと頷きながら、これ以上ここにいたら眼鏡を探す時間がなくなってしまうので、仕方なく日和も後に続いた。

「うーさむいさむい」

 外は今年一番の冷え込みを呈していた。吐いた息がすぐに白く濁る。雪はそれほど積もってはいなかったが、所々に白い残滓が見て取れる。

(積もったら楽しかったのにな……残念)

 息を手に吐きかけると、道路が凍っていないか注意しながら、日和は歩き出す。

 すぐに寒気が羽織ったコートを突き抜けて襲い掛かってきた。下にセーターを着込んでいる上半身はともかく、ほぼ無防備な腿から下が冷気を受けて、ちくちく痛む。

 冬場ほど男子のズボンが羨ましいと思ったことはない。女生徒の中には、開き直ってジャージを着用して登校する者もいたが、それはどうも日和には合わなかった。

 いっそ私服登校を認めてくれればいいのに、とは友人との間で話題にはなったこともあったが、いざ実現したら毎日の服選びが面倒臭くなるのは間違いない。小学校の時ですらローテーションがばれないように気を使う必要があったのに、今はそれに組み合わせを求められる。そんなことを毎日しなければならないとなれば、朝に弱い日和にとっては死活問題だ。だから結論はいつも決まって、『我慢』となるのだった。

「……あ、ここか」

 工事中であることを示す看板は、昨日と同じ位置にあった。何の工事をしているかは相変わらずさっぱりだったが、穴は相変わらずそのままだらしなく口を開いている。

(昨日は、ここを右に行って――)

 そこから記憶の通りに五分ほど歩くと、それらしき現場に辿り着いた。といっても、この道は高い塀がずっと続いており、家も似たような建物が並んでいるので、はっきりここだと言えるわけではない。せめて雪が降った後なら跡が残ったかもしれなかったが、あの時はまだ降り始めたばかりだった。

「さて、メガネメガネ……っと」

 日和は鞄を手近な電柱の出っ張りに引っ掛けると、目を皿のようにして周囲を眺める。が、どうにもそれらしき物体は周囲に見当たらない。

(うーん、今掛けてるのを落としてたらまだ見つかりやすかったかもしれないけど――)

 昨日落としたのは小ぶりな銀縁の眼鏡で、今掛けているのは黒縁。雪の上でどちらが見つけやすいかは明白である。

 一応今かけているスペアがあるし、そもそも日和は遠視なのでメガネがなくとも日常生活に支障はないから、無理に探す必要はない。それでも長く使っていて愛着があるそれを、できれば探しておきたかった。

(それに、失くしたなんて言ったら自分のお金で買いなおせって言われるしなぁ……)

 そんなことになったら、今年のお年玉はそれで消えてしまうだろう。お年玉に期待して我慢しているものがいくつもある思わず日和の眼球に力が入るが、かといってそれでよく見えるようになるわけではなかった。

 一通り、周囲の道上を注意しながら歩いてみたが、それらしきものは見つからなかった。落とした状況を考えれば、もしかすると道路脇に固まっている雪の下にあるかもしれない、とは思ったが、毛糸の手袋程度でそれを実行するわけにもいかない。

(……まあ、また放課後にでも来てみようかな)

 その時には雪も解けているだろう、と一旦立ち去ろうとした日和に、背後から声がかかった。

「おはようございます。……何か、お探し物ですか?」

「へっ?」

 思わず間の抜けた声で返事をして振り向くと、そこにはよく目にする顔が心配そうに日和を見下ろしていた。

「生徒会長――あ、おはようございます。ごきげんよう」

「はい、ごきげんよう」

 そう言って微笑むのは、日和の学校の生徒会長であり、クラスメイトでもある水無月雨みなづきあめだった。雨が羽織っているのはシンプルな茶色のコートだったが、元々の整った顔立ちには華美なコートよりもよく似合っていた。

「それで、何かお探し物ですか?」

「あ、ええ。ちょっとこの辺りで眼鏡を落としてしまって――」

「眼鏡? ……それってこれのことかしら?」

 そう言って、雨が胸ポケットから取り出したのは、見慣れた銀縁のフレーム――それは間違いなく、昨晩落としたものだった。

「あ、そ、それです!」

「そうですか、良かった。でもこれ、ひびが入っているようなんですけど、大丈夫かしら?」

 言われて確認すると、確かに片方のレンズには大きなひびが入っていて使い物にはなりそうにない。もう片方にも、小さいながらひびがいくつか入っている。

「あ、それはいいんです。ガラスレンズなので、落とした時点で諦めてましたから」

 その分フレームはレンズの数倍の価格だから、本当に見つかって良かったと、日和は心から安堵の息を吐いた。

「へえ……珍しいものを使っていらっしゃるのね」

 物珍しそうに眺め回した後、本来の持ち主を思い出したように、日和にそっと差し出す。普通の仕草であるにもかかわらず、どこか異質な雰囲気を纏っている。どこかの画家が、絵として描いてもおかしくない。

(流石に、全校生徒からの羨望を集めるだけあるわよね……)

 きっとこういう日常とはかけ離れた雰囲気が、人気の一つの理由なのだろう。日和は眼鏡を受け取りながら、人気の理由を実感する。

「ありがとうございました」

「いえいえ。それでは、少し急ぎますので、お先に」

「あ、はい。それでは」

 お辞儀をする日和に、にこやかに会釈を返すと雨は颯爽と雪道を去っていった。後ろ姿もまた、絵になる。

「やっぱりカッコいいなぁ……さてと」

 日和は電柱から鞄を回収すると、少し冷えてしまった身体を解すように、ゆっくりと学校に向けて歩き出した。



 三


 ――先入観は猫を殺す。あれ、違いましたっけ?


 ※


 日和が教室に着いたのは、HR開始の五分前だった。始業時間が近いこともあって、教室はクラスメイトで賑わっていた。

「おはよー」

「あ、日和。おはよう」

 クラスメイトに挨拶をしながら教室に入ると、日和は真っ直ぐ中央の自分の席に向かう。机の上に鞄を置くと、その中から昨日拾った生徒手帳を取り出し教卓へ。

 できれば、席の場所だけでも朝のうちに知っておきたかった。そうすれば、休み時間でも何でも、適当なタイミングで声をかけることができる。

 教卓の上に眼をやると、いつも通りビニールケースに入った座席表があった。日和はそれを手に取ると、手帳の名前と照らし合わせながら、持ち主の座席を確認する。

「えっと、円居、円居……っと、あった」

 座席表によると、円居空乃の席は窓際の最前列ということになっていた。そちらを見たが、その辺りに人の姿はない。どうやらまだ来ていないか、席を外しているようだった。

 挨拶までできると最高だったが仕方ない。最低限のことができたのでよし、ということにして、日和は座席表を教卓に戻すと自分の席に戻った。

 本来、手帳を返すだけなら席に置くだけでもよいのだが、助けてもらったのだし、できればきちんとお礼を言いたかった。

(それにしても――)

 日和は改めて、本人のいない空乃の席に視線を向ける。

 確かに最前列の隅は目立たない部類の席だった。だがそれは、皆の視線が集中する中央に比べればという話であり、配布物の始点・回収物の終点となる最前列の席は、自然と注目が集まるはずだった。少なくとも、そこに座っている人間の顔ぐらいは見たことがあって当然のはず。

 にも関わらず、日和はその人物の顔を見たことがない、というのはどういうことだろう。近くのクラスメイトにそれとなく聞いてみたが、やはり回答は日和と同じだった。

(まあ、でもそれも本人を見ればわかる、か)

 どんなに印象の薄い人間だろうとも、意識して姿を見ればそれなりに覚えられるものだ。

(さあ来い、早く来い!)

 空乃の席を凝視しながら、両手を合わせて祈りを捧げる日和。その姿はとても怪しく、やがてクラスメイトが彼女のことを噂にしようとする、その時、教室の扉が大きく開かれた。

「はーい、それではHRを始めますよ」

 しかし、日和の期待に反してやってきたのは担任の教師だった。

(あ、あれ?)

 空乃の席へと視線をやるが、やはりそこには誰もいない。首を傾げる日和を尻目に、HRは始まった。

 担任からの連絡事項を聞き流しながら、今日は欠席なのだろうか、と考える。だが、HRの後で担任に聞いてみたが、特に連絡は受けていないらしかった。

 ならば遅刻かとも思ったが、そのまま一時間目、二時間目と過ぎていく中で、一向に彼女が来る気配はない。やがて昼休みを迎えても、とうとう彼女が姿を現すことはなかった。

「……一体どういうことかしら」

 日和は弁当を食べ終えてから、改めて空乃の席まで行ってみた。しかしやはりそこに人のいる気配は無い。周囲のクラスメイトに聞いても、やはり今日は姿を見ていない、という。

(んー、おかしいなぁ……あれ? これって、こんなところにあったっけ?)

 聞き込みをしている最中、日和はあるものに気がついた。

 机の横、フックになっている場所に、誰かのものと思われる学校指定の鞄が掛けられている。鞄には名札代わりのタグがついていて、そこには『円居空乃』と名前がしっかり記載されていた。

「一体、いつの間に?」

 確かに朝は姿が見えないからいないと勝手に思い込んで、荷物までは確認をしなかった。

(さっちゃんに知られたら、大笑いされそうだなぁ)

 明日になればこれが最初から掛けられていたのか、それとも誰かによって掛けられたのかはわかるのだろうが、生憎そういう訳にもいかなかった。陽子の性格を考えると、絶対に今夜あたり確認の電話をかけてくるに決まっている。

(その時、調べそこなったなんてことになったら――)

 いい笑いの種になるどころか、彼女が飛び込んできかねない。そうならないよう、日和は次の手を打つべく手近なクラスメイトを呼び止めた。

「ねえ、うちのクラスでいつも早く来てる人って誰かな?」

 何人かのクラスメイトに聞いてみたが、皆『砂山すなやまさん』だと口を揃えた。その名前を聞いて、日和は顔をしかめた。

「砂山さん……かぁ」

 ちらりと教室の後ろに視線をやると、砂山瑞樹すなやまみずきは教室の最後尾に座り、いつものように本を読んでいるところだった。その脇には丁寧に包まれた弁当袋が置かれている。

 日和は瑞樹とはほとんど話したことがなかった。日中の殆どを自分の机から離れない彼女とはあまり接点がなく、また彼女が友達と話すときに聞こえるその冷ややかな口調はやや苦手な部類に入る。ただ、隣の席の生徒会長である雨とは仲がいいという噂を聞いたこともあった。

 大きく深呼吸して覚悟を決めてから、日和はゆっくりと彼女に近づく。と、瑞樹は本から顔を上げ、面倒臭そうな顔をしてみせた。

「何か用?」

 冷たい視線に萎縮しかけた日和だったが、何とか奮い立って声を出す。

「あ、あの、ちょっと聞きたいんだけどいい?」

「ええ、まあ。手短にね」

「あの砂山さんって、今日、一番に教室に来た?」

「いいえ。今日は二番目だったわ。……それが何か?」

 事前情報どおり、瑞樹は早くから教室に来ているようで、一安心。日和は続けて空乃のことを尋ねる。

「あ、えっと、何番目かは重要じゃなくって――その、円居さんって今日来てるかどうか知らない? 鞄はあるみたいなんだけど――」

 まるで自分にはそれが見えるというように、鞄を指出す日和の背に向けて、瑞樹は当たり前のように言った。

「……いるわよ? 自分の席に」

「えっ?」

 日和が驚いて再び空乃の席を見るが、やはりそこには誰もいない。

「誰もいないみたいだけど?」

「? そんな馬鹿な」

 瑞樹は一瞬怪訝そうな表情を浮かべ、空乃の席へ視線をやり――やがて何かを理解したように小さく頷いた。

「なるほど、前々から気になっていたのだけど、そういうことだったのね。――彼女が聞いたら喜びそうなネタだわ」

「ネタ?」

 首を傾げる日和に対し、瑞樹は自嘲気味に目を伏せて首を振った。

「ごめんなさい、今のは何でもないわ。でも、円居さんが自分の席にいるのは本当よ」

「でも……わたしには何も見えないんだけど」

 改めて席を見てみるが、間違いなくそこには誰も見えない。

「何と言ったらいいのかしらね……例えばだけど、あなたは霊を信じる?」

「霊? 一体何の話を――」

「いいから。信じる? 信じない?」

「……いたら面白いかも、とは思うけど」

 日和が勢いに押されてしぶしぶ答えると、瑞樹は頷く。

「じゃあ、今ここに霊がいると言ったら信じる?」

 瑞樹は自分の頭の上を指差す。当然、そこには何も見えない。

「信じられないよ、だって――」

「そこに何も見えないから?」

 こくりと日和は頷き、そうでしょうね、と瑞樹は少し寂しそうな笑みを浮かべる。

「……それが悪いことなの?」

「いいえ、それが普通の反応だと思うわ。わたしだって、見えてなければ信じていないと思うもの」

 そう言って、瑞樹は真っ直ぐに日和を見据える。その眼は、決して自分をからかっていたり、嘘を言っているようなものではなかった。

「とにかくわたしに言えるのは――今日一番に来たのは円居さんであることと、それから今まで、彼女はずっと自分の席にいること」

 瑞樹が言う、彼女がそこにいるという証拠は、あの掛けられた鞄だけ。それ以外の証拠は、空乃がそこにいないということを示している。

「……わかった、信じるよ。あなたを」

 だがそれでも、日和は瑞樹を信じようと思った。その眼は嘘を言っているそれではないと確信できたし、それに信じてもらえなかったときの辛さは日和にはよくわかる。

 予想外だったのか、瑞樹は思わず日和の顔を凝視し、ふっと笑みを浮かべる。

「……そう言ったのは、あなたで二人目よ」

「一人目が誰なのかにも興味はあるけど――あなたの言葉を信じるわたしとしては、一体どうすれば円居さんを見ることができるのかしら?」

「……そうね」

 瑞樹は少し考えた後、時計を指差した。

「今日の黄昏時にもう一度試してみなさい。あと、できればその眼鏡は外した方がいいかもしれないわ」

「黄昏時? 眼鏡?」

 黄昏時が夕方のことなのだということには思い当たった。確かに夕方にそういった現象に遭遇しやすいというのは、よくある話なのでなんとなく理解できなくもないが、眼鏡に至っては全く理由がわからない。

「黄昏時はあちらとこちらの境界を曖昧になる時間だから、もしかしたら彼女がそういう類のであれば見えるようになるかもしれない。あと、眼鏡は……まあ、おまじないみたいなものね。余計なものを挟まないほうがいい、とはよく言われるけど」

「なんだかわかったようなわからないような……」

「まあ、それでも見えるかどうかは五分五分って所ね。あとはあなたの運次第。……あ、悪いわね、そろそろいいかしら? これから少し行く所があるの」

 時計を見て、瑞樹が慌てたように言う。次の始業ベルまでそれほど時間がないので、トイレか何かだろうか。気にはなったが、そこまで詮索するのもどうかと思い、日和は行き先までは追求しなかった。

「え、あ、うん。……ごめんね、拘束しちゃって」

「いいえ。それなりに有意義だったわ。上手く行くよう、祈ってるわ。……それじゃ」

 瑞樹はそう言うと、教室の外へと出て行った。

 日和はもう一度、空乃の席を振り返る。確かにそこには人の姿は見えないが、学校指定の鞄はしっかり駆けられている。

(あれ?)

 何となく、先ほど見た時より鞄の中身が膨れているような気がした。



 日和が掃除当番を終えて教室に戻ってくると、ちょうど具合良くあたり一面が夕日の色に染まっていた。まだ十六時前ではあったが、日はすっかり山麓の向こうに沈みかけている。

「うん、タイミングとしてはバッチリかな。さて、彼女の言ったことが本当なら、今なら見えるかもしれないんだけど――」

 日和は期待にに胸を膨らませながら視線を彼女の席にやる。だが、やはり昼間と変わらず、そこに人の姿は見えなかった。念のため確認すると、鞄は昼と同じく掛かってはいる。

 やはり砂山さんに担がれたのではないだろうか。本当は普段からそこには鞄がかけられていて、今日のところは円居空乃という生徒は休みだったのではないか――ふと、そんな考えが頭を過ぎる。

 その時、地平線の向こうに沈みかけたオレンジ色の光が、日和の目に入った。思わず眼鏡を外して目を押さえるが、ピリッとした痛みと共に、ぼんやりとした円がまぶたの裏に焼きつく。

「いたたたた……」

 焼きついた円が薄れるのを待って、日和はゆっくり目を開ける。視界は少しぼやけ、チカチカするが、強い痛みは感じられない。むしろ、何となく視界が鮮明に見えるようになった気がした。

(……そういえば、眼鏡を外したらどうとか言ってたっけ)

 日和は外した眼鏡を折り畳んで胸ポケットに納めつつ、そのままゆっくりと空乃の席へと顔を向けた。

「え、っ?」

 日和は思わず眼鏡を落としそうになった。

 さっきまで誰もいなかったはずの席に、短髪の小柄な少女が座っていた。その場で何度瞬きしてみても、目を擦ってみても、彼女は変わらずそこにいた。頬をつねるがしっかり痛い。どうやら白昼夢を見ているようでもなさそうだった。

 日和はいそいで鞄の中から生徒手帳を取り出しながら、少女の席へと近づいていく。

「円居空乃……さん?」

 やや薄い銀色の髪が、オレンジ色の光を受けて優しく耀いている。日和がその名前を口にすると、彼女は酷く驚いた様子で日和をまじまじと見つめた。

「……あなた、私が見えるの?」




 四


 ――本当に驚いた。何せ、他人と話したのは本当に久しぶりだったから。


 ※


「見えるもなにも――ちゃんと声も聞こえるわ。少なくとも今は」

「本当? では、これは何本に見える?」

 そう言って、空乃は右手の指を三本立ててみせる。

「三本」

「じゃあ、これは――」

「そんなことより」

 続いて指を立てようとする仕草を遮るようにして、日和は鞄に入れていた生徒手帳をそっと差し出した。

「これ、あなたのでしょう?」

 差し出された生徒手帳を見て、空乃は自らの胸ポケットを探る。その後は机の中や鞄の中まで探している。どうやら手帳がないことに気づいていなかったようだった。確かに学生割引を使うか身分証の提示を求められない限りは生徒手帳など使う機会はほとんどない。

「どうやらそうみたい。……ありがとう」

 日和の手から手帳を受け取り、空乃は小さく一礼する。

「どういたしまして。……でも、それでもお礼を言うのはこちらよ?」

「……どうして?」

 空乃は不思議そうに日和を見つめる。

「この手帳ね、昨日の夜、路地で拾ったの。……あの時、昨日わたしを助けてくれたのはあなたでしょう?」

 空乃は何かを思い出したように、小さく手を打った。

「ああ、あの時のこと。……そして、あの時のことなら礼には及ばない。私はもうダメだと思ってあきらめたから、『獣』の殲滅を優先しただけ」

「それでも結果としてわたしは助かった。だからお礼を言わせて? ……ありがとう」

 そう言って、もう一度頭を下げる日和を、きょとんとして空乃はじっと見ていた。

「……あなたは変わった人ね」

 その言葉に、どくんと胸が脈打つ。また発作かと思ったが、その兆候は不思議とそれで収まった。

「そ、そう? わたしは普通だと思っているけど……」

 不思議にな感覚に戸惑いながら、日和は反論する。そもそも大した特徴を持たないことに劣等感を感じるほどには、日和は自分のことを没個性だと思っていた。

「そんなことはない。きちんと礼を言うのは難しいことだから。……あなたはもっと自分に自信を持つべき」

 褒められているとわかるからだろうか、襲ってくるかと思われた発作は、すっかりなりをおさめていた。

「ありがとう。あ、わたしは雲井日和っていうの。よろしく」

「私は円居空乃。こちらこそよろしく」

 日和の差し出した手を、空乃はその白い手が触れる。驚くほどその手は冷たく、最初は緩く、そして何かを確認するかのように、次第に握手とは思えないほど強く握り締めてくる。

「ちょっ、空乃、痛いよ」

「あっ」

 日和の叫びを聞いて、慌てて空乃は手を離す。その手は赤くなっていた。

「ごめんなさい。……久しぶりに他人に触れたから、つい」

 眼を伏せ、空乃は謝罪する。

「久しぶり?」

「私はこれまで、誰からも認識されないで過ごしてきたから」

「ああそっか……そうだよね」

 日和はどうして空乃が強く触れてきたのか、何となく理解した。見てもらえないということは、触ることもできないということ。そんな彼女の苦しみに比べれば、握られる痛みなど、ちっぽけなものだろう。

 申し訳なさそうに俯く空乃の顔の前に、日和はもう一度自分の手を差し出す。

「それは?」

 空乃は不思議そうな目で、日和を見上げる。

「いや、もう一回触るかなと思って」

「…………いいの?」

 それはまるでお預けされた子供のようだった。日和は微笑みながら、こくりと頷く。

「痛くしないなら、いいわよ」

「わかった、約束する」

 空乃は頷き、再び日和の手に触れる。空乃の冷たい手が自分の手を這い回る感覚が少しこそばゆい。

「やはり他人の手は、温かい。どうもありがとう。……代わりと言っては何だけど、私に何かできることはあるかな」

「そうねえ……それじゃ、一つだけ聞いてもいいかしら?」

「ええ。私に答えられることなら」

「わたしが襲われたあれは一体何なの?」

 姿の見えない、自分を壁にまで弾き飛ばすほどの力を持った、『何か』。それが町中にいるのだとしたら、大問題である。

「それは――」

 空乃は腕を組み、口を濁らせる。

「もしかして、話せない出来事?」

「いや、そういう訳じゃない。ただ、どう説明したらいいかなと思って。……そうね」

 空乃は少しだけ考えた後、ペンと紙を取りだして何かを書き始める。傍目から見ていた日和には、何かの地図のように見えた。

 やがて描き上がったそれを、空乃は日和に差ししたす。

「明日、今日と同じ時間にここに来て。そこで今の疑問に答える」

「ここって――学校近くの公園?」

 その公園には何度も遊びに行ったことがある。巨大な遊具はほとんどなく、代わりに駆けっこをして遊ぶ子供の姿を良く目にする。

「そう。場所がわかるのなら話は早い」

「でもどうして、そこで?」

「今日はもうすぐ夜だから。それに、実際に見てもらった方がきっと早いだろう、と思ったから」

「なるほど」

 言われてみれば、もう太陽は稜線の向こうに沈みかけていた。あれほどはっきりとした橙色の光も、今や辛うじて顔を出しているいる一部分からの光だけだった。

「わかったわ。それじゃ、明日を楽しみに――あ、あれ?」

 いつの間にか、空乃の姿はそこにはなかった。辺りを見回してみるが、教室には誰もいない。それどころか、机に掛けられていた鞄すらもなくなっていた。

「夢じゃ……ない、よね?」

 それを肯定するように、日和の手には空乃が先ほど描いていた地図がしっかりと握り締められていた。



 五


 ――それは、本当に獣のようでした。


 ※


 約束の時刻――と言っても正確な時間を指定されたわけではなかったので、いつも通りに掃除が終えてから、日和は指定された公園へと向かった。

 公園にはシーソーにブランコ、鉄棒にジャングルジムと一般的な遊具は一通り揃っているが、滑り台等の大きな遊具はない。それ以外の場所にはいくつかベンチがある以外には空き面積は平地か草むらになっている。

「どこにいるのかな……」

 日和が周囲を見渡すと、空乃は公園の入り口の反対側に置かれたベンチに座っているのが見えた。特にコートなどは纏っておらず、首元にマフラーをしているだけ。寒がりな日和から見ると、明らかに寒そうな格好だった。

「……来たのね」

 日和に気づいた空乃は、ゆっくりと立ち上がる。その手には、布袋に包まれた棒状のものが握られていた。

「そりゃ来るわよ、あんな消え方されちゃ」

「そうか。……そうかもね」

 空乃は顎に手を当てて、小さく頷く。

「ところで――それは?」

 日和は、空乃の持っていた布袋を指差した。

「これ? ……これは」

 そう言うと、空乃は持っていた細長い布袋から、その中身を取り出す。

「え!?」

 それはまごうことなき日本刀だった。歴史の教科書や時代劇で見たことのある程度だったが、その独特の形状は一目するだけで理解できる。

「そ、それで、何をしようって?」

「大丈夫、安心して。これはただの武器。――あなたに見せたいものは、すぐに来る。日和は、そこで見ていて」

 そう言うと、空乃は刀を腰元で構え、じっと周囲に気を配る。いつの間にか、空気がすっかり張り詰めていた。ごくり、とつばを呑み込む音が自然と大きく聞こえる。

「……来た」

 空乃がそう呟いた瞬間、何かが二人の間を通り抜けた。少し遅れて強烈な風が吹き、空乃のマフラーが風に揺れてなびく。

「……な、何今の?」

「今のが、『獣』。……私の敵」

 そう言って、空乃は風が吹き去った方向に向き直る。

「何……あれ」

 そこにいたのは、犬、というより狼のような存在だった。狼といっても図鑑で見るような姿より一回りほど大きく、黒く濁ったその瞳からは敵意だけしか感じられない。

「日和は下がって」

「わ、わかったわ」

 日和は言われた通り後ろに下がり、逆に空乃が一歩前へ出る。

「さあ、来なさい」

 空乃が挑発すると、唸り声を上げて『狼』は勢い良く飛び掛ってきた。空乃はそれをステップを踏んでかわす。

「ふっ!」

 振り向きざまに刀を振るうが、そこにはもう『獣』はいない。そのさらに背後に回った獣が、鋭い爪を閃かせる。

 三本の鋭い爪が、地面を抉る。その前に、空乃は跳躍して宙に逃れていた。

(あ、あれが、わたしを襲ったもの……)

 地面に残った跡を見て、日和は思わず息を飲む。

 その後も何度となく『獣』が日和に襲い掛かるが、その攻撃をことごとく空乃は避け続ける。

「さっきから攻撃してないけど、大丈夫なの?」

「大丈夫、敵の動きはもう見切った。……そろそろ終わらせる」

 そう呟くと、空乃が動いた。『獣』の爪をすんでのところで回避して、さらに一歩踏み込む。爪が地面に幾度目かの傷を刻んだ後、これまでより僅かに増えた隙に刃を叩き込む。

 踏み込みから、流れるような動き。日和に見えたのはそこまで。気づいたときには、『獣』の身体は真っ二つになっていた。音を立てて地面に倒れた『獣』はしばらく身体を痙攣させた後、動かなくなった。

「ふぅ」

「終わった……の?」

 空乃は息を吐き刀を鞘に納めると日和に向き直る。

「『獣』は基本的に一日一体しか出てこないから、今日はこれで終わり」

「……一体、あれは何なの?」

 わからない、と空乃は首を振る。

「私は気づいたときには『獣』に襲われていたから。私に敵意を持って襲い掛かってくること位しかわからない。……そんなことより――これでわかったでしょう?」

「え、一体何が?」

「私には関わらない方がいいということ。……今日ここに呼び出したのは、それを伝えるため。あれを見て?」

 そう言って、空乃は無数に残る爪跡を指差す。軽々と地面をえぐる一撃をまともに喰らったらどうなるかは想像に難くない。

「私に関われば、いつあんなふうになるかわからない。現に、こうして知り合う前ですらあなたは襲われた。私と関わりを持てばどうなるか――」

 空乃の声を聞きながら、日和は違和感を感じていた。その言葉は確かに拒絶を示しているが――

「……どうして、そんなに哀しそうな目をしているの?」

「?!」

 まるで、何かにすがるような視線。それは、まるでかつての自分に似ていた。

「わたし、そんな目をした人を放ってなんておけないよ」

「どうして!? 命は惜しくないの?」

「もちろん命は大切よ。……でも」

 日和はそっと空乃の手を取る。相変わらずその手はひどく冷たい。

「こんなに手を冷たくして頑張る人を放って置くほど、わたしは冷たい人間じゃないから」

 空乃は驚いたように日和を見上げる。その目は、小さく揺れていた。

「……正気?」

「もちろん。……ね、もし良かったら友達にならない?」

「友達?」

「そう、友達。あ、ちょっと待ってね」

 日和は手帳を取り出すと、そこに何かを書いて、空乃に手渡した。

「……これは?」

「わたしの電話番号とメールアドレス。気が向いたらメールして?」

 空乃はまじまじとそれを見つめた後、

「本当に、あなたは変わった人ね」

 そう言って、少しだけ笑った。初めて見た空乃の笑顔のせいか、不思議と発作は起きなかった。



「あー、今日も疲れた」

 風呂から出た日和は、湿った髪もそのままにベッドへ横たわる。ここ数日であったことが多すぎて頭がパンクしそうだった。

 勉強に、日常に、そして空乃のこと。

(そういえばいいとも悪いとも言わなかったけど、結局どっちなのかな)

 あの後、空乃は用事があると言って去って行ったので、返事は聞いていなかった。まあ、明日聞けばいいかと眼を閉じたその時、携帯電話がメールの着信を告げた。

 陽子からかと思い端末を開いた日和は、その差出人名を見て嬉しそうに笑みを浮かべた。本文に書いてあったのはたった一言。

『空乃です。見えますか?』

 さてなんと返信しよう。さっきまで眠かったのも忘れ、日和は思考を巡らせはじめた。

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