7.99999...

 私は寝ている。

 正確に言うと横になってはいるが眼は醒めている。

 部屋のエアコンはここ数日沈黙したきりだ。冷房の不可欠な季節は終わりを告げていた。

 繭のように蒲団を被って丸くなっていると、世間から隔絶かくぜつされたような感じがして、快さと不安が交互に肌身に染みてくる。孤独は快いが真の孤独は寂しい。その相違は些細だが歴然だ。

 人が憧れる孤独は、所詮周囲の人々からの孤立程度のものだ。世界に自分独りしかいない、永遠の孤独に人は耐えられない。

 喜びや悲しみを語り合える同族がいないという意味ではどちらも同じだが、内実は全然違う。

 胃のが豪快に鳴った。

 空腹も一緒だ。食糧の蓄えがあるという前提の空腹と、一文無しで食糧も底を突いた状況での空腹は、深刻さがまるで違う。後者のプレッシャーは押し潰されたら一溜ひとたまりもない。

 何か聞こえる。

 腹時計とは異なる物音に、蒲団に潜ったまま耳を澄ませる。

 テレビの音声だ。

 珍しくテレビの電源が入っていた。入っていたからには入れた人間がいる。とすれば私以外にテレビをつける者はいないのだが、とんと記憶にない。その辺に落ちていたリモコンをうっかり押したか何かしたのだろうか。

 訪れる者もない独居者のワンルーム。本来なら寂しさを覚えるべきなのだろうが、未だ心地好さのほうが強い。

 他人は苦痛だ。

 他人は私に痛みしかもたらさない。

 人と関わるとろくなことがない。関わりを避ければ、悪徳業者にそそのかされることもないし、同僚の下らない会話に付き合わされることもない。

 他人は無用だ。

 他人がいなければ、己の失敗や痴態に恥じらうこともない。羞恥は他者との関わりから生まれる。

 ……まだ寝ていよう。

 どうせ今日は買う物もないし。

 テレビの音が大きくなった気がして、蒲団を持ち上げ、横に傾いた画面を下から見上げてみる。

 去年辺りからよく見るようになった、過払い金に関するテレビCMが流れていた。借入れと返済を繰り返しているうちに、いつの間にか過払い金が発生しているケースがあるのだという。この法律事務所に依頼すれば、それを調査して過払い金の返還請求を代行してくれるのだ。それだけカードローンの借入れが当たり前になったということか。

 また訴訟か。

 ここでも訴訟なのか。

 簡裁の開廷表に並んだ原告名と被告名。あれは正しく〈訴えたもん勝ち〉の世界だ。被告なんてごく一部の例外を除けば、大方が泣き寝入りなのだ。訴訟費用を加味してもそのほうが得だ。勝訴すればその費用も被告負担となるのだ。

 一昔前に比べると、仕事難にあえいでいる弁護士も少なくないと聞いた。法科大学院は明らかに失敗例だろう。

 一方で求償金や過払い金関連の訴訟は増え続けている。今後も減ることはなさそうだ。高利貸しほど旨味うまみのある商売はない。私だってそれだけの元手があれば手を染めていたかもしれない。

 凡ては対人間の契約に由来するのだ。

 売買のような典型例はまだしも、相続のように死んでもなお、周りの者たちにプラスやマイナスの影響を与えたりもするのだ。

 死してもなお……。

 私は死んだようにまぶたを閉ざした。眼を開けても蒲団の中だ、暗くて何も見えない。見ても見なくても暗闇に変わりはない。ならば私は自発的に眼を閉じるほうを選ぶ。積極的に世界との関係を絶つほうを選ぶ。

 そのほうが気が楽だからだ。


 ゴトリ。

 郵便受けに何かが落ちる音。

 私は瞼を開きかけ、そして諦めたように再び閉じた。

 全き闇の中、物音の正体について考える。光が潰えた分、思考は鮮明になる。

 今度は何だ?

 またか?

 また訴状か?

 また訴えられたのか。

 だが私の脳裏に浮かぶのは裁判所の粛然たる法廷ではなく、同僚の下卑た薄嗤い。

 私は……ああ何故だろう。

 もう二度と行くことがないはずの、裁判所のあの澄んだ空気に、私は愛おしささえ感じていた。

 ……いや、行かないからこそか。

 それが訴状であることを祈りつつ、私は世界の凡てと関係を絶つべく眠りに落ちた。

                                (了)

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裁判へ行こう! 空っ手 @discordance

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