VP1『いつかきっと会えるから。』
Project.森内
『いつかきっと会えるから。』
小鳥の歌。
朝霞の摩天楼。
湯気上げるコーヒー。
――マンハッタンの朝。
『いつかきっと会えるから。』 著:森内まさる
序章 ヴァーミリオン・プレス
その日。ハドソン川の縁沿いにある小さな雑誌社「ヴァーミリオン・プレス」は、朝から蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。
今までお料理コラムしか書いたことのないような新人記者も容赦なく各方面への取材に駆り出され、編集長に至ってはその姿を見ることさえ難しい。
「ザック! 暇か? 暇だな。ちょっと来い!」
本人の了承を得ずに、社会部のデスクが強引に呼びつける。対象は実戦経験の乏しい新人だ。ザックは上擦った声で返事をすると、緊張した足取りでデスク席に近づいた。
***
「事件」が発覚したのは昨日の深夜だった。
この街は、歪んだ体制のもとに今の繁栄がある。歪んだ、といっても政治の腐敗などという生易しいものではない。裏社会、闇市場、いろいろ呼び方はあるが、そういった犯罪組織……いわゆる「マフィア」が取り仕切り、光と影を内在した都市。いや、魔都といった方が良いだろうか。それがこの街、マンハッタンの真実だ。
古くから根付いているマフィアの影響力は計り知れず、特に巨大な二組織に至っては、ほぼ市政の二大政党といっても過言ではない。もはや表の世界の政治家は傀儡に過ぎないのだ。
この光と影の魔都で、人々は仮初めの富を享受していた――そう、昨日までは。
***
本日未明、街を支える巨大マフィアの一つ「
「本当にログローシノは何も関係無いんでしょうか?」
取材の準備を進めながら、ザックは先輩である記者――ルッカに尋ねた。
「キミは三ヶ月の間、何を研修してきたのかな……。絶対一枚以上噛んでるわよ、奴ら」
ログローシノと金石。マンハッタンを覆う二つの大きな影。ここ数年に起きた不可解な事件は、ほとんどこの二つが絡んでいると見ていい。そんな事件を数多く、ヴァーミリオン・プレスは記事にしてきた。
(やっぱり……デカい事件だよな。でも、僕は……)
カメラを放り込んだカバンを手に取り、編集室の出口に向かう。
「シャキッとしなよ! 被害女性に話聞きに行くんでしょ? 任された仕事は、最後まできっちりね」
両肩にバシッと活を入れられ、ザックはプレス社屋を後にした。
***
やはり自分はまだまだ新人なのだ。ザックはひしひしと感じていた。
今回の取材は、金石の事務所爆破に巻き込まれた女性に話を聞くことだ。爆破事件そのものの取材には参加させてもらえなかった。
街を揺るがす大事件が起きているのに、自分は何をしているのだ。一体、何のために記者を目指してヴァーミリオン・プレスに入社したのだ。
煮え切らない思いのまま、ザックは目的の病室に辿り着いた。
「失礼します。ヴァーミリオン・プレスの者です」
病室は個室だった。それほど大きな怪我とは聞いてないが……お金持ちなのだろうか。
扉を開け、中に入る。ザックは風を感じた。正面の窓が開け放たれていて、そこから心地よい風が入ってくる。その窓とザックの間に、彼女は半身を横たえていた。
「お待ちしておりました。ヴィオラといいます。今日はよろしくお願いしますね」
そう言って彼女は笑った。
ベッドから体を起こしたヴィオラは、肩ぐらいまでの明るい紫の髪を風に揺らしながら、まっすぐとザックを見据えている。吸い込まれそうな瞳だ。気品と、どこか強さを秘めている。
ヴィオラの体は病院支給の薄青い衣服で包まれていたが、肌が見えるであろう部分はほとんど包帯や絆創膏が痛々しく貼られていた。
風に乗って、彼女の匂いも運ばれてきた。視界が狭くなって、頭が漂白されそうになる。
何も言わずに突っ立っているザックを不審に思ったのか、ヴィオラは困り顔で首をかしげた。そこでハッと我に返る。
「は、初めまして。ヴァーミリオン・プレスのアイザック=マクスウェルです」
慌てて挨拶を返すと、ヴィオラはまた微笑む。染み渡るような笑顔だ。
落ちてしまった、恋に。完全に一目惚れだ。
第一章 溜息の訳
「で、結局こっちの取材は打ち切りになっちゃったワケ。やってらんないよもー」
言いつつ、グイッと酒の入ったグラスを傾けるルッカ。向かいに座るザックは下戸なため、ただ見ているしかない。そんな大衆酒場の一席。
ルッカたち――いわゆるベテランとして戦力に数えられる記者たちは、そのほとんどが
「先輩がログローシノ一家に深入りしすぎたせいなんじゃないですか? 相変わらずの向こう見ずなんだから……」
慣れない箸に格闘しながら、さらりと毒を吐くザック。
「うっ……キミは時々、手厳しいよね。いやでも今回は私のせいだけじゃないんだって」
ルッカは日頃から、その常人離れした好奇心と己の欲望を満たす行動力で、かなり強引な取材をすることがある。ヴァーミリオン・プレスにとっては優秀な記者であると同時に、問題児でもあった。
ただ、今回の打ち切りについては、どうやら警察の介入があったらしい。ルッカが言うには、介入を未然に防げなかったプレスの法務部が悪いという話だ。
「寄りによってアイツが出てくるなんて……まぁ確かに私もちょっと派手に追及したかもだけどさぁ。いつもならあんな程度じゃ警察は出張ってこないのよねぇ……ふむ、あやしい」
ルッカの目が獲物を狙う野獣のソレになった。きっと彼女の頭の中では、ニューヨーク市警まで絡んだ一大陰謀疑惑が湧き始めているのだろう。いきなり立ち上がって近所の交番に突入取材しなきゃいいが。
考え込んだままのルッカの代わりに、運ばれてきた料理を受け取る。湯気を上げる中華料理を見ていると、ザックもいつの間にか今回の事件について考えていた。主にヴィオラのことであるのは言うに及ばない。
「おい、ザック! 聞いてんのか!」
「どわっ!?」
いきなり現実に引き戻される。ヴィオラの顔を思い出していたはずが、いつの間にか視界は短い金髪の幼な顔で一杯である。
「そっちの取材はどうなったかって聞いてんの。金石の事務所が爆破されたとき、近くにいて巻き込まれた女の子だっけか」
間近に迫ったルッカの顔を押し戻す。ちょっと酔い回ってきてるな、この人。
「女の子、といっても僕より年上ですけどね。二十一、二くらいだったかと」
さらに年上のルッカ先輩よりも、彼女の方が大人に見えます……との一言はコーラと共に飲み込んだ。
正直、報告できる内容は無かった。ヴィオラは当たり障りの無いことしか話さなかったし、単に金石崩壊事件に不運にも巻き込まれた被害者にしか見えなかった。負った火傷も、見た目の包帯の派手さに比べて浅いモノらしい。
まぁ彼女に恋してしまったことの方が、ザックにとっては大事件なのだが……もしそんなことを目の前のスクープハンターに漏らしてしまったら、明日の三面記事に立派に仕立て上げられかねない。いや、絶対にやる。この人はそういう人だ。
「今んトコ取材が生きてるのは、キミがやってるような直接関係の無い件ばっかだね。どう? 取材対象とは仲良くなれた?」
まずは取材対象と仲良くなる。研修時代にルッカから教わったアドバイスの一つだ。
「そうですね。向こうはなかなか社交的で、年齢も近いんで話は弾みましたよ。最後はお互い呼び捨てでしたし」
結局箸を使うことは諦め、スプーンで豆腐を掬う。
「わお。そこまでやるとは思ってなかったよ。やるじゃん」
ヴィオラは最初こそ丁寧な言葉遣いで応答していたが、ザックが一歳年下と分かると段々と砕けた喋り方になり、後半は完全に彼女が話をリードしていた。きっと生まれつきのモノなのだろう。人と話すのが好きという。
「でも……ヴィオラさん、なんだか元気がなかったんですよね」
酒場の喧騒に紛れて聞こえない程度の呟きだった。が、ルッカはしっかりと拾ったようだ。人間ガンマイクか……。
「そりゃそうでしょ。事件に巻き込まれて入院してるんだから」
いや、そうではないのだ。
基本的に話している間は、爆破事件に巻き込まれたとは思えないくらいに明るく元気だった。ただ、話と話の間、ザックから目を逸らす一瞬の間に、心の奥から漏れ出たような深い溜息を吐くのだ。
「なんで溜息を吐くのか、って……自分のことじゃないと、皆目見当もつきませんよね」
俯き加減で呟いたせいか、今度はルッカの反応が無かった。
ふと顔を上げると、自分よりも幼く見える先輩は、すっかり眠ってしまっていた。よくこんなうるさい店で寝られるなぁ……。
とりあえず適当に揺さぶって起こした。
「いつでもどこでも眠れるっていうのは! 一流の記者には必須の能力なの! アビリティなの!」
ばつが悪そうに弁解するルッカをよそに、残ったコーラを片付ける。
「ていうかキミ、マーボーにコーラってどうよ」
「僕には中華にワインを合わせる先輩が信じられません」
「キミ、お料理コラムはまだ早いね」
そんな問答をしながら、ザックたちは店を出、それぞれの帰路へ着いた。
***
警察に睨まれている以上、正攻法で取材を押し通す記者がいる訳もなく(一名、それに該当しない人物はいるが)、対策が完璧に練られるまで、金石取材班は二日目から実質待機となった。他の仕事に回さなかったのは、すぐに復帰できるようにとの編集長の采配だ。実際、何人かの腕の立つ記者は水面下で動いているようだった。
そんな中、ザックは意気揚々と病院へ足を運んだ。正直、ヴィオラへの取材は最初の一日で充分だった。そもそも最初の日も半分は雑談だったようなモノだ。それでも、ヴィオラに会えるという、ただそれだけのことが、ザックには堪らなく嬉しかった。大した記事にならないとしても、取材を通してヴィオラの人となりをもっと知りたいと思った。
「あら、また来てくれたのね。おはようザック」
彼女と出会って、まだ一週間と経っていない。
「うん、おはようヴィオラ。結構包帯が取れてきたね。怪我はもう大丈夫?」
誰かがヴィオラにお見舞いとして持ってきたフルーツバスケットのリンゴを剥きながら訊く。話し上手で話し好きな彼女だったが、意外と自分のことはあまり話さなかった。
「ええ。元々そんなに大した怪我じゃなかったから……きっと、お父様がお医者様に言ったのね。もう」
話の端々や見舞い品から、彼女の育ちが良いことは垣間見えた。それでいて鼻に掛からない、自然な気品を持っている。それに彼女はリンゴが好きなようで、その理由は「夕陽に似ているから」という。それはきっと夕陽そのものが好きということなのだろう。
リンゴを剥き終え、切ろうか
「ザック? 固まっちゃってどうしたの? 私、またあなたのうさぎが見たいわ」
ザックが見舞い品のリンゴをヴィオラのために切るようになって、初めて作ったのがうさぎリンゴだった。ヴィオラはそれを生まれて初めて見たようで、子供のように目を輝かせていたのを憶えている。彼女が物心ついた頃には既に母親がいなかったことも、その時に聞いた。ザックが記者でありながら、強く踏み込めないのはそのせいもあった。
記者は嫌われる生き物である。訊かれたくないことを訊く。見られたくない物を見る。触れられたくない部分に触れる。
ヴィオラに嫌われたくない。ザックは彼女自身について深く訊くことも、溜息の訳を訊くことも出来ないでいた。
「ああ……うさぎだね。すぐに作るよ」
彼女の溜息は決してベッドの上の退屈さから来るものではない。何年も積み重ねた憂いと、それに対する諦め、しかし諦め切れないでいる――そんなよく分からないモノが混在して、彼女の口から漏れ出しているようだった。少なくともザックはそう感じた。
そしてきっと、その訳を訊いたところで、自分にはどうすることも出来ないのだろう。それぐらいは分かっている。だが――もしも取材という出会いではなく、別の形でヴィオラと出会っていたら……。昔からの知り合いであったり、それこそ家族などであったりしたら、彼女の背負っている荷物を軽く出来たのだろうか。こんな形の出会いでなかったら、いずれ来るであろう別れの日も無いのだろうか。
「はい。おまちどうさま。ねぇ、ヴィオラ――」
仮定の話など、答えは出ない。一緒に鞄を持てなくても、それでも彼女の力になりたい。たとえ僅かであっても支えたい。
ザックの中のその想いだけは、ハッキリとしていた。
「退院したら、夕陽を見に行こうか」
第二章 背負えぬ鞄
マンハッタン島。ニューヨーク市警第五分署、マフィア対策本部。
「我々市警をここまで抑えるとはな。これもこの街の因果か……レミィ! 今現在、動ける班はいくつある!」
スーツをビチッと着こなした精悍な雰囲気の青年の指示に、レミィと呼ばれた婦警服姿の女性が答える。
「B班からD班、そしてこのG班です」
「たった四班か……厳しいな」
明かりを最小限まで落とした広い会議室に、人影はたったの数人。これがこの街の「マフィア対策本部」である。正直に言って、機能しているとは言い難い。
ほんの二週間前まではこうではなかった。マフィアに牛耳られている街であるとはいえ、「対策」と銘打つ機関だ。それなりに優秀なスタッフも大勢揃っていた。
「明らかに圧力掛かっていますね。こんなの絶対おかしいです」
金石崩壊の直前だ。異例の人事異動やら何やらが相次ぎ、対策本部を構成する十数の班、そのほとんどがまともに動けなくなった。もしかしなくてもログローシノだ。
「どうしますか、エヴァンス捜査官。白旗でも作りましょうか」
レミィが鉄面皮のまま笑えないジョークをかます。暗い部屋には苦笑いの一つも湧かなかった。
「我々に課せられた使命は真相を究明することだ。白旗作りを始めるには、その仕事を終わらせてからにしよう。まずは……アイザック=マクスウェル、か」
そう言って鉛色のコートを羽織ると、ニューヨーク市警マフィア対策本部G班班長アラン=エヴァンス捜査官は会議室から出ていった。
***
同日。マンハッタン島、タイムズスクエア。
退院後、初めて会うヴィオラは余所行きの服を身に纏い、全くの別人であるかに見えた。それでも、ザックはストリートの人ごみの中から、綺麗な白のワンピースを着た彼女を迷わず見つけ出した。
「ごめんヴィオラ。待った?」
思わず、そんな常套句が口から飛び出す。
「ううん。いま来たとこ」
意識したのかしてないのか、お約束のようなセリフで合わせてくる。
今日は待ちに待った約束の日――ヴィオラと夕陽を見に行く日だ。しかしただ夕陽を見るだけというのはさすがに淋しいので、何処か他に行きたい所は無いかと尋ねてみたら、それはそれは事細かにプランを立ててきた。
「ごめんなさい、ザック。結局あなたの時間を多く使うことになって……」
そんなことは問題ない。そもそも今日も取材の一環である位置付けだ。まぁさすがに夕陽の約束がランチから半日間の約束になるとは思わなかったが。
「気にしなくていいよ。僕も楽しみにしてたから」
ザックが歩き出すと、ヴィオラは少し小走りになって肩を並べた。
「あ、速い?」
小柄な彼女は少しでも離れると人の波に押し流されてしまいそうだ。慣れないながらも、女の子の歩調に合わせる……いや、それにしても未だ危うい。
すると、ヴィオラは唐突にザックの左手を握ってきた。
「これなら、はぐれないよね」
手を繋いだまま、また歩き出す。
これじゃあ、まるで、本当に――デートみたいじゃないか。
***
同日。マンハッタン島、某所某ビル。
豪胆な字で「社長室」と書かれたドアの向こうへ、次々とガタイの良い黒服の男が入っていく。
「社長、また例のヴァーミリオン・プレスです。相変わらず嗅ぎ付けるのが早ぇ」
「警察の方は手を打っておきました。まだ諦めずに捜査を続けてるガキがいるようですが……まぁ無問題でしょう」
「金石の幹部組はウチの若い衆に監視させてましたが、完全に見失いました。まだ大半が生き残っています」
次から次に飛び込んでくる報告を、その部屋の主は静かに聞いていた。部屋にいる黒服の誰よりも大きな体をしており、身の丈はおそらく二メートルは越えている。
「赤の雑誌社か。いつも
「社長? その、ヨハンというのは……」
黒服の一人が、社長の口から出た聞き慣れない人物の名前について尋ねた。
「古い友人だ……いや、
言いながら振り返った社長の顔は、悪意の笑みで歪んでいた。
報告の要旨をまとめた資料に目を通しながら、社長は近くの黒服に尋ねる。
「で、俺の跡取りの件はどうなった」
場の空気が一瞬、凍りついた。
「あれでも唯一の血縁だからな。今まではある程度この世界とは離してきたが……。今、この街は変わろうとしている。我々ログローシノ一家は、その新体制の裏で頂点に君臨する。それを、俺が――バルトロメオ=ログローシノが築く! それを受け継ぐのはやはり、同じくログローシノの血の者でないとな……」
***
同日。マンハッタン島、チェルシー近郊、V・プレス本社。
「編集長! ザックから仕事を取り上げるってどういうことですか! 私は納得できません!」
ルッカは当のザック不在の編集部を突き進み、編集長室へと乗り込むと、猛然と抗議した。常に周囲にアンテナを張る彼女には、身内間の風の噂などすぐに入ってくる。今回のザックの実質的な謹慎処分も例外ではない。
「まぁ落ち着きなさい。君なら、分かるだろう。ザック君が事件を追えない理由を」
皮肉なことだった。そう――原因は他でもない、ルッカがもたらした。今回ばかりは自分の好奇心を呪う。
金石崩壊事件を追ううちに、ログローシノへはどうしても辿り着いてしまう。それはどの記者も同じだ。新人であるザックでさえ初日から訝しんでいた。
だが、ルッカはその先を見た。
見たくない現実を見るのには、もう充分慣れている。そのつもりだった。
「私……そんなつもりで編集長に報告したんじゃありません……。血の繋がりは……真実を追究するのに、そんなに邪魔ですか……?」
ログローシノ一家のボスである、バルトロメオ=ログローシノ。ルッカは彼を重点的に調べ上げていた。
事件の本筋を離れた、ふとした疑問。それが最初だった。調べると厳重に隠匿された事項。普通の記者なら、後継者の話など「存在しない」として無視してしまいそうなほどに。そのトップシークレット感が、余計にルッカの好奇心を掻き立てた。もうその時点で引き返すことなど出来はしない。あとは本能のままに、好奇心のままに――答えを出した。「後継者」を知った。
編集長の声が、どこか遠くで聞こえている気がする。
「大丈夫だよ。アイザック君は、君の見込んだ人材だ。将来君さえ超えるジャーナリストになる。今回はいわば、その為の成長なんだ。……君もそんな顔をしないで。直面したその真実は、君にとってもきっと、成長の糧になると思うよ」
固く結んだ瞼の隙間から、涙が滲んできた。記者が情に振り回されるなんて、なにが若手一のエースだ……!
見たくない現実を見るのには、もう充分慣れている。
そのつもりだった。
そういう風に、まだ若造の自分を甘やかしていた。
***
同日。マンハッタン島、タイムズスクエア。
ヴィオラの手を引き、ザックは映画館を出た。実際、映画はそれほど面白くはなかったが、ヴィオラが終始にこにこと満足気だったので良しとする。
「ザック、私ね、今とっても楽しい!」
彼女にとって、こんな風に友達とお昼を一緒に食べたり、映画や買い物を楽しんだりするようなことは初めてのようだった。
(本当にお嬢様なんだな……)
間接的にではあるが、今日一日で彼女のことをよく知れた気がする。しかし、知れば知るほど、彼女が時折見せる翳りのある表情が気になった。
とはいえ、今日の約束をしたあの日、病院で確かにザックは誓った。彼女の心が何を背負っていようと、それを知っても知らなくても、自分は彼女の心を支えていこう、と。その想いのせいか、気にはなっても深く考えたりはしなかった。
自分でもよく分かるくらいに、ザックは相当ヴィオラに惚れていた。
「ザック? 私の顔に何か付いてるかしら?」
無意識に彼女の顔をまじまじと見つめてしまっていた。
「あ、いや! なんでもないよ。本当に」
気恥ずかしさやら何やらで、慌てて顔を背ける。いやいや、二十歳を過ぎて何を照れているんだ。
顔を背けた視線の先に、少々赤みがかってきた西の空が見えた。そろそろ日も傾いてきた。これからが約束の大本命である。
「そろそろ移動しようか。見たい場所があるんだよね?」
ヴィオラは一度だけ、普段ほとんど会わない父親と夕陽を見たことがあるらしい。その時の場所に、今回ザックが連れて行く。
「ありがとう。今日は私のわがままに付き合ってくれて。本当にあなたには――」
そこまで言わせて、ザックはヴィオラの口に人差し指を立てた。
「待って。感謝するのは、ちゃんと約束を果たしてからにして欲しい。夕陽を見てから、ね」
正直、自分がヴィオラに釣り合うとは思っていない。父親の代わりになると思わない。だからこそ、ヴィオラからのお礼は、本当の気持ちがこもったものを聞きたかった。それに、約束した以上、達成していないのに感謝されるのは筋違いだという、ザックの変に生真面目なところもあった。
なんにせよ、二人はヴィオラの思い出の場所――ハドソン川へと向かった。
~~♪
実に唐突に、電話が鳴った。
タクシーで行けるところまで行き、しばらく歩いていると、ザックの電話が鳴りだしたのだ。歩きながら通話ボタンを押す。
「はい。マクスウェルです」
名乗りを遮るように、声が入ってきた。
《今どこ! どこで何してるの?》
電波の向こうはルッカだった。妙に鼻声のようだが、それよりも切羽詰まった印象が気になった。緊急の連絡だろうか。
「D.C.パーク付近ですけど……何かあったんですか?」
また最後まで言い終わらないうちに、被せてきた。
《ああもう、どこにいてもいいや! さっき警察が編集長に会いに来たの。ってこんな話は中絶!》
(妊娠かよ……)
いつも以上に意味が不明。なにやら相当に混乱しているようだ。こういう時に落ち着かせようとすると、余計混乱する
ヴィオラが「立ち止まる?」と腕をパタパタと振って伝えてくる。その仕草が妙にかわいい。
《とにかく! 厄介なのが今そっちに行ってる! キミじゃ無理だと思うけど出来るだけ躱して! 私もすぐ向うから! じゃ!》
そこで切れた。
(厄介なのが来る? 出来るだけ躱す?)
直前には警察がなんだと言っていた。これは一体どういうことだろうか。
「ザック! 見て!」
不意にヴィオラに腕を引っ張られた。頭が完全に切り替わってないまま振り向くと、目の前に赤い世界が広がった。
「……綺麗だな……」
いつの間にか目的の場所に着いていたようだ。
開けた視界。目の前には雄大なハドソン川。そして空を自らの色で染めながら沈む、リンゴみたいに真っ赤な夕陽。
良い意味で溜息が出る。そんな絶景だ。ヴィオラも我を忘れてうっとりと見入っている。
「あなたの……ヴァーミリオン・プレスも、同じ赤ね」
突然ヴィオラの口から、自分の会社の名前が出てきたから驚いた。いや、会社というよりも雑誌の方か。『ヴァーミリオン・プレス』は創刊以来、その名の通り赤を表紙のベースにしている。確かにプレスはハドソン川を背にして建っているが……なるほど。この景色から取ったと言えなくもない。
「もしかして、読者?」
目立つ外見なので、見て知っただけの可能性もあったが、思い切って聞いてみた。すると彼女は、夕焼けに乗せた微笑みで返してきた。
「私、この街が好きよ。この景色が大好き。ヴァーミリオン・プレスも、私と同じくらいこの街が好きなんだなって、いつも読んでて思うわ」
逆光で分かりにくかったが、その時の彼女の表情は言葉とは裏腹に、憂いを含んだ悲痛な表情のようにザックは感じた。
ヴィオラは確かにマンハッタンの街が好きなのだろう。だが、そう単純なことではない。好きだからこそ、こんなつらい表情を……溜息を漏らすのだ。
「本当に……綺麗な夕陽ね……ありがとう、ザック」
彼女はきっと気付いている。夕陽と同じ色の雑誌が伝えること以上の、この街が内包する光と影に。多くの欺瞞に満ち溢れた末の繁栄。故にどうすることも出来ない二律背反。そんな体制の中で彼女は、必死に抗おうとしているのかもしれない。「魔都」であることを知ったうえで、なお好きだと言えるのだから。
ザックは少し下がり、夕陽とそれを見るヴィオラを写真に収めた。普段は煩わしい逆光が、幻想的な雰囲気を醸し出している。
カメラの操作に目を落とした時、その一瞬。
「ヴァーミリオン・プレスのアイザック=マクスウェルだな? ニューヨーク市警の者だ」
振り向いた先に立っていたのは、鋭い目付きをした長身の青年だった。独特の風味を出すコートから刑事だと分かった。そしてルッカの言っていた「厄介なの」であることも。
「特務対象をロスト。どうしますか?」
これまた冷たい顔をした女性が、刑事に向かって歩いてきた。
「深追いはするな、レミィ。今回はこっちが優先だ」
違和感に気付いて辺りを見回すと、案の定、ヴィオラの姿は消えていた。まったくの痕跡を残さずに。
「俺はマフィア対策本部のアラン=エヴァンスだ。回りくどいことは苦手でな。簡潔に事実だけを述べるぞ」
ザックの体は刑事の目の前を動かなかったが、全神経でヴィオラを探していた。刑事の話など、少しも聞いてはいなかった。
「お前がさっきまで一緒にいた女……奴が誰だか知ってたか?」
少しも聞いてはいなかった。はずなのに。
「ヴィオラ=ログローシノ――今や最もデカいマフィアの『御令嬢』だ」
ヴィオラ=ログローシノ。
その固有名詞だけは拾った。
「……ヴィオラが……まさか」
「信じられないのであれば、ふむ……そうだな。今頃は東口だろう」
言い終わる前に、D.C.パークの出口へと走った。
そこでザックは見た。黒塗りの高級車が白のワンピースの前に停まり、出てきた運転手が後部座席のドアを開くところを。
「お待たせしました、お嬢。しかし随分と早いお帰りで」
お嬢、と呼ばれたヴィオラも自然に返す。
「ええ、ちょっと邪魔がね。今日はお父様のところでいいわ」
運転手は深々と頭を下げると運転席に戻り、西日の反射する高級車をゆっくりと発進させた。
背後に誰かが立つ気配がする。刑事だろう。
「いや、でも……まだあれだけじゃ、ただのお嬢様かも――」
「本当は薄々気付いていたんじゃないか?」
痛いところを無遠慮に突かれた。
そうだ。どこかで気付いて、気付かないフリをしていた。
気付いた自分を「嘘だ」と押さえつけて、何も考えずに彼女を支えていこうとした。
気付けば鞄は大きすぎて、その鞄は無視した。
見たくない現実が重すぎて、その現実から目を逸らした。
彼女の背負う鞄は、自分には背負えない、と。
『ありがとう、ザック』
そう、彼女は言った。
「ヴィオラ……ごめん」
謝罪の言葉は、もう届かないのに。
第三章 見つめる強さ
「アランのやろぉ! 余計なこと吹き込みやがって!」
怒り心頭のルッカである。
あの後、遅れてやってきたルッカは、アラン刑事を追い出し、ザックを連れてプレスに戻った。
「先輩……あの刑事さんとは、どういう関係なんですか?」
マスコミという職業上、警察との関わりもあるだろうが、ルッカとアラン刑事にはそれ以上のものを感じた。
「いや、小っちゃい頃からの腐れ縁だよ。私が何やっても目の前に現れんの。厄介極まりないっての」
確かに性格的にウマが合わなそうである。
しかしまぁ、今のザックには初対面の刑事にも慣れ親しんだ先輩にもそう興味はなく、ただ茫然とプレスの自席に座っていることしか出来ない。
アラン刑事に指摘された通りだ。そして記者という身でありながら真実を避け続けてしまった。それはヴィオラに対しても失礼であるのに。考えれば考えるほどに思考の泥沼に嵌っていく。罪悪感と自己嫌悪に挟まれ、もう自分にはなんの真実も見えなくなってしまうのか、とさえ疑ってしまう。
ふと顔を上げると、ルッカが外出の準備をしていた。
「ほら、何ぼさっとしてるの! 行くよ」
行く? どこに。
「考えたってどうしようもないことは考えない! 止まってたら考えちゃうなら、動こう! 前に進もう!」
ザックの分の取材道具を一式、放り投げる。そのため、嫌がおうにも受け取らなくてはならない。……ヴィオラを撮ったカメラもある。
「なんの、取材ですか……?」
もはや抜け殻状態の自分が戦力にならないことは、ルッカでなくとも一目でわかるだろうに。
「今までと変わらないよ。『
もちろん、意味が分からなかった。
「……え?」
意味が分からなかったから、間抜けな声が出た。
「そんでもって対象がログローシノに連なるワケだから、金石取材班の私が組んでやるって話。傷心のキミのための取材続行じゃなくて、あくまでプレスの最有力目玉事件のためね。人手が足りてないんだから」
だからザックに呆けてもらっちゃってる時間など無いのだ。そういうことらしい。
いや、理由付けなど何でも良かった。現金なもので、さっきまであれほど罪悪感に浸っていたのに、またヴィオラに関われると思っただけで、これほど身体の奥底から力が湧いてくるとは。もちろん、全てを知った今、前のように簡単に会えることは困難であると分かっている。
それでも。
「先輩。ありがとうございます」
ザックは力強くルッカを見上げた。
「ふふっ、これでキミも晴れて私の直属の部下だね。濃ゆーい仕事をじゃんじゃか回してコキ使ってやるから、楽しみにしてなさいよ!」
全てを知った今だからこそ、もう一度彼女に会いたい。会って話をしたい。これは記者であるアイザック=マクスウェルの気持ちなのだろうか。
ちょうど椅子から立ち上がった時、編集長が出先から帰ってきた。
「おお。やる気に満ち溢れた顔だねぇ、アイザック君。私の出る幕じゃなかったようだ。さすがはルッカ君だよ」
目尻をいつも以上に下げながら二人に近づき、ザックの前で居直った。
「アイザック君。君は記者だ。真実を訪ね、伝える者だ。そして君はこれから、この街の最も危険な闇に立ち向かおうとしている。その闇に隠された真実を知るために。誰に強制された訳でもない。して、なぜ立ち向かうのか?」
惚れた女を助けるため、というのはちょっと違う気がした。そもそも真実を暴くことが、ヴィオラを助けることに繋がるかどうかも分からない。
だから、単純だけれども、こう返した。
「記者だから、です。僕は記者だから、真実を伝えます」
編集長の恵比須顔が、さらに笑顔になった。
「結構! さすがヴァーミリオン・プレスの社員だ。一度は君を取材から下して、本当にすまなかった。まるで昔の私だな。頑張りなさい。君なら必ず、見つけ出せるよ」
最後にザックは軽く編集長に会釈をして、ルッカと共にマンハッタンの街へと繰り出した。
***
あの記者には悪いことをした。
キャデラック・ロードスターの後部座席に身を沈めたヴィオラは、もうほとんど沈みかけた夕陽を眺めていた。
「お嬢、今日は静かですねぇ。男と遊んで疲れたんスか?」
運転手のハタケヤマが、半ばトレードマークと化している煙草を咥えながら、自らの
「ま、俺の見立てでは、あのマスコミの兄ちゃん、結構デキる奴だと思いますよ?」
ハタケヤマの人物評価はいつもよく分からない。ログローシノ一家のボスを裏切って、こんな小娘に付くくらいだ。
「どうなのハタケヤマ。それなりに証拠は挙がったかしら」
病院で身動きが取れなかった間、ハタケヤマには金石の内部崩壊……それに関連する事務所爆破について調べてもらっていた。
この街に新体制を築くために父、バルトロメオ=ログローシノがどれだけ汚らしいことをしてきたのか。今まで散々汚したこの街を、最後にどれだけ汚すのか。そもそもそれで本当に最後なのか。
「これ以上、私の大好きな街を汚させはしないわ。絶対に」
父の僅かな愛だったのだろうか、就学期間は裏社会から極力離され、エスカレータ式のいわゆる「お嬢様校」に通わされた。そこで培った教養は、この街の歪んだ繁栄と、自分の立場の非常識さを教えてくれた。心が痛まない訳が無かった。これほど愛した街を、実父が血で汚しているとは。父を止めるために考えたのは、仲間を集めることだった。跡継ぎとして正式にログローシノ一家を継ぐのではなく、新勢力を以て一家に対抗しようと。幸い、人徳かどうかは知らないが、ハタケヤマを筆頭に一家内から寝返る人間が出てきた。それでも父には程遠く、及ばなかった。何度も何度も溜息は出た。いくら娘の自分が足掻いても無理なのではと思った。
そんな折に、金石事務所爆破に巻き込まれた。
金石貿易公司は一家の最大の競争相手だと知っていた。内部崩壊の事情もすぐに耳に入った。裏社会の危ういバランスを保っていた金石は、血生臭い手段で葬られた。父を、ログローシノ一家を止められるのは、力不足な自分しかいない。その自分の微かな抵抗さえ、感付かれたと思った。爆破事故に見せかけての暗殺――最初の夜は、恐怖で震えが止まらなかった。
あの病室で、絶望と共に現実を突き付けられた。
そんな時だった。
『は、初めまして。ヴァーミリオン・プレスの、アイザック=マクスウェルです』
不思議な記者だった。初めはもちろん警戒した。マスコミの人間なんて、何を知っていて何を知ろうとしているか分かったものではない。でも、彼は違った。
「まーるで取材になってない感じでしたもんねぇ」
人の思考に……。
「勝手に入ってこないでちょうだい」
空はすっかり暗くなっていた。だが、マンハッタンは眠らない。夜でもピカピカと店先の電灯は光っている。
「あの記者……どう思ったかしらね」
取材の名目で、よく病室に入り浸っていた。ハタケヤマからの中途報告を聞くとき以外は、大体会っていたような気さえする。
「まさか退院デートに誘ってくるとは思いませんでしたがねぇ。俺もビックリです」
またハタケヤマが茶化す。
いつの間にかその記者は、ヴィオラの心に入ってきていた。夕陽を見に行く約束は、正直嬉しいものではあった。が、手放しで喜べるような状況でもなかった。ハタケヤマからの報告で、金石崩壊への一家の関与がハッキリしたのだ。
金石貿易公司は「内部崩壊」などでは決してなく、ログローシノ一家によって極秘裏に潰された――それが事実だ。
「本当によく証拠を集めてくれたわ。さすがね、ハタケヤマ」
あとは証拠と共に公表すれば良い。だが、そう簡単に出来ることではなかった。そんな動きを少しでも見せれば、すぐにでも潰されるだろう。確実に実行できるプロセスが整うまで――少なくとも自分が退院するまで――、このトップシークレットは保持しておくべきだと判断した。
「いやいやいや、お嬢に面と向かって褒められる程のことじゃねえスよ」
言いつつ、煙草を灰皿にねじ込むハタケヤマ。こういうとき、他の運転手はよく窓から捨てるものだ。
ともかく、いざ退院したところで、まだ決心が着かずにいた。実の父親と本格的に事を構えることに。むしろその重責に限界を感じつつあり、諦めようとさえ思っていた。だから記者の誘いに乗った。かつて父と見た夕陽を見ることで、父の愛情を思い出し、抵抗を諦めようとした。
しかし、無理だった。ハドソン川に沈む夕陽を見たとき、「この街を守ろう」と、沈む夕陽と対照的に、正直な気持ちが浮かんできた。夕陽を見て諦めようと思ったのに、なぜだろうか。あの記者と一緒に見たからだろうか。
「時間はいつまでも待ってくれないわ。私は戦う。明日から、本格的に準備を始めるわね」
いつの間にか車は、ヘルズキッチンの郊外まで入っていた。
もう件の記者と会うことは無いだろう。感謝してもしきれない恩は感じている。だが最後の別れ際からして、必ずこちらの身分はバレただろう。そうなれば……誰が自分と関わり合いになりたいと思うか。生きる世界が、そもそも違うのだ。
(帰ったらすぐシャワーね……)
少し眠気を感じながら、ヴィオラはより一層、座席に身を沈めた。
「おや……人か?」
ハタケヤマがそう呟いた直後、車体に激しい衝撃が走った――。
***
同時刻。ニューヨーク市警第五分署。
「……なるほどね。ヴィオラちゃんはログローシノに抵抗しようとしてるってワケ……」
ザックたちが取材に向かったのは、他でもないマフィア対策本部だ。昼間のアラン刑事が渋顔で迎えてくれた。
ザックが出来る範囲でヴィオラの情報を提供する代わりに、対策本部が掴んでいる情報を垂れ流してもらう。もちろんルッカが見事な交渉をやってのけた賜物だ。
「我々警察もヴィオラ嬢と接触を図ろうとはしていたのだがな……」
そのたびに入る、上層部からの横槍。そもそもほとんど機能していなかった対策本部では、他の優先項目との兼ね合いもある。無理もない。
しかし、これで分かった。ヴィオラはこの街を守るために、戦おうとしている。
「それにしても、もう復活したのか。さすがキングストンに鍛えられたというべきか……いや、呆れるな」
言葉通り、分かりやすい呆れ顔を見せてくれた。
「あ、何よ、キングストンって! 昔みたいにルッカって名前で呼びなさいよー」
「黙れ。公私を区別しろと何度言ったら……」
この二人も色々あるんだな、とザックはやり取りを眺めていると、補佐官のレミィが部屋に現れた。
「エヴァンス捜査官。客人です」
そう言って扉の前から半身をずらすと、その空いたスペースからボロボロのスーツ姿の男が入ってきた。
「あっ!」
ザックはすぐに思い出した。ほんの数十分前、ヴィオラを迎えにきた運転手だ。
「市警のデータベースによると、ログローシノ一家のキョウイチ=ハタケヤマです。本人はヴィオラ=ログローシノ直属の部下だと言っておりますが」
いやいや、そんなことより注目すべき点があるだろう。なんでそんな状態であるのか、とか。
「ああ……マスコミの兄ちゃんか」
なんと、向こうはこちらを知っていた。
胸ポケットから煙草を取り出し、ゆっくりとした動作で吹かした。するとハタケヤマの体が大きく揺れたので、思わず駆け寄る。
「うんにゃ、俺は大丈夫よ……。それより、お嬢を頼むわ」
サッと、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
運転手であるハタケヤマがこの状態。一体、ヴィオラの身に何が起こっているのか。
「場所はどこですか!」
「お嬢は今は……社長の屋敷だろうなァ」
それだけ聞いて、ザックは走り出した。
「おい待て、マクスウェル! 独りで何をする気だ!」
アラン刑事の怒声に肩越しで返す。
「決まってるでしょう! ヴィオラを助けに行くんですよ!」
そのままザックは飛び出して行った。
「どうやら……お前以上の無茶な奴らしいな」
「あら? アレぐらいじゃないと、記者なんてやってられないわよ」
それを聞いたアラン刑事は短く笑うと、レミィに素早く指示を出した。
***
「ヴィオラと話がしたい!」
第五分署はマフィア対策本部を擁しているだけあって、暗黒街からそう遠くなく、ログローシノの屋敷まで大した時間は掛からなかった。
単身乗り込んだザックは、堂々とした足取りで正門から入り、玄関前の黒服に取次を申し立てていた。
「帰りな坊主。お嬢様は社長と取込み中で、って――え?」
屋敷の中から別の黒服が出てきて、玄関前の黒服に何か耳打ちをした。するとどうしたことか、二人の黒服は屋敷の正面玄関を開放した。
「入れ、アイザック=マクスウェル。社長が面会を許可なされた」
妙に威圧的な態度で促してくる。だがザックにとっては渡りに船なので、そのまま屋敷に足を踏み入れることにした。
恐れが無かったと言えば嘘になる。もしかしたらこの時、膝が笑っていたかもしれない。けれども、ザックは自分が狂ったように冷静であることを感じていた。
(人間、恐怖も度を過ぎると何も感じないんだな)
そんな悟ったようなことを考えながら――考える余裕を持ちながら――、ヴィオラの待つ部屋へと案内されていった。
「よく来たな。マクスウェル」
豪奢な扉をくぐった瞬間、鼓膜を打つ重い声。本能が声の主を警戒する。それほどまでに危険な相手。言葉通りの巨漢の姿がザックの目に入った。
「ザック!? どうしてあなたがここに――」
見つけた。ヴィオラだ。恐怖が貼り付いたような顔をしている。溜息を吐きながらも、いつも微笑んでいた顔。その微笑みを消したのは、こいつだ。
「いまさら何をしに来たかは知らんが……まぁ自己紹介ぐらいはしてやろう。バルトロメオ=ログローシノだ。覚えなくても構わん。どうせお前はすぐ消えるのだからな」
魔王、と呼ぶにふさわしい黒い笑みを作る。本当にこれとヴィオラが親子だとは思えない。
書斎のような部屋にはザックたち三人だけ。奥の机には窓を背にして、バルトロメオが立っている。ヴィオラはそのすぐ横だ。俯き加減で瀟洒な椅子に座っている。
「ヴィオラをどうするつもりだ」
バルトロメオはすぐには答えず、机の裏から出てきてゆっくりとザックに近づいた。
「どうするも何もない。ヴィオラの自由にやらせるだけだ」
「なにっ!?」
ヴィオラの自由に……? それをされたら困るのはバルトロメオではないのか……?
そこで気付いた。先ほどから押し黙るヴィオラに。彼女の様子がおかしい。
「クク……この男に教えてやれヴィオラ。お前が今後、どのような道を取るのかを、な」
俯いたまま、ヴィオラが口を開く。
「私は、お父様の跡を継ぎ、ログローシノの、さらなる発展に、全力を、尽くします」
…………。
……そうか。同じだ。
「ヴィオラ。どうして僕の目を見て言わないんだ」
ほんの少し、ヴィオラが反応したように見えた。
「君にはやりたいことがあっただろ。守りたいって思える大事なものがあっただろ。それを全部、全部見なかったことにするのか」
ザックがかつてヴィオラの正体を知った時に、感じた無力感。そしてザックは放棄した、背負うことを。
「だってザック……。だってもう、私には、無理……!」
きっとヴィオラも同じなんだ。
「無理なんかじゃない。無理だなんてことは無い。どうして諦めるんだよ」
ヴィオラが椅子から立ち上がる。
「仲間が傷つけられたのよ! 私のために集まってくれた仲間たちが! 私が諦めれば、それでみんなが助かるの! それで……助かるのよッ!」
言い終えると同時に、膝から崩れ落ちた。
「その仲間の人たちは、ヴィオラが諦めることを望んでると思う? ハタケヤマさんは僕らのところに来たよ。『お嬢を頼む』って、そう言った」
ハッ、とヴィオラは顔を上げた。
「ハタケヤマが……?」
「君が諦めることは、この街を愛することをやめてしまうって事じゃないか。君のために集まった人たちは、君と一緒で、この街が好きなんじゃないかな」
その時、ザックは窓の外で何かが光ったのを見た。
「でも……それでも……私じゃ力が足りないの! 証拠を掴んでることもバレたの! 何も出来ないのよ……!」
窓の外、また光った。今度は、はっきり分かった。屋内集合写真用のストロボだ。ログローシノ親子は窓に背を向けているため、気付いていない。
「力が足りないなら僕も協力する。君の鞄を、僕は背負えなくても支える事はできる」
ルッカだ。ルッカが屋敷の裏口にいる。そこでストロボを焚いているのだ。
「協力するって……相手はマンハッタン最恐のマフィアよ! 怖くないの!?」
間髪入れずに被せる。
「怖いさ! 僕は素人だ! 君の何倍も怖いに決まってるじゃないか! 君に関わることで、殺意の目で見られる怖さはある! でももう、僕は君から目を逸らさない!」
ザックの睨みに気圧されてか、ヴィオラがまた俯く。
「ヴィオラ! どうして君は僕から目を逸らすんだ! 君が僕の目をまっすぐ見て言えるのは――夕陽を綺麗だと思う心を持った『本当の君』が、僕の目をまっすぐ見て言えるのは――、この街を汚し続けることか! 愛して守ることか! どっちだヴィオラ!」
ここまで沈黙を保っていたバルトロメオが動いた。
だがもう遅い。ヴィオラは、力強くザックの目を見据えた。
「私は……私は、この街を守る!」
バルトロメオの合図で部屋に黒服が数名入ってくる。ほぼ同時に、ザックは窓に向かってカメラのフラッシュを焚いた。たぶん、これで良いはずだ。
黒服たちは精一杯抵抗するヴィオラを取り押さえた。
「まさかヴィオラを改心させるとは思わなかったぞ。あのままであればお前も、ヴィオラも、痛い思いをせずに済んだものをな……」
懐から拳銃を取り出し、銃口をザックに突きつける。
「どっちみち消すんじゃなかったのか?」
さすがに声が震えた。しかしザックは安心していた。ザックには聞こえていた。
階下から近付く足音と、銃撃戦の音。
「ニューヨーク市警マフィア対策本部G班班長アラン=エヴァンス、推して参る! そこに直れ、バルトロメオ=ログローシノ!」
やたら気合いの入った声で、アラン刑事とその部下が扉を蹴破って踏み込んできた。
「よく私のストロボ合図が読めたわね~。さすがザック」
さりげなくルッカもついてきている。
「市警の若造が! ログローシノ一家に殴り込みとは、気でも触れたか!」
戦力の少ない対策本部では、一家の制圧は不可能である。それにログローシノ一家は市警に影響力がある。どう考えても不利だ。
「ところがどっこい。そうもいかないのよね」
ルッカがアラン刑事の後ろから出てきた。すかさず黒服たちに押さえられてるヴィオラを撮る。
「うら若き乙女に犯罪組織の大人が三人がかりで暴力振るってるなんて……ウチの紙面で公表したら、市警レベルの出動じゃすまないわよ」
思わず黒服たちがヴィオラから手を離す。その隙を逃さず、ヴィオラはザックの元へと駆け寄った。
「赤の雑誌社か……粋がりやがって」
バルトロメオが銃口をザックからアラン刑事に向ける。それでも怯まずに、アラン刑事は物凄い勢いでバルトロメオに迫っていった。
「俺に脅しは効かない」
「そうか、だが俺も脅しで銃は向けん」
バルトロメオが引き金に指を掛け、力を込める。本気で撃つ気だ。
「死ねッ!」
が、銃声は鳴らなかった。
「
いつの間にかバルトロメオの眼前にまで迫っていたアラン刑事は、なんと拳銃の弾倉部分を指で押さえて回らないようにしていた。弾倉が回らなければ弾は発射されない。
「クク、若造が……舐めたマネしやがる」
二人の男は一つの銃に力を込める。お互いに全力で相手の動きを止めている。
「行け、マクスウェル! 敷地の外に出れば、先に解放したヴィオラ嬢の仲間と合流出来るはずだ! 彼女をこの化け物から逃がし切れば勝ちだ!」
ルッカが扉を開けて、脱出を促す。
「ありがとうございます! 行こう、ヴィオラ!」
ザックたちが部屋を出ると、黒服たちとG班の撃ち合いの音が聞こえた。振り返らずに、走り出した。
終章 いつかきっと会えるから。
その日。ハドソン川の縁沿いにある小さな雑誌社「ヴァーミリオン・プレス」は、いつもと変わらぬ一日を終えようとしていた。
この半年で、マンハッタンの裏社会は変わった。最大のマフィア組織だったログローシノ一家は、
しかしそれでも、ヴィオラは潜伏活動を続けている。金石崩壊事件の真相を公表せずに保持することで、ログローシノ一家の抑止力になろうと考えたらしい。
半年前、ログローシノ一家に殴り込んだマフィア対策本部のアラン刑事たちは、一家の市警への影響力低下や、次々に沸いて出てくる犯罪組織の新勢力への対応のため、処分されずに済んだ。
そしてヴァーミリオン・プレスの新人記者アイザック=マクスウェルは、今日も取材に出かける。大切な人が愛した街の現状を、どこにいるのかも分からないその人に伝えるため。そもそも自分の書いた記事が、届いているのかどうかさえ分からない。それでもこの半年、続けてきた。
「今日も夕陽が綺麗だな――」
あの日あなたと二人で見た、リンゴみたいに真っ赤な夕陽。
あなたもどこかで見ていますか?
僕の大好きなあなたの微笑みを、この景色に重ねて――。
ザックは手帳に挟んだ一枚の写真を取り出した。写っているのは、今まさにハドソン川に沈む夕陽と、微笑んでたたずむヴィオラの姿だった。
ザックは静かに喉を震わせた。
***
小鳥の歌。
朝霞の摩天楼。
湯気上げるコーヒー。
――マンハッタンの朝。
今日も赤い表紙の雑誌を読んで、一日が始まる。この雑誌は本当によくマンハッタンの情勢を取材している。父の目を逃れつつ、情報を集めるのには好都合だ。もちろん、この雑誌を選ぶ理由は、それだけではないのだが。
あの日出会った記者に、さよならは言っていない。
夕陽を見た後みたいに、言いそびれた訳じゃない。
私たちが別れの言葉なんて、交わす必要はない。
だって、いつかきっと―――― 。
Fin.
VP1『いつかきっと会えるから。』 Project.森内 @masaru_moriuchi
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