王の愛する寵姫

Veilchen(悠井すみれ)

王の愛する寵姫

 若き王は寵姫候補として召し出された娘を冷淡な目で眺めた。


 世継ぎに恵まれて以来王妃とは閨を共にするのは非常に稀になった。前に侍らせていた女は一年ほど前に死んだ。喪も明けないうちから次の寵姫を勧めようとする臣下たちには心底うんざりさせられた。誰も彼の心情など考えていない。いかに自身の権力を強めるか、しか頭にないのだ。

 この娘と会う気になったのは、引きも切らないおためごかしの注進を却下するのが面倒になったからに過ぎない。後は、死んだ寵姫に似ているようだと呟いた、王妃の含みのある微笑みにも後押しされたが――王は決して乗り気ではなかった。


 目の前の娘には、確かに死んだ女の面影があった。つまり、流れる銀糸の髪につつましげに伏せられた菫色の瞳。肌の色は抜けるように白く、整った線の細い面に戸惑うような微笑みを浮かべている。しかし、それは儚げな美女、という一言で括れる程度の特徴でしかない。そもそも王の御前に差し出すのに、醜い女が選ばれることはありえないのだ。


「――庭を」

「は、はい」


 見目ばかりでなく心ばえも優しく控え目だった女のことを懐かしく思い出しながら、王は口を開いた。娘は目に見えて身体を強ばらせ、緊張に上ずった声で受け応えた。


「寵姫にはそれぞれ庭を与えることになっている。好みの花があるなら申せ」


 とはいえ、答えがどうであろうと王は娘を断る口実にするつもりだった。

 薔薇やら蘭などの高価で手のかかる花を望むなら、前の寵姫に似つかない傲慢で派手好きな女と言えるだろう。

 かと言って恐縮するばかりで何も言えないような女ではつまらない。

 菜園、あるいは薬草を、などと言い出すのはもってのほかだ。王宮を田舎の農園と勘違いするなど厚かましい。何より無欲さ堅実さを演出しようという心根が透けて見えて吐き気がする。


「それでは、恐れながら――」


 しかし、娘は細いながらもしっかりとした声を発した。


「雪割草を、所望いたします……!」

「雪割草」


 鸚鵡返しに繰り返した王に対して、娘は大きく頷いた。


「春先に咲く健気な花でございます。小さな花ではございますが、白に薄紅、紫と、様々な色が寄せ合って咲き乱れる様は、雪の白さ冷たさに慣れた目には大層眩しくて……心まで春になるようなのです。わたしの故郷に咲く花なのです。故郷のよすがに、どうかお許しくださいませ」


 娘の頬に口元に浮かんだ微笑みこそ春のようであった。銀の髪に白磁の肌は冷たい印象を与えても良さそうなものなのに、故郷を想ってかほのかに上気した頬はどこまでも暖かく柔らかそうだった。


「…………」


 無言の王に、娘ははっと顔を伏せた。頬の血の気は瞬時に冷めて、雪の白さに戻ってしまう。


「野草のような花を王宮のお庭に、など出過ぎた望みでございました。申し訳もございません」

「いや」


 王は自身の声を他人のもののように聞いた。彼の意思とは裏腹に、言葉が先に口から出ていた。


「雪割草の庭ならば既にある。すぐにも入るが良い」


 雪割草は、死んだ寵姫が好んだ花だった。娘が述べたことも、王の耳にはあの優しい声で蘇った。

 菫色の目を、こぼれ落ちそうなほどに見開いて息を呑んだ娘を。無言のうちに、しかし明らかに狼狽えて視線を交わし合う侍女侍従らを。置き去りにして王はその場を去った。

 これ以上言葉を費やす必要はない。王は自身の意図が伝わったことを知っている。

 新たな寵姫が生まれたのだ。


 その夜、王は久方ぶりに主を迎えて慌ただしい離宮を訪ねた。絹の衣装に包まれて、髪も肌も磨き上げられた娘は、ぎこちない笑みで王を迎えた。田舎貴族の娘だと聞いている。華美な王宮の何もかもが輝いて見えて、自身をひどく場違いに感じているのだろう。死んだ先の寵姫もそうだった。

 不安げに揺れる野の花を、王はそっと摘み取った。初々しい蕾は王の腕の中で花開いた。

 翌朝、死んだ女の名を呼ぼうとした王は、違う女といることに改めて気付き、初めて娘の名を聞いた。

 それ以来、王は度々新しい寵姫の下で夜を過ごすようになった。




「新しい娘をお気に召したようで、大変よろしゅうございました」


 王妃の穏やかな声に、王は書面から顔を上げた。執務室でのことである。

 国王夫妻が顔を合わせるのは、王子のためでなければほぼ政務の場に限られる。女としての魅力には欠けるが、国を滞りなく動かすのに王妃の助言が必要なのは否定しがたい事実ではある。


「何のことだ」

「お惚けにならずとも。わたくしの耳にも届いておりますよ。わたくしなどは、子供ができてすっかり所帯じみてしまったものですから。王宮が華やぐのは嬉しいことでございますね」


 返答の時間を稼ぐために、王は無駄に時間を掛けて署名をした。死んだ寵姫を忘れて新しい女に溺れていると思われるのは業腹だった。まして相手が王妃とあっては。


「余計なことはするなよ」


 王は釘を刺した。先に死んだ娘の時もそうだった。王妃は何かと寵姫に関わりたがる。


「何のことでございましょう」


 先ほど自分が言ったのと同じ言葉で返されて、王は不快に顔を歪めた。対して王妃は常と変わらぬ微笑みを保っている。


「奢侈などさせぬ。思い上がりも許さぬ。政に口を出そうというなら切り捨てる。いずれ余が決めることだ」

「あら、分を弁えた娘と聞いておりますけれど。わたくし、期待しておりますの。今度こそ末永く陛下のお心を慰める娘が現れたのではないかと」


 王は疑わしげに目を細めて王妃を睨めつけた。


「――本当に?」

「ええ。夫の幸せを願わぬ妻がいるはずなどないではありませんか」


 どんなに目を凝らしても、王妃の微笑みは心からの愛情と思いやりに満ちたものにしか見えなかった。それ以上言い募る術がなくて、王は黙って王妃から次の書類を受け取った。




 新しく寵姫となった娘は、衣装部屋を見渡してほう、とため息を吐いた。

 彼女はこれまで見渡すほどの数の衣装を持ったことはなかった。いや、数ばかりではない。艶やかな絹の生地も、繊細な刺繍や宝石の縫い取りも、彼女が持つなど叶わなかったものばかりだ。わたしなどには勿体無いと、しつこいほどに固辞してこれである。


 身に余るのは衣装だけではない。精緻な彫刻の施された卓も。豪華な天蓋の寝台も。何もかもが、触れるのが憚られるほどに瑕ひとつなく整えられていた。くつろぐことなどとてもできなくて、娘は所在なく佇むばかり。せめて唇を湿そうと水を頼めば、力をこめれば壊れそうなほど薄い玻璃の杯が銀の盆に載せられて届けられた。雪解けの川から汲んだように冷たい水からは、知らない花の香りが漂っていた。


「夢のようだわ……」


 何よりも信じられないのは自身が王の傍にいるということ。王は若く美しく、知略にも武勇にも優れている。全ての乙女の憧れだ。都から離れた地に生まれた身には、絵姿を眺めるのがせいぜいと思っていた。それが、拝謁を許されたばかりか、あの方の唇が彼女の名を紡ぎ、あの方の腕が彼女を抱いている。

 幸せな夜を思い出して、娘は自分の身体を抱きしめた。


「夢ではありませんよ」


 独り言のつもりが答えがあって、娘は文字通り飛び上がった。振り向いて認めた人の姿に、彼女は更に驚いた。


「王妃様……!」

「ああ、楽になさい」


 慌てて跪こうとする娘を指先の動き一つで立たせ、鷹揚に微笑む人こそ、王の正妻たる王妃に違いなかった。


上手くやっているようですね」


 王妃の表情は慈母のそれそのものだった。夫の愛人にたいする嫉妬や憎悪など欠片も見えず――それだけに娘を震え上がらせた。この方は、何を考えているか分からない。


「おかげ様を持ちまして……」


 平伏することを許されない娘には、敬意と恭順を示す術がない。それに、感謝も。

 娘が雪割草をねだったのは、王妃がそのように命じたからだ。それだけでなく、控えめにして奢らぬことも、高価な贈り物を断ることも。閨での所作でさえ細かに教えられた。死んだ先の寵姫がどのようだったか。王がどのような女を好むのか。

 娘が今の地位に収まったのは、王妃の入れ知恵のために他ならない。


「きちんとお断り申し上げたのですね。よく我慢しました」


 王妃は先ほどの娘と同じ仕草で衣装部屋を見渡した。しかし、娘と違って目に宿る光はなく、口調も表情もごく無関心なものだ。娘にとっては直視できないほどの贅なのに、王妃にとっては普段着程度ということらしい。


「若い娘には辛いことでしょうに。衣装も宝石も、先々賜る機会はいくらでもありますから、焦らぬように」


 王妃自身、王と釣り合う年齢なのだから十分若い。なのにそのように枯れたことを言う。王妃の平凡な茶色の目を娘へと移し、おっとりと微笑んだ。


「そなたは着飾らずとも十分美しい。野の花だからこそ陛下のお目に留まったのです。そのことをくれぐれも忘れぬように」


 娘は自分が王妃よりも美しいことを知っていた。ゆえに、どう答えれば無礼にならないのか分からなかった。代わりに、ずっと心にしこっていたことを口に出した。


「なぜ……なぜ、王妃様はわたしなどに目をかけてくださるのですか」

「そなたのためではありません。全ては夫のためです」


 切り捨てるような言葉とは裏腹に、王妃の声には慈しみが満ちていた。娘へのものではなく、おそらく夫への。


「王が愛する寵姫は、残念ながらこの地上にはおりませんし、わたくしではその任に耐えません」


 王妃のやや太い指が娘の頬を優しくなぞると、王に触れられた時とは違う種類の震えが娘を襲った。娘には王妃の思いが本心か量りかねたし、たとえ本心としても理解の及ぶところではなかった。


「ですが、そなたこそ陛下の愛に値するのではないかと、わたくしは期待しているのです。わたくしが愛されることはなくても、夫に愛される娘を捧げることはできるかもしれません。それができたなら、どれほど嬉しいことでしょう」


 娘の菫色の目と王妃の茶色の目が一瞬交わり――娘は瞬時に顔を伏せて高貴の人を直視する非礼を避けた。なにより、王妃の深い淵のように底の見えない目は恐ろしかった。


「誠心誠意……心より、お仕えさせていただきます! 王妃様のご恩に背くことは決して決してございません!」


 礼儀にかなっているかは自信がなかったが、娘にはそう答えてひれ伏すのが精一杯だった。今度は王妃も止めなかった。


「信じておりますよ」


 満足気な声が娘の耳に届いた。ついでさざなみのような衣擦れの音が。床に口づけるような体勢の娘に見えるのは、地味な色の衣装の翻る影だけだった。




 王妃の助言に従っている限り、王の心を捕らえるのは簡単なように思えた。王が愛した女を、似た面影の娘が演じているのだから当然である。


「夜に、またお待ちしておりますわ。会えない間はずっと陛下のことを想っております」


 今日もまた、娘は王を見送る。勤勉な王の朝は早い。娘には夜の名残に浸ることすら許されない。

 しかし、王妃によればこれも先の寵姫がしていたことだ。王は女が差し出がましいのを好まない。無理に引き止めて政務の邪魔をするようでは疎まれてしまう。その一方でこちらは想い続けているのを伝えなければならない。王は注がれる愛に敏感で貪欲だった。


 愛する人の温もりが失われていく寝台に、娘はしどけなく横たわって重く息を吐いた。豊かに広がる自身の銀の髪が、彼女を絡め取る蜘蛛の糸に見えた。

 娘は二重の意味で操られている。彼女を踊らせる糸を握っているのは、まずは王妃。それは仕方ないことと思わなければならない。王妃がなくては、彼女が王の目に留まることなどなかっただろう。しかし、その糸は王妃の手からさらに死んだ寵姫へと続いている。もうこの世にはいない女。王がこよなく愛したという女。


 聡くはない娘も既に気づいている。王が彼女の名を呼ぶ時に、一瞬ためらうことがある。彼女に口づける時に、怪訝な顔をすることがある。死んだ寵姫の顔も名前も、いまだ深く王に刻まれている。それが娘には悔しくて悲しくてならない。


 王妃に言われるがまま、追従をかわし、賂を退ける。死んだ女をなぞって王に微笑みかけ、控えめに甘える。本当は思い切り抱き締めたくてたまらないのに。もっと美しく高価な衣装を纏えば、彼女自身に王の目を向けさせることができるのだろうか。

 いつしか娘は乾いていった。極上の美酒でも癒せない乾きが彼女の心をひび割れさせる。乾いた大地が慈雨を求めるように、娘はに王の愛が注がれることを渇望した。そうでなければ、ひび割れは日に日に娘を蝕んで、やがて彼女を粉々に砕けさせるだろう。


 乾きが限界に達したある朝、娘は王の背にすがりついた。


「行かないでくださいませ。どうか――もう少しだけ、お傍に……」


 振り返り、わずかに目を瞠った王を見て、娘の心は凍った。不興を買ったかと恐れたのだ。しかし、次の瞬間、王は破顔すると娘を寝台に引き倒した。


「可愛い奴」


 耳元に熱く囁かれて、既に明るいというのに夜のごとくに二人は燃えた。

 昼近くになって王を見送った後、娘は彼女に絡んだ糸、王妃が握り死んだ女に繋がる糸がちぎれ、自身が解き放たのを感じた。




 定められた時刻を過ぎてから姿を現した夫に対して、王妃はごくやんわりと苦言を呈した。


「近ごろお寝坊が多いようですね。ゆっくりお休みになれているのでしょうか」


 王は煩げに眉を寄せ、王妃から目を逸した。その視線の先では幼い王子が蝶を追っている。政務を離れて、親子水いらずで過ごす時間は、大変貴重なものであったはずなのだが。


「昨晩酒を過ごしただけだ。大事無い」


 これに王妃は首を傾ける。先の寵姫は酒を受け付けなかったはずだ。王が好む蒸留酒の香りだけで妖しく頬を染めていたほどだったとか。あの娘にも、酒は断るよう言い聞かせていたというのに。


「お一人で飲まれてもつまらないでしょう。何を肴になさったのかしら」

「あれも中々よく飲んだ。産地の違いをよく利き分けた」


 あれ、というのが誰を指すのか明らかだった。新しい寵姫が勧めるまま、王は杯を重ねたらしい。確かに贅に縁のなかったあの娘には、極上の酒の甘味や苦味、酸味や旨味は未知のものだったろう。であればこそ、いちいち新鮮な反応で王を喜ばせたのかもしれないが。


「仕様のない娘ですね。陛下のお疲れを癒すどころか夜更かしをさせてしまうなんて」


 夜更かしの理由は酒だけではないだろうが、太陽の下、息子のすぐ傍であるゆえに、それ以上の言及は憚られた。


「あれに咎はない。見苦しく酔い潰れるなら興ざめだが、共に酒を楽しめるのは悪くない」

「左様でございますか」

「案じることはない。王妃はそなただ」


 王は吐き捨てるように言うと、王子の元へと大股に歩み寄った。

 夫と息子が戯れる様は、常のようには王妃の心を和ませてはくれない。王妃の胸には、娘のささやかなが刺のように刺さっていた。


 あの娘は王から上手くねだることを覚えたらしい。もっと美しくなりたい、陛下のお傍に相応しくなりたいと言っては衣装や宝石を欲しがるらしい。ある者は嘆かわしげに、ある者は妬ましげに王妃に注進してくれる。いずれの場合も、密告者は王妃の反応を推し量る卑しく下世話な好奇心で目を輝かせていた。


 閨に侍るのが勤めだというのに、日が昇ってからも王を独占しようとするのも。酔った姿態で王を誘うのも。前の寵姫はしなかったこと、王妃は教えなかったことだった。

 とはいえ王はそれを不快には思っていないらしい。むしろ情の深さと取って悦に入っているようだった。王が許すなら王妃だとて否やはない。死んだ娘にこだわり続けるよりは良いことだ。多分。


 近ごろあの娘は何かと理由をつけて王妃と会おうとしない。余計なことをするなと言った、王の意向もあるのだろうが。新しい寵姫の振る舞いをどこまで目こぼしするか、王妃はひとり頭を悩ませていた。王妃からの忠告を、文字通りに受け取るだろうか。疎ましがって逆効果になりはしないだろうか。


 娘の増長も、実のところ大したことではないのだ。しょせんは田舎育ちの少女のこと、想像しうる奢侈などたかが知れている。見た目は地味でも、王妃の纏う衣装の方がよほど高価で贅を凝らしたものなのだ。

 それに、何といっても娘は王を愛している。王の評判を下げることは望むまい。王の方も。愛とは呼べずとも、共に国を支える者として世継ぎの母として、王妃を尊重している。

 今のところは。王妃には王と――あの娘を信じる他ない。


 この先あの娘が王妃の地位まで望んだら、王は一体どう答えるのだろうか。




 共に剣の稽古をするという夫と息子と別れて、王妃の足は王宮の寂れた一角へと向かう。

 道中で、侍女が差し出す花束を受け取る。白い百合を束ねたものだ。花粉が衣装を汚さぬように、身体からやや離し、捧げ持つようにして運ぶ。行き先は、本来彼女が行くはずのない場所、王宮に使えた身寄りのない者たちが眠る場所だ。


 先の寵姫が眠る場所でもある。


 一度は栄華を極めた身にも関わらず、というべきか。墓所があるだけ慈悲だ、と見るべきか。王妃は言うべき言葉をもたないが、とにかくじめじめとした陰鬱な一角ではあった。


「そなたは少なくとも無欲ではあったのにねえ。ままならないものだわ」


 比較的新しく、まだ苔むしてもいない墓石に王妃は語りかけた。かつてはたまに花が供えられることもあったが、王が新たに寵姫を迎えてからはそれも絶えたようだ。

 だから、王妃の手向けた大輪の百合は暗い墓所によく映えた。あいにく雪割草は季節でなかった。


「陛下が忘れてもわたくしは覚えていてあげる。そなたはひと時とは言え王を慰めてくれたのだから。

 春先には、また来てあげましょう」


 その時には花束は一つで済むだろうか。王妃は密かにそう自問した。




 寝台から起きようとした王は、しかし何ものかに動きを阻まれた。見れば新しい寵姫がしっかりと彼の袖を握りしめている。菫色の瞳は、濃く長い睫毛に縁どられたまぶたの下に隠れている。娘が熟睡しているのは明らかだった。

 眠っていても、王を離そうとしないのだ。それを、王はこの上なくいじらしく思った。娘を無理に起こすのは忍びなくて、白魚の指を優しくなぞる。

 王になるべく生まれた彼にとって、真の忠義者と腹に一物抱えた者とを見分け、諫言と讒言ざんげんを聞き分けるのは常のこと。人が信じられない、などと青臭いことを言うつもりはないが――それでも、無意識のうちに示される娘の愛慕は好ましかった。


 死んだ前の寵姫はこうではなかった。慎ましく控えめなのは美点ではあったが、この娘に比べると、王への愛は薄かったと判じざるを得ない。朝も、いつも聞き分け良く王を送り出していた。あれは、ことによると独りの時間を待ちわびていたのではないだろうか。いや、それどころか――


「――陛下?」


 王が身じろぎしたのを感じたのだろう、娘の目がうっすらと開いた。はじめはごく細く、しかし王が半身を起こしているのを認めて、すぐに大きく見開かれる。


「もう行ってしまわれるのですね。お名残惜しい……」

「政務があるゆえ行かねばならぬ」


 この愁嘆場もすでに毎度のことだった。大きな目を潤ませてすがりつく娘の髪を撫でながら、王は前の寵姫の顔を思い出そうとした。死んだ方の娘がこのような情を見せていたら、と思ったのだ。しかし王の胸に深く刻まれていたはずの面影は、今やひどくぼやけたものになっていた。かつては死んだ娘の姿かたちを今の寵姫に重ねていたはずなのに、今では思い出さえ全てこの娘とのことのように浮かんでくる。


「王妃様のように、賢く陛下をお助けできない我が身が悔しくてなりませぬ」


 娘の腕が王の背に回された。最初の頃は羞じらって震えるばかりだったのが、逆に王と離れるのを嫌がるようになっていた。色めいたことではなく、単に酒を呑んで語らうときでさえ、肩を触れ合ったり手を握ったりしなくては気がすまないようだった。片時も離れたくない、と全身で伝える娘の姿は、王を大層満足させた。野にあった蕾を、彼の手で薔薇のごとくに鮮やかに、花開かせたのだ。


「余は王妃を愛している訳ではない。お前の方が美しく愛らしい」

「そのような……王妃様は大変にお優しい、素晴らしい方でいらっしゃいます」


 王妃の外見には触れないのは、礼儀のつもりなのだろうか。そこに娘の意地と嫉妬を見てとって、王は嗤った。


「余もお前を離したくない」


 娘の耳元に囁いたのは、一抹の本心はあるにしても半ば以上は戯れだった。王を気分良く過ごさせてくれることへの、ささやかな褒美のつもりだった。

 続けて薔薇のような唇に口付けようとした王は、娘の細い腕に阻まれる。


「ですが、わたしは王妃様に敵わない。陛下の対となるのはあのお方だけ」


 いじけたような、娘の表情と声。とはいえ、せいぜい子猫が爪を立てる程度のもの、容易くあしらえる程度のものだった。しかし、娘が語る内容は――


「わたしは陛下をお慰めする側女に過ぎませぬ。ですが、お役目をお助けするの王妃様と、どちらが代えがたいものなのでしょうか。民に微笑み外つ国へ威勢を示すなら、美しい者の方が相応しいのでは!? 」


 娘が語る内容は、王の舌も表情も凍りつかせた。

 不満げに尖らせた唇も、王を王妃を怨じる――もはや青い炎のような――菫色の瞳も。逃がさないと言いたげに王の背に絡む腕も、娘の美しさ愛らしさを損なうものでは決してなかった。それでいて、間違いようもなく娘の本気を告げていた。

 娘は王に突きつける。わたしと王妃、どちらを取るのかと。




 娘は勝利を誇っていた。死んだ寵姫に対しても、王妃に対しても。


 最初は、死んだ女に負い目を、王妃には恩義を感じていた。先の寵姫の似姿を演じて王の気を惹いていたから。しかし今は違う。

 王妃の言葉が彼女を操ることはもはやない。娘は自分自身の魂が欲するままに、王に甘え、王を愛し、心のうちを囁いている。そして、にも関わらず王は彼女を寵愛している! 死んだ女は今こそ本当に葬られた。王に侍り王を慰めているのは、に他ならない。

 唯一の不満は王が昼間のうちは王妃と過ごすことだが――それすらこの先は分からない。先日美しい彼女をこそ王妃に、とほのめかした時、王は彼女を咎めることをしなかった。


「王妃がお前に会いたいと言っている」

「まあ、光栄ですわ。わたし等と」


 だから、彼女は王が誘った時にためらうことなく微笑むことができた。彼女が王妃に対して恥じることなど毫もない。王妃の助言から外れてからの方が、王の寵愛は深まったのだ。死んだ女の型に嵌めることで、あの女は彼女の魅力をたわめ、彼女を操ろうとしていたに違いない。

 彼女は寵姫に過ぎないかもしれないが、王の心は彼女のものだ。王妃の目の前で、王が彼女に微笑む様を見せつけよう、とさえ。娘は考えていた。


「その席で、飲み物にこれを混ぜるのだ」

「これは……!?」


 しかし、何やら怪しげな丸薬を渡されて、娘はさすがに顔色をなくした。王が強引に手に握らせた、黒く小さく丸いもの。どのような効果を持つものか、想像するだけで触れているのも恐ろしい。


「王妃ではない。飲むのはお前だ」


 反射的に丸薬を床に撒こうとしてしまうのを、王は強く娘の手を握って止めた。愛する人の体温を感じて、娘の鼓動は恐怖のためだけではなく早まった。それでも、王が告げたことは彼女を安心させてくれない。むしろ、不安と怖れを強めるばかりだ。


「なぜ、なぜ、そのような恐ろしいことを……」


 喘いだ娘に低く笑うと、王は優しく口づけた。


「案じることはない。多少咳き込み手足が痺れる程度だ。――だが、嫉妬に狂って寵姫を害そうとしたとなれば、王妃を廃する理由に足りる」

「そんな、恐ろしい……」


 王妃の座に取って代わるのを夢見てはいた。だが、それは王が彼女のためにしてくれることと、心のどこかで信じきっていた。彼女自身に何かしらの役が与えられるなど、しかもそのために自ら毒を飲むなど、到底受け入れられることではなかった。


「できないか?」


 凍りついたように佇む娘に、王の言葉は容赦をしない。


「やはり王妃は侵しがたいか。それがお前の想いか」


 重ねて言われて、娘は我に返った。王への愛を疑われるのは、何より辛い。そうだ、信じてもらえるというのなら、本当の意味で王の隣にあることができるというなら、何だってしてみせよう。

 王妃が何ほどのものだ。王に愛されない冴えない女に過ぎない。毒が何だ。ほんの一時苦しむだけで、全てが彼女のものになるのだ。


「やります」


 娘の声にはかつてない力が込められていた。銀の鈴を転がすようだと王が称える常とは違って、抜き身の白刃のような鋭さが宿っていた。


「必ず。陛下のために!」




 王に伴われた王妃は変わらず穏やかに微笑んでいた。夫の妾を前にしての余裕こそ、王妃も王を愛していない証左のように思え、娘の勇気を奮い立たせた。やはりこの女は王には相応しくない。

 国王を彼女が迎える体裁も気に入らなかった。王が手を取るのは、常に彼女であるべきだった。


「珍しい茶葉が手に入ったの。口に合うと良いのだけど」

「誠にありがたく存じます」


 王妃から茶葉を恭しく受け取った娘は、こういうことか、と得心した。王の手回しに違いない。王妃から渡された茶葉に毒が入っていたという筋書きにするのだろう。


「わたしが、お淹れいたします」


 娘は手の震えを必死に抑えながら、王宮に来てから覚えた優雅な所作で茶を淹れた。王の視線が彼女を鋭く貫いて、決意を問うているようだった。彼女の分に例の丸薬を放り込むと、瞬く間に溶けて他と見分けがつかなくなった。

 何も知らない王妃は、茶の香りを味わって小さな目を一層細める。


「今日は嬉しいわ。そなたとはもっとお話したいと思っているのに、陛下がなかなか会わせてくださらなくて」

「わたしなど、お目汚しでございますもの。王妃様の御前になどもったいない」

「まあ、陛下なら良くてわたくしはいけないの? さみしいことを言わないで。陛下はそなたに大層ご執心なのですもの。一体、どのような秘訣があるのか、知りたくてたまらなかったのよ」

「そのような……」


 言いつけに背いた娘を遠まわしに詰る王妃に、娘は強ばった微笑みを返す。負け犬の遠吠えと分かってはいる。それでも、これから彼女がやろうとしていることのために、罪悪感から完全に自由になることはできない。

 娘は慎重に茶を口元に運んだ。王は大したことがない風に言っていたが、どれほど苦しいものなのだろうか。演技でも、大げさに転げまわって見せた方が良いだろうか。王の前で見苦しい様はなるべく見せたくなかったが。

 初めて味わう茶の香りは確かに芳しく、娘の後押しをしてくれた。礼儀には反するが、思い切って一息に飲み干し――


「――――っ!」


 娘の予想も覚悟も勇気も。愛でさえ、彼女を見事に裏切った。茶が喉を通ったと思った瞬間、娘は息が詰まるのを感じた。

 喉も胸も、何者かに骨が砕けるほどに締め付けられているようだった。痛みと苦しさに椅子から転げ落ちる。呼吸をしようと口を開いても、新鮮な空気は入ってこない。ただ無様な悲鳴にも似た喘ぎ声が漏れるだけ。口の端を涎が伝うのを恥じて、娘は精一杯顔を隠そうとした。


「本当に王妃に成り代わるつもりだったとは。思い上がりも甚だしい」


 娘の耳に届いたのは王の声だった。かつてなく冷たく、侮蔑と嫌悪に満ちていて、毒による苦しさ以上に彼女の魂を引き裂いた。


「なぜ……あいしてないと……」


 肺に残った僅かな息を使って、吐き出すように辛うじて問うと、娘の視界は一段と暗くなった。毒は決して手を緩めることなく彼女の胸を締め上げて、彼女を窒息させようとしていた。


「愛していないが得難い女とは思っている。政務の要であり王子の母でもある者だ。代えることはできない。

 ――王妃を立てることのできる女だと思っていたのに」


 裏切られた。


 そう吐き捨てられて、娘はただはらはらと涙を流して首を振った。彼女こそ王の裏切りを声の限りに叫び責め立てたかった。毒に喉を塞がれて、もうできなかったが。王妃を陥れるための策を、毒を授けたのは王だというのに。王の意に叶うと思えばこそ、愛を証せると思えばこそ、大罪に手を染めようと決意したのに。


「このお方はとても困ったお方。美しくて優しいだけの女では満足なさらない。このお方を誰よりも愛するのも当然のこと、その上で国のために日陰の身を耐え忍べる娘を求めていらっしゃるのです」


 王妃の声が遠くから聞こえて来た。すぐ傍に、同じ卓を囲んでいたはずなのに。遠ざかっているのは彼女の方なのだろうか。暗く冷たい闇の国に沈んでいこうとしているのだろうか。


「だから、そなたにはもっと教えておきたかったのだけど」

「余計なことをするなと言った。上辺だけ繕った女などいらぬ」


 娘の五感はほとんど失われていたが、影の動きと衣擦れの音から、王が王妃の方へ歩み寄ったのを感じた。ここに至ってもなお、二人が寄り添う姿を想像すると娘の心は嫉妬にかき乱された。


 ――やはり王妃は侵しがたいか。それがお前の想いか。


 王の声が耳に蘇った。あれは彼女を試していたのか。とんでもないと、あくまでも断っていたら、出来た女だと認めてもらえたのだろうか。だが、そんなことは無理だった。一度は退けることができたとしても、王への愛と王妃への憎悪は、彼女を必ず同じ道に導いていただろう。


 王と王妃は彼女の死を見届ける気はないようだった。一人残された娘は、苦痛に四肢をよじらせ、床にのたうって最期の時を待っていた。

 息を奪われた苦しみはどういう訳か薄れていく。自身が闇に溶けていく感覚は娘にとって安らぎでさえあった。しかし、答えのない問いは、その時が来るまで彼女を責めさいなみ続けた。


 わたしは陛下を愛しただけなのに。どうして、こんなことに。




 憂いに沈んだ風情の夫に、王妃は優しく語りかける。本当に久方ぶりに、夫婦二人で一つの寝台に休んでいる。


「大変に残念で悲しいことでございました。あの娘は心から陛下を愛していたのでしょうに」


 王妃のありきたりの慰めに、王の愁眉が解けることはなかった。


「真実心から余を愛していたのなら、余の妨げになることは望まないはず。あの者は、結局王妃の栄誉が欲しかったのだ」


 王の憂いは、彼自身への哀れみだった。理想の寵姫と一瞬信じた娘が紛い物だった。愛されたと感じたのに裏切られたと思っているのだ。

 あの娘に政の機微を察することまで求めるのは酷だった、とは王は気づいていない。王にとっての自明のことは、周囲の者にとっても自明のこと。王妃だけでなく側近も優れた者で固めているために、王はそれを当然のことと考えているようだった。


 王の不幸はあまりにも優れていることだと王妃は思う。知勇に優れ、美貌にも恵まれ、国威は周囲の国を圧倒している。王妃も――女としてはともかく――共に国を治める者としては申し分ない、と自負している。

 王は全てに恵まれているから、愛にも恵まれるものだと思っている。王妃は女としては王に相応しくない。ならば相応しい寵姫がいなくてはならない。王はそう信じて疑うことをしない。


「余の愛するに足る女はいないのかもしれぬ」


 だが、今宵に限って王は珍しく弱音を吐いた。それはおそらく真実ではある。


 美しい女はいくらでもいる。気立てが良い、などというのも褒め言葉としてはありきたりだ。しかし、そこから先、王が求める条件は恐ろしく厳しい。


 最初に死んだ――いまや二人とも泉下の人だから、言い回しが面倒になる――前の寵姫は、無欲なところが王の気に入ったようだった。しかし、王妃の見たところ、その娘の王に対する感情はせいぜいが尊敬に留まっていた。

 王宮に馴染めなかったその娘は、次第に同郷の兵士に惹かれていった。王が純真と呼んだ愚かさゆえに、彼女は好きな男に下賜してやろうという王の言葉を信じた。二人は闇の国で結ばれたはずだ。


 先ほど死んだ方の娘は、慎ましさでは最初の娘に適わなかったが、確かに王を愛していたのだろう。でなければ自ら毒を呑め、などと言われて頷くものか。自身の立場を弁えなかったのは彼女の咎だが、そこで自制できるようなら、それはそれで王は愛されていないと解釈していただろう。


 いずれの娘も、もう少し上手く立ち回れるはずだった。王妃が教えてやりたいほどだった。しかし、王は王妃の介入を嫌った。今回の娘に助言を与える機会があったのも、王に召される前から接触していたからに過ぎない。


 美しく優しく、控えめで。程よく無知だが愚鈍ではなく、物怖じせずに王を興じさせることのできる女。王だけを見て王だけを愛する女。それでいて正妃の地位など決して狙ったりしない女。訪れがなくても王のことを想い続け、感謝して寵姫の地位に甘んじることができる女。


 王の愛する理想の寵姫は、ひたすら王に都合の良いだけの女だ。そのような女は、王の頭の中にしかいない。そもそも、常に愛を試され疑われるのに疲れない女がいるはずがない。王は妥協を知らなさ過ぎるのだ。


「そのようなことはございません。次こそ、陛下のお心に叶う娘が現れるでしょう」


 しかし、王妃はそれを指摘することはしない。王の幻想を砕くのが忍びない、というのが理由の一つ。与えられることに慣れすぎた夫には、今更自分から愛を乞うて相手の気を引くことなどできないだろうと思うのが、もう一つ。


「そうだろうか」

「そうですとも」


 しかし、最大の理由はこの瞬間のためだ。寵姫に裏切られた――と思っている――王は、寵姫の記憶が薄れるまでは王妃の下を訪れる。女としては愛されなくても、王妃は少なくとも王の信頼を得ている。決して裏切らないと。王のためだけにある女だと。

 昼間は強く厳しい王が、弱気を見せて王妃に甘えるような仕草さえ見せる。先の寵姫が死んだ時に初めて知った、甘美な時間だった。


「だから、嫌なことは忘れて、今はお休みなさいませ」


 いるはずのない、王の愛する寵姫。王の心に住まうのが幻の女でしかないなら、王妃が嫉妬を覚えることもない。万が一そんな女が現れたとしたら――その時自分がどう思うか、王妃にも分からないが。まあ、そんな女なら王妃を不快にさせることもないだろう。何より、王が求める相手が見つかったなら喜ばしい限りと言えるはずだ。

 それに、王の愛する寵姫が見つかるまで、あるいは王が諦めるまでには、あと何回かこの時間を味わえるだろう。それは、王妃には何ものにも代え難いことだ。


 胎児のように身体を丸めた王をその胸に包み込むようにして、王妃は心からの愛と幸せに満ちた笑みを浮かべた。

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王の愛する寵姫 Veilchen(悠井すみれ) @Veilchen

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