第2話 なぜか大連
「大連?」
学友の宮本が大連に密航するという話を、阪本昭雄が聞いたのは1968年2月中頃の話だ。首都圏が十数年ぶりの豪雪になったその日、国電も私鉄も都電もバスも軒並みストップする中、大学近くの都電沿いの下宿街のアパートに住む昭雄の許を、夜遅くに雪まみれの宮本が震えながら泊めてくれと訪れた。安普請のアパートで暖房もない中、体を温めようと押し入れから安酒を取り出して飲むうちに、宮本が口にしたのだ。
「満洲で軍事訓練を積むために、志願して行くんだ」
隣の部屋の住人に聞こえないように声を抑えつつも、黒縁眼鏡を指で押さえて鼻息荒く語る宮本は、既存の左翼政党とは一線を画した新左翼が主導する全学共闘会議――通称・全共闘――系のセクトに所属する学生運動家だ。大学の自治会の主流派で、日本共産党の下部組織である民主青年同盟――通称・民青――と学内でゲバ闘争を繰り広げているのは周知の事実だった。
1968年、数年来続いてきた学生運動は、この年になると各地で激しさを増し、バリケードを築いて全学ストに突入する大学が相次いだ。
昭雄らの大学も例にもれず、学費問題に端を発した闘争が盛り上がり、全共闘が結成されて全学ストに突入したが、やがて民青が離脱、学内では当局、全共闘、民青の三つ巴の対立構造が出来上がった。そして、ストから1か月経ったものの、スト解除の気配はない。
しかし、それにしても軍事訓練とは穏やかではない。
「鉄砲持って警察と戦うのか?」
茶化しもやや混じった昭雄の問いかけに、宮本は大真面目に答えた。
「じきに、日本でもそれが現実のものになるだろうさ。俺はその時まで日本には帰らないつもりだ」
セクトのアジテーターとして活躍する宮本の言葉に、何時にも増して熱がこもる。3年前の4月、入学した時に同じクラスで知り合った間柄で、政治の話は分からなかったが何かと馬の合った宮本だったが、今回はどうもこれまでと様子が違うようだ。
「なんでまた満洲なんかに」
満洲――満洲人民共和国――は満洲労働党が政権を執る国家だということは、政治に興味のない昭雄でも一般常識として知っていた。反共産党系の新左翼の学生がなぜ渡航するのか。
それを聞いた宮本は、分かってないとばかりにかぶりを振る。
「今、日共(日本共産党)は満洲労働党と対立してるんだよ、知らないのか?」
日本共産党と満洲労働党はこれまで反ソ連の立場から友好的だったが、ここ2年ほど、暴力革命路線への認識の齟齬から激しく対立し始めたのだという。そこに、暴力革命をも辞さない新左翼の一部が接近しているというのだ。都立高校時代からバリバリの学生運動家だった宮本によれば、これは常識の話らしい。
「満州には様々な民族がいるから、それぞれの国に革命を波及させる、東アジア革命の一大拠点なんだ。さながら、中南米におけるキューバのようなものさ」
カストロが率いるキューバからチェ・ゲバラ率いる部隊が中南米やアフリカの各国に左翼革命を輸出しに派遣されていたという話は昭雄も聞いたことがあったが、遠い太平洋の向こうの話とばかり思っていた。
「いつ行くんだ?」
「5日後、新潟から密航船に乗る。明後日には東京を出る」
「急だな」
「当局につかまれる前に渡航しなけりゃいけないからな」
現実感のないやり取りをする中で、ふと彼にもう会えないのではないかという疑念がよぎった。ゲバラも去年ボリビアで逮捕されて銃殺された。
「死ぬなよ。生きて帰って来いよ」
行くな、と言って聞くような奴ではない。せめて言えるのはこれくらいだろう。宮本も分かっている。
「その時は、日本で革命が起きる時さ」
昭雄の記憶はそのあたりで途切れている。酔いが回って寝落ちしたのだろう。翌日目を覚ますと、宮本はすでに帰った後だった。
――――――――――
宮本が逮捕されたと昭雄が聞いたのは、その豪雪の日から1週間後だった。宮本らセクトのメンバーの動きは、内偵捜査を進めていた警視庁の公安に筒抜けで、新潟港で漁船を模した密航船に乗り込もうとしたところを、張り込んでいた捜査員に全員逮捕されたらしい。らしい、というのは、宮本と同じセクトに所属していた、別の学友からのまた聞きだからだ。
「近々満洲政府は日本政府との外交取引をするらしい。その時、革命を輸出していたという事実を隠ぺいするために、日本政府に情報を売ったんだ」
そう憤っていた学友も、数日後にはどこかへ姿を消していた。彼にも逮捕状が請求されたため、身を隠したというのだ。
その陰謀論が本当かどうかは定かではないが、民間で満洲との交流を細々と続けていた日満友好協会が中心となり、そのころから大規模な日満交流が始まったのを、昭雄もニュースで知ることとなった。
敗戦後に満洲に在留した日系満洲人と日本国内の離散家族の再会事業、プロ野球や大相撲による満洲親善訪問、ハルビン人民交響楽団の来日コンサート、そして日満友好協会主催の学生訪満事業である。
大学への警官隊の導入で全共闘のバリケードが排除され、ストが解除された5月。未だアジビラやバリケードの角材や投石用のブロックで雑然としながらも、葉桜の蒼さが新しい季節の到来を告げる学内で、掲示板に張り出された学生訪満使節の参加者の募集ポスターを目にした。
「民族協和の国、アジアの隣国・満洲へ行こう!」
――1か月の行程で、行先は大連、奉天、新京、ハルビン。旅費は日満友好協会が全額負担。興味のある学生は学生課まで。――
宮本が密航しようとしてそして逮捕されてまで行こうとした大連は、こうも簡単に行けるらしい。
「……馬鹿みたいだな」
誰に向けたでもないそのつぶやきは、どこかで新左翼の集会が開かれているのか、流れてきた拡声器越しのアジテーションに紛れて、誰の耳にも入らなかった。
間もなく再開した必修講義が始まるところだった。
昭雄は、その教室が入る建物には向かわず、そのまま、学生課の入る本部棟へ足を向けた。
「どうせヒマだ」
本部棟の入り口の前で立ち止まり、誰に言い訳するでもなく、そうつぶやいた。
レッド・マンチュリア・クロニクル 坂上泉 @sakagami_izumi
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