レッド・マンチュリア・クロニクル

坂上泉

第1話 弟と兄

 品のよい料亭の座敷で、2人の男が座卓を挟み、燗酒を飲んでいた。


「これは俺の悲願でもあるが、お前にも悪い話じゃあないと思うがね」


 紺の和服を着た男が猪口を口から離し、呟くように言った。齢70を過ぎ、老獪さに磨きがかかってきた男の容貌からは心を読むことは難しく、この時も真意は厚ぼったい瞼の向こうに仕舞われていた。


「そうは言うが、俺の事情も考えてくれ」


 向かい合ったもう1人の男が、猪口を口に運ぶ手を止め、ギョロリと目を剥く。ギラギラとした目つきといい、黒々とした太い眉といい、荒い語尾といい、不機嫌さを隠さない。60代も後半に差し掛かってなおも、男からは青年のような激情さが漂う。それは妻が選んだであろう赤いネクタイの影響もあるかも知れない。


「タダでさえ、沖縄をめぐってアメリカとも難しい綱渡りを強いられているのに、この上にその問題まで抱え込めと言うのか」


 赤いネクタイの男はそういうと、やや冷め始めた猪口を口元に、ぐいと仰いだ。顔もネクタイ同様に赤くなっているのは、激情のなす術か、はたまた酒のせいか。


「アメリカに文句を言わせないような名目は、学生の交流なり、分断家族の再会事業なり、スポーツ親善なり、何とでも立てられるさ。お前には迷惑はかけんから、俺に任せてはくれんか」


 和服の男は口元を少し緩ませながら、卓上の徳利に手を伸ばし、向かいの男の猪口に酒を注いだ。元日から宴席続きで、肝臓を休める間もない日々だった2人は、この日はともに酒を控えるつもりだったが、話が進むにつれて酒も進み、これで5本目だった。


「中国が黙っちゃいないだろう。あれは兄貴がやり遂げた話だぞ」


 赤いネクタイの男はそう言って酒をあおる。鼻孔に日本酒の心地よい香りが刺す。ふうと、ため息をつきながら前を見ると、和服の男は、目を少し細めたように見えた。


「中国はいかんよ。底なしの泥沼だ。戦争でもそうだったろう。国交正常化から10年経って、よく分かったよ」


 20数年前の記憶は、2人に限らず、この国の一定年齢以上の人間の多くが有するところである。まして2人は、その記憶の持つ意味を、より強く認識する、いやせざるを得ない立場の人間である。

 それを分かっているか、と念押しするように、和服の男の細まった目が、向かいのギョロリとしたどんぐり眼を、刺す。


「大陸に橋頭保を築くなら、あそこしかない」


 その言葉に赤いネクタイの男の動きが、固まる。この男は本気だと、長年の付き合いから勘付くのは容易だった。一体何を考えているのか……。

 急に、和服の男がクシャっと表情を崩す。出っ歯が口から覗いた。


「どうだ、乗っからないか?」


 どこかユーモラスで、巷で子供に流行っているという妖怪漫画のキャラクターのようですらある。

 赤いネクタイの男は、くすりと笑いを零しそうになった口を、キッとへの字に曲げ、そして大きく息を吐いた。降参の白旗だ。


「政府も党も、何も手を出さん。勝手にやってくれ」


 精一杯の威厳を保とうと、わざとつっけんどんな言い方をした。


「そうするよ。そろそろ俺は帰るよ」


 和服の男は、おもむろに立ち上がり、仲居を呼んだ。四十路の女将が襖を開け、三つ指揃えて頭を下げて挨拶を口にし、続いて2人の外套と襟巻を手にした妙齢の仲居が入ってきた。常連の2人についてよく心得ている女将は、料亭の裏口に車を用意していることだろう。


「今日は冷えるな。また呑もう」


 和服の男は相手の肩をポンと叩いて、外へ出た。その後ろ姿を見送りながら、残された男はまた大きく息を吐いた。


「何とも壮大な話を……」


 赤いネクタイの男――佐藤栄作は、眉間を寄せ、また息を吐いた。およそ、時の宰相らしからぬ表情であった。


「満洲国交正常化……なあ」


 兄、岸信介の持ち掛けた話は、それだけ壮大な話だった。

 1968年、昭和43年の1月中旬のことである。

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