第3話 生きるためじゃない

 鳥の囀りを耳に入れ、俺は固くほんのりと冷えた机から重たい体を浮かした。この鳴き声は、雀か何かだろうか。だとしたら、随分と風流なものだ。

 なんて呑気な感傷を脇に置いて、現状確認。最後にかろうじて記憶できていた時計が指し示していた時刻は大体夜中の二時半、位、だった、と思う。後から後から引っ付いた不確定のニュアンスを含む言葉に内心苦笑を禁じ得ないが、では三時以降を示す時計が記憶の片隅を牛耳ぎゅうじているのかという問いに対して、俺は答えることが出来なかった。ということは、俺の稚拙な推理は、僭越ながら当たっているのだろう。


「描いててオチたか…」


 その声色は、自分でも把握できるくらいには喜色を含んでいた。

 普段なら、目の前にあるゲーム機に呆れつつも心のどこかで諦念をにじませ、その事に不快感を抱く筈なのに。


 それだけ、夢に向かっての意識が変わったという事なんだろうか。


 と、思いたいのだが。


「今日、中間テストじゃねーか……」


 試験日ともなるとそうもいかないようで、寝ぼけ眼でぐったりとぼやく。よくよく考えてみれば、テスト前日に勉強で寝オチをしない方が学問的に不健全なのだろうか。いや待て、そもそも前日ではなく正確には当日の深夜か。


「……トイレ行こ」


 俺は脱線し混濁した考えを便と一緒に排泄しようと、トイレへの道を急いだ。








 テストが終わった。

 仮初めの張り詰めた雰囲気がほどけ、程良い喧騒が耳に響く。その内容に耳を澄ませば、午前中に帰宅できることを大いに喜んでいる声や、テストのより正確な答えを導こうと悪戦苦闘している声が聞こえてきた。あくまで個人的な意見だが、後者はどうせ点数や解答は後日判明するし、大体今になって正答が判明したところで後の祭りじゃないか、と思う。まあ、野暮なんだろうが。


 俺達プログラミング部員の全員の学力は全体で見るといたって平均的なのだが、その内訳には天と地どころじゃないほどの差分がある。


 まず、俺。テスト勉強というものをあまりしない俺は、まあ、それなりの結果しか出ない。かといってしていない訳でもないのでそれなりの結果は出る。要するに、平均と見てもらいたい。出そうとも引っこもうともしていない者の末路は、平均に限られる。まあ、あとの2人と比べて特筆出来ることが何もない、と言えばそれまでである。


 次に、晃雄。昔は学力に富んでいたらしいのだが今はその片鱗を見せる影も無く、実技のテストを含めた全教科でさえ合わせて点数が一桁を超さない。本人の弁によれば、いつも最下位なのだそうだ。そんな晃雄のチャームポイントのように見える馬鹿っぷりだが、以前俺はそれをネタにしていじってやろうなんて愚考を実行してしまった。晃雄の学力に足を踏み入れたが最後、チャームポイントなんて可愛く愛くるしい言葉では済まされないような事情を聞かされてしまったのだが、ここでは割愛しよう。とにかく、以来俺はずっと晃雄に負い目を感じているのだが、それは内緒だ。


 さて最後、京助。プログラミング部全体で見れば平均的、そして俺が平均、晃雄が最下位と来れば、こいつは最上位に位置する。何せ全教科において100点を下回ったことは無く、常に最高点を勝ち取り続けているのだ。一位以外になったことはないという地球上でも珍しい功績を持つのは必定といえよう。しかも、これだけ良い点を取れていながら家では勉強を微塵もやったことすらないと言うのだ。確かによく考えてみれば京助はストーリー制作以外に特別な興味を示したことがない。勉強にはそんなに力を入れていないということなのだろう。脳味噌をお借りしたいというほど羨ましい訳では無いのだが、それでも羨望の眼差しを向けてしまう。


 これだけ差が大きすぎるからなのだろう、俺達の間ではテストの後に友人同士で飛び交うのであろう「ここの問題どうした?」「答えこれであってるの?」などの会話は始まる雰囲気さえ見せない。


 ちなみにするとしたら、こんな会話だ。


「帰ったら何するの、ひろちゃん?」

「んー……、とりあえず2時間位仮眠をとってゲームでゴロゴ、ロ?」

「いつもと変わらんじゃん」

「そう言うお前こそどうなんだよ、晃雄?」

「んー……、とりあえず2時間位仮眠をとってゲームでゴロゴ、ロ?」

「俺と使う言葉まで同じじゃねーか!」

「あはははははっ!!」


 ……お忘れの方の為にもう一度明記しておこう。これはテストの後にしている会話である。

 と、俺達が馬鹿話に花を咲かせていると、こちらに近付く気配に俺は気付いた。


「あ、悪いけどちょっとトイレ行ってくるわ、京助。ちょっと待ってくれるか?」


 ……京助に気付かれないように、晃雄に合図を送る。といっても、晃雄をじっと見つめるだけという判りにくい上に何も教えていないサインなので、気付かなければそれでいいが。


「あ、俺も俺も」


 そんな俺の心配は杞憂に終わったようだ。

 正直気付くとは思わなかったので、俺は晃雄の勘の良さを内心で褒め称えた。


「え? う、うん。いってらっしゃい」


 京助は多少面食らったような顔をして、だがすぐに笑顔を取り戻し、背を向ける俺達に軽く手を振ってくれた。


 俺達は教室から出ていく。

 ……ふりをして窓から京助を覗きこむ。


 京助はやることがなくなったのか自分の読書用の本を取り出して読んでいた。その読んでいるだけで様になる楚々としたたたずまいを陽光が生んだ影が更に幻想を醸す。ただ無為に時が過ぎるのを待つその表情に色は無く、素朴な翁人おきなびとを思わせる。漫画ならドラマチックなシーンになっていただろう。ああ、紙と鉛筆が欲しい。そんな発作的な衝動が俺を揺らす。だが、俺はその衝動を吐息に乗せて蒸散させた。


 なぜなら。

 京助の後ろに近付く1つの影が、それはそれは厄介な存在だからだ。


「……緊急事態の時は出るぞ」

「おう」


 その影は、京助に吸い寄せられるように立ち止まった。

 俺は、ファッションは常識的な範囲でさえてんで駄目なのでよく分からないが、あの髪型はショートボブと言った筈だ。それに併せて、割とふくよかな体型をしている。といっても、本当に気にしないと分からないぐらいではあるのだが。顔は垂れ目以外にそれといった特徴は無く、巷で騒がれる美人でもなければ皆から引かれるほどのブサイクでも無い。しかし、一目見た印象はきっと誰が見ようとも「優しそう」だろう。

 影はそんな優しそうという印象を深めるような笑顔を京助に向け、話しかけた。


「京ちゃん、さっきのテストの答えが何でこうなるのか教えて?」

「ん? ああ、三ツ橋さん。どこの問題?」

「むぅ、“三ツ橋さん”なんて他人行儀……。“七美”って名前で読んでくれていいから」

「あっ、ごめん。えっと……七美“さん”」

「……まあいいか、えーっとね」


 その言葉を境に京助と七美の距離が近付いていく。

 どころか、色々当てている、わざと。顔もあと一歩で頬がくっつき合いそうなほど。

 ちなみに京助はというと、それに気付く様子もない。


 だが、ここまでは様式美。ここからあの七美クソビッチがやらかすのでトイレから戻ったふりをしてとっちめに行く。


 三ツ橋七美みつはしななみ。俺と一緒に学級委員をやってくれている出来た幼馴染だ。もっとも、長年付き合えどその間に一切の恋愛感情は存在せず、度々俺と一緒に居るのを発見されてからかわれるのだが、現状の手前どうにも落ち着かない。もし今俺と七美の間柄について言及したい奴が居るなら、まずお前の目は節穴かと罵った後に、それの否定に一番効果のある目の前に視線を促すだろう。相手の言葉に詰まる様子が質量でも持ちそうな程にありありと浮かぶ。

 今、眼前では野次も飛ばない、犬も食わない、胸焼けしかしないの「無い」三拍子を併せ持った桃色が醸されていた。周囲の生徒の色を吸い取るかのように発せられる甘美な色に、俺はただの一教室が見るに堪えないけしからん店へと変貌していくという手品を目の前に呆然と立ち尽くすだけだった。やっぱり何度見ても慣れるものではない。


 若干放り投げかけた意識をすんでの所で体に叩き付け、再度七美と京助を注視する。七美の過度な接触を避けるため、こうして見張ってそれらしき言動を見かけたらトイレから戻った振りをしてとっちめに行くという算段だ。まあ、京助もちょっとは拒絶の意思を持ってくれると助かるんだがな、と日頃から皮肉を視線で送ったりはしたのだが、ハイパーに鈍感なあいつが気付くはずもなかった。


「……」

「……」


 京助の周りはあんなに騒がしいのに(二人なのだが)、こっちは横を通る人が配慮をしてくれるほどに静かである。不甲斐ないというか、嘆かわしいというか。

 と、そろそろ警戒せねばなるまい。得物という名の胸部によるおいろけ攻撃を。

 七美が京助の肩の辺りに胸部をかすらせた。


「……んっ」

「えっと、それでここから……」


 危険な喘ぎ声。

 だが、まだだ。まだ、京助が気付いていない。ボーダーラインを踏み越してはいない。


 さて、二度目。


「……んあっ」

「ここが……って、大丈夫?」


 まだ。よろめいただけなのかもしれない。

 だがその発想は、次に発せられたわざとらしい言葉と芝居めいた仕草で見事に打ち消される事となる。


「ちょっと、試験のっ、疲れ、が―――」

「あ゛ー゛す゛っ゛き゛り゛し゛た゛な゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

「……ってうわー、七美大丈夫なのかー?」


 ……俺の棒読みはともかくとして。

 晃雄、その芝居がかった事するときに出るダミ声何だよ、と突っ込まずには居られなかった。


 その後、見事ボーダーラインを踏み越すどころか踏み抜いた七美の暴走を取り押さえた。七美が頬を膨らましてこっちを見てきたが、「お前の今後の名目の為であり、京助の貞操……じゃない、えっと、ピュアな心を守る為でもあるから許せ」と目配せで信号を送ると、まあいいやという諦念からか露骨に視線をずらした。それにしても晃雄といい七美といい、お前らは何で目で口以上に物を言えるのだろうか。また眠れぬ夜を過ごす羽目になりそうだ。


「あっ、二人とも。お帰り」

「おう」


 さて、ここからが本番だ。

 七美がまた暴走しないように、言葉の末端まで気を配らなければならない。少しでも口実を与えてしまったら、もう、止められそうにない。


「京助、今日は一緒に帰ろうぜ!」

「えっ、急にどしたの? 晃雄、違う方向じゃなかったっけ?」

「例のアレについて話したいことがあるんだってさ」


 ちなみに、俺達の中で言う“例のアレ”とは、あの晃雄が作った格ゲの事である。夢の為とはいえ随分と無茶苦茶な理由だな、京助に感付かれるぞ、と内心ヒヤヒヤだったが、よく考えてみたら京助はあの七美の好意猛攻に澄ました顔でいられる程の朴念仁だったな、と後半の部分を消してすっきりする。

 それはともかく、お互いフォローを入れあってさっさと教室を後にしようしたのだが。

 そこに横槍が。


「待って!」

「「げっ!」」

「ん?」


 三人の反応には温度差があった。正確には二人と一人。

 俺達は、しまった、という思い。

 京助は、ただただ純粋に。


「じゃ、じゃあ私も! 京ちゃん、その時に教えて、どうしても気になるの!」

「え、えっと……」


 普段そこまで気にしないだろ、とか、帰り道じゃあ口でしか教われないんだから明日じっくり京助と勉強イチャラブすればいいじゃねーか、とか、幼馴染として思う所が無い訳ではなかったのだが、そのいのししにさえ肉迫する勢いの七美を前にそれは叶うはずもないと悟ったのも、長年の付き合い故か。内心まるで仙人のように達観しているものの、自分の何とも不甲斐ないことか。


 そんな風に、七美をどう止めるかという手段ではなく止めようかどうかという前提をテーマに脳内会議を着々と行なっていた俺は。


 あの京助でさえ疑念を抱く程の執念で京助と同じ帰途に着こうとする七美がに片足を突っ込んでしまうのを止めることが出来なかった。


「ほ、ほら! 木下君だって気になるでしょ? 木下君もこの機会に全教科合計一桁から脱却したら?」


 ……七美が今日、京助と一緒に帰る可能性は虚無へと消えた。

 目的を達成した筈なのに、その達成感が晃雄の表情を見る度に砂のようにするすると心の隙間を縫い落ちていく。その空虚な心は、やりきれない思いを存分に募らせた。俺は渋面を知らず知らずのうちに作る。

 晃雄が表情をフェードアウトさせ、小さな、しかし明らかに怒気を含んだ声で、はっきりと、拒絶を表した。


「……俺には、勉強なんて必要ない。余計なお世話だ」

「で、でも――――」

「……あっ」


 京助がはっと顔を上げたが、一転してすぐ申し訳なさそうに顔を沈ませると、隣の恋する乙女へ容赦ない一撃を放った。


「……ごめんね、七美さん」

「え?」

「晃雄の横で、勉強を教える気にはなれないよ」











 結果として、七美は俺達とは、いや、京助達とは一緒に帰らなかった。

 三人、無言で並んで帰り道を練り歩く。


 ただの励ましに聞こえるかもしれない。

 理論めいて聞こえるかもしれない。

 だがそれでも、俺は晃雄に、言わずには居られなかった。


「…晃雄」

「…何だ?」

「確かに、学力は何かに要るのかもしれん」


 二人が俺を真剣に見つめてくる。


「だが、その”何か”は、生きるためじゃない。生きるために必要じゃないんだ」


 晃雄は、こうして生きているんだから。


「学力なんて、欲しい奴が身に付ければいいのさ。その、生きるため以外の”何か”が欲しい奴が」


 学問が夢、って奴とか。友達関係上仕方無くとか。

 仕方無く、とか。


「その"何か"が欲しくない奴、ないし学力が自分の平穏を保つのに邪魔な奴は、無理に身に付けなくて良いんだ。お前は、悪くないんだ」


 あれは、お前のせいじゃないんだ、晃雄。

 だから、思い詰め過ぎるな。


「……おう、ありがとな」


 その目は穏やかで、そして寂しそうだった。

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それでも俺は哭き続ける しゃぶしゃぶ @chirinuruwo8081

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