第4話

 教育実習もいよいよ大詰め。あと残すところ二日。

 しかし、大半の生徒はそんなこと知ったこっちゃない。大切なのは、もう、夏休みが片手で数えられるところまでやって来ているということ!

「亜紀ちゃんとこ、上高地だって? いいなあ」

「智ちゃんだって、伊豆に別荘あるんでしょう?」

「夏は暑い伊豆よか、絶対、涼しい信州よぉ!」

 こんな会話が痛いほど聞こえてくる金持ちお嬢様学校。なまじ親の見栄でこういった学校に入れられたばっかりに、肩身の狭~い思いをしなければならない生徒っていうのは、本当に可哀想なものである。

「な、なによ、わざわざ聞こえるように言わなくても良いじゃないの。フン、本当の金持ちってのはね、仕事で忙しくてのんびり休暇を楽しんでる余裕なんて、ないんだから」

 そうつぶやいてみせるが、真の大金持ちというのは、どうやら違うようである。

 こちらは筒井財閥の一人娘良子と、その取り巻き連中である。

「今年の夏はどーすんの、良子」

「今年もお父さまは忙しくて駄目ですから、叔母さまとオーストリアのバイロイトに行きますの。そのあとスイス」

「じゃあ無理かな? お兄ちゃんの誕生パーティー」

 えっ、と良子が振り返る。

「8月18日なのよね、来れる?」

「あ、大丈夫! お盆には帰って来ますわ」

 急にニコニコ、現金払い。

「で~もねぇ、いくら一度会ってるって言っても、突然押しかけるってのはねえ……。何か進展あったと言うのなら別だけど?」

 一転、良子はガックリうなだれる。

「もたもたしてると、ほんっとにおねえに奪われちゃうわよ」

 そうなのだ。あの日以来、男嫌いのレッテルをかなぐり捨て、

「先生は私が中学2年の時から、ずっと想い続けてきた人なのよ」

 こう言ってはばからない美子。この爆弾発言に、今、学校中話題沸騰の毎日なのだ。

「ねえ、知ってる? 中村先生って、おねえの家庭教師だったんだって」

「キャ~ッ、それじゃおねえの男嫌いって、もしかして先生との間に、男性不信に陥るようなことがあったってわけ?」

「ま、まさか……。亜美のお兄ちゃんに限ってそんなこと……」

「違う違う、先生以外の男が目に入らなくなるようなことがあったのよ、きっと」

 おねえとその家庭教師であった中村先生との間には、もう、すでに何かあったに違いないと決めてかかっているフシがある。

「本当に亜美のお兄ちゃんが好きなら、今の内にちゃんと手を打っておかないと駄目よ」

「イクとこまでイッて、既成事実にしちゃうんだな」

 キッパリ、麻衣は言い切った。

「でも……」

 その言い回しはちょっと、とさすがに妹としては頭が痛い様子。もうヤダヤダ、と投げやりな口調で、

「そう言えばお兄ちゃん、今日の夕方、図書館に資料捜しに行くって言ってたっけ」と言う。

「ほ、本当ですの?」

 目を輝かせて、良子は亜美の手をとる。

「この前借りた本を返さなきゃって言ってたから、たぶんうちの学校の図書館じゃないと思うな」

「あ、ありがとうございます。私、頑張りますわ。こんなにみんなが応援して下さって、私、私、嬉しい」

 涙を流さんばかりに言う。

 亜美は、ちょっと複雑な表情をしてため息をついた。

 一方、こちらはなにかと周囲に華やかな話題をまき散らす中村浩君とは対照的に、最近とみに暗~いもう一人の男の教生、榊原クン。ことの起こりは言うまでもない、例の「おさわり事件」である。

 別にこれだけならば榊原人気に陰りをきたすまでには至らなかったのだろうが、もう片方の男の教生が亜美のお兄ちゃん、しかも明央大学に行っていることが判明して以来、人気は逆転。その上悪いことに、彼の大学がワレてしまったのである。

 西都大学。

 都の西北にある明央と並び称される有名私立大学と違って、この純粋に都の西にあるだけの大学。どこに出しても恥ずかしい、名実共に三流大学である。

「あっれじゃねー」

「ほーんと、西都じゃ、お先真っ暗だわ」

 よくも知らないくせに、言いたい放題言っている生徒達。もっとも、その中身までもっと詳しく知ってしまったら、話題にすることすら、ためらったかもしれない。

 この榊原クン、実はお姉さんが聖朋学園の職員だったりするのである。

「え、就職? んなもん考えてないよ」

 こういう弟を口説き落とし、せめて学校の先生でも、という姉心。いやがる弟に、少しでも楽しい教育実習ができれば、とこの女子校を薦めたのが、どうも裏目に出てしまったようだ。

 おかしい、なんでこの僕がモテないんだ。顔は良いしスタイルだって文句ない。声もなかなかなもんだし、一体、何が不足って言うんだ。

 多少性格に問題がある気がしないでもない。

 が、まあ実際、渋谷や原宿、六本木あたりでは彼はモテにモテたのは事実である。海に行っても、スキーに行っても、どこに行っても彼の周りは女の子の黄色い声で満ちあふれていた。

 ところが、この学校では二日ともたなかった。

 で、その夜、六本木に出てみる。しっかりモテる。自信を持って翌日学校へ行く。と、鳴かず飛ばずの連続である。

 鳴かず飛ばずぐらいならまだ良かった。

 それが、みんなの目つきが違うのである。なにしろ二枚目のはずの顔までが、「スケベで女たらしの顔」というふうに見られてしまうのである。

 更にもうひとつ困ったことがあった。

 亜美の前に出ると、なぜか思うように言葉が口から出てこないのである。

 そんな、バカな。保育園以来泣かせた女は数知れず。相手が女とみるや(しかもちょっといい女とくれば)片っ端から声をかけ、電話し、デートに誘い、愛敬をふりまき、お茶や食事、お酒までおごったりして節操もプライドも投げ捨てて「明るいボク」を演出してきたプレーボーイの典型とも言うべきこのボクが……。

「はい、なんでしょう」

 亜美の涼しげな瞳で見つめられると、完っ璧に舞い上がってしまうのである。

 今日こそ絶対に、そう心に決めてお昼休みの図書館前で亜美を待つ榊原クン。

 普通なら、建物の蔭から「やぁ」と、歯を光らせて出て行くところなのだが、亜美の姿を目にしたとたん、あの、胸の感触が頭を過ぎってしまった。

 間違いない、70のF。

上から押さえつけているので外見からはわからないが、細い肩幅に較べて、我が手で掴むことができなかったほどの豊かな乳房。一瞬だが、ブラが上にずり上がって触れたその柔らかな感触が、まだ生々しくその手に残っていた。

 数百人もの女性と肌と肌の触れ合いを通じて培われ、磨かれてきた確かな感覚が、亜美がずば抜けている存在であることを告げていた。

 妄想が頭の中を駆けめぐっていた榊原は亜美が前を通り過ぎてしまい、一歩出遅れて背後から亜美に声をかけた。

「き、君……、あの、中村君」

 ゆっくりと亜美が髪をなびかせて振り返る。そして見事に揺れる胸元。

「はい?」

 一瞬、その胸元に目が釘付けになり、榊原の頭の中は真っ白になってしまった。

 何か言わなければ、という、その焦りがさらなる焦りを呼ぶ。

「あの、君、君が、す、好きだ」

 騒然となる図書館前。

「きゃ~~~っ、ついに言った~っ」

「やっぱりね~」

「何かあると思ってたんだ」

「あの教生、亜美の巨乳にイチコロだったんだ」

 ちょ、ちょっと待て、なんでこう一気に短絡せにゃあならんのだ!

 力いっぱい自己嫌悪に陥る教生を、亜美は冷やかに見つめる。

「あのう、先生、無理しなくていいですよ、たかが胸触ったぐらいで。あたし、何とも思ってませんから」

 さ、行こう、と麻衣を促してサッサと図書館に入って行く亜美だった。

「バッカじゃないの、あの教生」

「ほーんと、やっぱ、頭おかしいのよ」

 目の前が真っ暗になってしまった榊原クン。今はただ、早く実習が終わって、明るく健康的で、すべての暗~い過去を拭い去ってくれる「夏」が来るのを待つばかりであった。

 さて、放課後である。

 生徒達の下校が一段落ついた頃、まるで有名人のお忍び風の、サングラスをかけた教生の姿が校舎の裏門から消えて行く。

 誰も追いかけて来ないようだ。

 ホッとしたのも束の間、彼の横に、それまでお目にかかったことのないシルバーメタリックの、もの凄い豪華な車がやってきて、音もなく、スッと止まった。彼が見たことがないのも無理はない。日本に数台しかないという、フェラーリー・ピニンファリナである。

 セダンタイプでありながら、フェラーリーの高回転エンジンを搭載し、やや硬めなサスペンションとショックアブソーバーで、スポーツカー並の高速走行とコーナリングを可能とした、パパラッチ対策仕様、筒井財閥お嬢様専用車である。防弾ガラスや防弾タイヤはもちろん、写真を撮るためにフラッシュをたくと、光が反射され、中は逆に見えなくなるという、特殊加工されたガラスを使用している。ボディーは対戦車用迫撃砲にも耐えられる、軽量堅牢なカーボンファイバーが用いられている。

 ちなみに父親である筒井財閥総帥専用車は、色違いの黒である。運転手はともにA級ライセンスを持っていることは言うまでもない。

 車の窓が開き、良子の恥じらいを含んだ初々しい顔が覗く。

「あのう……、図書館へいらっしゃるのでしたら、ご一緒いたしませんか?」

「えっ?」

 何でそんなこと、知ってるんだ。

「さ、どうぞ」

 黒い眼鏡に黒い服という、このクソ暑い季節にまるで絵に描いたような典型的な恰好をした男が、車から降りてきてドアを開ける。

「さ、さ、ご遠慮なく」

「ちょ、ちょっと」

 背中を押され、浩の体は筒井財閥お嬢様専用車に収まる。そしてアッと言う間に走り去って行った。

「あれっ、今の、教生してる亜美のお兄ちゃんじゃない?」

「えっ? あれって、良子ん家の車だよ」

「そうだけど、今乗ったのは、確かに亜美のお兄ちゃんだったわよ」

「と言うことは、こりゃ、た・い・へ・ん!」

 この噂は、あっと言う間に広まった。

        *

「ったく何してんの、ほんとに。もう、7時じゃないの」

 晩飯をとっておくとかそういったことで、イラついているのではないようである。

 その時、階下で電話が鳴った。

「んもう、携帯にかけてよね」と独り言を言いながら、ドドドドドッ、とスッ飛んで行って受話器をグゥァシッ、とつかんで耳に当てる。

「あ、亜美か?」

 至って能天気な兄の声が受話器を通して聞こえてきた。

「なあにやってんのよ、お兄ちゃん。まさか良子と一緒なんじゃないでしょうねぇ?」

「え、なに?」

「良子と一緒かって、聞いてんのよっ!」

「良子? ああ、あの凄い車の女の子かあ」

「そう、その凄い車の超絶箱入り娘よ!」

「その娘なら、今さっき別れたけど」

「どこで?」

「渋谷駅」

「車は?」

「へっ?」

「良子のお迎えの車は?」

「帰る時また呼ぶからって言って、先に帰したようだったけど」

「じょ、冗談!」

「冗談言っても始まらんと思うが」

「あ・の・ね……。何で良子がそんな凄い車に乗ってるかってこと、お兄ちゃんは考えてもみなかったの?」

 少し間があって、

「うーん、それもそうだな」

 アハハハハ、と陽気に笑う兄。妹は受話器を握りつぶさんばかりに力をこめて言った。

「バカ~ッ、どうしてくれんのよ。今、良子んでは大騒ぎなんだからっ」

「なんで?」

 ちょっと不安そうな声に変わる。

「お兄ちゃん、住田商事、受けるって言ってたわよね」

「ああ」

「じゃ、その住田商事の会長で、住田財閥の総帥って、誰だか知ってる?」

「筒井なんとかって言う人だろう?」

 なんとかね、と亜美は頭をポリポリ掻く。

「そう、筒井征一って言うのよね」

「で?」

「その一人娘が筒井良子って言うのよね」

 とたんに電話の向こうが無言になった。そしてプツン、と切れてツー、ツー、ツー、という音だけが残った。

「あらま、相~当のショックだったみたい」と、亜美は受話器を見つめながらつぶやいた。

 そしてひとつ大きくため息をついて受話器を置くと、近くのソファーに体を投げ出す。

「今はあの良子が、何事もなく無事に家に帰り着くのを祈るしかないわね」

ポツリと亜美は言うと、静かに目を閉じた。

 さて、そうとは知らず、筒井財閥の一人娘の筒井良子とつい先ほどまで楽しいひと時を過ごしていた浩クン。一転して地獄のどん底に突き落とされた気分である。

 別れた渋谷駅を血まなこになって捜してみたものの、ただでさえ広い渋谷駅、見つかるわけがない。仕方なく足どりも重く、自分のマンションへ向かう。さすがに実家の方には帰り辛かったとみえる。

 ガッチャ。

 開ける扉がいつもの三倍は重たく感じる。

「は~~~っ」

 頭の中は真っ白。そのまま、まんじりともしない夜が明けて、最後の教育実習の日を迎えた。

 翌朝7時55分の聖朋学園正門前には、目の下にクマがクッキリ浮き上がり、ゲッソリやつれて怒涛のように暗く打ち沈んだ教生の姿があった。

 ヒソヒソヒソヒソ……。

 声が、周囲の視線が、すべてが自分の体を刺し貫いてゆくのがわかる。

 職員室では怒りに満ち満ちた大魔神、おっともとい、今仁先生の顔があった。

「中村先生」

「は、ハイッ」

 ピーンと張りつめた空気が職員室に漂う。

「昨日、筒井良子さんと一緒に、どちらまで行かれたのです?」

「と、図書館です、うちの大学の」

「それから?」

「そのあとすぐ、渋谷駅まで送って別れましたが……」

「昨夜、筒井さんの帰りが遅かったのは」

 言いにくそうに、今仁先生が言葉を詰まらせる。

「その、あなたの部屋に連れて行ったとか、いかがわしい所に一緒に入ったとか言うのではないのですね?」

「はあ?」

 キョトンとしている教生。その顔を見つめる大魔神の顔が少しゆるむ。

「でも」

 今仁先生は背筋をシャンと伸ばして続けた。

「本校では、生徒の夜間無断外出は禁じられているのですよ」

 無言で教生はうなだれた。

「しかしまあ、今回の件については筒井さんが強引にあなたを連れて行ったようですし、こういうことになったのも、元はと言えば、筒井さんのお友達が変な入れ智恵をしたためだとか」

 ん? 筒井さんのお友達? まさか……。

「こんな女の子ばかりの学校にいると、つい、自分を見失って突拍子もない行動に出る生徒もいます。今後は十分注意して下さいね。ま、今度のこと、いい勉強になったでしょう。それじゃ最後の一日、気を引き締めて頑張って下さい」

 ホッ、と安堵の胸をなでおろしたが、

「あ、そうそう、一応規則ですから、始末書を放課後までに書いて教頭先生の所へ提出しておいて下さい」

 ガックリ肩を落とす教生であった。

 針のむしろの職員室を出ると、今度は校内引き回しの刑が待っていた。

「キャ~ッ、良子とイクところまでイッたとか言う教生よ!」

「あら、まあ、目の下にクマなんか作っちゃって」

「あの様子じゃ、きっと昨日の夜、良子に一睡もさせてもらえなかったんじゃないのぉ」

 それにしても女子校って言うのは、噂に尾やヒレが付いて、とんでもない魚が出来上がってしまうものである。

「さて、筒井財閥の一人娘良子をモノにした中村先生、果たして今後の身の振り方はどうするつもりなのでしょうか」

「結婚後、姓は筒井をとるのか中村でいくのか、これも興味あるところですねぇ」

 レポーター気どりで壇上からしゃべりまくっている生徒なんかもいたりする。

 そしてこちらは震源地とも言うべき、2Bの教室。

「ネタはあがってんのよ、良子」

「あなた、中村先生とイクとこまでイッちゃったんでしょう」

「あ、あのう、行く所までって言っても、ちょっと、その、意味が……」

「とぼけるんじゃないわよ、良子。なんならその体にきいてみましょうか」

 こう言いながら近付いて来た天然パーマの生徒。ひょっとしたらそのケがあるのかもしれない。

 そこへ、ほとんど遅刻寸前のおねえが教室へ入ってきた。全員が固唾を飲んで見守る中、ゆっくりと良子の横を通り過ぎる。

「おはよう良子。今日もかわいいわね」

「あ、おはようございます。北見さんも今日もお元気そうでなによりですわ」

「うお~~~っ、この歪んだ会話がたまらない」と、頭を掻きむしる生徒達。

「あなた、まさか知らないんじゃないでしょうね、良子と亜美のお兄ちゃんのこと」

 チラッ、と良子の方を見て美子は自分の席に着くと自信タップリの表情で答えた。

「知ってるわよ、ぜ~んぶ」

 オオッ!

 どどどっ、とクラス中の生徒が二人を取り囲む。

 カバンを置いて髪に手をやり、美子はゆっくり立ち上がって良子を見おろす。

「結局良子、あなたはまだお子様ってこと。わたしだったら、ただ、図書館へ行って駅まで送ってもらうだけじゃあ済まさなかったわ。それに、あそこまで行ってて先生から誘われなかったってことは、あなたにはまだ、大人の魅力がないってことじゃなくて?」

「なあ~んだ、ただ一緒に図書館行って来ただけなのかー、つまんないの」

「誰なの、イクとこまでイッたって言ったのは」

「期待しちゃったじゃないのォ」

 また、教室がざわざわとし始めた。

 それまで、きゅうっと膝の上で両手を握りしめていた良子が、突然、クルリと美子の方に向き直り、スックと立ち上がった。

「確かに私は幼児体型で童顔、胸もなくて、先生とはつり合わないかもしれませんけど、だけど、私は北見さんより、ず~っと純粋な意味で先生を好きですわ。みーんなあげちゃってもいいって本気で思いましたもの」

「キャ~~~ッ!」

 教室は良子の言葉に、蜂の巣をたたき落としたような、騒ぎになった。

「あ、あの良子が、良子が……」

「ふつう、純粋な意味で好きって子が、みーんなあげちゃってもいいなんて言うかな?」

「まあまあ。とにかく面白けりゃいいのよ」

 完全に意表を衝かれた良子の逆襲に、美子はまんまると目を見開いたまま、一言も言い返せない。その時である。

 グゥアラッ。

 すさまじい音がして、みんなの視線が一斉に入口のドアに釘付けになった。

 カッチーーーン。

 担任の目に射すくめられて石と化した生徒達。今仁先生の究極奥義は、メデューサに通じるものがあるらしい。

 そのままズンズン進んで教壇に立つ。あとからゲッソリやつれた教生が、そろ~りそろりと入って来る。

「全員、自分の席へ戻りなさい」

 この言葉でようやく魔法が解け、生徒達はやっと身動きがとれるようになった。落ちついたところで、

「夏休みを前に、ひとことみなさんに注意しておきたいことがあります」と言って、ぐるりと教室を見回す。

「最近、みなさんの学習および生活態度に落ち着きがない、ということがたびたび職員会議でも指摘されています。特に男性に対して不用意に近付き、周囲からあらぬ噂を立てられたりする人もいるようです」

 一瞬だが、良子のあたりに鋭い視線が行く。

 だが、自分のしたことの意味を自覚していない少女には、メデューサにも比肩する今仁先生の究極奥義も不発に終わり、良子の小首を傾げさせるのが精一杯だった。怖るべし良子、である。

「とかく夏というのは、気分も解放的になって、ちょっとしたはずみに、一生取り返しのつかないようなことをしでかすことがあります。例え学校以外の場所でも、本校の生徒であるという誇りと自覚を持って、常に良識ある行動をするよう心がけて下さい。いいですね」

 ズン、とおなかに響く声で結んだ。

「それから、中村先生は今日が実習最後の日です。今から紙を回しますので、授業の感想などをお昼休みまでに書いて、委員長に提出するように。委員長は集まったら、職員室まで持ってきて下さい」

 担任の言葉が終わった途端、再び教室には、ひそひそ話が蔓延している。

「もう、せっかくこれから盛り上がろうって時に……」

「それにしても、あのオクテの良子がねえ、ついにああいうことを言うようになったかあ」

「泥沼よ、泥沼っ!」

「楽しみだわ~、これから」

「あ、でも、実習終わっちゃうんでしょう。それじゃあ進展のしようがないんじゃない?」

「バカねぇ、夏休みじゃない。絶好のチャンスだと思わない? 良子は亜美とお友達だし、おねえは家庭教師の時の教え子っていうぐらいだから、先生のこととか良く知ってるだろうし、おっもしろくなるわよ~」

 そうなのだ。実習は確かに今日で終わり。榊原のようにこれで悪夢から解放される、と狂喜しているヤツもいるが、浩の場合、どう見てもこれで終わりにさせてもらえるとは思えない。

 会議室での反省会の後、今仁先生の机に呼ばれた浩は、深々と頭を下げた。

「本当に、どうもお世話になりました」

「ま、いろいろあったようですけど、教職に就く就かないにかかわらず、将来、お仕事なさる時にはこの経験を生かして頑張っていって下さいな」

「はい」

「ただ……」

「?」

「中には実習が終わっても、しつこくつきまとってくる生徒がいるかもしれません」

「はあ……」

「世間知らずの子供達ですから、手足は伸びきっていても、あなたがしっかりしてないと、とんでもないことにならないとも限りません。どうか、くれぐれもよろしくお願いしますよ」

「はあ……」

 職員室を出てロッカーへ向かう。今日の所は靴はちゃんとあった。

 7月の金曜日の午後5時過ぎ。夕方の強い陽射しにゆらめく校舎をあとにする。

 ほんと、いろんなことがあったな、と思い返す。たった2週間だったのに、まるで10年も月日が経ったような気がしてならなかった。

 校門のところでクルリと振り返る。

 どこか甘酸っぱい、懐かしいような香り。

「ああ、これが、青春の思い出の一ページとして済んでくれればいいんだけどなあ。無理だろうなあ……」と、呟く。

 それにしても、もうあと三歩も歩まぬ内にその危惧が現実のものになろうとは……。

 校門を出たとたん、

「先生!」と、同時に二人の女の子から声がかかった。

 ギクッ、として声のした方を振り返る。

 まるで親友みたいに肩を並べて立っている良子と美子。その向こうでは例の筒井財閥お嬢様専用車、フェラーリー・ピニンファリナの運転手が、

「やってられないよなー、ったく」という顔をして車の傍につっ立っている。

 ヒクッ。

 浩は顔を引きつらせて、後ずさりする。

「あ、先生!」

 二人の少女の足が地を蹴った。ほとんど同時に浩は身を翻し、今来た道を取って返す。

「待って下さい、先生!」

「先生、待って下さーい」

 一部始終を6つの瞳が木陰から見守っていた。

「はぁ、よくやるわ、あの二人」

「あ、あ・た・ま、痛い」

「ま、いいじゃん。これで当分暇を持て余さずに済みそうだし」

 そうそう、忘れるところだった。

 ちょうどそのころ北見家では、久しぶりのデートの約束に、フンフンと鼻歌まじりに浮かれて化粧する女子大生の姿があったりするのだ。

 ちょっと濃いめのルージュを引き、

「よし、完璧! 美子、あなたにだけは絶対負けないからねっ!」

 キリリと口元を引き締めて、玄関を出る。

 夕方と言うのに、涼しくなる気配はなく、温度計はうなぎ登り。これに一気に加熱しそうな「おんな」の戦いが拍車をかける。

 浩の心休まる日々は当分おあずけ、いや、ひょっとすると金輪際、もう二度とやってこないのかもしれない。

 合掌。

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女子高生症候群(シンドローム) 楠 薫 @kkusunoki

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