第3話
待ち遠しいもの、
休みの日に、お金の入る日。
ん? 安全日も忘れるなって?
「悪りィ久美。今日ちょっとさ、都合悪いんで、先輩に適当に言いつくろってくんないかな」
「まぁたぁ?」
「ね、ね、どうしたの?」
「鮎原さん、だあ~い好きな彼と、デ~トなんだって」
「今度、なにかおごるからさ、ねっ、この通り!」
「仕方ないわね」
「ありがと、恩にきるっ!」
「鮎原さん、悪阻のため気分が悪くなり、早引きしましたってか」
「あーのォねぇ……。じゃ、お願いねっ!」
クルッ、ときびすを返して部屋を飛び出そうとしたら、ニッコリ微笑むキャプテンの姿があった。
「鮎原さん、あなたのだあ~い好きなバレーコートは、あ・ち・ら・よ」
「………」
部活の声が周囲に響く放課後。
グッタリ疲れ切った教生が一人、家路につこうとしていた。
ふう……。
ひとつため息をついて、ロッカーを開ける。
「ん?」
無い、靴が……無い。
―体育館裏でお待ちしております―
と書いたカードが代わりに一枚入っていた。
「………」
浩は無言でじっと穴が開くほどカードを見つめた。
「先生、さようならぁーっ」
生徒の声で、ハッ、と我に返る。
いったい誰がこんなことを……。大人をなめおってからに。ん? 待てよ、ひょっとすると行ったが最後、袋叩きにあって……。いや、ここは女子校だ。まさかそういうことは……。
などと一人でブツブツつぶやきながらも、足は自然と体育館の裏へ向かう。
そこへ偶然、亜美たちが通りかかった。
「ん? あれっ、お兄ぃ……」
「ちょっとォ、なんか様子、変よ」
確かに。どうしてお兄ちゃんが体育館の方に。
「誰かと逢い引き、てことも考えられるな」
「ま、まさかぁ」
と言いながらも興味津々、そっと後を尾けてゆく。裏手に回って間もなく、
「先生」
声の方に目をやると、そこには亜美や由紀江と同じクラスで、浩が授業に入れず困っていた時に助け船を出した少女の姿があった。
「おねえ?」
由紀江が思わず声を上げる。
「しっ!」
そーっと体育館の陰から三人、顔を出す。
「何でおねえがいるのよ」
「知らないわよ」
横を向いていたおねえが、急に顔をこちらへ向けた。
サッ、とほとんど同時に三人、亀のように首を引っ込める。耳だけはシッカリ残して。
「君か……」
ちょっと小首をかしげるようにしてニッコリ微笑うと、手で長い髪をかき分けるおねえ。
「久しぶりね、先生」
「あ、ああ」
「靴、もう昔のとは違うのね」
そう言うと、後ろ手に隠していたものを腰を落として男の足元に置く。そして、ちらっと下から見上げ、うふふと微笑ってゆっくり立ち上がる。
「どういうこと、知り合い?」
「さ、さあ……」
「あなた、妹でしょう」
「んなこと言ったって」
再び壁に貼り付く三人。
視線を落として両手を後ろに回し、おねえと呼ばれるその少女は、ゆっくりそこらを歩く。
再びそお~っと三つの顔が、体育館の陰から出て来る。
「すっかり忘れてらしたみたいね、わたしのことなんか」
「いや、そんなことは……」
「いいのよ、別に。どうせ先生とわたしは、ただの家庭教師と生徒。姉さんとは違うものね」
「………」
後ろ手に組んだまま長い髪をなびかせ、クルリと浩の方に向き直る。
おっと。
あわてて頭を引っ込める、三つの影。
微笑みのまま、顔を倒し気味にして少女は男を見つめる。
「一目惚れだったのよね」
「………」
ファイトォ。
そぉーれぇ。
体育館から声が響いてくる。
少女は少しだけ長く伸びた自分の影を、一歩一歩踏みしめるように歩く。
体育館ではバレー部が練習をしているようだ。
「ハーイ」
トスが上がる。
「アタ~~~ック」
バ~ン、と音が体育館全体に響き渡る。
さかのぼること3年あまり。
友人の紹介で、家庭教師をやることになった浩が5月のある日、北見家を訪れた。
それが出逢いであった。
母親の後ろから応接間に入ってきたピンク色のパステルカラーのトレーナーを着た娘は、自分の妹と同い年とはとても思えないほど大人びていた。
「娘の美子です。あいにく主人は、まだ仕事より戻っておりませんで……」
ピョコン、とお辞儀したその子は、顔を上げたものの、頬を染め、やがてゆっくり視線を落としていった。
美子は確かめるような足取りで、浩に近づいてくる。
「あの時わたし、胸がキュンとなってしまって先生の顔、見てられなかったのよね」
「………」
もじもじしている娘を、チラッと横目で見、母親が続けた。
「この上に高校2年の娘がおりまして……」
そう言うのとほとんど同時に、
「パパァ、もう帰って来たの?」
覗いたのは、胸のふくらみもあらわなバスタオル姿。
「理っちゃん!」
「キャッ」
小さく叫ぶと、バタバタッと階段を駆け昇って行く音がした。しばらくして、乾ききらない髪を気にしながら、女子大生顔負けの、メリハリの効いた体型の色っぽい女の子が入って来た。
頬を染めながらも、しっかり浩の瞳を見つめ、お辞儀する。
ちょっと娘を睨むようにして、少し視線を落とし、自らも顔を赤らめながら母親が言う。
「長女の……理緒です」
もう一度、理緒はコックリとお辞儀をする。
「あの……本当に、失礼致しました」
むしろ自分の方が娘よりも真っ赤になって、深々と頭を垂れる。
横で理緒は肩をすぼめて小さく舌を出し、一緒に頭を下げ、そしてその火照った顔を、スッと上げた。
見つめ合う瞳と瞳。それをいぶかしげに見つめるもう二つの瞳。そのことに気付いたか否か、おもむろに母親が話を始めた。
意外なもので、この家の主人は浩の父親と以前、同じ会社で働いていたと言う。
業界最大手だった字音広告は、ニュータイプの広告デザイナー、安室を擁する連報堂と泥沼の戦いを演じていた。だが、社長の急死やそれに続く内部分裂で一気にその勢いを失い、浩の父親のようにその才を買われて商社の宣伝部長に身を転ずる者、北見隆蔵のように新たに会社を興す者などが相次ぎ、ついに崩壊に至ってしまったといういきさつがある。
話が弾んで、ついつい遅くなってしまったところに、父親が帰ってきた。
「ほう、君がムラさんとこの息子か。いやあ懐かしい」
そうこうしている内に酒が入り、気がつくと一時過ぎ。終電はとっくに行ってしまっている。泊まっていくように、と引き留めるのを固辞してタクシーを呼んでもらう。乗り込んだ頃合を見計らって、奥さんが運転手にチケットを渡す。
「あ、あのう……」
「いやいや、気にしないで下さい。会社が出すんですから」
その好意を受け取り、一家全員が見送る中、タクシーは横浜方面へと向かった。
それ以来、時にはご馳走になったりクラシック音楽の演奏会に一緒に行ったり、家庭教師の域を越えたお付き合いが続くことになる。
そして、その時いつも必ず彼の隣にいたのは、美子ではなく理緒であった。
おねえの話は続く。
「いつも先生は姉さんしか見てなかったわ。私になんか、振り向きもしなかった。私の気持ちには先生、ちっとも気付いてくれなかった。ううん、気付いても知らないふりしてた」
ゴックッ、と唾を飲み込み、聞き耳を立てる、体育館の三つの陰。
「ほとんど諦めていたの。そしたら……」
フフフッ、と美子は口元に微笑を浮かべる。
「先生、今、新しい恋人におネツらしいって言うでしょう。しかもその人、高校生ぐらいって」
亜美の目が、テンになり足が震えだした。
「亜美、一体どうなってるの?」
「知、知らないわよ、あたし」
髪に手をやっておねえはゆっくりと浩にむかって歩いて行く。
「正直言って嬉しかったわ。だって、姉さんが
浩は相変わらず無言だった。
なぜだか急にオタオタしだした亜美を、麻衣は不思議そうに見つめる。
「どうしたの、亜美?」
「えっ、な、な、何でもないわ、何でも!」
思わず、声を上げてしまった。
「誰、そこにいるのは?」
や、やばいっ。
心を落ちつけ、軽く咳払いをし、
「おに……(あ、いけね、これ、禁句だった)あら、おねえ、どうしたの?」
と、しらじらしく装って、体育館の陰から出て行く。
やってられないわって顔の由紀江と、よーもまあ平気な顔しちゃって、と目が片方に寄って呆れ顔の麻衣が、亜美の後ろに隠れるようにして出て行く。
「亜・美……」
浩の横を美子はサッと通り抜け、その肩ごしに押し殺した声で、
「次の日曜3時、ガス灯で」と言うと、亜美達には目もくれず、足早に去って行った。
なんで、あの喫茶店の名前を……。
棒立ちの浩の足元には、綺麗に並べられた革靴が一足、天空を静かに見上げていた。
*
本当は一人でなんか入りたくなかったのに。
まだ出来てから、そう日は経っていないようね。
「いらっしゃいませ」
少し痩せ気味のマスター。チョウネクタイをしている。
窓際に並んだ小綺麗なテーブル。
椅子を引いた時にぶつからないようにと、テーブルごとに設けられた、つい立てやゴムの樹。
ほどよくそれぞれの空間を創り出し、くつろぎの世界をかもし出している。
ほんのり琥珀色を帯びた窓ガラスが通りのポプラ並木道を見おろし、なだらかな下り坂は、すーっと吸い込まれるように街へと続く。
店内にはヴァイオリンの美しい調べが静かに流れ、白いCDプレーヤーが1台、そしてちょっと古めかしい真空管のアンプが少し奥まった壁際にひっそり置かれていて、セピア色の想いをつむいでいる。
モカをベースにキリマンジャロをブレンドした炭焼の深い香。
そういえば
カウンターに座り、高級家具を想わせる外国製らしいスピーカーを見つめながら理緒は、
「マスターって、凝り性なんですね」
そう言うと、カップを口元に持って来た。
と、小さくカランカランとドアの開く音がして、理緒はゆっくり視線を向ける。
「えっ?」
と、声を上げたのは、入って来た男の方であった。
「理…緒……」
突然の再会の感動に浸りきっている二人には、奥のテーブルにはいつくばるようにしている三人がどんな会話を交しているのか、知る由もなかった。
「な~んだあの女、亜美のお兄ちゃんの知り合いだったんだ?」
「だから言ったでしょう、あたし、顔見られたらまずいって」
突っ伏したまま、亜美は声をひそめて言う。
「それにしても美人ねぇ。ショートヘアーがとってもステキ」
「ん? 前はロングだった気が……」
と、亜美はつぶやくと、ちょっと思案顔になった。
「亜美、知ってるの?」
「あ、うん、顔だけチラッと、ね」
まさか、ホテルの修羅場ではち合わせになった、とは、さすがに言えない。
「どこか、おねえに似てると思わない? 眉のあたりとか、顎の線とか」
麻衣が自分の肩ごしに入口の方を見た時、カランカランと、小気味良い音を立ててドアが開き、噂の美子が入ってきた。
あわてて三人「伏せ」の体勢をとる。
「あら?」
チラッと奥に目をやって、キッと目の前を見すえる。
「お姉さま、これ、どういうこと? まさか、よりを戻そうってわけじゃないでしょうね」
「ぐ、偶然なのよ。だってわたしこの喫茶店、初めてだもの」
「初めてって言っても、よりによってわたしが先生と待ち合わせの時間にいるなんて、ちょっとおかしいじゃない?」
「だ、だからほんと、偶然なのよ、偶然」
奥で相変わらず「伏せ」の格好のまま、ヒソヒソ会話している三人。
「なあんだ、おねえのおねえかぁ。どーりで良く似てるわけだ」
と、麻衣がうんうんとうなずきながら言った。
「あ~ん、悔しいなぁ。亜美のお兄ちゃんにあんな素敵な恋人がいたなんて」
「あ、でも、よりを戻すとか何とか言ってたから、今は切れてんじゃないの」
「そっか。じゃ、まだあたしにもチャンスがあるってわけね!」
「ん?」
二人の視線が同時に向けられ、由紀江は自分の口から発せられた言葉の意味を理解した。
「う、その、亜美って人が悪いんだから、もう……。お兄ちゃんに付き合ってる人がいるならいるって教えてくれれば良いのにぃ……。で、でも、良かったじゃない、良子がいなくて。いたら気絶してたわよ、きっと」
完璧に目玉が片方に寄っている二人。
「ま、あたしは良いけどね」
と、視線を斜め上方に移して麻衣が言った。
「そ、そう言えば優作君だっけ、麻衣が付き合ってるって言ってた男の子。ね、どこまでいったの、彼と?」
その後の沈黙が、由紀江の努力が水の泡だったことを物語るのに、そうたいして時間を必要としなかった。
一方、これから浩をめぐっていよいよ盛り上がりを見せそうな気配の姉妹に、マスターも心得たもので、さりげなくBGMを変えたりして雰囲気づくりに余念がない。
「そうでしょうねぇ。あんな高校生なんかにうつつを抜かすなんて最低! とんでもないロリコンだわ、なんて言ってたものね」
髪を指先にからませながら、美子はチラッと浩の方に色っぽい眼差しを送る。
「ねえ、聞いた? 亜美のお兄ちゃんって、ロリコンなんだって」
「あーのねぇ」
「それにしてもその高校生って、一体誰なのかしらねえ?」
由紀江の言葉に亜美は自分の胸の鼓動が高まり、テーブルを伝って響いてくるのがわかった。
もし、こんなところ見つかったら、とんでもないことになるに決まってる。ああ、やっぱり来るんじゃなかった。それに、あの時と同じブラウスだなんて、これじゃモロバレだわ。
後悔しても、あとの祭りであった。
一時すぎに麻衣から電話があった。
「ね、例の喫茶店、行ってみない?」
「だ、駄目よ、いくらなんでもあたしが行ったら……」
「だぁいじょうぶって。あたし達二人でちゃんとガードするから」
「あたし達二人って、由紀江も行くの?」
「うん。なぜだか由紀の方が張り切ってるみたいなんだよね。亜美だって、やっぱ、お兄ちゃんのこと、気になるよね?」
「そりゃ、まあ……」
「じゃ、二時半までに着くように、いい?」
返事を待たずに電話は切れた。
どうしようか迷っているところへ兄が「ん? 今の電話、友達?」と、やって来た。
「う、うん。買物一緒に行かないかって」
「そうか。じゃ、俺が後に出て鍵かけるから。母さん、遅くなるんだろう?」
「うん」
かくして亜美は、うむを言わさず、家をおん出されることになったのである。
美子はコツコツと音をさせて二人の間を往復し、長い髪をこれ見よがしにかきあげてみせる。
しかし、姉だって負けてはいない。いくら背伸びしたってしょせん妹は高校生。色気では大学生の敵ではない。それに何と言っても浩とはもう、体を許し合った仲なのだから。
この余裕が言葉の端々に現われてくるから、女は恐い。
「でもねぇ、
ちゃん付けするところが、さすが、である。
「
そう言って、優しく浩を見つめる。
「やっぱ新鮮さって点じゃ、高校生の方が有利だな」
「でもあの大人びた美しさ、ああ、あたし、憧れちゃう」
無言の麻衣の視線ほど、恐しいものはない。今日の由紀江は、確かにどこかおかしいようである。
一方、浩は何とかこの状況を打開しようと視線をあちこちに走らせる。そして……。
「ん?」
どこかで見たような服装。
その視線を追うように美子も目をやって、
「えっ?」
二人の視線に誘われるようにして、理緒もゆっくり首を回した。
一瞬の沈黙のあと、
「あーーーっ!」と、理緒が絶叫した。
「あ、あ、あなたたち……」
絶句したのは美子。いまひとつ状況把握ができてないのは浩。しかし、次第に自分の視線の行き着く先に妹の姿があることを理解し、
「亜・美……」
なんとかこの場に加わることができた。
「い、いったいあなたたち、どうして……」
と言った美子に続いて、口をパクパクさせていた理緒に、音声が戻ってきた。
「こ・こ・こ……」
「こんにちはー」
ニッコリ麻衣がお辞儀する。
「ち、ちがう~、こ、この子よ、この子!」
「えっ、亜美が?」
美子が小首をかしげる。
「そ、そう、その子よ、あの時いたのは!」
万事休す!
ああ、この世には神も仏もいないのか! 絶望のどん底に突き落とされた兄妹には、もはやかつての明るく幸せな日々は戻ってこないのであろうか。このまま世間の冷たい目に打ちひしがれながら、禁じられた二人の愛を育くんでゆくしか残された道はないのであろうか。
「あの時いたって、え~っ、先生を奪った子って、亜美だったの?」
美子の言葉に、理緒はうんうん、と激しく首を上下に振る。
「でも、亜美って、先生の妹……よ」
「い・も・お・とぉ?」
凍った巨大な豆腐の角に頭でもぶつけたか、ガックリと膝を落とし、もう、ほとんど再起不能の理緒であった。
「ショ、ショックだわ。亜美とお兄ちゃん、そういう関係だったなんて」
「亜美って、そう言やブラコンだったもんね」
「違うのよ、誤解、誤解よぉ!」
「あれのどこが誤解って言うの? 裸の二人が…それに、それに……」
「だーかーらー、あれは前の晩酔っぱらって」
「未成年の私たちが酔っ払うなんて、ちょっと……」
おねえがせっかく世間体の話に持って行こうとした努力は、姉によってもろくも破られた。
「酔っぱらったら、あなたは実の兄に体を許すってわけ!?」
「ちゃんと最後まで聞きなさいよっ!」
亜美の迫力の前に、さしもの理緒も沈黙。
「先輩んとこに遊びに行ったらお酒飲まされて……」
それにしても、どこにこんな真っ昼間から、男一人を囲んで女五人が大声でこういう会話をしている
さすがのマスターも困り果て、さて、次のBGMはどんな曲にしたものかと思案顔。
「―で、鼻血出しちゃって……」
キッ、と理緒が浩を睨みつける。
「あなたはわたしより、自分の妹の方が興奮するってーの!?」
ブッ、と浩は吹き出してしまうが、幸か不幸か、口の中には何も入っていなかった。
やっぱりお冷やぐらいは出してあげておいた方が良かったかな、とチラッと考えたような表情が、マスターの顔に灯った。
「興奮したんじゃなくて、のぼせたの!」
顔を真っ赤にして、亜美は力説する。
「同じことだって気がするけど」と、麻衣はつぶやいた。
へなへなっ、と美貌の女子大生は腰を落とし、
「それじゃ、今までのわたしって、一体、何だったの?」と、ぼそりと言った。
「バカ、ドジ、マヌケ、早とちり、独りずもう、ピエロ……」
麻~衣ちゃ~ん、と満面に笑みをたたえながら由紀江はぎゅうっと麻衣の頬をつねる。
妹も肩を落とし、
「わたしも何だか莫迦をみたようね。まるでお姉さまのよりを戻すのに一役買ったようで……」と天を仰ぐ。
戦いのあとの空しさだけが残るこの静けさ。
しかし、美子はその長い髪をフワッとかきあげ、姉に向かってこう告げた。
「でもお姉さま、いったん宣戦布告したからには、わたし、一歩も引かないわよ」
姉も妹を睨み返し、
「望むところよ!」と、キッパリと言った。
かくして収まるところに収まったかに見えたこの決着、再び熱い戦いが繰り広げられることになって、結局振り出しに戻ってしまったのであった。
「う~ん、やっぱ、こーでなくっちゃ」
麻衣は一人嬉しそうな表情で、チョコパフェの残りを平らげる。
由紀江はひとつ大きく吐息をつき、あの二人には勝てっこない、大人しく身を引こう、そう考えた時、ふいに良子のことが頭に浮かんだ。
そうだわ、良子、良子ならばあの二人の相手に不足はない。あたしは陰になり日向になり良子のために尽くそう。それが浩さまに捧げる私の愛……、と完全に少女マンガのヒロインになり切っているのであった。
ようやく落ち着きを取り戻したこの喫茶店。
「ご注文は?」
と、マスターが3人に声をかける。
BGMはいつのまにか静かなヴァイオリンの調べに変わり、豊かな香と共に、店内を満たしていた。
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