第2話

 梅雨。夏を前に、外はシトシトいやらしい雨が降り続いている。

「えっ? 教員免許取る?」

 母親が驚いた表情で受話器を握りしめる。どうやら息子の浩から電話があったようだ。

「ああ。でね、教育実習ってふつう、出身校に申し込むものなんだけど、明央ウチはもう締め切っちゃっててさ。だから、心当たりがあったら捜しといてくれないかなあ」

「急にそんなこと言われても……」

「自分でも捜すからさ。じゃ、頼んだよ」

 プツッと電話が切れた。

「ねえねえ、今の電話、お兄ちゃんから?」

 パタパタとスリッパの音を立てて、二階から亜美が階段を降りて来る。

「ええ……。何を考えているのかしら、教員免許を取りたいなんて言いだして……。まあ、就職の時に少しでも選択の幅が広い方が良いっていう気持ち、わからないでもないけど、今さらねぇ、学校の先生なんて……。そんなに就職、大変なのかしらねぇ」

 大学を入るまでは目の色を変えて、やれ塾だ予備校だと躍起になるくせに、大学に入ったら安心しきってしまって、就職のことなんか直前になるまで全然考えてもいない親や学生は、どこでもいるものである。

        *

 亜美の学校の昼休みの時間、いつもの3人が亜美の周りにたむろしている。

 もちろん話題は、亜美の兄の教育実習である。

「ふ~ん、学校の先生?」と、由紀江が意外そうな声を上げる。

「まーったく兄貴のやつ、何考えてんのかねえ」

「住田、勧めてあげれば?」と、麻衣が言う。

「だって住田、明央出じゃ、中に入ってからが大変って話じゃない」

 珍しく兄思いの言葉を口にする亜美である。

「そんなことないわ。明央出の百貨店の社長もいましたわ」

 良子が頭を振りながら、これまた珍しく力説する。

「確かその社長、辞めた後、古巣のライバル百貨店の社長になって、今、大活躍……じゃなかったっけ?」

 高校生の分際で、父親と株をやっているという麻衣の言葉は、けっこう鋭い。いや、アイドルや歌手、マンガやアニメのことは全然知らないくせに、東証一部上場日経225社の社長や会長名と財務内容を、何も見ずにスラスラ言えるというのは、女子高生の域を遙かに超えている。それどころか、証券会社勤務の中堅クラスと、サシで勝負が出来るかも知れない。

 しかも、企業の決算書を読めるようにと、高校一年で簿記検定一級を取ってしまうような女の子である。お嬢様学校には異色の存在と言って良いだろう。

 麻衣の言葉に、良子はさすがに返答に困った表情を見せる。

「でも、心配することないんじゃない? だって良子がついてんだから。良子がいれば千人斬り……じゃなかった、千人力よォ」

 由紀江の言葉は、的はずれなことが多いのだが、時に核心を突くことがある。

 ウン、ウンとうなずく三人。

「それはそれとして、まず、教育実習の方、何とかしなくちゃね」

 麻衣の言葉に、ニッコリ良子が微笑む。

「あ、それなら、私にお任せ下さい」

 数日後、浩のアパートに、A4サイズの速達書留の分厚い封筒が届いた。

「ん? 聖朋学園……。亜美の高校じゃあないか」とつぶやき、封を切る。

「………」

 浩は中身を見て、う~む、と唸った。

 その夜、浩は亜美の携帯を鳴らした。

「こら、亜美、おまえか、俺の名前で教育実習の書類取り寄せたのは」

「あ、届いた? 良かった」 

「おまえの高校、女子校だろうが」

「そうよ、知らなかった?」

「………」

「ママが心配してるのよ。もし良い就職口が見つからなかったら、とりあえず学校の先生にでも、てね」

「とりあえず学校の先生だあ? わかっとんのか、ったく。このご時勢、しかも少子化が進んでクラス数も減ってるんで、教員として採用されるのは至難の業なんだぞ」

「それで、みんなに話してみたの」

「みんなって?」

「ほらぁ、いつか一緒に喫茶店に入った三人いたでしょ」

「ああ……」

「そしたらね、良子が何とかなるって言うから、頼んじゃった」

「でもな、女子校っつうのは……」

「なーに贅沢言ってんのよ。もし、ほかにあてがなかったらどーすんの? 免許取れないんでしょう? 会社に就職することもできず、学校の先生にもなれないって言ったら、もう、人生終わりよぉ」

「あ・の・な・あ……。どっか一校ぐらい捜せばあるわい!」

 浩は力をこめて、携帯のスイッチを切った。

 駄菓子菓子、世の中、いや、作者はそう甘くはないのである。話を面白くするためにもここは絶対、浩には女子校に行ってもらわなければならない。

 翌日、浩は大学学生課に足を運んだものの、学生課の職員の言葉と世間と作者は厳しかった。

「そんなこと言っても、今から捜すなんてねえ。10校当たって駄目だったんだろう? ま、あきらめて妹のその、何とか言う女子校に行くしかないんじゃないの?」

 あっさり挫折した浩君。結局女子校で教育実習をやらざるをえないのであった。

 そして、実習当日。

「お兄ィちゃん、何やってんの、早く早く。このバスに乗り遅れたら遅刻だからねっ!」

 階段をドドドドドッ、とYシャツのボタンをはめながら駆け降りてくる浩は、危うく数段滑り落ちそうになる。

 前の晩、実家からの方が学校に近いというので、久々に実家に帰った浩だったが、ゆっくりくつろいでいると、

「お兄ちゃん、予習ちゃんと済ませたの? 源氏物語やるんでしょう。あれ、結構難しいんだから」と、妹がのたまわった。

 たまたま聖朋学園で古典を担当している大魔神のような名前と威容を誇るオールドミスの今仁いまに先生。偶然にも浩と同じ先生に教わったとかで、

「まあ、あなたも川岸先生。懐しいわぁ。じゃ、あなた、源氏物語お得意でしょう。ちょうど二年生が源氏物語のところですから、ぜひ、あなたにやっていただきたいわ」

 かくして、日本の古典文学史上最も難しい作品の一つとされている、源氏物語をやらされる羽目になったのである。

 仕方なく教科書を開いてみたものの、大学の授業はさぼりまくりの浩。当然、入学当時の学力は、今や見る影もない。

「む・ず・か・し・い……」

 辞書と妹の教科書ガイドと首っ引きでかろうじて2ページ読み終えたら、もう、丑三ツ時。その結果、翌朝このような有様となったのである。

 冷めたコーヒーを一気に飲み干し、ショルダーバッグをむんずとつかむと家を飛び出す。

 外は梅雨あがりの強い陽射しが降り注いでいた。

 亜美の学校では毎年期末テストが終わったあとの2週間、ほとんど日程つぶしとも言える教育実習が行なわれる。

 もう気分は夏休み、の生徒相手に行う教育実習ほど辛いものはない。おまけに教師も教師で、備え付けのインスタントコーヒーをエサにテストの採点を実習生にやらせ、横からあーだこーだと文句ばっかり言ってる連中がいるからたまったものではない。

 で、実習生は2週間のたうちまわり、たいてい、「ずえったい教師なんかになるものか」と意を決し、

「結婚してやるぅ、結婚してやるぅ、結婚してじゃんじゃん男を働かせて金もうけしたる!」

 こうして手近な男と早々、契ってしまうことになるのである。

 だが、そうそう、うまく行くわけがない。

 男の将来の夢も希望もみるみる内に消え失せ、こんな筈じゃなかった、とダメ亭主をなじったりけなしたりして、子供は、いじめの世界をまのあたりにすることになる。あげくの果てには不倫に走って、家庭が崩解したりする結末に至ることもある。

 ま、そういうことを考えるなら、浩が女でなかったことは、幸いだったかもしれない。

「しゅじゅめの子を、いぬきが逃がしちゅる……」

 バスの中で、必死に浩は3ページ目の予習をやっている。

「もう、いいかげん就職してもよさそうな年齢でしょうに、高校の教科書なんか開いて」

「ほんと、きっと長~く浪人やってるんでしょうねぇ」

「模試を受けに行くのかな?」

「僕は、絶対にああゆう風にはならんぞ。必ず現役で合格してみせる」

 このような視線が背中に突き刺さるのをものともせず、浩は血走った眼で予習を必死に続けていた。

 妹の方はと言うと、あたしはこの人とは無関係なんだからって顔して、いつも一緒になるオバサンや子供達にニッコリ微笑みかけていたりする。

 高尾駅で京王線に乗り、やっと亜美の学校に辿り着く。

 女子校って、ほんと、一種独特の異様な雰囲気があるんですよね。まず、校舎に入ってみると、体臭と香水の入り混じった何とも形容し難い臭い。馴れるまでというもの、ホンッとに悩まされ続けちゃいます。しかも夏、梅雨明けの頃ってのは、まったくもってコレがピークなんですね。だから男にとって、まず、コレに耐えることから修行が始まるといっても良いぐらいなのです。

 加えて、あの耳をつんざく超音波。

「いいですか。生徒達を静かにさせようと思ったら、おなかの底から思いっきり声を張り上げなければなりませんよ」

 担当の今仁先生に連れられて教室に向かう途中、いろいろアドバイスを受けてはいるが、「はぁ……」

 今しがた通り過ぎた教室をチラッと見ただけでもう、完っ璧に圧倒されてしまっている。

 廊下の窓に貼り付くように重なっている生徒達の顔、顔、顔……。

「きゃあ~っ、男よ男!」

「やったネ! あ、でも、今仁のクラスかあ」

「あ~ん、ガッカリ」

「いいなぁ~」

「ね、ね、古典ならウチのクラスにも来るわよね」

「そっかぁ。ウン、こりゃチャンス!」

「質問にかこつけて……」

「こぉのォ、抜け駆けは許さんぞォ」

 ポンポン耳に飛び込んでくる女の子達の会話。

 知らず知らず力が入ってくる握りしめた今仁先生の拳。教室の入口の扉を、グワッとつかみ、ガラッと一気に開け放つ。反動で半分ほど戻って来るが構わず、ズン、と教室に踏 み込む。さしもの生徒達もこれが効いたか、大人しく席に着いた。

「みなさん」

 張りのある声と、ギョロリとした目玉が教室を支配する。

「今日は、教育実習生の先生を紹介します。先生、どうぞ」

 ギロッ、とそのままの眼を入口に向ける。思わずたじろいでしまった浩であったが、気を取り直して中央へ進む。

 し~んと静まりかえった教室。見つめる瞳、瞳、瞳。

「あ、あの……」

 ゴクリと生唾を飲み込む浩。

「み、み、みなさんと、に、2週間、一緒に勉強させていただく中、中村、です。ど、ど、どうか、よろしく、お願いします」

 やっ……。

 担任の鋭い眼差しに串刺しになったまま、最後の「た」まで続けられず、あえなく撃沈する生徒達。

「先生には古典をやっていただくことになりました。それからホームルームは、この2Bを受け持っていただきます」

「きゃ~っっっ!」

「やったぁ~っ」

 バンバンバン、と出席簿で今仁先生は机を叩いた。

「しーずーかーにぃー!」

 じろり、と教室を見渡し、

「くれぐれも、本校の生徒として恥ずかしくない授業態度で望むように。いいですね!」  

 クルッ、と今度はにこやかな笑顔を実習生に向けて、

「じゃ、先生、どうぞ」

 そう言うと、折りたたみ椅子を引きずって、教室の後ろの方へと向かって行った。

 ガヤガヤ、ヒソヒソ……。

 教室内が静まる気配はまったくない。

「大学どこかしら。それにしても、どうしてウチのような女子校で実習やるのかな?」

「もしかしてうちの高校に恋人なんかいたりして」

 と、担任の咳払い。

「やばっ、まだ大魔神、いたんだ」

「さっさと出て行きゃいいのに」

 なんてことを隣と話していて、おもむろに前を向くと、

「大魔人がどうかしましたか?」

 今仁先生の顔のアップに、生徒は椅子から転げ落ちた。

「あ、あの~」

 きっかけがつかめず、授業に入れない教生を心配そうに見つめる四つの瞳。

「良子、助けてあげなさいよ。亜美のお兄ちゃんに近付く、いいチャンスじゃない」

 斜め前の席の由紀江がささやく。

「だってぇ……」

 その時であった。

「先生、始めて下さい」

 長く、すうっと伸びた髪を、ちょっと首を傾け、左手でかき分けながら立ち上がった生徒がいた。

「えっ、おねえ?」

「うっそー、あの男嫌いのおねえが……」

 その生徒の顔を見た教育実習生、ただならぬ驚きようだったが、

「ど、どうも……。あの、じゃ、ついでですから、36ページの最初から読んで下さい」

 かくして浩の教育実習は、順調な(?)すべり出しを見せ……。

「坂口さんの読んだところを、出席番号15番の田原さん、現代語訳して下さい」

「えーっ、現代語訳ですかあ?」

「そうです、現代語訳」

「本当に、いいんですかあ?」

「いいも何も……」

「んじゃ……。スズメの子を犬君ちゃんが逃がしちゃったのぉ。せっかくつかまえて籠ん中に入れといたのにって、ほんっっっとに悔しそう……」

「あの、現代語訳って言っても……もっとその……ちゃんと内容を正確に……」

 教室の後ろで思わず頭を抱える今仁先生であった。

 その頃、亜美のいる2Aの教室では。

「はじめまして、今日からみなさんと2週間、数学を勉強させていただく榊原です。よろしく」

 キャ~ッ。

 ステキィー。

 先生ェ、こっち向いて下さーい。

 顔よし、声よし、姿よし。三拍子揃った、イケメン教生の姿があった。

「ね、ね、今年、どうしたのかなあ。古典も男の先生だって言うじゃない」

「そうそう。しかもこの先生、すんごい二枚目! ステキだわぁ~」

「さあて、もう一人はどうかな?」

 亜美は深くため息をついた。

 そしてハゲ頭の学年主任で担任の先生は、腕組みしたまま銅像と化してる。

 授業の方は、ある意味では非常に活発に進んで行き、

「じゃあ、この問題をー」

 教生がぐるっと教室を見回す。

ハイ、ハイ、ハイ。

 元気よく手をあげる生徒。ちょっと色っぽい視線を送るヤツ。その中に混じって、もの憂げな亜美の姿が目に入った。

「ん? あ、そこの人、これ、わかります?」

 と、教生が指名した。

「あーん、先生ェ、いやあーん」

「亜美ィ、亜美ィ、先生のご指名よ」

「いーな、いーな」

「どうしたの?」

「うん? ちょっと頭が……」

 亜美は物憂げに、ゆっくり席を立った。

「今日、ひょっとしてあの日?」

「あーのねぇ」

 バンッ、と机をたたいて、「あっ」と小さく声を上げ、おそーるおそる上目づかいに教生を見る。

 視線が合ってしまったので、再び、今度は少し小さくため息をついて立ち上がる。

 お辞儀してチョークを受け取り、少しの間頬に人差し指を当てて考えていたが、おもむろに書き始めた。

 と、

「あ、危ないっ!」

「えっ?」

 端に寄りすぎて檀から足を踏み外し、倒れそうになった亜美の体の、そう、ちょうど胸のあたりを、後ろから抱きかかえる格好になった。

「キャーッ」

「えーっ」

「やァだァ~」

 一気に教室が騒然となる。その中、

 パァーン。

 ひときわ鋭い音が辺りに響いて、ボー然と立ちすくむ教生一人。ひとコマ目のでき事であった。

 そして、昼休み。

「亜美、亜美ったらぁ、もう、機嫌直しなさいよ」

「そうそう、たかが胸触られたぐらいで。減るもんじゃないし……」

 そのとき急に、ドヤドヤと、ほかのクラスの生徒達が数人、教室へ入ってきた。

「中村さん、どーしてくれんの? 先生、落ちこんじゃって、ろくに授業にならなかったじゃないの」

「そーよ、そーよ。あのステキなお顔に、もし、傷でもつけてたら、今ごろあんたの命はなかったんだから」

「もともと気に入らなかったのよね。痩せているくせに、胸なんかあたしよりあるしさ」

「本当は男、いるんでしょ。白状なさいよ」

 ガタッ。

 突然立ち上がり、亜美は無言で教室を出て行こうとする。

「どこに行こうっての?」

「トイレよ」

「ちょっと待ちなさいよ」

 間をクラスメイトが遮る。

「ほら、忘れもの、カバン」

「?」

「ただでさえ憂つって日にね、まったく」

「……違うってば」

「だってこの前プール見学してから……あれっ、まだ2週間かぁ」

「じゃ、今日は亜美、危険日なんだ」

 遠くの方から、

「えっ、なに、なに?」

「亜美とあの教生が、危険な関係だって?」

 パタパタと寄って来る。

「もう、いいかげんにしてよっ!」

 さて、五時間目。再び2Aの教室である。

 待ちに待ったもう一人の男の教生がやって来る!

 ふつう、昼食のあとのこの時間というのは、睡眠学習よろしく、特に古典なんぞでは先生の方も心得たもので、眠気を誘うが如く古の美しく耳当たりの良い響きで朗読し、午后の心地よいお休みのひと時を演出なさっていらっしゃったりする。そのため、見てる間に後ろの方の席から、まるで将棋倒しのようにバタバタと倒れて行くのだが、さすが、男の教生が来るとなると、みんなお目メパッチリ、ワクワク、ドキドキなのである。

「来たわよ」

 廊下側の生徒から声がかかる。

 ガラッと、入口が開く。同時に、

「起立!」

 珍しく委員長の声が、ピーンと静まり返った教室に響きわたる。

 生徒達はちょっと嬌態を作ってお辞儀をし、席に着く。

「この先生も、良い線いってるわね」

「でも、やっぱ、顔なら榊原先生だナ」

 一時間目と違ってさすがに慣れてきたか、自己紹介をソツなくこなしているようだが……。

「なかなか、やるじゃん」

 隣の席の麻衣が耳打ちする。

「そうでもないようだけど」

 言葉の端々が少し震え気味なのは、妹の耳には明らかであった。

「どことなくおっとりしてて、いいわ~」

「そう、あの目がいいのよ、優しそうな目が」

 そのような騒音には耳もくれず、

「では、37ページ、5行目から中山さん、読んで訳して下さい」

「うわぁ、キビシそー」

「でも、そこがまた、いいわぁ」

「そうね、男は少しぐらい強引な方が」

「そうそう、強引に抱きすくめられて唇を奪われ、そして……」

「キャッ、知子ったらぁ」

 授業は始まっているというのに、教室のあちらこちらから聞こえてくるささやき声。

 ふう……。しっかりしてよね、お兄ちゃん。

 祈るような眼差しを、壇に立つ兄に送る。その兄と、バッタリ視線が合ってしまう。

「まぁっ、亜美、先生と見つめ合っちゃって」

「やだァ、亜美ったら、色目を使って……。ヤラシんだから」

「だーれーが、兄貴に色目を使うかっ!」

 ドン、と握りしめた拳で机をたたくと斜め前を睨みつけ、思わず立ち上がってしまった。

「エーッ!」

「そう言や……」

「キャ~ッ」

「亜美のお兄ちゃん!?」

「うっそぉ~~」

 腕組して口をへの字に結ぶ、大魔神の形相の今仁先生。

 あっちゃ~、しまったぁ……。

 亜美は頭を抱えた。

「いいですか、ただでさえ男の教育実習生の先生って、生徒達、騒ぎますからね。中村さん、自分のお兄さんということは、絶対、ほかの人にはしゃべったりしないように。お友達にもちゃんと、口止めしておくんですよ」

 と、クギを刺されてあったのだ。

 教室はどうしようもなく騒然となってしまって、亜美を中心に、ワッ、と人が集まり、

「んもう、亜美ったら人が悪いんだから」

「お兄ちゃんならお兄ちゃんって、言ってくれればいいのに」

「ね、ね、ひょっとして亜美のお兄ちゃんって、あの明央に行ってるとかいう?」

「きゃ~っ、明央よ、明央」

 完璧に無視されている先生二人。

「し~・ず~・か~・に~っ!」

 雷鳴一発、担任の言葉に、

「おっと、今仁いたんだ」

 と、やっとのことで収まり、以後は滞りなく授業は進んで行った。

「と、ここまで、質問があればどうぞ」

 と、教生が教科書を閉じて置いた途端、

「ハ~イ」

 と、あちらこちらで手が上がった。

「先生、どうしてウチのような女子校で実習やるんですか?」

「先生、恋人いますぅ?」

 つくづく、女子校で教育実習をやらされることになった運命を、そして作者を呪うのであった。

        *

 放課後の職員室では、今仁先生を前に項垂れる亜美の姿があった。

「ま、いつかは知れ渡るとは思っていましたけど……。それにしても初日からこうでは、先が本当に思いやられます」

 お小言頂戴の亜美を、麻衣と由紀江が入口で待つ。

 職員室の入口のドアが開き、ピョコン、とお辞儀して出て来た亜美だが、ペロリ、と舌を出す。

「帰ろ」

 放課後は部活へ、家路へ、それぞれ急ぐ生徒達で、かえって授業中よりも活気づく。

「みんな榊原先生、榊原先生って、もう、いやになるわ」

「でも、亜美のお兄ちゃんで、しかも大学は明央ってことがわかったから、一気に人気、上がるかもね」

 チラッ、と由紀江を見ながら麻衣は続けた。

「せっかく競争率減ってて喜んでたのにね、由紀」

「え、あ、あたしは、その、ね、誠実な亜美のお兄ちゃんの方がいいと……」

「ありがと。お世辞でもそう言ってくれると何だか嬉しい」

「お世辞だなんて……。男は顔じゃないわ、能力よ」

「そ、能力よ、能力! 女をどれだけ満足させてくれるかが大切なのだ」

 麻衣が握り拳に力を込めて言う。

「?」

 亜美が麻衣の方に顔を向ける。

「一晩中でも飽きさせないような……」

「あのねぇ、麻衣、その能力じゃないの!」

 ハーッ、とため息をついた由紀江。

「どうしてあたしのまわりの人って、どこか変なのが多いのかしら」

「自分はまともなつもりぃ? 言っちゃおっかな~、一年の時のこと」

「?」

「古典の時間……」

「あ、ちょ、ちょっと……」

 亜美の方に向き直った麻衣。

「由紀ったらねェ、寝ぼけちゃって、突然、授業中にガバッと立ち上がって、いやあ~ん、なーんて声上げて……」

「あ、あれは……」

「顔なんか、恍惚としちゃってさぁ。みんな、もう、爆笑。先生なんか、あきれてものも言えなかったんだよねぇ。きっと初Hの時の夢でも見てたんじゃないかって、みんな噂してたんだから」

 と、教頭の姿が目に飛び込んできた。コロッ、と取り澄ました顔の三人は、

「先生、さようなら」

 と、ゆうるりとお辞儀する。

 西に傾いているとはいえ、まだまだジリジリと照りつける太陽。指折り数える夏休みは、もうすぐ。

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