触れて
道半駒子
触れて
「カメちゃん」
ふっと、風呂上がりの柔らかなボディーソープの匂いが漂う。寮の共同浴場から戻ってきたルームメイトは、のんびりした声でおれを呼んだ。条件反射で、どきりと心臓が飛び跳ねる。机に向かったまま、こっそり胸を押さえた。
「……はい?」
「包帯やって」
──やっぱり。
振り返るとそのルームメイト、
訳もなく落ち着かない。ぱっちりとした大きな目……宇佐見からそんな風に無心に見つめられると、妙に緊張する。なんだか勝手に頬が熱くなる。
──何なんだよ、その目は。
宇佐見は数週間前、怪我をした。
彼にとってもおれにとっても、宇佐見が怪我をすることは珍しいことじゃない。おれと宇佐見は親元を離れた私立高校に通っていて、その寮内の同じ部屋で寝起きをしている、ルームメイトなのだ。しかし彼は時々夜こっそり寮を抜け出し、外へ出て行くことがある。朝方になってやっと帰ってくるのだけれど、三回に一回は必ずどこか怪我を負っているのだ。門限を過ぎた後の外出はもちろん禁止されているから、寮母さんや寮長の先輩に見せるわけにはいかない。したがって、一番手近にいるおれがその手当てをすることになるのだった。
擦り傷、切り傷、打撲……「カメちゃん怪我した」と朝方起こされる度に、おれはせっせと宇佐見の世話をしてやった。お陰でルームメイトになって半年、部屋には宇佐見専用の(と言っても蓋を開けるのはおれなんだけれど)救急箱ができる始末だ。
大体どうして夜抜け出すのか。どうして怪我を負って帰ってくるのか。その理由について宇佐見に何度も訊いてはみたけれど、満足のいく答えは聞けなかった。いつも「喧嘩した」としか言わない。ということは少なくとも偶然ではなく、誰か他人によって故意に傷つけられたためにできたものだということだ。
それを考えると、おれは怖くて、背筋が寒くなる心地がした。宇佐見に怪我をさせたい、宇佐見を傷つけてやりたいと思う誰かがいるのだ。事情を話してくれない相手におれができるのは、せいぜいその怪我の手当てだけだ。「夜抜け出すのやめろよ」と何度も注意したけれど、全く聞かないし。抜け出すのはいつもおれが寝入った後だから、止めようもない。
そんなある日、例によって朝方帰った宇佐見は「怪我した」とおれを起こした。寝ぼけ眼で救急箱を引き寄せたおれの目に入ったのは、腫れ上がった宇佐見の指だった。
人差し指の骨折。
とうとう宇佐見は、おれでは手当てできない怪我をした。全治一ヶ月。彼の人差し指は固められた。
「カメちゃん」
病院に連れて行った日の夕食後。宇佐見はおれを呼んだ。
「うん?」
「風呂一緒行こう。身体、洗ってよ」
「は!?」
突拍子もない提案に、漫画雑誌から目を上げ、思わず怪訝な顔をして聞き返してしまう。けれど宇佐見は平然と言った。
「指濡らせないからさ。頭も身体も片手で洗いきれないし。手伝ってよ」
「……あ、そっか」
そりゃそうだ。思い至って、怪訝な顔をした自分を恥じた。
けれど。
請け合った後、共同浴場の洗い場に二人並んで、本人に代わって髪を洗ってやる最中。なぜか宇佐見は身体を捻っておれと向かい合い、真っ直ぐおれのことを見ていた。洗ってやる間、ずっと。無心なその目に、おれはひどくうろたえた。
「……宇佐見」
「ん?」
「どうかした?」
「ううん」
それだけじゃない。風呂から上がった後濡れた髪を乾かしてやる時。パジャマのボタンを留めてやる時。次の日の登校の準備……寝癖直しやシャツのボタン、ネクタイ。いつもいつも、おれが宇佐見に何かしてやる時、決まって彼は大きな瞳でじーっと無心におれを見つめているのだ。おれの顔、手の動きを観察している。おれがそんなに信用できないのか、ただのぼーっと目をやっているだけなのか。普通そういうことを(ルームメイトである同い年の男に)やってもらっている時って、恥ずかしくて逆に目を逸らしそうなものだけれど。
なんていうか、もう、本当に落ち着かない。緊張する。
そりゃ手先は器用だから世話してやるのも大したことないけれど……いつか手元が狂ってしまいそうだ。
こっそり息をついて宇佐見と向かい合って座り、紙袋を受け取って包帯を取り出す。ギプスのせいで一本だけ飛び抜けて大きい人差し指へ、力の加減に注意して丁寧に包帯を巻いていく。骨折して数週間。彼の世話も包帯を巻いてやることくらいになり、この作業にも随分慣れた。締めつけすぎないようにだけ注意する。
「…………」
う……。
またいつもと同じ視線を感じる。努めて気づかないふりで、作業を進めていく。風呂上がりの彼の体温は高くて、触れた指は微かに脈拍を感じた。彼を見やると、案の定、ぱちりと目が合う。
「……う、宇佐見」
「うん?」
「痛い?」
「ううん。もう全然」
「そか」
適当な話をしようと思っても、全然思いつかない。いつもこうだ。なんでおれこんなにいっぱいいっぱいなんだろう。息をつく。
ちょうど半分くらいを終えたところで、目の端に動くものが見えた。見ると、宇佐見の包帯を巻いている反対の手が伸びてきて、ごく自然な動きでおれの髪をかき上げた。
「っ?」
思わず身を引くが、また触れられる。もう一度。何度も、撫でるようにそれを繰り返す。
「なに」
「……カメちゃんの髪ってサラサラしてんね」
気持ちいいーと言いながら繰り返す。うるさく鳴る心臓に気づかないふりで、作業を続ける。
「な、何だよ、いきなり」
「や、ずっと前から思ってたんだけどさ」
「そう? わかんねー。同じシャンプーでしょ」
「いや、違うね。あとさ、耳の形が綺麗なの」
そう言って今度は耳を撫でる。あまり自分でも触ることがないところを撫でられて、息が詰まった。ビクリと反応してしまう。優しく耳たぶをなぞる指がくすぐったくて、ゾクゾクする。
「ちょ、くすぐったい!」
「そう?」
さすがに包帯を巻く手を止めて首を振ると、宇佐見は手を離した。なんなんだ、しつこい。
「……カメちゃんって、イイなぁ」
「は?」
子供が欲しいおもちゃを目の前にしているように、おれを見て宇佐見は無邪気に笑う。瞳がキラキラ輝いている。一気に頭に血が上った。意味がわからない。わからないけれど……宇佐見をこのまま見続けていたら、何かの術にかかってしまいそうな気がした。相手を惑わせて、無抵抗にさせてしまう術。
あ。
目を逸らそうとした時には、もう宇佐見の手が伸びていた。頬を取られ、指が唇に触れる。彼はおれに目を合わせて、困ったような目を向ける。やばい。もう手遅れだ。
包帯を巻いている途中の手で、おれの肩を器用に掴む。はずみで包帯を取り落とした。白いそれがころころとすべるようにカーペットを転がっていくのが視界の端に見えた。
目を上げると間近に宇佐見の顔があって、息がかかった。ボディーソープの匂いに包まれる。
「………っ!」
う、わ。
くちびる、が。
「何してんだよ!」
「ぶっ」
おれはとっさに宇佐見の顎を押さえて止めた。つーか今、今、今、あの、アレ、いま……ちょっと触れたぞ!! 唇の先、ちょっと触ったぞっ!?
心臓がバクバク音を立てて、手が微かに震えた。押さえた顎をそのまま、即座におれは宇佐見をカーペットへ転がした。彼はすぐに上体を起こす。
「宇佐見、バカ! 何すんだよ!」
手の甲で唇を押さえる。何か……何か感触が残っているような。
「いっ……」
宇佐見は何か言おうと口を開いて、顔をしかめた。はっとする。
「あ、痛むか!?」
「……だいじょうぶ」
「ご、ごめん」
思わず謝罪の言葉が出る。バランスを取るのに手をついてしまったらしい。包帯はかなり緩んでしまって、彼の手にまとわりついている。
「なあ、ほどけちった」
宇佐見はその手を俺に見えるように掲げ、子供が母親に報告するような口調でそう告げた。その先をおれに委ねるような態度に、身体の力が一気に抜けた。大きなため息がもれる。
「……やり直すよ。貸して」
手首を掴み、こちらに引き寄せる。大人しく目の前に座る頭に言い放つ。
「余計なとこ触んなよ」
とりあえず全て解いて初めからやり直す。目線をやると、やっぱり宇佐見と目が合った。今のこと、何も言わないんだけど。こいつ。
「いきなり何すんだよ……。ホモみたいなことしてくんなよ」
「嫌だった?」
「嫌とかそういう以前に、自分勝手にそういうことしてくんなっつってんの。女子相手にやったら引かれるよ」
彼女いるか知らないけど。イライラしながら答えると、彼は目に見えてしゅん、と肩を落とした。
「……カメちゃんにしかしねーよ」
「あーそーですか」
もうマトモに相手をするのも疲れる。こいつはアホだ。そう頭の中で切り捨てると、ようやく手元に集中できた。いつものように丁寧に巻いて、テープで留め、ネットをかぶせる。それが終わったところで、宇佐見の声が聞こえた。
「……困んだ」
どこかいらだちが混ざっているような声色。意味がわからなくて、ただ聞き返す。
「……は」
「俺すっげえカメちゃん、好きなんだよ」
「はあ?」
突然の発言に、おれは大いに驚いた。
「カメちゃんの髪も好きだし、耳も好きだし、傷の手当てしてくれる時の真剣な顔も好き」
「…………」
「あと優しいとことか、たまに頑固で譲らないとことか、意地っ張りなとことか、色々言っても結局は俺の頼みを断りきれなくて全部聞いてくれるとことか」
「…………」
さらさらと出てくる言葉に軽く引く。というか、後の方、意味がわかんねー。
宇佐見は首をかしげ、更に困ったように声を出した。
「だから最近は、正直言うと……カメちゃんに触りたくて、触ってほしくて……我慢できないっていうか」
言いながら、じりとにじり寄ってくる。慌てて身を引いた。
「宇佐見!」
「なんか、胸が苦しくて」
「バカ! 宇佐見、触ったら部屋移るからな!」
「えっ」
何を言っているんだこの男は。まるっきり…まるっきり、ホモ発言じゃないか! しかも相手がおれ!? いやいやありえないだろ、それ!
「……マジで言ってんの」
「カメちゃんが触ってくれたら、俺苦しくなくなると思う」
「いやいやいや、そんなことないと思う」
「怪我して帰ってきてさ、カメちゃんがこうやって手当てしてくれるじゃん。それが一番幸せ」
「お前、マゾかよ!」
「ちげーよ。痛いのは嫌。だけど手当てしてもらうのがイイんだよ。心もカラダも満たされる瞬間」
「いいって、なにが……?」
宇佐見はふにゃあ、と今までで一番頬を緩め、最高に潤んだ目でうっれしそうに言ってきた。
「肋骨折ったら、包帯巻いてくれる? あ、大腿骨……鎖骨でもいい」
「冗談でも言うな!」
人がせっかく本気で心配していたのに。ヘラヘラ笑って言うな。
包帯と、おれの指と、宇佐見のギプス。
その三つを見て、頬が熱くなる。ピリピリと、電気が走るみたいに、何かが首筋をかすめていく。
嫌な予感がするんだ。
今度触ってしまったら、きっとおれも苦しくなる気がするって。
触れて 道半駒子 @comma05
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます