後編

 それから一週間後。私は篠塚さんに会いに学校の屋上へ続く階段を上っていた。

 紹介された展覧会に行ってきたのだ。美希たちは特に興味がないようだったので、一人で。もちろん私もどうしても行こうと思ったわけではないけれど、彼女が去り際に残した言葉だけは気になっていたから。

 階段を上りきり、屋上へ出る非常扉を開ける。眩しい日差しと、吹き付けてくる屋上風に目を細めた。

 篠塚さんの姿はすぐに見つけられた。屋上の隅にイーゼルを立て、折り畳み式の椅子に座って絵を描いていた。黒々とした髪が夏の日光のなかで際立って見える。

 傍まで行くと彼女は私に気づき、初めて会ったときと同じように微笑んだ。

「こんにちは、松岡さん」

「こんにちは。……あのさ、行ってきたよ、展覧会」

「あら、来てくれたのね、ありがとう。それで、感想を聞いてもいいかしら?」

 キャンバスに走らせていた筆を置き、彼女は椅子に腰かけたままわずかに体を私のほうへ向けた。

「うん……。ごめん、本当にすごい飛びぬけて上手いと思うけど、私にはやっぱりさみしいとしか感じられなかった」

 あの日の彼女の言葉を思い出す。この人の前では、変に取り繕った褒め言葉を言うことに意味などないと思っていた。

「そう、ありがとう。そんなふうに感じ取ってくれる人がいて、とても光栄だわ」

 心の底から満足そうに、ゆっくりと篠塚さんはそう言った。

「展覧会に出した絵は全て、学校の展示会の絵とつながっているの。ひとつの物語の風景なのよ」

 学び舎の風景。あの、整然とした廊下の絵。

 市の展覧会にあった彼女の絵もまた、学校をテーマにしたものだった。

 作品は三点。渡り廊下と、二階の職員室前と思われる廊下と、屋上へ向かう階段。そのどれもが美しく整い、やはり人の気配はなかった。

 たしかにテーマとして学校の展示会の絵と繋がりがあるのはわかるが、ひとつの物語であるという意味を考えていると、彼女はそんな私の様子を察したのか、口を開いた。

「ひとりの学生が、死に場所を探す道中」

「死に場所……?」

「ええ。教室を出て、渡り廊下を歩いて、職員室の前を通って、屋上へ続く階段を上っているのよ」

 ありがちなストーリーよね。彼女は楽しそうな笑い声をあげた。

「鬱陶しいものの一切を排除して、消えるために歩いている途中の世界。わたしがあれに描いたのはそういう世界。なのに笑っちゃう。見たでしょう? 審査員講評」

 展覧会に出展された作品はすべて、市の絵画コンクールに入賞した生徒のもののようで、各作品には審査員のコメントがついていた。彼女の三点の絵には技術の高さを評価する言葉のほかに、校舎内に差し込む瑞々しい光の表現が、高校生の抱く若い希望と青春を象徴しておりすばらしい――といった内容が綴られていた。

「だからね、松岡さん。わたしの絵に良い印象を受けなかったあなたにこそ、見てもらいたかったの。安心したわ。あなたやっぱり、展覧会の作品を見てもおんなじこと感じてくれたんだ」

 篠塚さんは私を見上げ、目を細めた。


「わたしとあなたの感性、似ているのかもしれないわね」


 作り物めいた微笑みを消し、彼女は静かに囁きかける。そのまま、私の返答を待つように黙り込む。彼女になにか意図するところがあるのはわかりながらも、私はまた思ったままを口にした。

「どうだろうね。でも私は……せっかく頑張って物を作るんなら、楽しい気持ちになれるようなのがいいけど」

 おそらくこの返事は彼女を失望させるだろう。そう思ったが、篠塚さんは再び満足そうな笑みを浮かべた。

「もちろん、わたしもそう思うわよ。だって絵を描いているときって、最高に楽しい」

 それだけ言うと、篠塚さんは私のほうへ傾けていた体をキャンバスのほうへ向き直した。置いていた筆をとる。話はおしまいなのだろう。

 私は短い別れの言葉を告げ、きびすを返す。しかし歩き出したところでふと立ち止まった。

「篠塚さん。あの絵は四部作で終わりなの?」

 彼女はぴたりと筆を止め、けれど私の方へ視線は移さずに答えた。

「あと一枚、続きがあるわ。そうね……もうすぐ完成するはず」

「……そう」

 それを聞き届け、私はその場を後にした。


 最後の一枚か。屋上扉を開けて校舎内へ戻り、心の中でそう呟く。

 今、彼女が向かっていたキャンバス。そこに描き出されていたのは学校の屋上の風景だった。もちろん人の姿はなく、屋上の柵も眼下にひろがる市街も、降り注ぐ太陽の光も、すべてが整然と美しく描写されていた。


 あれが最後の一枚なのだろうか。そうだとすれば――その完成を、彼女以外の人間がみることはあるのだろうか。


 そんなことを漫然と考えながら、私は薄暗い階段を下りていった。

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楽園 花崎あや @flos

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