楽園
花崎あや
前編
「ねえ、美術部夏の展示会、だってさ。見てみようよ」
昼休み。教室移動から帰る道すがら、美希が立ち止まった。北校舎の三階、薄暗く静まりかえった一角。
めずらしく解放されている第二会議室の扉の前に、手作りのちゃちな立て看板があった。題字には「美術部夏の展示会 学び舎の風景」。
妙にそわそわしている美希の姿に、朋子が首をかしげ、その隣で恵美が苦笑する。
「あんた美術とか好きだったっけ?」
「ミキはほら、あれでしょ。彼氏が美術部なんでしょ」
「ああ、そういう」
誰も絵画に興味なんてなかったけど、私たちは展示会とやらに足を踏み入れた。
室内にあまり人はいなかった。美術部員とみえる生徒たちが片隅で談笑しているほかに、絵を鑑賞している人はぽつりぽつりといるだけだ。
みんな一様に真面目そうで、私たちのように髪を染めたりスカートを折ったりしているグループなんていない。浮いてるな、と感じつつ、並べられた絵の数々をぼんやりと眺めていく。美希は早々に彼氏の作品を見つけてはしゃいでいた。
ひととおり見終わって、会議室の後方扉から出ようとする。そのとき、扉の近くにひとつだけ、ほかの作品とは離れて置かれた絵が目にとまった。
「うわ、なにこれ、超上手いじゃん」
朋子たちも足を止め、その絵をまじまじと見つめてそう零した。
それはこの学校の、二年生の教室前廊下を描いた作品だった。教室の入り口側から廊下をみた構図をとり、左手には窓とその下に位置するロッカーが、右手には奥行をもった廊下の伸びが収められている。
窓の透明感と、そのむこうに見える中庭の木々の青々とした様子、差し込む日光に艶を帯びた廊下の表面。描かれているものが、空気感のすべてが、まるで写真のようにリアルだ。
「篠塚真咲……あ、うちのクラスの人だ」
添えられている作者名の書かれた用紙を見て、美希が小さく声をあげた。美希は入学時からの友人だが、今年になってクラスが離れた。篠塚真咲、私はその名前を聞いたこともない。
「見て、市の高校生絵画コンクール優秀賞だって。すごくない?」
絵画の横に置かれた小さい立て看板には、その謳い文句があった。たしかに、上手さでは目をひくものがある。よく絵の具のみでこれだけ写真のような表現ができたものだと私も驚いた。だけど、
「うちの学校、こんな綺麗だったっけ」
私は思わずそう言っていた。この絵にえがかれた廊下の世界は、不自然なほど綺麗すぎる。
『学び舎の風景』、それがテーマであるらしいこの展示会。ほかの作品は、部活動に励む生徒の躍動感や、授業中の陽だまりの眠気、開け放たれた窓と風を受けて大きく広がるカーテンといった、学び舎のなかに生きる人の気配が感じられるものばかりだ。
けれどこの――篠塚さんの絵は、きっちりと閉められた窓に、汚れひとつない廊下の表面、磨かれたようなロッカーは整然とし、その扉にはあるはずの錠前さえひとつも描写されていない。
美しく丁寧に描かれた世界は、あまりにも非現実的だった。
「うまいけど。うまいだけで、なんか……さみしい絵」
無意識に呟いたとき、美希が慌てた様子で肩を叩いてきた。そして小声で私をたしなめる。
「ちょっと、梓! それはやばいって!」
美希の言葉に、私は後ろを振り返ってみる。そこには、真っ黒い髪を揺らして微笑む一人の女子生徒が佇んでいた。
「わたしの作品、見てくれてありがとう」
彼女は小首を傾げ、朗らかな声でそう言った。
「あー、篠塚さん、ほんとすごいね! 絵上手すぎ!」
美希が私を小突きながら言う。彼女がこの絵の作者、篠塚真咲か。
篠塚さんは美希に礼を返すと、私に笑いかけてきた。そして片手に持ったチラシを手渡してくる。
「わたし、市の展覧会にも作品を出させてもらってるの。よかったら来て。ええと、あなたお名前は――」
「あ、私? 松岡梓」
名乗りながらチラシを受け取る。篠塚さんはさらに笑みを深くした。
「松岡さん。あなたに、ぜひ見てほしいわ」
彼女は朋子と美希、恵美にもチラシを渡すと、それじゃあまた、と挨拶を残して立ち去った。
「聞こえてなかったのかな? でも梓、ああいうことは思っててもこの場で口に出しちゃダメでしょ」
「ああ……うん」
美希の言葉を聞き流し、私は篠塚さんが去って行ったほうを眺めた。
まるで、この絵そのもののような人だと思った。
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