Morning Star

八枝

Morning Star






 ちらりと雪が窓に触れる。

 夜に沈んだ景色の中では、そうして初めて雪を見る。

 しかしこの季節、このフィンランドでは雪など日常の光景。

 雪があるのが当たり前なのだ。

 老人は厳しく眉根を寄せ、赤いコートを着込む。

 暖炉の火は消した。熾火すらない。

 もう既に凍てつく空気が忍び寄り始めている。

 しかし人のおらぬこの小屋が冷えたとて、誰も困りはしない。

 老人自身は寒さなど大したものとも思わない。

 持ち出すものは白く大きな袋ひとつ。

 ドアを開け、外に足を踏み出す。

 遠く眼下に街の明かりが見えた。

 閉じる動きは無造作、口が見えぬほどの白く豊かな髭の奥で甲高い口笛が鳴り響く。

 それは山彦を起こしながら、どこまでも響いてゆく。

 老人は虚空を見据える。

 まなざしの先は、人には見えぬ何処か。

 来るものを容易く見出す。

 雲間より降りてくるのは大きな木製の橇だ。

 立派な角を持った九頭のトナカイに牽かれ、それは大きく弧を描きながら一度近くの山へと降り立ち、それから老人の許へとやって来る。

 雪煙を立てながら駆けて来るトナカイたちと橇を、老人はにこりともせずに待つ。

 ほどなくして、橇は魔法のようにぴたりと老人の目の前に停まった。

 しかし老人はすぐには乗り込まない。

 前へと回り、トナカイたちの首筋をぽんぽんと軽く叩いてゆく。

「さあ、今年のお仕事だ。準備は万端だな、野郎ども?」

 赤い鼻の一頭だけはその鼻を弾き、老人は不敵にのたまう。

 そして応えは、トナカイたちが一斉に隣と角を打ち鳴らし合う勇壮な音色をもって成された。

「ようし」

 老人は満足げに笑い、赤鼻の頭を支えにしてその場から軽々と橇に跳び乗った。

 木製にしか見えない橇も老人の両脚をしかと受け止め、軋むことすらない。

 老人はどっかと腰を下ろして袋を左肩に背負い、右手で手綱を取る。

「いくぞ、野郎ども!!」

 号令とともに橇は滑り出す。

 雪の上に跡をつけていたのは家の前だけ、トナカイたちの脚はすぐに虚空を踏みしめ、雪の夜空へと舞い上がった。

 上昇する橇、押さえつけられた後の浮遊感。

 そしてびゅうびゅうと耳の傍で風が啼く。

 老人の耳は今夜に限り特別だ。

 真に自分を求める子供の声ならば、星の裏側からでも確かに届く。

 この耳元の風になど、無論紛れるはずもない。

 老人は既に願いを聞いていた。

 願いには様々なものがある。

 欲するものは物であったり、己の未来の姿であったり、あるいは新たな家族であったり。

 己に届く子供の真なる願いである限り、老人はそのすべてに応える。

 直接与えることのできるものではなくとも、願いへと続く何かを与える。

 今聞こえる願いは、切なるものだ。

『どうかパパをぶじにかえらせてください』

『まだかえってこないけど、ぜったいにしんでなんかいません。どこかでよりみちしてるだけなんです』

『パパをかえしてくれるならおねがいしてたおにんぎょうはいりません』

 老人は白髭の奥で口許を苦く歪めた。

「……この冬のロッキーで遭難か。常人の生きてられる状況たぁ思えねえが……」

 だが、ほどなくしてにやりと笑った。

「……ほう、やるじゃねえか。なんとか生きてやがる」

 今夜に限り、老人に不可能などほとんど存在しない。

 不可能のひとつである死者の蘇生を必要としないならば、今すぐに救い出すことなど造作もない。

「気張れよ、野郎ども! 座標、北緯39度、西経106度、目的地はロッキー山脈だ! 雪に埋もれてるアホウを引っこ抜きに行く!!」

 そして老人たちは空を越える。






















 一体何が起こっているのだろう。

 男は唖然として眼下を流れ行く雲に目を奪われていた。

 本当に何なのだろうと男は思う。

 趣味の登山に行った先で雪崩に見舞われて、気が付いたらこの状況だ。

 自分が乗っているものは、橇。

 橇を牽いているのは、トナカイ。

 下に見えているのはおそらく、雲。

 もう感覚など碌に残っていない肌には強い風。

 そして、だ。

「あんまり身を乗り出すんじゃねえ。雲の下は海だがな、落ちれば死ぬ」

 ぎろりと睨んでくる老人は赤い上着を着て、大きな白い袋を肩に担いで、白い髭を生やしていた。

 どうしようもなくひとつの単語が頭に浮かぶが、やはり認められない。

 あれは作り話だ。親の仕業だ。

 老人が鼻を鳴らした。

「信じようが信じまいが知ったことじゃねえ。俺は子供たちにプレゼントを持って行くだけだ」

 静かなのに凄味に満ちたその声は、喉まで出かけていた男の一切の反論を封じ込む。

「大して時間はかかりゃしねえ。すぐに家まで届けてやる」

 橇は雲海を駆ける。

 真円から少しだけ欠けた月の光によって薄紫に浸され、まるで異世界に迷い込んだかのように錯覚する。

 山があり平野もあり、切れ目は川にも見える。

 風の唸りも、そこに相応しい伴奏に思える。

 しかし唐突に、その伴奏の中に異物が紛れ込んだ。

 蹄の音。

 馬が路面を行く音が聞こえる。

 男は老人を見上げたが、老人も不可解そうに眉根を寄せている。

 そしてちらりと振り返り、口許を歪めた。

「は、芸達者だな」

 蹄の音が近付く。

 果たして、橇の右隣に並んだのは二頭の馬に牽かれた二輪馬車だった。

 男は息を呑む。

 馬車が空を飛んでいることなど、もうこの際どうでもいい。

 牽いている馬にも、中世欧州式の鎧を纏った御者にも、頭がない。

 正確に言えば、御者にならばあるにはある。

 右手で手綱を握り、左手で兜を抱えているのだ。

「あれは……」

「デュラハンさ。大変だな。最近じゃあ空くらい飛べねえことにはやってけねえらしい」

 答えながら老人が手綱を繰る。

 橇が、ぐんと左に逸れた。

 バランスを崩して落ちそうになった男は文句を言おうとして、目を剥く。

 馬車がぐんぐんとこちらに寄って来ているのだ。

「こっちを落とそうとしてやがる…………面白え!」

 老人が大きく笑った。

 男の目の前に手綱が差し出される。

「……は?」

「何ボケっとしてやがんだ。これから俺があれ叩き落すから、お前がトナカイの手綱取るんだよ」

 訳が分からずにいるうちに、男は無理矢理手綱を握らされていた。

 一方老人は立ち上がり、袋に手を突っ込んだ。

 しばしごそごそとやっていたが、やがて引き抜かれたときには1mほどの棒が握られていた。

 棒の先にはこれまた1mほどの鎖が続き、その先にはハンドボール大の棘つきの鉄球。

 モーニングスターと呼ばれる武器であることを男は知らない。

「奴にはこの鋼鉄の塊をプレゼントしてくれる!!」

 老人はそれを頭上で一度大きく振り回すと、豪快にデュラハンへと放った。

 しかしデュラハンもむざむざと食らいはしない。恐ろしい音を立てながら大気を切り裂いて迫り来るそれを左手の兜で打ち払ったかと思うと、その兜をそのまま首の上に乗せ、腰から剣を引き抜く。

 ぐん、と車体が近付き、橇に激突した。

 弾き飛ばされそうになるのを堪え、さらに襲い掛かってきた剣閃はモーニングスターの柄で受け止め、老人は怒鳴る。

「何してやがる! しっかりトナカイどもを操りやがれ!!」

「無茶言わないでくれ! 僕は馬に乗ったこともないんだぞっ!?」

 男の悲鳴。

 無理もないところではある。

 男は会社では開発班に属している。登山は趣味であり、そのために鍛えられてはいるものの、そもそも状況があまりにも異常に過ぎる。

 しかし老人は許さない。

「大の男が、それも父親が泣き言なんざほざくんじゃねえ! 屁理屈こねる暇があったら血反吐吐いてでも何とかしやがれ!!」

 しかと橇の床を踏みしめ、モーニングスターを振り回す。棘つきの鉄球がデュラハンを牽制する。

「畜生! ああもうどうにでもなれ!!」

 びゅんびゅんと旋回する鉄球の音を頭上に聞きながら男が咆える。訳も判らぬまま、力の限り手綱を打ち振るう。

 トナカイたちが跳ねた。

 橇を滅茶苦茶に揺らしながら、今までに倍する速度で駆け始める。

「うおわうわうわっ!!?」

「ハッハァ、その意気だぜ若ぇの!」

 男は橇の縁にしがみつきながらだというのに、老人は仁王立ちしたまま小揺るぎもしない。

 此処こそが我が領域とばかりに、生き生きと大笑する。

 白くふさふさとした眉の下、眼も爛々と輝く。

 追い縋ってくる馬車を見据え、呼吸を量りながら鉄球を大きく回している。

 そして左に並んだ瞬間だった。

「そこだ!!」

 全霊を込めた一撃。狙ったのは手綱を握るデュラハンの右手。

 しかしデュラハンも只者ではない。会心となるはずだったその一撃の間に剣を割り込ませたのだ。

 鋼鉄同士がぶつかり合う、耳に痛いほどの音。

 モーニングスターを引き戻した老人がそれでも笑う。

 デュラハンの剣は半ばから折れ、切先は雲海に落ちて消えた。

「どうするデュラハン? まだやるか? それとも尻尾を巻いて逃げ帰るのか?」

 老人の問いにデュラハンは行動をもって答えを返す。

 再び頭を左手に抱えると、面頬から闇を吹き出したのだ。

 月の光が見えなくなる。

 美しい雲海も見えなくなる。

 あたりが黒一色に染められてゆく。

 二輪馬車の姿も見えなくなる。

 が、いなくなったわけではない。

 先程まで左にいたはずの馬車が右から体当たりを仕掛けてきたのだ。

「うおわっ!?」

「ち……」

 モーニングスターの柄をその頑強な歯で銜え、凄まじいまでの衝撃に放り出されそうになった男を老人は引っ掴んで橇に引き摺り戻す。

 無論のこと反撃などできるはずもなく、得物を握り直した時には既に二輪馬車の姿は闇に隠れてしまっている。

「どうするんだ?」

 男の息は荒いが、放り出されそうになったばかりの割りには声は落ち着いていた。

 老人は髭の奥で歯を剥く。

「ほう、やけにケツが据わったじゃねえか」

「僕は家族のところに帰るんだ。どうせ一度は死んでるはずだったんだろう? もうこのまま行ってやる」

 男は目も据わっていた。胡坐をかいて左手は縁を掴み、右手は手綱をしっかりと握り締め、口の端を吊り上げて笑う。

「それで、何か手はあるのか? 僕には何ができる?」

「なあに、奴を見つけ出して海面に叩き落してやるまでだ。あとは海が何とかしてくれる。お前の出番は二番目、最初は……」

 老人は愉快げに、先頭のトナカイを見やる。

「なあ、今年もお前の鼻が役に立つときが来たぜ?」

 応えるようにして、先頭のトナカイが角を振りたてた。

 赤々としていた鼻が眩い輝きを放った。

 走る赤光のままに闇が切り払われてゆく。

 上に走った光は月と結ばれる、前に走った光は雲に突き当たり反射する、そして右に走った光が二輪馬車を捉えた。

 馬車はすぐさま残った闇に隠れようとしたが、光は闇という闇を根こそぎ剥ぎ取ってゆく。

 薄紫の雲海の全貌が再び顕わになる。

 九頭のトナカイに牽かれた橇、二頭の首なし馬に牽かれた二輪馬車、ふたつがその中を駆けている。

「よおし、よくやった。次はお前だ、奴の馬車につけろ」

「何とかするよ」

 男は手綱を繰る。相変わらずやり方などさっぱり判らないが、言葉通り、何とかするのだ。

 最初は大きく馬車から外れ、次は急上昇、そして身体が完全に浮いてしまい手綱と縁を掴んだ腕だけでしがみつかなければならないような急下降。

 それが終わって床に叩きつけられても男は馬車から目を離さない。

 ずきずきと痛む頭を押さえることもなく繰り方を試行錯誤で覚えてゆく。

「……これで……」

 右に行かせようとして繰り、右に行く。

 加速する馬車を追うためにこちらも加速させる。

 いい感じだ、と老人は声もなく笑う。両の脚を左右の縁に強く押し付けることにより、急降下のときすら揺るがずにモーニングスターを構えている。

 有利な位置を確保せんとして、橇と馬車が互いを追う。螺旋を描くようにして虚空を駆ける。

 雲の山に突入してもそれは続く。

 デュラハンは雲などものともしない。そして赤鼻のトナカイは先を見出す。視界に不利はない。

 突き抜けると、同時に雲海も抜けていた。まともには見えることこそないが、下には黒々とした海。

「そろそろ決めに行く!」

「おう、任せた」

 宣言する男、悠然と頷く老人。

 速度によって咆え猛る風の中、螺旋の半径が小さくなる。互いの姿がぐんぐんと近付いてくる。

 老人は機を量る。

 橇が馬車の右斜め上に来たのと、老人が歯を剥いたのと、跳躍したのとはまったくの同時だった。

 馬車に飛び移ろうというのだ。

 デュラハンも即座に行動に移った。

 振りかざされたモーニングスターを握る腕、デュラハンはそこを狙った。抱えた兜を叩きつけにゆく。

 ここで防げば、あとはそのまま馬車から海へ突き落とせばいい。

「甘えッ!!」

 老人が咆哮を上げる。

 振るわれたのは、ずっと左手に握ったままだった白い袋。それが鈍い音を立ててデュラハンに叩きつけられる。

 この袋は子供たちの夢を叶えるためのもの。その重さは、モーニングスターの比ではなかった。

 いっそ呆気ないほどにデュラハンを虚空へと放り出す。

「あばよ、我らがヘル女王陛下によろしく言っといてくれや」

 老人はそう告げると、今度こそモーニングスターを振るい、首なし馬の背に連続して叩き付けた。

 そして御者台を蹴り、斜め下まで移動していた橇にひらりと帰って来る。

 視界の中で、馬車が失速し、墜落してゆく。

「やった……のか?」

「ああ。ちょいとポカやっちまったが」

 男が尋ねると、老人はやや渋い返事をした。

 目の前に持って来たモーニングスターには、べっとりと血糊がへばりついてしまっている。

「馬はぶん殴らなくてもよかったかもしれねえな」

 あまり子供の目の前に出ることはないものの、万が一見つかってしまったときに血の臭いをさせているというのはあまりよろしくない。

 懐から布を取り出して拭いつつ、どうしたものかと老人は思案した。






















「パパ……パパなの!?」

 五歳ほどの少女が男に抱きつく。

「サンタさんがおねがいきいてくれたんだ!」

「ああ……サンタさんが助けてくれたんだ。心配かけたな」

 男もしっかりと抱き返す。

 奥からさらに誰か出てくるようだ。

 離れたところで見守っていた老人は、誰であるにせよ見つからないうちにもう行くか、と背を向ける。

 ここでもちらちらと降っている雪の中、橇に乗り込み、手綱を握る。

 滑り出した橇は再び夜空へと舞い上がる。

 たとえ光がなくとも赤鼻を頼りに、いつかすべての子供が自分を必要としなくなる日までは、たった一人のためだけにでも夜空を疾駆する。

 あの子もそのうち、父親がサンタクロースに助けられたということを自ら否定するようになるのだろう。

 虚しいとは思わない。寂しいとも思わない。

 太陽が上れば見えなくなってしまう夜明け星でいい。

 ただ世界に子供の幸せがあればいい。

「メリークリスマス」

 呟いた。






 サンタクロースと呼ばれる老人は次の子供のために空を駆け抜ける。

 願いと樅の木で溢れかえる聖夜は、まだ始まったばかりだ。






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