第5話 「悔いと迷い」
それから一週間、依頼者からの連絡はぱたりと途絶えた。
このことが意味することはなんだろう。
先日の私の言葉が功を奏し、依頼者の行動を抑制したのだろうか。私への依頼は慎重になり、数が減らしたのか。それとも、潜伏期間に入り、機をうかがっているのか。それは、私にはわからない。わからないということが、私の想像を掻き立てる。
もしかしたら、もう私を介することをやめたのかもしれない。先日のことで、依頼者のめぐみに対する執着心の大きさはよく理解出来た。もう、彼は私というエージェントを立てることをせずに、自らが実効支配をする気になったのではないか。まどろっこしいことは止め、権力を直接めぐみに波及させる。そうなれば、私は蚊帳の外に追いやられることになる。
そうなれば、本来はほっと胸を撫で下ろさなければならないのだろう。依頼者とストーカー行為という犯罪行為から解放されたことは大いに喜ばなければならないことだ。
しかし、私の胸には安堵よりも、安心よりも、幸福よりも、恐怖と、嫉妬と、不幸が渦巻いていた。もう、ストーカーをすることが出来ないかもしれない。その恐怖が私の中に明確に、明瞭に存在していた。
正確には「ストーカーが出来ない」ということではなく、「構造が崩れる」ことに恐怖を覚えているのかもしれない。私の欲望を生み出していたこの構造が、被害者であり、加害者であり、守護者であるこの地位から引きずりおろされる。
私の肩書は失われる。
私は、何者でもなくなってしまう。
恐怖だ。
恐怖でしかない。
「どうしたんですか?」
甘ったるい声に、思考の世界から引っ張り出される。
「急に黙っちゃってー。怖くなっちゃうじゃないですか」
小さなキッチンから顔だけこちらに向けて、めぐみが私に笑顔を投げる。
「ううん。なんでもない。ちょっと考え事」
「先輩は考え事が好きですねー。哲学者にでもなったらいかがですか?」
「生憎、世界を都合よく解釈出来るほど図々しい人間じゃないよ」
白々しい。ここまで都合よく自分の欲望を正当化している人間もいない。
依頼者が実力行使に出てから、めぐみは私を度々家に招待した。めぐみはいつも笑顔で私に接し、よくしゃべっているが、やはりめぐみの心もまた、私とは違った恐怖に犯されているに違いない。明るい笑顔も、言葉も、それの裏返しだった。
「はい、出来ましたよー」
めぐみはぱたぱたと湯気が立つ器を持ってきて、ちゃぶ台に置いた。
「めぐみ特製、手作りカレーでございます。どうぞ召し上がれ!」
笑顔も調味料の一種です、と言わんばかりの満面の笑みを私に向ける。
大きな具がごろごろと転がり、湯気と同時に匂いも立ち込めてくる。食欲がそそられる。
いただきます、と手を合わせ、カレーを一口放り込む。辛すぎず、甘すぎず、適度なスパイスと、大きくも優しい食感が口の中に充満する。美味しい。美味しいカレーだ。
「どうですかぁ? お口に合いますか?」
私は一口ずつカレーと頬張り、こくんと頷いた。すると、まためぐみの顔に笑顔が咲く。
「めぐみ、料理なんか出来たんだね。初めて知ったよ」
「料理くらい出来なくて女の子の肩書を背負っちゃいけませんよー。誰も雇ってくれませんよー?」
料理を不得意とする私には耳の痛い言葉だった。
私の知らなかっためぐみの新たな一面を、こうして自分のストーカー行為の延長線上で得ることが出来る、というのもまた皮肉なものだ。嬉しく思う反面、もうめぐみとは普通の人間関係を構築することは出来ないのかもしれない。こうした異常な構造下でしかめぐみとの関係を保てないのかと思うと、その事実が私の心を揺さぶる。
このままでいいのだろうか。こんな関係のままで、いいのだろうか。
それを私が考えたところで、どうにもならない。私はこの構造の中にすっぽりと収まることしか出来ないのだ。もう、私の意志では脱することは出来ないのかもしれない。
もう、前進することも、後退することも出来ない。
私の眼からは涙があふれる寸前だった。
涙が流れても、カレーの辛さで誤魔化そうかとも思ったが、この辛さが適度に調節されたカレーでは、それも叶わなかった。
*
「なんか、しばらく観ないうちに先輩痩せました?」
久々にサークルのたまり場に顔を出すと、開口一番に由伸にそう言われた。体重計に乗ったり、鏡で自分の姿を意識して観ることも減ってしまって、自分が痩せているという実感はなかった。
「あー、最近忙しくて、ご飯が食べれてないのかも」
「だめっすよー、ちゃんと食べなきゃ。なんならいいラーメン屋紹介しましょうか?」
「どうせドカ盛りのお店でしょ。そういう趣味はないから遠慮しとく」
「たまには一緒にご飯行きましょうよー。おごりますから。ね? いいでしょ?」
「そういう気分じゃないの。ごめんね」
そういうと由伸はふてくされながらも引き下がった。
確かに、痩せてしまったのかもしれない。ここ数ヶ月、心が芯まで安らぐ瞬間が全くなかった。いつも何かを怖れ、何かを求め、何かを憧れていた。心と共に、身体がすり減っているのかもしれない。
「たまには息抜きも必要ですよ。先輩も一人でなんでもかんでも抱え込む人なんだから」
「知ったような口を利くのね」
「間違ってました?」
「ん、的を射ている」
こういった会話の端々にも私の本性が晒されてしまうかもしれない、という恐怖が含まれている。油断が出来ない。
「そういえばね、先輩」
由伸が、顔をこちらに寄せてくる。その表情は、なにやら深刻だ。
「めぐみがね、ストーカー被害に遭ってるらしいんですよ」
私の中に衝撃が走る。
一瞬、時間が止まった。
心臓も止まったかもしれない。
私は、今どんな顔をしている?
怪しまれないだろうか?
「大丈夫ですか? 先輩」
は、と我に返ると由伸が私の顔を覗き込んでいる。
私はなんとか冷静を取り繕う。
「ストーカー?」
「そうです。ストーカー。めぐみが変なのに付きまとわれてるって噂があるんです」
ついにきたか、と私は思う。
ここまでの期間、誰にもバレないという方がおかしかったのだ。
「それは、誰から聞いたの?」
「同級生からです。いや、めぐみが直接言ってるわけじゃないんですけどね?」
「めぐみが言ってるんじゃないの?」
「はい。それはないみたいです」
「じゃあ、なんでストーカーに遭ってるなんてわかるの?」
「俺にはわかんないですよ。あくまで噂ですから」
その噂はどこから発生したのだろう。素人ながらも、私は誰の眼にもつかないように時間と場所を必死に考え、読みながらストーカーをしていた。しかし、それにも限界はある。めぐみの部屋に忍び込んだりしているところをアパートに住んでいる他の学生に見られたのかもしれない。
「どうなんですかね。なんか、めぐみから聞いてたりします? 最近先輩、めぐみの家にしょっちゅう行ってるらしいじゃないですか。なんか怪しいやつがいたりするんですかね」
ここまでなのだろうか。
これ以上私が隠し通せるとは思えない。
事実、私の眼は泳いでいるだろうし、掌は汗でぐっしょりだ。
ここで由伸に全てを白状したら楽になれるのだろうか。
全てから解放されるのだろうか。
欲望を生み出す構造からも、欲望を欲する自分からも、解放されるのだろうか。
喉が渇く。焦点が定まらない。
「先輩? だいじょうぶですか?」
由伸の声がかろうじて耳に届く。
私は、私は、解放されたいのか?
解放されたがっているのか?
「由伸」
私は言う。
「そんなの根も葉もないでたらめよ」
私は言った。
「どうせ、まためぐみをねたんでる奴らが流してるガセでしょ。あなたもそんなものにいちいち真剣に取り合ってるんじゃないの。そんなんじゃ体力持たないわよ?」
私は、言った。
「それから、めぐみにもそんな噂がたってるってこと言っちゃだめよ。めぐみも心配性なところあるから、本当にストーカーにあってると思い込んじゃうかもしれないし」
私は、曇りなく言った。
「本当にいいんですか?」
由伸がまた私の顔を覗き込む。
「いいのよ。とりあえず、めぐみには私がついてるから、変なのが近寄ってきても平気だから。ね? お願い」
私は言った。
「先輩って優しいんですね」
由伸はまっすぐに私を見て言った
「知らなかった?」
「知ってました。よく知ってるつもりです」
この瞬間が、私の最後の逃げ場だったのかもしれない。
そして、私は逃げる道を自らの手で葬り去った。
吊り橋に自ら火をつけ、深い深い谷の底に落とした。
私はどこに行ってしまうのだろうか。
私は、どこに到達してしまうのだろうか。
もう、私にもわからない。
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