支配者の片想い

神楽坂

第1話 「手紙」

欲しいものは、何でも手に入れる。

 全て、手に入れる。

 どんな手を使ってでも。

 どんな犠牲を払っても。

 欲しいものは全て、手に入れる。


          *


 なんで私がこんなことしているのだろう、という疑問が一瞬頭を過るが、すぐにそれを打ち消す。今更自分の行動を疑っていても仕方がない。これは自分で選んだ道であり、自分にとって十分なメリットが見いだせる行動だ。そう、自分に強く強く言い聞かせる。

 いかに倫理的に反していても、たとえ犯罪行為だったとしても、これは自分のためにやっていることなのだ、と正当化をする。

 そうして私は自分を奮い立たせて、手に持っている小さいデジタルカメラを、視線の先に佇むアパートのベランダに向ける。

 ぴぴ、という電子音が虚しく夜の闇にじんわりと溶ける。

 カメラのディスプレイには、ベランダから洗濯物を取り込む一人の女の子が映し出されている。

 どこまでも無防備で、どこまでも無垢な、女の子。

 なんで、私が。再びその疑念が起ち上る。どれだけ正当化しても、罪悪感は私の中から姿を消すことはない。それどころか、正当化という泥で固めれば固めるほど、罪悪感が巨大化していく。正当化と罪悪感が、巨大な矛盾を産んでいる。

 それでも、私はシャッターを押し続ける。

 私の鎮痛な気持ちを知ってか知らずか、デジタルカメラはいつまでもぴぴ、ぴぴ、と緊張感のない高い声を発して、私の罪を象徴する画像を自らの記憶に刻み続けていた。


          *


 私がこんなことをし始めたのは三ヶ月ほど前からだ。

 大学から一人暮らしをしているアパートに帰ると、ポストに一通の封筒が入っていた。宛名には私の名前が書いてあり、差出人の名前はなかった。

 気味が悪かったが、とりあえず見てみようとハサミで封筒の端を開けた。

 がさり、と封筒に指を突っ込み、内容物を引っ張り出してみると、最初に姿を現したのは数枚の紙幣だった。

 私は眼を瞠る。

 あまりの驚きに、私は紙幣を一度封筒にしまってしまった。

 そして慌てて冷静を繕い、再び封筒の内容物を取り出す。

 そこにはやはり、紙幣が封入されていた。

 諭吉が、五枚。

 これは、一体どういうことだろう。

 もう一度、宛名を確認する。間違いなく、私の名前がそこには書かれている。大きくて無骨で荒々しい文字。そんないかにも男らしい文字で私の名前が漢字で書かれている。私に宛てているということは間違いらしい。

 とりあえず、新札の一万円札五枚を机の上に置き、封筒の中身の残りを確認した。

 すると、一枚の便箋が入っていた。私は便箋を取り出し、おそるおそる目を通す。そこには、私の名前を綴ったのと同じ筆跡の文字が並んでいた。


   突然の手紙、お許しいただきたい。   

   貴女に頼みたいことがある。

   とある女性のストーカーになってほしい。   

   少ないが、前金を同封しておいた。

   引き受けてくれれば、更なる報酬を約束する。

   引き受けてくれる気持ちが少しでもあるなら、

   下記のアドレスに連絡を欲しい。

   もちろんだがこの依頼のことは他言無用である。



 手紙には、短く、半ば言い捨てるかのようにそう書かれていた。そして、最後にはフリーメールと思しきアドレスが付与されていた。

 ストーカーをして欲しい?

 ストーカー、というのはあのストーカーのことだろうか。

 私の頭の中はしばしパニックに陥った。

 私が女性のストーカーになる? それは、この手紙の送り主の代わりに女性をストーカーするということなのだろうか? 自分が直接やるのは億劫だから? 家から出るのが面倒くさいから? 捕まるのが嫌だから? どういう行動原理なんだろう。そんなことがまかり通るのだろうか? それらの疑問が私の頭の中でぐるぐると旋回を続ける。

 もちろん、手紙を読んだ直後はこんな依頼は願い下げだった。自分がストーカーをして犯罪者呼ばわりされたらたまったものではない。そこでバラ色の人生が幕を下ろしてしまう。こんなこと、私がやるはずがない。そう思っていた。

 しかし、机の上に置いてある一万円札と、手紙に書いてある「更なる報酬」という文字を見ているうちに、もう一人の自分がむくむくと成長してきた。

「お金が欲しい」。私は心の中でそう叫んでいた。 

 バイトはしているものの、自分の物欲を満たすことが出来るほどの収入もなく、親からの仕送りもそこまで期待出来ない。かと言って、バイトを増やそうか、と思っても授業もあれば友人との付き合いもある。大学生は暇な分、非常に忙しいのだ。

 その欲望の間でぐらぐら揺れているうちに、欲望の私が段々と発言力を増してきた。

「話を聞くだけならいいじゃないか」

「本当に危ないことをさせられるようなら手を引けばいい」

「うまくいったらお金が入る」

 もはや、その声を制止するだけの力は私の中には残されていなかった。後から考えると、ここで踏みとどまれなかったのが悔やんでも悔やみきれない。

 私はパソコンを立ち上げて、手紙に書いてあるアドレスを新規メールの送信先の欄に打ち込む。

 何か本文は書いた方がいいのだろうか。いや、変なことを言って取り返しのつかなくなることだけは避けておきたい。ここは空メールでいいだろう。

 送信ボタンにマウスカーソルをゆっくりと移動させる。

 心臓が強く脈を打つのがわかる。

 こんな、背徳感に襲われるのは高校の時に初めて授業をさぼって友人と一緒にカラオケに行った時以来だ。もっとも、違反しようとしている規則のレヴェルは全く違うのだが。

 かちり、とマウスをクリックし、メールを送信した。

 気が付けば、マウスを持ってる右手の掌はじっとりと汗で濡れていた。

 ふう、と一息つく間もなく、新着メールが届いた。

 息を飲む、とはこういうことなのだろう。ごくり、と喉が鳴る。

 無題の新着メールは、ディスプレイを食い入るように見ている私を、睨んでいるようにそこにいた。

 私は、腹を括ってメールを開いた。



   私にメールを出した瞬間、私と貴女の共犯関係は成立した。もう、これでこの仕事から逃れることは出来ない。このメールを無視した場合、自分は警察に出頭し、貴女の名前を共犯者として警察に証言する。



 ハメられた、と思った。

 やはり後から考えると、たった一通のメールのやりとりで共犯関係が成立することなんて有り得ない。私はメールに何も書いていないし、やるともやらないとも言っていない。それでは、口約束としての契約すらも成立していない。前金だって、先方が勝手に置いて行ったのだ。どこかに捨ててしまえば、証拠すらも消えてなくなる。

 しかし、メールを開いた時の私には冷静な判断をすることが出来なくなっていた。

 もともと、メールを出した時にはすでに私は背徳感に襲われていた。自分は悪いことをしているんじゃないか、自分のやろうとしていることは法律に違反しているんじゃないか、そんな疑念を抱いていた。その疑念が、「こんなことで共犯になるわけがない」という発想の発生を阻害していた。そして、今となってはもはや後戻りが出来ないところにまで来てしまっている。

 メールはこう続いていた。



   しかし、安心してほしい。難しいことをやれと言っているわけではない。

   こちらの指示通りに女性に対してストーカー行為を行えばいいだけだ。

   もちろん、それは違法行為ではあるが、悪質なものにはならない。女性に直接危害を加えさせるなどの行為は要求しない。あくまでも、紳士的なストーカー行為を要求する。



 ストーカーに紳士もへったくれもあるものか。そんな基本的な指摘すらも思い浮かばな

かった。「悪質な行為は要求しない」という文言はすでに私にとっては小さな救いですらも

あった。



   こちらの要求にさえしたがってさえくれれば、それ相応の報酬は支払う。これは契約だ。金額の設定もお互いの交渉によって正当なものにしていこうと思っている。何かあれば、このメールアドレスに連絡をしてほしい。



 読めば読むほど、私はなんて良心的な人なんだろう、と思うようになっていた。こちら

の意見を取り入れてくれる上に、報酬まで出してくれるなんて、と。一種の洗脳だ。最初

にきつい一撃を与えておき、後から甘い言葉を並べ立てる。まるで悪徳宗教の商売文句の

ようだ。

 文章はここまでで終わっていた。文章を読み終わった時点で、残念ながら私の中には引き下がるという選択肢は消えていた。

 すると、数行空白があったのちに、短い文言が綴られていた。

 


   そして、これがターゲットの女性である。

   貴女もよく知っている人物であろう。



 その言葉の後に、一枚の写真が添付されていた。おそらく、隠し撮りしたであろう一枚。この写真を撮った勢いで、自分でストーカーを続けてくれればよかったのに、と今になると思う。

 そして、写真の中には、依頼者の言うように私の良く知る人物が映っていた。

 サークルの後輩、橋本めぐみだった。

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