最終回 三無の名

 深々と胸に刺した刀を抜いた時、その忍びの身体が、悲しいまでに細い事に気付いた。

 老いていたのだ。吾市は、遠目から屋敷に忍び込む動きを眺めていたが、軽々と跳躍し駆ける姿から、てっきり若者だと思っていた。


(きっと、名のある忍びに違いねぇ)


 そうでなければ、老いてもここまで動けるものではない。

 そして、老忍の頭巾に手を掛けた時、吾市は肺腑を突かれるような衝撃に襲われ、その名を呼びそうになった自分を、何とか抑えた。


「卑しき者ながら見事な技よ」


 戸が開き、部屋の奥から声がした。烏丸公知である。寝ていたのは公知の影武者で、既に居住まいを正し部屋の隅に控えている。

 部屋に火が灯された。僅かな灯りでも、闇に潜んでいた吾市には眩しく感じられる。


「しかし、待っておる間は寒うあったわ」

「申し訳ございませぬ。この者、存外忍び達者。最後の瞬間まで隙がございませんでした」

「いいや、責めているわけではない。そなたがいなければ、この首は奪われていたかもしれぬからの」


 と、烏丸は鉄漿を見せ、妙に甲高い笑い声を挙げた。


「この曲者は、名人三無と申す忍びでございます」

「ほう、知り人かえ?」


 吾市は、小さい首肯しゅこうで応えた。


「忍びの間では、名の知れた男でございます」

「なるほど。探題方に雇われた忍びじゃな?」

「恐らく……」

「ふむ。しかしながら、そなたもその名人とやらを仕留め得る腕前はあっぱれじゃ。どうだ、私の家人にならぬかえ? 武士にもしてやろうぞ」

「いえ、それは我々の掟に反します故、私の一存では決められませぬ」

「そうか。それは残念じゃが、その律儀さ、ますます気に入った」

「有難き幸せでございます」


 寝床に腰を下ろした烏丸に、吾市はそう言って平伏した。

 思えば、こうした武士言葉や所作は、傍で倒れている父に教わった事である。時には殴り蹴られる厳しい稽古であったが、お陰で武士の変装が得意になった。それでも、父から見ればまだまだらしい。父は坊主の変装が得意で、その為に出家までしたという。


「畏れながら、この功に免じて一つお願いしたき儀が」

「下郎。何を言うか」


 傍に控えていた家人が色をなしたが、それを烏丸は扇子を開いて制した。


「よいよう。なんじゃ、申してみよ」

「この三無の骸を、いただきとうございます」

「私の命を狙った悪人ぞ。首は晒さねばならぬ」

「そこを曲げて、何卒お願い致しまする」

「ほう……そこまでのう。まさか、煮て喰うわけではあるまい?」

「敵とはいえ、名人と呼ばれた忍び。丁重に葬りたいのです」


 烏丸の、冷たい目が吾市を睨んだ。鋭い眼光を避けるように、顔を下げる。流石は、宮方の全てを司る男。吾市は、背中に冷たいものを感じた。


「律儀な男じゃ」

「……」

「よかろう。そなたの功に報いられるのであれば」


 吾市は丁重に礼を述べ、三無の身体を背負って烏丸邸を辞去した。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 闇を駆けた。大宰府をすぐに抜け、足を止めたのは 古処山の頂上、朝日が昇る頃だった。

 この場所からは、浮羽が一望する事が出来る。


(此処がよかろうな)


 吾市は、苦無を用いて穴を掘った。土を掻き出しながら、脳裏に父との思い出と、手にはその父を殺した感触が蘇った。悲しみよりも、怒りが勝っていた。不条理な忍びの宿運と、殺した自分。そして、命じた草野右京亮に。

 右京亮は、一言も父の事を口に出さなかった。一度だけ、烏丸の命を守れ。命じられたのは、それだけだったのだ。

 ひとしきり掘り終えると、浮羽に背を向けた格好で埋めた。父が浮羽を愛していたか、それはわからない。これは吾市の、今の心境だった。

 そして、墓石に見立てた石塊いしくれに、生前飲む事がなかった酒を、たっぷりとかけてやった。


「酒じゃ、おっ父。飲みとうて仕方なかったじゃろう? それもただの酒でねぇぞ。お公家が飲む、上等な酒じゃ。おっ父の口にゃ勿体のうあるがな」


 父は、酒が飲みたそうにしていた。だが、術の為だと、無理矢理断っていた。しかし、祭りの夜など酒を飲む男衆を、羨ましそうに見ていたのを吾市は知っている。


(おっ父、やはり俺は許せぬ)


 忍びである以上、命を落とす事は仕方ない。敵味方に忍びを派遣する事も、浮羽忍の常套手段である。それはいい。だが、何故父子なのだ。

 非ず人の魍魎。人はそう呼ぶが、忍びとて人。親子の情愛はある。人を人として思わず、銭の為に殺し合わせるように仕向けた、右京亮への明確な殺意を、吾市は覚えた。


「次に来るときゃ、右京亮の首を供えるでな。暫く待っておれよ」


 そう言うと、吾市は振り返りもせず、背後に飛苦無を投げた。

 木から何かが落ちる音がした。立ち上がり面相を改めると、物見役の与助だった。父と自分を監視していたのだ。

 吾市は鼻を鳴らした。邪魔者は殺す。敵と思えば殺す。そして、殺すと決めたら、必ず殺す。それが、この身体に流れる、魍魎の忌まわしき血である。


「さらばじゃ、おっ父」


 吾市は、その場を離れ疾駆した。朝靄の中。向かう先は、右京亮の屋敷である。父の仇を討つ。それが成就した暁には、三無の名を継ごうと、吾市は決めた。


<了>

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名人三無 筑前助広 @chikuzen

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