第六回 忌日

「絶景じゃな」


 黒装束の三無は、覆面の下にある顔を綻ばせながら、霜降そうこうの名月を眺めていた。

 通朱雀、烏丸邸。その中でも一段と高い、屋根の上である。

 月が美しかった。月光は闇を照らし、影に潜む魍魎をうつつのものに晒し出す。故に満月の夜は、浮羽忍にとって忌日とされているが、三無はそうした倣わしを一切気にする事はない。

 そもそも、忌日とするのは未熟だからで、己の力量不足を月光のせいにしているのだ。


(儂のような術達者なら、満月……いやお天道の下でも見事忍んでみせるわい)


 そう見栄を切り、


(のう、ぬしもそう思うじゃろう?)


 と、傍で倒れている男の頭を、足先で軽く小突いてみせた。

 勿論、返事はない。だが、三無は生の色を失った男の顔を見て、不気味に破顔した。


(この屍が、答えよ……)


 既に死んでいるこの男は、宮方に雇われた忍びで、先程始末したばかりだった。

 お役目の中で、不必要な闘争は控えているが、忍びとわかれば別である。その時は無事にやり過ごしても、必ず後々の禍いとなるからだ。故に三無は、発見次第なるべく殺すように決めていた。

 この忍びも、自らの主義に従い手を下したのだが、これが中々の骨だった。

 屋敷に忍び入って殺すまで、妙な氣が梅雨の湿気のように纏わりついていたのだ。三無の術によって、こちらの存在には気付いていなかったと思うが、潜んでも消えないその氣は、術を破られたのでは? と、思わせる不快極まりないものだった。


(ぬしも忍び達者じゃが、相手が悪かったのう)


 名は知らない。人相を改めても、見覚えが無い顔だった。違う組の浮羽忍かもしれないし、浮羽忍ではないかもしれない。仮に同僚であっても、敵味方で出会えば戦う他に術がないのが、因果な忍び稼業である。


(さてと、もう一仕事するか)


 三無はおもむろに立ち上がると、腰を一つ伸ばした。殺しの後の一服は終わりである。

 瓦を外し、手際よく屋根裏に侵入した。

 漆黒の闇の中を、夜目を凝らす〔梟の術〕と、梁を音もたてずに這う〔守宮ヤモリの術〕を駆使して進む。この二つの術は、若い時分に苦手としていたもので、親父によく叱られたものだった。今思えば、下忍止まりだった親父に叱られるなど笑い話である。自分は〔名人〕と呼ばれる中忍。簡単な役目で死んだ親父の腕を、とうに越えている。


(むっ……)


 と、三無は進む四肢を止め、息を呑んだ。

 行く手には、蜘蛛の巣。ただの巣ならば手で払う所だが、老忍の勘がそれを思い止まらせた。


(さては、考えたな)


 三無は、懐から取り出した懐紙を丸め、蜘蛛の巣を払ってみた。すると、糸に触れた部分が、真っ二つに裂け落ちた。やはり、忍び糸である。

 夜叉蜘蛛の糸を練って作られるこの糸は、剃刀のような鋭さを持つ。恐らく、先程の忍びがこの術を仕掛けたのだろう。

 だが、一つ甘さがあった。これまで蜘蛛の巣が無かったというのに、此処だけ張っていたのだ。おおよそ、仕掛ける時に手で払ったのだろう。この場所にだけ巣があるから、見破られるのだ。

 この忍び糸は、水に弱い。三無は懐紙に唾液を含め、この糸に当てると、糸は面白いように溶けて消えた。

 罠というものは、自然を装わねばならぬから難しい。これは、三無の術にも通じる所がある。如何にして、普段と変わらぬように忍べるかが肝要なのだ。


(そう言えば、吾市も罠作りに凝っておたのう)


 ふと、黙々と罠作りに励む吾市の横顔が思い出した。こうした下手を打つな、と帰ったら教えねばなるまい。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 烏丸の寝室に到達した。

 天井板を、ゆっくりとずらし隙間から覗く。気配は感じず、寝息だけが聞こえる。

 行くか、待つか。決断を下すこの瞬間だけは、自分が臆病である事を思い出す。自らの術への自負は臆病さの裏返しで、そうであったから今まで生き延びられたのだ。

 迷いは一瞬だった。意を決し、音もなく降りた三無は、烏丸の枕元に立った。

 寝顔。口許の大きな黒子ほくろは、紛れもなく烏丸公知だ。

 三無は、刀をそっと抜いた。

 この男がいれば、九州に泰平が訪れてしまう。それでは、忍びは生きる糧を失う。つまり、この一太刀が、忍びとして生きる者を救う事にもなる。


(銭の為じゃ。観念せい)


 刀を振り上げる。

 その時、背後の闇から手が伸び、猛烈な力で首を絞められた。そして、刃の冷たさが身体を貫く。痛みは無い。ただ、視界が暗転するような眩暈に襲われた。


「見事じゃ……」


 薄れゆく意識の中で、三無はそれだけを呟いた。

 氣を全く感じなかった。臭いも、音も。つまり、自分以上の〔三無の術〕を使われたのだ。それは、三無にとって驚きであり、喜びでもあった。

もあった。

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