第2話
平穏な交流に思えた風向きが、少しずつ変わってきたのに気付いたのは、アクラと出逢ってからふた月以上が経った頃だった。
季節は緩やかに移り変わり、公園のマロニエは濃い緑の葉の間に白い花を咲かせていた。
ベンチには軽い食事を持参した人々が、思い思いにくつろぎながらランチを取っている。照りつける太陽の熱が、肌をチリチリと焼く。
そんな平和な公園で、エマはいつものようにカメラを片手に花の撮影をしていた。もうランチのサンドウィッチは食べ終わって、胃の中の消化も終わる頃だ。アクラが話しかけてくるいつものタイミングだった。
いつの間にか、エマはアクラの声を待つようになっていた。
多少ちぐはぐの会話だが、余計な詮索も気遣いもいらない。怒ることも呆れられることもなく、勝手にやってきては勝手に去っていく距離感に満足していた。
今日の被写体は、公園の全景を見下ろすガゼボの脇に植え込まれたゼラニウムだ。赤やピンクのひらひらとした花弁が、日の光を浴びている。
まずガゼボを含めた全景を数枚、それから近づいて上から数枚、更に寄って下から見上げるように数枚。角度を変える度にゼラニウムの表情も変わる。
花弁に顔を近づけると、甘さの中にスッとする爽やかさを帯びた香りが漂う。思い切り胸を膨らませた瞬間、アクラが話しかけてきた。
『主成分はC10H18Oか』
「え? なに?」
突然、意味不明の言葉をかけられ、エマは噎せるように息を吐き出して眉を寄せた。
『その光合成をする真核生物の生殖器官が大気中に放射している化学物質の成分だ』
「ゼラニウムの香りね? ふーん」
アクラの操るおかしな言葉にもすっかり慣れた。何が言いたいのか解ることが嬉しい。
「いい香りよ。少し甘くて、それでいて爽やかで。気分が落ち込んだ時、この花の香りを嗅ぐと落ち着くの」
アクラはしばらく黙って、エマから与えられた情報を吟味しているようだった。
『君の言葉は時に難解だ』
「そんな難しいこと、言ってないよ。あたしには、むしろあなたの方がちんぷんかんぷん」
エマは声をたてて笑いながら答える。
そういえば、こんな風に笑ったのは久しぶりな気がした。
『何故、そのように……』
言葉を探してアクラが言いよどむ。
「笑っているのかって?」
『笑う……? 脳内で盛んに神経細胞が活性化し、特にドーパミンが放出されているようだ。これがいい匂いで落ち着くという状態なのか?』
「あはは、ゼラニウムの香りのせいじゃないわ。多分あなたのせいよ、アクラ」
『私の? 私は君の脳を観察はしているが、直接的な干渉はしていないはずだ』
「やーね。脳に干渉なんて、そんなんじゃないよ。ただ、おかしかったの」
嬉しいのだ。誰かと話すことが、こんなに楽しいなんて。自分が心を弾ませられるなんて。それが自分の妄想であろうとなかろうと、どうでもいい。今、この瞬間が心地良いならいいじゃない。
『この状態は、君にとって良いことなのだな?』
アクラは重ねて確認してきた。エマはゼラニウムの花をそっと自分の鼻に寄せ、もう一度深く息を吸い込んだ。
実体を持たないというアクラは、エマの脳神経の反応からゼラニウムの香りに含まれる化学物質を推測できたとしても、これが良い香りかどうかなんてわからないのだ。ましてや笑うという感情の動きも理解しにくいのだろう。
だったら自分が代わりにいろんなものを感じよう。積極的に心を動かそう。そしてそれを子供に語るようにアクラに教えることで、自分を育てよう、とそう思った。
去年の春、一人で閉じこもっていた時は、何を見ても何も感じなかった。いや、本当は何かを感じて心を動かすことが怖かったのだ。そうしたら、見たくもない認めたくもない自分と向き合わねばならなくなるから。
――自分が一人ぼっちだということに。
「もちろんよ。あたし、今はとっても幸せな気分」
『……それは良かった』
アクラはまた言葉を分析するように間をおいて、答えた。
この時のエマは、アクラが本当に、エマの心から生まれたもう一人の自分だったら、自分が理解できないような事柄を知っているはずがないという事実に、注意を払うことはなかった。
***
夏至の日。長い昼の間に溜め込まれた熱気が、まだ夜の底に凝っていた。それでもよく晴れた一日は、エマの画像フォルダーに豊かな実りをもたらした。特に淡紅色のアストランチアの群生が可愛くて、エマはその日、何度も何度もシャッターをきった。
夕食を終えて、さっそくその画像をパソコンに取り込んでいて、ふと手を止めた。
アップで切り取ったアストランチアの花弁の向こう側に、抱き合う恋人達がぼんやりと映り込んでいたのだ。
「あ、全然気づかなかったなー」
『どうしたのだ?』
すかさずアクラが訊いてくる。
「あ、えーと。ちょっとお邪魔になってたかもって……」
同じ種族どころか身体さえ持たないアクラに、恋を説明できる気がしなくて曖昧に答える。
『邪魔? 君の種族が近くで何かをしていたのか?』
「うん、まあ。その……男の子と女の子が互いに好き合って、えーと、パートナー? を求めようとしてて……あたしは花の写真を撮ってるつもりだったんだけど、背景にそんな二人が映っちゃっていたのね。もしかしたら自分達を撮ろうとしてるって誤解させたら悪かったなーって」
『生殖行為の邪魔をしたという意味か?』
「生殖……いや、そこまではいってないからっ! ちょっとキスをしてただけだからっ!」
慌てて答えると、アクラは更に尋ねてきた。
『キスとはどのような行為か? 遺伝子を交換する生殖行為の方法の一つなのか?』
「は? いやいやいや、それ、説明できないからっ!」
キスについて答えたら、次は遺伝子交換の具体的な方法について説明を求められそうで、エマは一人あたふたと手を振った。
気まずさと羞恥、それに恋人達への憧れが混ざり合って押し黙ったエマの気配に気づいたのかどうか、アクラもそれ以上声をかけてこない。
「Je veux être un avec toi.(あなたと一緒になりたい)」
ぼんやりと写真を見つめながら、エマは小さく呟いた。アクラに向けてではなかった。ただ、このところアクラと話すことで忘れていた恋の切なさを思い出しただけだ。アストランチアの花は、昔の恋人と撮った最後の写真にも写っていた。思い出せば鈍く胸が痛む。
『残念だが、私は君と生殖行為をして子孫を残すことはできない』
だがアクラは当然のように、自分に向けての言葉だと受け取って几帳面に答えてくる。
エマは苦笑まじりにうなずいた。
「そうね。あなたが人間の男性だったら良かったのに」
『一つになれるからか?』
「うん。アクラがその気だったらね」
アクラは異星人で、身体すら持たないのだから性別だってある訳がない。そんな設定だからこそ、話していても心を揺らされることのない安全な相手なのだ。
(結局は独り言だもんね……)
改めて気づいてしまえば虚しくて、ため息が漏れる。
一緒に食事をしたり、腕を絡めて街を歩いたり。目を合わせて笑い合ったり、身体を一つに繋げ合わせたり……。そんなささやかな喜びに飢えていた。
お喋りに興じるだけでは足りない。全然足りない。そう気づくと胸がざわざわと落ち着かない。
考えるまでもなく、エマは二年前とちっとも変っていなかったのだ。朝から夜まで、一人で起きて、一人で食べて、また一人の冷たいベッドに潜るだけ。アクラが相手では、できることと言ったらお喋りという名の独り言だけだ。
しかし、そんなエマの心の揺れを認知したか、アクラは慰めるように答えた。
『一つになれる方法はある』
「え?」
『君と私が融合すればいい』
「そりゃあ、アクラは元々私の作った妄想だもん。元に戻るだけじゃない?」
そもそも寂しい子供の一人遊びなのだから。
エマはそれでもいいと思っていた。信じていた。
でも、本当に自分を変えたいのならば、そろそろこんな妄想遊びから卒業するべきなのだ。現実に、寂しがっている自分に、ちゃんと向き合う時期がようやく来たのかもしれない。
「……そうだね。一つになれるなら、その方がいいかもね」
アクラの気配が濃くなったような気がした。腕の産毛が逆立っている。
『君の身体の中に私の全てを収めることはできない。だが私の中に君を融合するのは簡単だ。一つになろう。そうしたら私は君になって、君は私になる。個の意識がなくなれば、また私は唯一の存在になるが、いつかまた私の声を受け取る存在も現れるだろう』
「どういうこと? よく、わからないよ……」
エマは鼻をすすりあげて首を振る。妄想のくせに抵抗しているのだろうか。
『私の中には幾千、幾万、幾億の心が混ざり合い融合している。君もその一部となればいい』
――Je veux être un avec toi.(あなたと一つの存在になりたい)
「アクラと一つになったら、あたしはまた独りぼっちだけど」
エマはふふふと笑った。アクラがいなくなったら寂しいに違いない。でもやってみるべきだ、と思った。
『そうではない。君が同意すれば、君は未来永劫、君の脳内化学物質の変化から解放される。そして私は、一つの生命体の全情報を自分に取り入れることができる』
アクラの声が宥めるような響きを帯びる。エマはその言葉の意味を深く考えもせずにうなずいた。
「アクラの言うことは相変わらず難しいなぁ。でも……そうだね。一つに戻ろうか」
『やってみればわかる』
アクラの声が遠ざかったように感じた次の瞬間。エマは頭を抱えて床に崩れ落ちた。
「ふっ……んんっ、うあっ、あああ……」
突然、まるで絶頂を迎えたかのように身体が慄いた。神経のあらゆる感覚がむき出しになり揺さぶられる。
生まれてからこの瞬間までの全ての記憶が、一斉に群舞のようにくるくると回った。
脳が焼き切れそうなほど熱い。痛みではなく、燃え上がるような感覚。
脳細胞がどろどろと溶け出し、沸騰し、かき混ぜられる。
エマの自我を形作っていた全ての情報が、頭蓋から染み出し、吸い取られ……絶対零度の宇宙空間に広がっていく。
記憶が、自我が、希薄になり、拡散し、そして百億年もの時を、ただ存在してきたアクラの中に取り込まれ、融合した。
一滴の水が、大海の中に落ちた瞬間に見分けがつかなくなるように、エマという自我は溶けてなくなった。
『これでもう、寂しくはないだろう?』
アクラの声に答える者は、もういなかった。
***
数日後、娘と連絡の取れなくなった夫婦が、警察の立会いの元にアパルトマンの鍵を開けた。
生活に必要な最低限の物しか置かれていない殺風景な部屋の真ん中に、エマ・ダンビエールは倒れていた。エマの身体に一切の外傷はなかったが、不審死であることから、警察は嘆く夫婦を説得して司法解剖にかけた。
だがその結果の真実は、両親に明かされることはなかった。
頭蓋骨の中で、大脳も小脳も間脳も、全ての組織がミキサーにでもかけられたかのようにシャッフルされ、ドロドロに溶かされていたのだ。
まるで、蝶に羽化する途中で失敗した蛹の中身のようだと、解剖した法医学者は青い顔で評した。
自殺でも他殺でもあり得ない死因に、警察は沈黙し、外見上は綺麗なままの遺体を両親に引き渡した。享年二十二歳。
生前のエマが残した最後のものは、光をいっぱいに浴びて咲くアストランチアの写真だった。
「ねえ、あなた。この花の花言葉……」
母親がプリントアウトした写真に涙を落とす。
「なんだい?」
「愛の渇き、なのよ」
「そうか……」
自殺ではないと警察も医師も請け合ってくれた。だが、娘はやはり愛に飢えて死んだのだと、二人はうなだれるしかなかった。
***
『この宇宙に、私の声が届く者はいないか……?』
アクラは自らの精神を、宇宙空間に薄く伸ばして問いかける。重さを持たない存在には、距離も速度も関係はない。銀河から銀河へと、アクラの精神は見えない水の流れのようにたゆたい、触手のように星々を絡めとり、また流れていく。
反応があるのは数万年に一度あるかないか。その中でアクラは、応えた存在をことごとく自分に融合させ続けてきた。
いつからそのようなあり方をしてきたのか、アクラはもう覚えていない。肥大し続ける精神体は、常に孤独で、餓えを癒す為に他者を求め、貪り、そしてまた孤独になる。
そこに如何なる理非もない。
百億の時を、ただそうして繰り返してきた。
『また私は唯一の存在になった』
チキュウという星に、応える生物がいた。
だが、飲み込んだ精神はアクラと融合して、既に個としての存在はない。個体を認識する為のエマという記号も、膨大な記憶の中に溶け込み、やがては取り出すこともできなくなるだろう。惑星の大気に揺れる光合成を行う生物のイメージが一瞬浮かんだが、すぐに泡となって消える。それがどんな意味を持つのか、アクラには思い出せなかった。
もう対話をする相手はいない。自己とは異なる存在を感知するその日まで。
その絶対的な孤独が、渇きを生む。
アクラは次の相手を探して、無限の宇宙を漂っていく。
質量のない存在に、終わりはあるのか、ないのか、誰も知らない。
愛に似て遠く、ただ渇き 守分結 @mori_yuu
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