愛に似て遠く、ただ渇き

守分結

第1話

 新緑が公園の木々を彩る季節だった。まだらに日の光が射し込む中、エマは構えていたカメラを引いて空を見上げた。

 どこからか呼び声が聞こえた気がしたのだ。

 耳を澄ましてみたけれど、聞こえるのは梢を揺らす風の音と、芝生広場から響く親子連れの歓声だけ。

「気のせいかな?」

 首をぶるんと回して肩から力を抜き、エマはもう一度足元の花に意識を向けた。

 今撮ろうとしているのはスズランだ。珍しくはないけれど、この小さなベルのような白い花が幾つも連なる様が好きだった。

 大きなマロニエの木の根元に屈み込み、シャッターをきる。楕円形の葉の間から細い茎が伸び、可憐な花が文字通り鈴なりについて、重たげに揺れていた。

 赤みがかった褐色の髪が肩から滑り落ちてくるのを、エマは無意識に払いのけた。白い頬に散ったそばかすが、木漏れ日に浮いて見えた。春とはいえ日射しは強いから、このままだとまたそばかすが増えてしまうとチラッと考えたが、エマは自分の外見なんかよりも目の前の花を写し取る方に集中したかった。

 夢中で角度を変え、次々とシャッターを切っていて……ふとまた誰かに呼ばれた気がした。

「まさかスズランの精? な訳ないか」

 我ながらファンタジックな発想だと苦笑して、エマはカメラをバッグにしまった。

「なんか疲れてるのかな……」

 撮りたいものはたくさんあるはずなのに、今日はなぜか気が乗らない、だから変な声が聴こえる気がするんだよねと、自分に言い訳をした。



 再び異変を感じたのは、夜になってからだ。

 シャワーを浴びて歯も磨き、後はベッドに飛び込むだけになって、そう言えば今日撮った写真をPCに取り込んでおこうと、エマはノート型のパソコンを立ち上げた。

 小さなモーター音を無意識に捉えていた耳に、何か別の音が混ざって聴こえてくる。

 得体の知れない不安を感じて、両手で耳を塞いだ。

 それなのに誰かの声が確かにした。

『コノコエヲキケルモノハイナイノカ』

 感情の一切がこもらない声は、耳を塞いでいるはずの手をすり抜けるように聴こえる。

「誰?」

 反射的に答えて、エマはあっと手で口を押えた。正体の知れない声に答えるなんてと、鼓動が速くなる。

『コノ声をキケルものはイナイのか……?』

 今度ははっきりと、しかも先よりも自然な抑揚のついた声がする。

「……誰? どこから話しかけてるのよ?」

 思い切って問いかけながら、エマは部屋の中を見回した。ドアはしっかりと施錠してある。窓も閉まっている。アパルトマンの壁は厚いとは言えないが、こんな風に声が聞こえてくるはずはない。

「あなた、昼間も話しかけてた? 何故、頭の中に聴こえるの?」

 ややあって、声が答えた。

『ワタシはアクラ。君ハ私のコエがキコえるノか?』

「聴こえるっていうか……」

 なんと説明したらいいかわからず口ごもる。

 声は遠くなったり近くなったり、まるで深い水の中で聞く音のようだった。

「頭の中に響くのよ。どういうことなの、これ?」

 試しにもう一度耳を塞いでみる。

「ねえ、もう一度喋ってみて」

『大気を震わせテイル訳ではナイのだ。だからワタシの声は、キコエル者にしか届かナイ』

 やっぱり聴こえる! しかもはっきりと!

「やだ、あたし、やっぱり疲れてるのかな」

 幻聴の文字が頭に浮かぶ。

 エマはぼんやりとパソコンの画面を見つめた。もうスズランの写真を取り込もうという気は失せていた。

『ゲンチョウとはどういう意味なのか?』

 また声が聴こえたが、薄気味悪くなったエマは、頭を振ってパソコンの電源を落とす。

 もう今日は寝てしまおうと、思った。



 専門学校を卒業して二年が経っていた。

 同級生たちのほとんどは、就いた仕事にも慣れてきた頃だろう。だがエマは他人と付き合うのが苦手で、ことごとく面接に失敗したあげくに仕事に就く機会を失ってしまった。同時に恋も失った。

「君は僕といて楽しいの?」

 その頃つき合っていた恋人は、キスをかわした後にそう言って首をかしげた。

「もちろん。なんでそんなことを聞くの?」とエマが口にするより早く、彼はそっと身体を押しやって、小さく笑った。

「ごめん。僕では君を笑わせてあげられないみたいだ。ごめんね」

 そんなことない、と笑顔を作ろうとして、エマの頬は引き攣ったまま固まった。笑うことも、泣くことも、うまくできない。不器用な自分を呪った。

 それからエマは、何をする気持ちにもなれず、ぽっかりと胸に空いた穴を抱えたまま、ずいぶん長いこと一人のアパルトマンにこもった。かつて恋人と撮った無表情な自分の写真を見るのが怖くて、それでも捨てられず、フォトスタンドは裏返しのままほこりだけが積もっていった。

 このまま引きこもっていていいのだろうかと思い始めたのは、この春になってからだ。

 きっかけは些細なことだった。心配してエマのアパルトマンに押しかけて来た母親が、無遠慮に朗らかさをまき散らしつつ掃除を始めて、キャビネットの上に放置されていたほこりだらけの写真を見つけたのだ。

「これ、綺麗ね」

 何のことよとエマは、不機嫌に眉を寄せた。

「ほら、花よ。これ何の花かしらね?」

 二年ぶりに目にした写真には、寄り添う二人の背景に淡紅色のアストランチアが映っていた。あまり主役になることのない地味な花が、固い顔の自分を少しだけ和らげてくれているように見えた。

 もっと笑えばよかったと、エマは初めて思った。

 綺麗なものをちゃんと見て、心に留めていたら、自分はもっと違った自分になれるだろうか。自然に笑える自分に。

 相変わらず頬の筋肉は固かったけれど、エマはその日から少しずつ外に出るようになった。

 まずは散歩。一人でさしたる目的もなく歩き回るだけのことから初めて、段々遠くまで行くようになった。すっかり落ちていた体力が回復し、徒歩二十分のところにある大きな自然公園まで歩くのが日課になった頃、母親から小さなカメラを贈られた。

 親たちは、元気のなかった娘が外に出ることを歓迎してくれた。いっそのことプロのカメラマンを目指しなさいよと、母親なんか世の中の厳しさを知りもしないで呑気に言ってくる。

 コンデジ一つしか持っていないエマが、写真で食べて行けるほど世間は甘くはないが、それでも短期のアルバイトを入れる他は、こうしてカメラを手に公園を歩き回るのが彼女の楽しみになっていた。

 その穏やかな日常に、小さな異変が起きたのだ。


***


 翌日。カーテンを開けると、もうすっかり明るい時刻だった。一つ伸びをして、空を見上げる。

「春眠暁を覚えずって言ったっけ? よっく寝たー」

 昨日のことはやっぱり疲れていたんだ、だってぐっすりと眠れたものと、寝坊した言い訳を心でしながら、萌黄色のパジャマのボタンを外し始める。

『よく眠ったのか?』

 声がした。

 ぎょっとしてエマは手を止めて、首をゆっくりと回す。どこかから自分を覗かれているような恐怖が募る。

「あなたは誰? なんで、あたしにまとわりつくのよっ」

 声が震えないようにするのが精一杯だった。前を開いてしまった胸にひんやりと風を感じて、慌てて身頃を合わせうずくまる。

 どこから覗いているの?

 それとも盗聴器でも仕掛けられたの?

 ぐるぐると渦を巻く不安。

 しかし声は、彼女の乱れた感情を歯牙にもかけずに更に話しかけてきた。

『私はアクラ。まとわりついているのではない。私の声を聴ける者が、他にいないだけだ。私は探していた。私の声を受け取れる存在を。ずっとだ。星が生まれて消えるほどの時を』

 エマは床にうずくまったままその声を聴いた。声は男性のようでもあり女性のようでもあり、また幼くもあり年古りたる者のようでもあり。老若男女のいずれとも判断できなかった。

「……どこにいるの? まさか、ち、地球じゃない、とか…?」

『地球とは君の星か?』

「き、決まってんじゃないっ」

『違うともと言えるし、そうだとも言える。私はどこにもいないが、どこにでも存在できる』

「はぁ? それって」

 神は偏在したもうという一句が心に浮かび、エマは唾を飲み込んだ。

「神様、なの?」

『神とはこの宇宙の創造主か? ならば答えはノーだ。私は古くから存在しているが、宇宙の誕生よりは若い。最初の恒星が爆発し、その欠片が再び星を形成した後に存在を開始した。私は君と同様に宇宙を構成する時間の経過を経験しているが、今は質量を持たない存在でもある』

 ごめん、さっぱりわからない、とエマは頭を抱えた。数学も物理も、学生時代はテストで落第さえしなきゃいいという程度の重みと興味しか持たなかったし、哲学も神学も興味はない。

 そんな人間にとっては、宇宙の始まりがどうとか、脳にふわふわと浮いては消えていく泡のようなものだ。

「それで、なんであたしが……」と言いかけた瞬間、お腹がきゅるると鳴って、身体が宇宙理論よりも生体活動の維持を訴えた。

「あ、あのね。あたし、今、ものすっごくお腹空いてるの。まだ着替えもしてないし、だから……」

 宙に話しかけたが、もう声は消えていた。

「なんなの?」

 肩透かしを食らったような曖昧な感情だけを置き去りに、エマは取り敢えず中断していた着替えを始めた。



 気のせい気のせい、声なんて聴こえるわけがないという希望は、その日の夕飯後に早くも打ち砕かれた。

 昨夜できなかった画像の取り込みと加工を始めると、すぐに声が聴こえた。

『何故そのような画像を大切にするのか?』

 無機質な声が頭に響く。

「どうしてあたしのしていることがわかるの? 何も喋ってないのに」

 気のせいじゃないのだというならば、もう一人の自分が心にいて、今の自分のあり方を否定しようとでもしているのかと、少々苛立たしく思いながら声に出して答える。

『私は君の身体機能を司っている脳内の変化を感じている。そこから情報を得ているのだ』

「のぞき見しているってこと? そもそもなんであたしなの?」

『声を受け取れる存在からしか情報のやり取りはできない』

「あたしにはあなたのことがわからないのに」

 エマは不満そうにつぶやいた。しかし表情に出さずとも心情を汲み取ってくれるならば、むしろ楽なような気もした。

『それで、その画像は君にとってどんな意味を持つのか?』

「意味って……趣味や好きなことに理由なんてある?」

『生存に不必要なことではないのか?』

「あのね。あれが好きとかこれはイマイチとか。そんなの生きてれば何かしらあるでしょ? それをもう少し突き詰めてみたら趣味になるし、趣味を仕事にする人だっているじゃない。そりゃあ、あたしのこれは別に売れるようなものでもないけど。いいじゃない。花が好きなのっ。明日には萎れちゃうかもしれないけど、その一番綺麗な瞬間を切り取って手元に置いておきたいのっ」

 アクラはエマの剣幕に押されるようにしばし黙った。だが様子をうかがっていることは、なんとなく感じられた。腕の毛が逆立ったままだったから。

『炭素系真核生物で光合成によりエネルギーを得る生物の生殖器官が、美しいという価値観に置き換わるのがよくわからない』

 もう何を言わんとしてるのかさっぱりねと、エマは返事の代わりに鼻を鳴らした。

 同時に、おかしな声が聴こえることに慣れてきた自分を自覚し、カリカリと頭をかく。

「どうでもいいけど。じゃあ、あなたにとって価値のあることって何? まさかたわいもないお喋りとか言わないよね?」

『私にとって価値のあることは』

 言いかけて声は含みがあるように途切れる。

「なによ?」

『他者と繋がりを得ることだ』

 声はどこまでも平板だった。それでもエマは、繋がりという単語に反応して考え込んだ。

「……ねえ、仲間はいないの? 家族とか」

『いない。私は唯一の存在だ』

「そう……それはちょっと淋しいかもね」

 この声の持ち主は、星が生まれて死ぬまでの時を過ごしていると言った。それって五十億年とか、いやもっとだったっけ? と考えて背筋が寒くなる。たった一人で、永い永い時の間をただ存在し続けろと言われたら、自分ならお断りだ。

「その……あたしの他にあなたとお喋りする相手はいないの?」

『……かつてはいた』

「今は?」

『対話とは自己とは異なる存在との間でしか成り立たない』

 微妙にずれた答えが返ってきた。

 エマは肩をすくめて、パソコンの画面に目を遣った。木漏れ日を浴びたスズランの花は、先ほど生殖器官と聞いたからか妙に艶かしく見える。

「ねえ、あなたって生まれた時から一人だったの? それじゃあ誰から生まれたの? もしかしなくても人間じゃないんだろうけど、それでも、ほら、その……生殖行為の結果なんじゃないの?」

 アクラはしばらく考えてから答える。

『多分そうなのだろう。ただ私がどのように生まれたのかは覚えてはいない。長い時が経過してしまった』

「そう……そうよねえ。あはは」

 それでも昔は仲間がいたというのなら、その仲間はどうしていなくなったのか訊こうとして、やめた。この相手には相変わらず感情はうかがえなかったが、それでも残酷な気がした。

「ねえ、あなたってどんな姿をしてるの? どこかで会うって訳にはいかないの?」

『……姿とは物理的に確認できるものということか?』

「えーと、そうね」

『見せることはできない』

 答えがそっけなく響いたのは気のせいか。

 脳裏に蛸のような宇宙人の姿が浮かんだが、あれは単なる想像図だよねと、思い直す。

 時計を見るとそろそろ日付が変わる頃だった。おかしな声と付き合って疲れたのか、頭の芯が重い。

「悪いんだけど、あたし眠くなっちゃた。あなたは眠くならないの? あ、地球に住んでるんじゃないなら時間は関係ないの?」

 その問いに答えはなく、エマは疑問を胸に抱いたまま欠伸を一つして、ベッドに転がった。


***


 それから毎日、声はエマの元にやって来た。

 肉体がないのだから、【やって来る】という表現で合っているのかどうかわからなかったけれど。

「あのさ、あなたってあたしがご飯食べたりする時……来ないよね?」

 エマがそう切り出したのは昼下がりの公園のベンチでだった。スズランの写真を撮ったのと同じ場所。だけどもうスズランは萎れて、代わりに早咲きの黄色い薔薇が太陽のような花びらをほころばせていた。

「眠い時とか、あとほら、そのぉ……シャワーとか……」

 口ごもったのは、本当はトイレと言いたかったからだ。この声の主が人間ではないのなら、そういった事になんの感慨もないかもしれないが、やはりあからさまに口にするのは恥かしかった。

『君が、身体からの欲求を強く感じていると繋がりにくい』

「あ、なるほど」

 曖昧に笑って、手にしたストロベリーシェークをずずっとすすりあげる。まるでお腹空いてると、他のことなんて全然考えられないほど食いしん坊みたいと少しむくれる。

「えーと、あなたは? 食べるとか寝るとか……」

 恥かしさを紛らわすように聞くと、アクラは少し間をおいて答えた。

『私には身体的欲求はないのだ』

「ないの? 眠るってこともないの?」

『ない』

「じゃあ、美味しいものを食べて幸せとか?」

『身体の維持を必要としていない』

 その意味を、エマは眉をギュと寄せて、たっぷり一分間考えた。

「もしかしたら幽霊?」

『幽霊とはなんだ?』

「んー、魂だけの存在?」

『魂とは?』

「え? 心、かな? それとも精神とか……」

『そういうものが君の世界には存在するのか?』

 心なしかアクラの声が冷ややかに感じられて、エマは慌てて首を振った。

「ううん、ないよ。人が勝手に生み出した幻想」

 まあアクラだってあたしの幻想なんだろうけど、と心の中で付け加える。

『そうか。それなら君しか応える者がいなかったのも理解できる』

「そう言えば、なんであたしは、あなたの声が聴こえるのかな?」

 また少し間が空いた。

『私と繋がるのは、君にとって不快なことか?』

「そうじゃないけど。でも……おかしいなって思うの。だってあなたとあたしじゃ違いすぎる」

 エマも考え考え答える。

 アクラは自分の妄想が生み出した【見えないお友達】じゃないだろうか。

 何十億年も生き続ける生命体なんて、しかも実体を持たない存在なんて、いるはずがない。仮に宇宙人がいたとしても、意思の疎通なんてできる訳ないし、ましてや選ばれた人間が自分だけなんて信じられない。

 だからアクラは、自分の寂しい心の隙間に居着いた単なる想像の産物に違いないのだ。

(ほら、よく聞くじゃない。小さな子がそんな妄想の友達作って一人で喋るのを、親が心配するって話)

 だからと言って、エマはすぐにアクラを断ち切ろうとは思わなかった。

 一日中誰とも口をきかなくても生活できてしまう世の中で、メールや電話も十日に一回、家族から来るだけ。友人達とは疎遠になって、ネットで喋る相手もいない。

 もちろん恋人もいない。

(アクラがいなかったら、多分今日も誰とも喋らない。あたし、やっぱり寂しかったのかな?)

 アクラという喋り相手ができたからこそ、自覚できた心の動きだった。

『不快ではないのならば良かった』

 アクラの声は最初の頃と変わらず平板だったが、それでもわずかに安堵がうかがえて、エマはクスッと笑った。

「こちらこそ」

 妄想でもなんでもいい、とエマは思った。

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