第6話 わたしとあたしと彼と兄
○立花翼→望月風香
わたしは望月家の自分の部屋のベットで膝を抱えていた。
眼が醒めたら、わたしは何故かこの部屋のベットに寝かされていた。
きっと、新宿駅までお父さんとお母さんが迎えに来てくれたのだろう。
記憶にははっきりと、ついさっきの新宿駅での一場面が残っている。
わたしは全てを思い出していた。いや、全ての認識が正されたと言った方が正しい。
ああ、確かに飛鳥は死んでいた。わたしは彼の遺体をはっきりと見ていた。
にもかかわらず、わたしは事実を歪め、頭の中で改竄し、今日あの時までのうのうと幸福な毎日を生きていた。
何て汚い女なのだろう。
「風香。入って良いかい?」
ノックの音と共にお父さんの声が聞こえる。
「……どうぞ」
スーッとドアが押し開けられて、そこには目元を笑わせているお父さんが居た。
「……大丈夫かい?」
優しげな声が今はただ胸に痛い。
床にクッションを置いてお父さんはそこへと腰を下した。表情は優しいままだ。
部屋を沈黙が包む。
わたしの言葉を待っているのだろう。
「……お父さん。飛鳥は死んでしまったのね」
「……うん。そうだよ」
ああ、飛鳥。愛しい人。あなたは死んでしまった。わたしを守って車に轢かれて、わたしの目の前で死んでしまった。
「……わたしは逃げていたのね。飛鳥の死から。こんなにも長い間。これまでの幸福な日々が何の上に成り立っていたのかも考えずに」
「できれば、彼を責めないで欲しい。彼が居なければ僕達一家がどうなっていたのかも分からない。破滅していたかも知れないんだ」
「分かっているわ。けどね、けどね、私は自分で自分の中の最愛を歪めてしまったのよ? 翼君の人生を歪めてまで、私は飛鳥への想いを汚したの。汚い。わたしは汚すぎるわ」
何て事をわたしはしてしまったのか。
最愛の人の死から眼を背けたばかりか、最愛の人の肉親の人生さえ歪めてしまった。
翼君を飛鳥と思い込んで、この四年間、翼君の人生を踏み台にして、飛鳥への愛でさえ歪めて、私一人だけがのうのうと笑みを浮かべながら生きていた。
何て卑怯な女なのだろう。
わたしの言葉にお父さんはゆっくりと頷いた。
「本当は、親として僕と玲子が風香の支えなければいけなかったんだ。でも、僕達は責任を放棄して、全てを翼君に任せてしまった。彼は否定していたけれど、今までの望月家の幸福は翼君の犠牲で成り立っていたんだ」
そう。犠牲だ。
翼君の高校生としての青春時代全てをわたしは犠牲にした。
わたしが居なければ彼はもっと友達と遊べただろう。
わたしが居なければ彼は誰かに恋をしていただろう。
わたしが居なければ彼はもっと幸せだっただろう。
その全てをわたしは棒に振らせた。
享受出来たはずの未来を全て潰した。
ああ、わたしは何と浅ましく笑っていたのか。
何も言葉を出せなかったわたしを見て、お父さんは穏やかに口を開いた。
「翼君が風香に『ごめんなさい』と伝えて欲しいと言っていたよ。こちらの台詞なのにね」
わたしは最後に見た翼君の姿を思い出した。
彼は微笑を浮べてわたしへ〝ひさしぶり〟と言った。
確かに〝ひさしぶり〟だ。あの時あの瞬間までわたしの頭の中で翼君の存在は消失していた。飛鳥には弟は居ず、妹のつぐみちゃんだけが居ると思い込んでいた。
あろう事か、わたしは翼君の存在でさえ認識から消去していたのだ。
「……ッ」
視界が滲んだ。
感情が追いつかなかった。
飛鳥が死んだ事への悲しみ、それを受け入れられなかった自分への怒りと情けなさ、翼君への罪悪感、全ての感情が渦を巻く。
「お父さん。わたしはどうすれば良い? 何をすれば良いの?」
許されるとは思わない。
わたしは飛鳥への愛を歪め、飛鳥からの愛を汚し、翼君の人生を歪めた。
そんな罪深い女が許されて良いはずが無い。
お父さんは言った。
「翼君から、もう一つ、風香に伝えて欲しいと頼まれていた事があるんだ。『兄の線香を上げてくれませんか』だって」
「……それは」
この言葉にわたしは俯いた。
飛鳥の墓前に立つ資格はわたしには無い。
どんな顔をして手を合わせれば良い? 飛鳥が注いでくれた愛を全て侮辱したわたしが、今更どんな顔をして彼の死を悼めば良いと言うのか?
「……ごめんなさい」
それだけ言ってわたしは何も言えなくなった。
お父さんはしばらく無言でわたしを見つめていたけれど、その場から立ち上がって部屋から出て行く。
「とりあえず、今日はもう寝なさい。色々疲れただろうから」
部屋のドアが閉じられたのを見て、わたしは両手で両目を押さえた。
「……飛鳥。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめ――」
そして、わたしにだけ聞こえるように何度も何度も謝った。
許されるはずが無いけれど。
○望月風香→立花つぐみ
昼頃風香さんとの同棲先へと発った兄ちゃんがとんぼ返りをして、立花家に帰ってきた。
ガチャっと玄関の鍵の開く音がした時、あたしは二階の自分の部屋でゴロゴロと漫画雑誌を読んでいた。
一体、パパとママどちらが帰ってきたのだろう? そう考えながらトトトと階段を下りていたけれど、答えはどちらでもなかった。
玄関で、兄ちゃんがキャリーバックを近くに置いて、靴を脱いでいた。
初め、あたしは、何か忘れ物をして帰ってきたのかな、と思ったが、数瞬後に、兄ちゃんが眼鏡を掛けていない事実に気付き、驚愕した。
「ああ、つぐみ。兄が帰ってきたぞ」
兄ちゃんの薄っぺらな笑顔を見て、あたしは理解した。
そうか。全部終わったのだ。
外出する時はずっと掛けていた飛鳥兄さんの眼鏡を今の翼兄ちゃんは外していた。
意味する答えは唯一つしかない。
あたしが兄ちゃんに掛けなければいけない言葉はこれ一つに違いない。
「おかえり、翼兄ちゃん」
兄ちゃんは肩を落として、苦笑しながら答えた。
「ああ、ただいま」
やっと、翼兄ちゃんが帰って来た。
立花家は両親共に共働きで、本日一月六日はお正月休みも終了し、現在立花家にはあたしと翼兄ちゃんとジュゲムしか居なかった。
帰って来た兄ちゃんはコートを脱ぐ事もせずにリビングのソファへ座り、天井を仰いでいた。
あたしは確認を込めて聞いた。
「……兄ちゃん。全部話したの?」
「いや、まだ話してない。ただ、全部ばれた」
「一体、何でばれたの? 確か話す予定だったの十一日だよね? 飛鳥兄さんの二十二歳の誕生日」
翼兄ちゃんがそう簡単に決めた事を崩すとは考え難い。
「ああ、新宿駅で俺の高校時代のクラスメイトに会っちゃって――」
兄ちゃんはあたしに何でばれたのかを話してくれた。
なるほど、最後の最後に兄ちゃんは運が無かったようだ。
「大丈夫なの? 風香さん、前みたいに飛鳥兄さんが死んだ事を認めないんじゃない?」
四年前、風香さんは飛鳥兄さんの死を頑なに拒否し、翼兄ちゃんを飛鳥兄さんと思い込んだ。
また同じ事に成れば、この兄の苦労が全て水の泡となる。
「いや、今回は〝嘘〟じゃなくて〝嫌〟って言っていたから、少なくとも前回みたいには成らないと思うよ。あの様子的に事実を全部認識したはず。まあ、詳しくどうなったかは後で悠太郎さんからメールが来るけどね」
兄ちゃんがそう言うのなら問題は無いだろう。
「なら、良いや。うん。翼兄ちゃん、お疲れ様」
「ああ、すげえ、疲れた」
兄ちゃんは眉根を揉みながら笑った。
本心からの言葉だろう。
この四年間、一番兄ちゃんの事を見てきたのはあたしだし、兄ちゃんの事を最も理解しているのもあたしだ。
高校生の時の翼兄ちゃんが何度も眠れぬ夜を明かした事も、鏡を見てそこに映る男が誰か分からず戸惑った顔をしていた事も、飛鳥兄ちゃんの遺影の前で謝っていた事も知っていた。
自分から背負った事とは言え、ずっと肩に掛かっていた重圧からやっと抜け出せたのだ。
今の翼兄ちゃんは支点が無くなった滑車の様なのだろう。
「これ、返さないとな」
兄ちゃんはコートのポケットから紺色の眼鏡ケースを取り出し、それを開けた。
中には、ずっと掛けていた飛鳥兄さんの眼鏡が入っている。
「…………」
リビングに置かれた仏壇の前まで歩き、翼兄ちゃんはしばらくの間、手元の眼鏡を見つめていた。
この眼鏡は仮面だ。立花翼が立花飛鳥を演じる為の欠かせない道具だった。
一度だけ、あたしは翼兄ちゃん用に新しい眼鏡を買ったらどうか、と提案した事がある。いつまでも飛鳥兄さんの眼鏡を使っているのはどうかと思ったからだ。
翼兄ちゃんは、『いや、俺はこの眼鏡が良い』と短く、ただはっきりとした口調で拒否した。
あの時あたしは理解した。あの眼鏡は翼兄ちゃんの謝罪なのだと。自分が飛鳥兄さんを演じている事を謝るための道具だったのだと。
誰かに謝りながら、翼兄ちゃんは飛鳥兄さんを演じ続けたに違いない。
謝罪と道化の証である眼鏡を翼兄ちゃんはゆっくりと飛鳥兄さんの遺影の前に置いた。
そして、眼鏡を一撫でして、眼を細めながら長く息を吐いた。
あたしはその背に何も言わず、こんな四年間の始まりを思い出していた。
*
飛鳥兄さんが死んで大体一月が経った頃、飛鳥兄さんの日記をあたし達家族は発見した。
日記の内容から、そのノート達は風香さんに渡す事と決まり、この役目は翼兄ちゃんが受け持つ事に成った。
翼兄ちゃんが『自分がやる』と言ったのが主な理由だったけれど、彼を一人で行かせたのはあたし達立花家全員の失敗だったと断言できる。
長男の死から疲れていたあたし達は、つい翼兄ちゃん一人に風香さんの事を任せてしまった。
今でもあたしは後悔している。
あの日あたしは無理を言ってでも翼兄ちゃんに付いて行くべきだった。
そうすれば翼兄ちゃんがあんな選択をするのを全身全霊で止めたられたのに。
風香さんの家から帰って来た翼兄ちゃんは思いつめた硬い顔をしていて、学生鞄を自分の部屋に置いて一階へと戻った兄ちゃんはあたしへと聞いてきた。
『なあ、つぐみ。俺と兄さんは似ているか?』
あたしは戸惑った。
この一ヶ月翼兄ちゃんが飛鳥兄さんの話をしたのが初めてだったし、何よりこの様な内容を聞いてくるとは思わなかったからだ。
正直な話、二人の兄は二歳差にも関わらず良く似ていた。
飛鳥兄さんが死んでから今日まで、何度か――一瞬とはいえ――彼らを見間違えた事もあるぐらいだ。
何故、翼兄ちゃんがそんな事をあたしに聞くのかが分からなかった。
あたしは嫌な予感に襲われていたけれど、正直に答えた。
『うん。良く似ていると思うよ』
翼兄ちゃんは視線を飛鳥兄さんの仏壇へと視線をずらした。
『そうか』
あたしは不安と戸惑いを隠せなかった。
遺影を見つめる翼兄ちゃんの瞳が暗く光る。眼からハイライトが消えていた。
『……翼兄ちゃん。風香さんの家で何があったの?』
何かが起きたのは確実だった。
兄ちゃんは苦笑して、薄っぺらな笑顔であたしを見る。
『なあ、つぐみ。兄ちゃんは今日我儘を言うよ。ごめんな』
あたしは言葉を無くした。思考が止まり、不安と戸惑いが最高潮を達した。
だけど、翼兄ちゃんが立花家に良くない事をしようとしている事が分かった。
そして、あたしにそれが止められないであろう事も理解した。
なら、あたしは聞かなければならなかった。
お姫様みたいに育てられ、家族に守られてきたあたしが聞かなければいけない事だった。
『それは兄ちゃんがやらなければいけない事なの?』
『いや、むしろしない方が良い事だ』
『なら、しなくて良いじゃん』
『ごめん。でも、俺は〝しない〟なんて事出来ないんだ』
ああ、やはり、これは何を言っても無駄なパターンだ。
こうなった翼兄ちゃんは決して自分の意見を変えない。
反論できたのは飛鳥兄さんぐらいの物だった。
あたしは眼を瞑った。
兄が意見を変えないのならしょうがない。
妹は兄の横暴を聞くものだ。
それから大変だった。立花家の次男は望月家で起きた事をあたし達家族に話し、あろう事か、風香さんの前では立花飛鳥として振舞うと宣言した。
当然、パパとママは反対した。あたしは先ほどの時間に翼兄ちゃんがとんでもない事をしようとしていると分かっていたので両親ほど動揺は無かったけど、まさかあの様な事を宣言するとは思わず、絶句していた。
最終的に何を言っても無駄だと悟って、パパとママは翼兄ちゃんのやる事を許す事に成ったけれど、ここであたしは慌てて口を挟んだ。
『……別に兄ちゃんがやる事を邪魔する気は無いけど、期限を決めて。その期限の間は、翼兄ちゃんの好きにして良いから』
翼兄ちゃんは少し考えた後に頷いた。
『分かった』
実際に兄ちゃんが期限を決めて、それをあたし達に話すのは一年後の第九回立花家家族会議の時だったが、あの時、兄ちゃんに釘を刺していて良かったと思う。
そうでもしなければ兄ちゃんはずっと飛鳥兄さんを演じていた。
九回目の家族会議から程なくして、兄ちゃんと風香さんは二人暮らしを始めた。
翼兄ちゃんが受けた苦痛は想像できない。
おそらくだけど、翼兄ちゃんは風香さんの事が好きだった。今はどうだかは分からないけれど、昔はそうだっただろう。
自分が惚れている相手が、自分の事を他の人間だと勘違いしながら甘えてくる。
何て甘い処刑なのだろう。
ゆっくりと刃が落ちてくる斬頭台みたいだった。
長期休暇の度に帰ってくる翼兄ちゃんはパッと見は特に変わらなかった。
だけど、誰も見ていない所で何度も息を吐いていた事をあたしは知っていた。
夜中、何故か眼が醒めた時、飛鳥兄さんの仏壇の前で一人手を合わせる翼兄ちゃんを見た事があったからだ。
何度も洗いざらい風香さんにぶちまけてしまおうと思ったが、あたしは最後まで出来なかった。
あたしにとって風香さんは卑怯な女だったけれど、同時に哀れな人だった。
一人のうのうと幸せな日々を過ごす彼女に怒りを覚えたけれど、そうでもしなければ耐えられなかった程弱い彼女の心を責める事は出来なかった。
あたしと翼兄ちゃんは何度も風香さんから飛鳥兄さんの好みを聞かれ、飛鳥兄さんとの惚気話を聞かされた。本当に風香さんが飛鳥兄さんを愛していると分かったし、飛鳥兄さんの日記から彼もまた風香さんを愛していた事も分かっていた。
風香さんを憎んでも恨む事は出来なかった。
だから、あたしはこの衝動を耐えるしか無かった。
あたしは翼兄ちゃんと一緒に居る風香さんの笑顔を見る度に、感情の行き場を失って泣き叫びそうに成っていた。
*
まあ、そんな風香さんだけのハッピーデイズも終わった。
翼兄ちゃんが背負った重責も一先ずは軽くなっただろう。
だけど、まだ気を抜く事は出来ない。それは翼兄ちゃんも分かっているはずだ。
やっとクライマックスに入っただけで、まだあたし達は峠を越えていない。
なら、あたしは何をすべきだろう?
あたしは翼兄ちゃんに習って、飛鳥兄さんの遺影へと手を合わせながら、これを考えた。
○立花つぐみ→望月風香
あれから三日が経った一月九日金曜日。わたしはまだ家から出る事が出来ないでいた。
分かっている。良い加減、わたしは外に出なければならない。
わたしはもう甘えては成らないのだ。
何度もわたしは玄関の鍵を開けた。だけど、扉を開こうとドアノブを握る右手
は動かなくて、足も踏み出せなかった。
動け、動け、と念じるのに、体は命令を拒み続けた。
いや、拒んでいたのは心だった。
恐い。今までずっと守られていた世界がもう砕け散ってしまっている。
二度と飛鳥には会えない。飛鳥と話せない。飛鳥に触れられない。この扉を開いたら、わたしはそれを認めてしまう。
わたしはこの期に及んで、飛鳥の死を認められないのだ。
もちろん、飛鳥が死んだ事を分かっている。
けれど、それは字面だけの情報みたいで、まだ実感を持つ事が出来ないでいた。
この四年間、わたしの隣にはずっと〝飛鳥〟が居たからだ。
翼君が心身を犠牲にして演じてくれた飛鳥が居たからだ。
わたしにとって、飛鳥が――死んだのを見たのは四年前でも――死んだのを理解したのはつい三日前だ。
家で待っていたら、何時かまた飛鳥が迎えに来てくれるのでは無いか?
浅ましい期待をわたしは捨て切れないでいた。
お父さんとお母さんは『無理をしなくて良い』と言ってくれた。
だけど、彼らは四年間ずっと無理をし続けていた。わたしの幻想を守るため、わたしの世界を守るため、わたしの心を守るため、わたし以外の望月家と立花家の人々は皆、無理をして笑ってくれていた。
わたしだけ無理をしないなど卑怯にも程がある。
分かっているのに、体は動かなくて、わたしは玄関で立ち尽くしている。
彼らに何て謝れば良いのか分からない。
特に、翼君には、何をすれば彼に報いる事に成るのかが分からなかった。
飛鳥。あなたに会いたい。あなたはわたしの心を溶かしてくれた。わたしの世界を広げてくれた。また、あなたに抱き締めて欲しい。
でも、わたしにその資格は無い。あなたからの愛も、あなたへの愛も、わたしは貶めて汚してしまった。
わたしは在ろう事かあなたの弟を、翼君をあなたと思い込んで愛してしまった。
そう、この四年間、わたしは確かに翼君を愛してしまった。
優しく見つめる翼君の目、胸に響くような透き通った声、暖かな体温、その全てをわたしは否定のしようが無い程に愛していた。
わたしの認識の中では翼君は飛鳥だったけれど、わたしがあなた以外の男を愛してしまったという事実は変わらない。
こんなわたしがあなたに愛してもらう資格は無い。
外に出てしまったら、わたしはこれを認めなくてはならない。
それがたまらなく恐かった。
*
立花飛鳥への第一印象は訳の分からない人だった。
中高一貫校だったから特に感慨も無く高校生に成り、わたしは中学生の時と変わらず図書委員に成った。
変わったのは、立花飛鳥もまた図書委員になった事だ。
確か、飛鳥から立候補したのではなかった。図書委員の最後の一人が決まらず、丁度何の委員会も部活も所属していなかった飛鳥にお鉢が回ってきたというのが理由だったはずだ。
つまり、飛鳥は別にわたし目当てで図書委員に成った訳では無く、完全に運の元で彼とわたしは出会ったという事に成る。
わたしは自分で言うのもなんだったけれど、人と仲良く成るのが苦手で、それを悪いとも思っていなかった。やるべきでないやりたくない事はやらないし、無理をして誰かに合わせるのも面倒で、いつもしたいようにして、話したいことを話していた。
当然こんな生き方をしていれば友人など早々出来る物では無く、その時、十五年の生涯の中で、友と呼べたのは片手で数えるまでも無い人数しか居なかった。
そのためかどうかは知らないけれど、わたしは学年で〝氷の女王〟なる訳の分からない渾名と言うか二つ名を付けられていた。
訂正するのも面倒で放っておいたら何時の間にかわたしは学年の有面人。
まあ、氷の女王こと望月風香に、立花飛鳥は何故か興味を持ったようで、図書委員の仕事中何かと話しかけてきた。
『やあ、望月風香さん。これからしばらく一緒によろしく』
晴れやかな彼の笑顔をわたしは覚えている。
わたしはそっけなく返事をした。
『ええ、よろしく、立花君』
本の貸し出しを行うカウンターにわたしと彼は週三で座って昼休みを潰していた。
割とこの時間は暇な物で、わたしは図書室の本棚から持ってきた本を読み、隣の彼は色々とわたしに話しかけてきた。
『望月さんは、どんな本が好きなの?』
『昨日、見た番組で――』
『今日、B組の佐藤が――』
『前のテストどうだった?』
『どうやら教頭はヅラらしい』
こんな生産性など皆無のどうでも良い話題を飛鳥は飽きもせず話しかけ、わたしは短く相槌を打つか、一言二言返事をするぐらいだった。いや、まあ、ふさふさ頭の教頭がヅラらしいという言葉に対しては流石に驚き、ページを捲る指が止まったけれど。
何故こんな面白く無い返事しかしない相手に飛鳥が此処まで話しかけたのかは今でも分からない。図書委員の仕事が暇だから話しかけたのかもしれないが、放課後の自主参加の時間まで彼はわたしに付き合って図書室へと足を運び続けた。
最初わたしは困惑したけれど、彼の語り口は中々にBGMとしては適当で、気付いたら慣れていた。
認めるのに結構な時間が掛かったけれど、彼と過ごす時間は心地良かった。彼は話したいから話しているだけで、わたしに返事を強要しなかったのが理由かもしれない。
気付いたらわたしは図書室に行くのが楽しみに成っていた。中学生の時はその静寂な空気が好きで図書室に行っていたが、隣から聞こえる心地良い彼の話し目当てと成っていた。
わたしが飛鳥に惹かれ始めたのはこの辺りからだ。この頃には学校ですれ違ったら眼を合わせるぐらいに成っていたし、偶に図書室から一緒に帰る時もあった。
それからは色々な事があった。
貧血によって体育祭で倒れたわたしを飛鳥が抱えて保健室に連れて行ってくれた。
文化祭に来た飛鳥の従妹につい嫉妬した。
暇だから散歩していてばったりと出会った飛鳥と何故かクリスマスデートした。
新年に大国主神社で共に参拝した。
飛鳥に渡す予定だったバレンタインデーチョコが無くなって、それを飛鳥が見事見付けてくれた。
考えるとかなり波乱万丈な一年間。
そして、三月十四日ホワイトデーに晴れて恋人に成った。
今でもあの時の場面は鮮明に思い出せる。
春休み中メールで呼び出されたわたし。
集合場所は学校の図書室。
そこにはラッピングされた袋を持った飛鳥が居て、わたしの心臓は早鐘を打った。
何時に無く真剣な顔で飛鳥はわたしを見て、バレンタインデーのお返しをわたしに突き出しながら、飛鳥は良く通る声でシンプルに言った。
『好きです。付き合ってください』
わたしは震え、涙を流し、彼の手を取った。
『はい』
飛鳥と恋人に成ってからは、本当に幸せだった。
何度も飛鳥の家にお呼ばれして、それと同じぐらい飛鳥もわたしの家に来た。
思い返すとわたし達は中々にバカップルで昼夜人前問わずラブラブしていたような気がする。
断っておくと、バカップルはしていたけれど、わたしと飛鳥は純情カップルだった。手を繋ぐのに三ヶ月、キスをするのに一年と、数少ない友人達から呆れられた思い出がある。
でも、わたし達はそれで良かった。
あれがわたしと飛鳥の歩幅だった。
飛鳥さえ隣に居るのなら他の事はどうでも良くなっていた。
あれがわたし達の幸せだった。
付き合ってみて分かった事だけれど、わたしは随分な寂しがりだった。飛鳥が近くに居ないと不安で堪らなかったし、全ての用事を飛鳥との予定が第一に変えたりしていた。
わたしは幸せ過ぎた。幸せ過ぎて、気付いたら飛鳥に依存していた。
その想いを飛鳥に話した事がある。
わたしはあなたに依存している。正直な所、あなたが居ないとわたしは駄目に成りそうだ。そんな事を彼に話したら、飛鳥は至って快活に答えた。
『別に依存されるのは構わないよ。風香にならね。俺にも多少は独占欲がある。そこまで風香に思われて嬉しいさ』
『けれど、わたしの想いは重過ぎるわ。あなたが近くに居ないとわたしは不安で不安で堪らないのよ。出来る事なら二十四時間毎日あなたと共に居たい。片時も離れたくない。けれど、それはあなたに迷惑だわ』
『それでも良いよ。俺は出来る限り、風香の隣に居るさ』
『……本当?』
『本当』
『嘘じゃない? 本気にするわよ?』
『嘘じゃない。本気にしなよ』
笑っていた口元とは対照的に、その眼は酷く真剣で、わたしはとても嬉しくて、心が満たされて、ますます飛鳥へと依存してしまった。
受験生だった高校最後の一年間は瞬く間に過ぎて行った。わたしは毎日飛鳥と勉強して、彼と共に教えあい、受験勉強自体は滞りなく進んでいた。
わたしと飛鳥は学年二位と一位の成績を誇るカップルだったので、周囲――校長を初めとした教員勢――からの期待も厚く、わたしは中々にプレッシャーを感じていたのだけれど、それをほぐしてくれたのは飛鳥だった。
飛鳥は本当にすごい人で、わたしでは考えられないぐらいに人の事を視ている人で、彼の理知的な瞳は全てを見抜いているようにさえ思えた。わたしよりもわたしを理解しているのでは無いかと疑った事もあるぐらいだ。
そんな飛鳥は色々な人から頼られた。ちょっとした相談事から、あわや警察沙汰な事件まで、幅広く色々な相談を飛鳥は受け、その度に八面六臂の活躍を見せた。
実際に飛鳥自身が行動する事は特に無かったけれど、彼がしたアドバイスは全て的を射て成功し、大抵の問題は相談を始めて一時間ほどで解決していた。
飛鳥との二人きりの時間を邪魔されて、受験勉強のストレスも相まってか、わたしは飛鳥が人に頼られるのにあまり良い顔をしなかったが、いつもいつも繰り出される完璧なアドバイスに毎度内心舌を巻いていた。
一体、この人は何を考えているのだろう? 最後までわたしは分からなかった。
受験勉強は幸いにして実を結び、わたしと飛鳥は志望校のY大へと入学した。
この頃にはわたしの飛鳥への依存心は極値を取っていて、わたしと飛鳥は大学生になったら同棲しようと約束した。
自分でも中々に面倒くさい女だと思う。
恋は盲目を体現していたあの頃のわたしの眼には飛鳥以外映らなかった。
卒業式の日、わたしはつい泣いてしまった。
飛鳥との思い出が一気にぶり返してきて、この思い出の地を去らなければならない事への寂しさと、今までの幸せが溢れ出た。
飛鳥は卒業生代表として、答辞を読み、この内容もまた、快活で掴み所の無く、砕けていて、それでいて理知的な、立花飛鳥らしい文章で、わたし達は聞き惚れた。
卒業式が終わり、わたしは飛鳥と手を繋ぎながら、校門をくぐった。
この時のわたしは、卒業してしまった寂しさと、これからの人生への不安と期待と、隣に飛鳥が居る事への充足感と幸せを一挙に抱えていて、堪らず飛鳥にキスをした。
飛鳥は少しだけ驚いていたけれど、すぐに優しく眼を細め、啄ばむ様にお返しのキスをしてくれた。
あの時のわたし達は砂糖菓子の様に甘く、金剛石の様に煌めいていた。
わたしと飛鳥で世界は完結していて、それにわたしはどうしようもないほどの幸せを得ていた。
ああ、ここで、物語が終わってしまえば良かったのに。
そして三月十四日が訪れた。飛鳥がわたしに告白してくれて、丁度二年目の記念日、わたし達は大学生活で必要な品々を買うために新宿駅を訪れていた。途中、良く行っていた新宿駅のアップルパイが美味しいカフェを訪れたり、本屋を巡ったり、色々とぶらぶらしていたから、最早デートだったけれど、カップルが二人で出かけてデートに成らない方がおかしいのだからしょうがない。
家に帰ったら、互いに両親にわたし達が同棲しようと思っている事を伝えようと、話しながらデートをして、顔を綻ばせていた。
氷の女王も形無しで、わたしの心は溶け切っていた。
さて、あらかた市内を散策し終わり、そろそろ目的の品々を買いに行くかと、わたし達は横断歩道で信号を待っていた。
飛鳥と手を繋ぎ合って、晴れやかな春の始まりを予感させるような陽光にわたしは少しだけ眼を細め、
気付いたら飛鳥に突き飛ばされていた。
『え?』
我ながら間抜けな声が出たと思う。
わたしが最後に見たのは、顔を強張らせた飛鳥の表情と、その後ろから彼を覆い被さろうとする灰色の乗用車の姿だった。
*
そして、飛鳥は呆気無く、ドラマのように奇跡的に生き残ったりはせず、死んでしまった。
何で、わたしはそれを受け入れられなかったのか?
今日も自室へと敗走したわたしはベットへとへたり込んだ。
飛鳥との日々を思い返すと、如何にわたしが飛鳥に依存し尽していたかが良く分かる。
あの時のわたしにとって、飛鳥は世界の全てで、飛鳥さえ居れば他の何も要らなくて、わたし達だけで世界は完成していた。
飛鳥は彼に依存する事を許してくれたけれど、わたしはそれに甘えてはいけなかった。
何時の間にかわたしは飛鳥の事をスーパーマンか無いかだと勘違いしていて、絶対に飛鳥はわたしの隣から居なくならないと、根拠も何も無い妄想をしていた。
その妄想の果てが、この結果だ。
飛鳥の死を受け入れず、飛鳥からの愛を歪めて、翼君を代わりにして、飛鳥への愛を汚した。
翼君はどれほど辛かったのか? わたしの様な醜い女に四年間、依存され、どれだけ苦しかっただろう?
考えるだけで震えが止まらない。
翼君の事を考えると、わたしは恐怖に支配される。
もう、飛鳥を愛していたのかさえ、分からなくなりそうだからだ。
わたしは確かに立花飛鳥だけを愛してきた。少なくともわたしの中ではそうで、この六年間一度たりとも飛鳥以外の男に心を許した事は無かった。
けれど、わたしは、翼君を――飛鳥としてだけど――愛してしまっていて、彼に心を許していた。
抱き締められた時の幸せと、キスをした時の切なさは嘘では無い。
「ああぁ」
わたしは一体誰を愛してきたのか?
「飛鳥ぁ」
ああ、あなたに会いたい。
うずくまり、ぐちゃぐちゃになった心に引き裂かれそうだった。
ピンポーンと家のインターホンが鳴った。
○望月風香→立花つぐみ
ここで一つ、兄を持つ妹の権利という物を主張する。
ドラマ、アニメ、漫画、ライトノベルさまざまなフィクションの世界で妹というキャラクターはどんな存在だろう?
朝、優しいかどうかは置いておくとして、兄を起こす。
疲れた兄を癒す。
日常の象徴。
兄が大好き。
まあ、色々とある。だけど、あたしが言いたいのはこれじゃない。あたしが思うに、妹と呼ばれる存在が持っている一番重要なファクターはこれだ。
わがままを言う。
何だかんだで、創作物における妹とは兄に迷惑を掛ける物だ。
これがおそらく年下で異性と言う、小生意気に成り易い要素から作り出された一種の幻想である事に疑う余地は無い。
実際の兄妹など割と淡白な場合が多いだろう。
兄が寝坊していたら放っておくし、早起きして兄の弁当を作るぐらいならウィダーゼリーを置いておく。道端で抱きついたりしないし、兄に裸を見られようが兄の裸を見ようが顔を赤くなどしない。
まあ、感情という物は人それぞれだから、フィクションの様に仲が良い兄妹も居るのだろうが、今の所あたしは見た事が無い。
幻想は所詮想像で、浮世はどうしたって現実だ。
事実は小説よりも奇なり、などと言うが、基本的な大部分にとって、二次元的なドリーミーな毎日など起こる事は無い。
フィクションは所詮フィクションであり、現実を侵食などしない。それは確実だ。
しかし、このオタク大国日本で生まれてから十七年、多感な思春期も含めて過ごしてきたあたしがそういうフィクションに毒されていないとは言い切れないはずだ。
あたしは花も恥らう十七歳。愛読書はジャンプにサンデーにマガジンにチャンピオン。
空想の世界に思い焦がれて何が悪い。
大人がやれば苦笑いでも、JKがやれば微笑ましい。
リアリストを自負しているあたしがたまにはフィクションに毒されても何らおかしくない。
まあ、何を言いたいのかと言うと、偶にはフィクションを真似してみるかと思っただけだ。
ざっくばらんに言ってしまえば、こうだ。
久しぶりに兄に迷惑を掛ける事にした。
兄は妹のわがままを聞くものだ。
*
翼兄ちゃんが帰ってきて三日。パパとママは眼に見えて上機嫌で、どちらも晴れやかな顔で出社していた。兄ちゃんは疲れからか毎日昼時まで寝ていて、それを起こすのがあたしの日課に成りつつあった。
悠太郎さんからの連絡で、風香さんが今回はしっかりと飛鳥兄さんが死んだ事を理解していると聞いて、あたしを含めた家族全員は胸を撫で下ろした。翼兄ちゃんの四年間が無駄に成らなかった事に安堵したからだ。
けれど、風香さんが飛鳥兄さんの線香を上げに来る事は無かった。翼兄ちゃんが言うには『自分にそんな資格は無い』と言っているらしい。
まあ、風香さんの気持ちは分からなくも無い。恋人が死んだ事を認めず、恋人の弟を恋人に見立てて四年間過ごして来た。兄達に申し訳なくて、顔を見る事も出来ないのだろう。
確かにあたしから見ても、風香さんの取った行為は卑怯だ。自分だけ現実から逃げて、現実の辛さ全てを周りに押し付けて、幻想の世界でぬくぬくと四年間生きてきた。
翼兄ちゃんがどれだけ辛かったか、苦しかったか、考えるだけで身震いがする。
でも、それは翼兄ちゃんが選んだ事だ。
酷な言い方だけど、翼兄ちゃんが勝手に望月風香という重荷を背負っただけの事で、その苦しみも悲しみも全て翼兄ちゃんだけの物のはず。
翼兄ちゃん以外の誰もがその重荷を背負ってはならない。風香さんはそれを勘違いしている。
もちろん、これはあたしの考え方だから、風香さんは違うふうに思っているのかもしれない。
翼兄ちゃんは彼女が来ない事に小さく安心しながらも、歯を噛み締めていた。
この三日、翼兄ちゃんがほとんど外に出なかったのは、風香さんの来訪を待っているからに違いない。
翼兄ちゃんの大学の授業が再開するのは一月十二日の月曜日。
もし風香さんが来なくても翼兄ちゃんは学校に行って普通に授業を受けてしまうだろう。
この馬鹿兄はあまりに感情と行動を切り離し過ぎて生きている。二つが直結したのは四年前のあの日ぐらいだ。
だから、リミットは一月十一日。奇しくも飛鳥兄さんの誕生日までなのだ。その日まで風香さんが来なければ、もうこの舞台は完結しない。
翼兄ちゃんはそれまでは立花家でひたすら風香さんを待つだろうが、これを過ぎたらいつものキャンパスライフへと舞い戻る。
日常が始まってしまったら、今の舞台を終わらせるタイミングが何時とも分からぬほど遅くなる。
そうなったら、あたしはまた苛々した日々を過ごすだろう。そんなのはごめんだ。
あたしの我慢が限界を超えた。いい加減全てを終わらせたかった。
翼兄ちゃんの辛そうな顔を見るのも、それに一々気を使っていないような気の使い方をするのもうんざりだった。
そのため、本日一月九日の午後八時。あたしは『散歩行ってくる』と家族に嘘を付いて、単身望月家を目指していた。
癪だが二人の兄のヒロイン、それもあまりに傍迷惑な女に啖呵を切るためだ。
*
特に迷う事も無く、あたしは望月家を訪れ、トレードマークたるポニーテールを大きく揺らしながら、叩き付ける様にインターホンを押した。
はてさて、あたしの選択が鬼と成るか蛇と成るか、試す事とする。何、運には自身がある。あたしはラッキーガールだ。
ジジッとノイズ音が聞こえ、「はーい」という望月家の母、玲子さんの間延びした声が聞こえてきた。
あたしは胸を張って答える。
「どうも、お久しぶりです。立花つぐみです。望月風香さんはいらっしゃいますか?」
さあ、ガールズトークをしようじゃないか。
玲子さんにリビングへと通され、椅子に座り、テーブルに出されたお茶を飲んでいると、程無くして、二階から風香さんが降りてきた。
空気を読んだのか玲子さんはリビングにあたしと風香さんを二人きりにしてくれ、あたし達は向き合った。
「えっと……」
久しぶりに会う彼女は眼に隈が出来ていて、頬がこけていたが、相も変わらず妬ましいほどに美しかった。
学生時代、女王と呼ばれていただけはある。
「どうも。ちょっと話があって来ました。どうでしょう? 久しぶりに兄の事でも話しませんか?」
彼女があたし達立花家に持っている罪悪感はとてつもない。
風香さんはあたしの言葉を断れないはずだ。
「……ええ、分かったわ」
予想通り風香さんは頷いてくれ、テーブルを挟んであたしの向かいの席に座る。
しばらくの間、あたし達の間には言葉は無かった。あたしは言いたい事は山ほどあったけど、テンションに身を任せてここまで来てしまい、まだどう言葉を始めるか決めていなかったので、まずは風香さんの様子を観察する事にしたし、風香さんはあたしと眼を合わせず、やや俯いたままだったからだ。
リビングを包む静寂が二分を越えようかと言う時、意外にも風香さんが口火を切った。
「……翼君は、どうしているの?」
あたしは少々驚愕した。
まさか風香さんが一番初めに翼兄ちゃんの事を口に出すとは思わなかった。
彼女が最初に話すのは飛鳥兄さんの事だとばかり思っていた。
「意外ですね。翼兄ちゃんの事から聞くなんて。風香さんは飛鳥兄さん以外どうでも良いと思っていましたよ」
つい言ってしまった嫌味に、風香さんは眼を瞑って首を縦に振った。
「ええ、そうよ。わたしは飛鳥以外どうでも良いと思っていたわ。飛鳥以外何も見えていなかった。だから、わたしは全員を不幸にしてしまったわ。……本当にごめんなさい」
彼女はその場で頭を下げた。
言葉は本気に思え、本心からの謝罪だろう。
しかし、相手を間違えている。
「風香さん。確かにあなたはあたし達全員に謝らないといけないと思います。けど、一番初めに謝らなければいけない相手はあたしじゃないでしょう?」
「……それは――」
風香さんの言葉に被せて言った。
「何で、あたし達の家に来ないんですか?」
「…………」
あたしは追撃する。
「さっきの質問に答えますけど、翼兄ちゃんはずっと家であなたを待ってますよ。兄達に申し訳ないと思っているのなら、せめて会いに来てくれても良いじゃないですか?」
数十秒風香さんは黙り、そして顔を上げてあたしと眼が合った。
「ええ、分かっているわ。つぐみちゃんの言った通りよ。わたしは飛鳥と翼君に報いらなければいけない。でもね、足が震えるのよ。玄関のドアに近付くほど、体が動かなくなる。どうしても外の世界に足を踏み出せない。恐いのよ」
あたしは聞き返した。
「恐いって何がですか? 翼兄ちゃんがあなたを責め立てる事ですか? それともわたし達から恨みのこもった眼で見つめられる事ですか?」
彼女は左右に首を振った。
「……わたしは飛鳥が死んだ事を認めるのがこわいの」
「……は?」
何を言っているのかが分からなかった。
が、数秒後、あたしは恐怖した。
まさか、また彼女は翼兄ちゃんを飛鳥兄さんに見立てるつもりなのか?
あたしの表情を見て、風香さんは慌てて訂正した。
「大丈夫よ。わたしは飛鳥が死んだ事ははっきりと理解しているわ。翼君をまた飛鳥と思い込むことも無いはず。わたしはただ、飛鳥が死んだと信じたくないだけ。この家を出たら否がおうにも、飛鳥が死んだと認めないといけない。それがどうしてもわたしは出来ないのよ」
何となくだがあたしは風香さんが何を言っているのか理解した。
風香さんは自分の世界から立花飛鳥という存在が消えて欲しくないのだ。彼女が自身の全てを捧げた相手に二度と会う事が出来ないという事を認められないのだろう。
その気持ちは良く分かる。自分の愛おしい世界が壊れてしまったとしたら、あたしだってその事実から眼を逸らすだろう。
だからこそ腹が立った。
「ふざけないでくださいよ。じゃあ、翼兄ちゃんはどうすれば良いんですかっ? 何時までも飛鳥兄さんを演じていろと?」
即座に風香さんは否定した。
「違うわ。違うのよ。翼君はもうわたしに構わなくて良い。わたしを気にしないで自由に生きて欲しい」
何故、通じないのか。
翼兄ちゃんが自由に生きるためには、全てを終わらせないといけないのだ。
「そのために、あなたが終わらせないといけないんですよ。風香さんが翼兄ちゃんに終わったことを宣言してくれないと、何時まで経ってもあの馬鹿な兄は、飛鳥兄さんを演じてしまうんです。四年間一緒に居たんだから、分かるでしょう?」
あたしの言葉に風香さんは口をつぐんだ。図星なのだろう。
言葉を探す風香さんを無視して、あたしは続けた。
「大学が始まるのは一月十二日でしたね。冬休みが終わってしまったら、終わらせるタイミングが無くなってしまいます。どうかそれまでにあたし達を自由にしてください。お願いします」
頭は下げなかった。
あたしが風香さんに頭を下げる義理は無い。
しばらく沈黙が続いて、風香さんはポツリと搾り出すように声を出した。
「……ごめんなさい」
*
「お邪魔しました」
短く言って、あたしは望月家を後にした。
ケータイを取り出してみると、家族からあたしが何処まで散歩に行ったのかを聞くメールが二三届いていて、あたしは夜空を見上げながらため息を吐いた。
少し遅くなってしまった。
「あ~、飛鳥兄さんみたいには行かないか」
風香さんの説得は失敗だ。飛鳥兄さんの様に口が上手かったら、あたしは失敗せず、風香さんが外に出るよう説得できただろう。
残念ながら、あたしは三兄妹の仲で一番口下手なのだ。良く口は回るけれど、交渉やら説得やらは苦手科目である。
あたしは家族に今から帰るという旨のメールを返信し、〝ん~〟っと体を伸ばした。苦手分野をやるのは疲れるものだ。
雲の切れ間と月に眼を奪われながら、あたしはもう一度長く息を吐いた。
さて、説得は失敗した。
なら、次はどうするべきだろう?
幸いにして、あたしは三兄妹の中で一番諦めが悪い。
末っ子の妹のわがままはそう易々と終わらない。
○立花つぐみ→望月風香
つぐみちゃんが帰って、わたしは自室のベットに倒れこんでいた。
「もうわたしに構わなくて良い、か」
先ほど、つぐみちゃんに言った言葉を反芻し、わたしは眼を閉じた。
何と、傲慢な言葉だろう。今まで翼君がわたしにしてきてくれた全てを否定しているような言葉では無いか。わたしは何様だ。彼らにとやかく言う資格などわたしには無いのは分かり切っているのに、この上お願いとは厚かましい。
そうだ。つぐみちゃんの言ったとおり、わたしが終わらせないといけない。この不幸で成り立っていた幸福な舞台の幕引きはわたしがやらなければならないのだ。
頭では理解していた。
でも、わたしは弱すぎて、呆れるぐらい、気持ち悪いぐらい。
わたしは弱すぎて、飛鳥の死を信じたくなかった。
『わたしを気にしないで自由に生きて欲しい』
良くそんな言葉を吐けた物だ。
ああ、わたしは醜い。醜すぎる。
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