第2話 私とカノジョの一日
望月風香は立花飛鳥の彼女であり、私は望月風香の彼氏である。それは私とカノジョの共通認識で、この四年間壊れた事は無かったし、現在進行形で壊れていない。
私達は同じ大学の同じ学部に所属していて、更に付け加えるなら、今、私達は隣の席に座り、講義中である。本日は十二月中旬晴天なり。
カノジョの細いが筆圧の強い筆跡と、私の太いが筆圧の弱い筆跡で作られた同じ内容の二種類のノートは比べてみると中々面白い。私達の人となりを対比しているようである。
ちなみに私は左手を使って板書をしているのだが、右手用として発達し続けた文字を左手で急いで書く事は中々に大変であり、私のノートの文字は良く崩れる事があった。もう少し板書速度が良心的であれば大分楽なのだが。
黒板の数式を写すがてら、チラッとカノジョの横顔を見た。
陶器の様な滑らかで白い肌、肩口まで伸ばされた真っ直ぐな黒髪、左目の泣き黒子、その全てが何度も何度も中学生の時から見てきた物にも関わらず私の眼を奪い、美しいとさえ思わされる。
と、見つめていた事がカノジョにばれたようだ。
カノジョはこちらへと目線を向け、微笑んだ。
カノジョは笑うと少し幼くなるのだ。
少々恥かしくなった私は、憮然とした態度で右手を使って眼鏡の位置を直し、再び板書に集中した。
「急に見つめられたら恥かしいじゃない」
「いやいや、ごめんごめん。つい見惚れちゃってね」
「家で幾らでも見られるんだから、外でそんな恥かしい事を言うんじゃありません」
講義が終って直後、本日の講義は全て終ったため、私達は帰り支度をしながらそんな会話をしていた。
諌める様なカノジョの言い方だが本気で拒否している訳では無い。望月風香は対面上クールな女性で、高校時代は氷の女王なる渾名がつけられていた程だが、割とバカップルするのが好きな人なのである。
「おーい。立花ー」
と、鞄に詰め込み終わり、いざ帰るかという私達の元へ、やや離れた席に座っていた男子学生がこちらへと歩いてきた。矢島浩太という男で、この大学で私がカノジョを除いて最も良く話す生徒である。
「どうした? さっきの授業で分からない所でもあったのか?」
彼は良く私に授業内容を聞いてくる事があった。
「いや、分からないのならあったけど、それは良いよ。一緒に夕飯食わない? 望月さんも一緒で」
時刻は十八時五分。夕食を食べるには丁度良い時間だろう。
別に私は構わないので、カノジョの意見次第となる。
「どうする?」
私の言葉にカノジョは両手を顔の前で合わせ、淡々と言った。
「残念だけど、家にもうご飯が作ってあるの。またの機会にしてくれる?」
「そうかー。残念。お前らは本当リア充だな」
矢島は特に残念がる事も無く、嫌な顔をする事も無く、そう言い残して、元々座っていた席へと戻っていた。どうやら彼はまだ荷物を詰め込み終わっていないらしい。
「じゃあな、矢島。また明日」
「じゃあね」
「おう」
短く矢島に言い残して、私とカノジョは教室を出た。
大学を後にして、私達はスーパーを訪れていた。食料品の買い溜めが尽きてきていたためだ。
「お米、白菜、大根、豚肉に、白菜、後はポン酢も買いましょう」
「そうだな」
カノジョの指をくるくると回しながら本日買う物をリストアップしていくカノジョに頷きながら、私は品物を入れるカートを押していた。
「今日の夜は鍋にするわ。寒いし」
「あれ? 夕飯もう作ってあるんじゃなかったけ?」
「お米が炊いてあるだけでおかずは無いの。飛鳥は味噌と塩がおかずでも良いの?」
「良くないね。でも、米しか出来ていないなら、矢島たちと一緒に夕飯行っても良かったんじゃない?」
カノジョは眼を逸らした。
「だって、早く家に帰りたかったし」
嬉しい言葉ではあるが、もう少しクラスメイトと仲良くしても良いのではないだろうか?
「……クラスメイトと交流を持つのも大事だと思うよ」
「良いじゃない。わたしはクラスメイトとよりも飛鳥と一緒に居たかったの。それじゃだめ?」
中々可愛い事を言ってくれ、男冥利に尽きるという物である。
私は何と無しに苦笑して
「いや、だめじゃない。さっさと買って家に帰ろう」
スーパーから出て少し歩いて、私達は横断歩道で信号が青に変わるのを待っていた。この白と黒の縞々を超えれば、五分ほどで私とカノジョの家に着く。
カノジョが右手、私が左手に先ほどの品物が入ったレジ袋を下げ、我々の残った手は繋がれている。
右手からカノジョの少しばかり低い体温が伝わってきて心地が良かった。
信号が青に変わった。
「はい。じゃあ渡ろう」
「…………」
カノジョは無言で頷いて、私はその手を引いた。私の右手を握る力が、凡そ十秒ほど縞々を渡り終わるまで強くなる。
「渡り終わったね」
「…………ええ。そうね」
「「ただいま」」
特に滞りなく私達は二階建てアパート〝セセラギ荘〟の二〇二号室へと帰宅した。
習慣と化し半ば無意識の領域となった帰り道に早々問題が起きる物では無いのだから当然と言って良いだろう。
「じゃあ鍋の用意するから、飛鳥も手伝って」
「了解」
ちゃかちゃかと箸やらお椀やらを食器棚から出し、机の上に置いていく。
本日の夕飯も楽しくなりそうだ。
夕食が終った頃には二十時を回っていて、カノジョが皿洗いをしている間、私は風呂を洗っていた。
このバスタブが日々私達の疲れを癒してくれている。
やはり、風呂は良い。命の洗濯とは良く言った物で、入る度に疲れが湯に溶けていくのを実感した。
手早く風呂洗いを終えた私はお湯を入れ、まだカノジョが皿を洗っている台所へと戻った。
「手伝おうか?」
「いらない。テレビでも見ていて」
そう言われてしまってはしょうがない。
先ほど私達が食事をしていたリビングへと戻り、白いソファに腰掛けて、部屋の脇に置かれたテレビの電源を付けた。
丁度良い具合にバラエティ番組がやっていて、テレビの中で芸人達が体を張って笑いをとっている。ふむ、中々に面白い。
……私とカノジョなら絶対にアマゾンになど行かないだろう。鰐に食われてしまいそうだ。
テレビを見て五分ほどしたら、突然両頬がピタッととても冷たい物に挟まれた。
「冷たっ」
犯人は分かりきっていて、両頬を押さえた物を手に取るとそれはカノジョの両手である。
後ろを見るとカノジョは悪戯が成功した子供のような顔をしてニッと笑っていた。
「冷たいでしょう? 暖めて」
「はいはい。座れば?」
カノジョは私の右隣へと腰掛けて、私は両手を使い皿洗いで冷たくなったカノジョの左右の手を包んだ。
この冬場水仕事はさぞ冷たいだろう。風呂場の水もとても冷たかった。
「あ、この芸人さんまた出てる。人気なのね。一発屋で無ければ良いけれど」
「大人気じゃなければ大丈夫だろう。何事も長続きするには細々とする事だよ」
「なら、飛鳥的にはこの芸人さんはどう思うの? そこまで大人気って訳じゃないけれど?」
「来年まではテレビに居ると思うよ」
テレビ内でその芸人の彼は見るからに全力疾走でアフリカの大地を駆けていた。どうやら地元の村の男性達と徒競走をしているらしい。アフリカの若者と体力勝負をして何になるのかやや疑問である。
芸人の彼は頑張ったのだろうが、村一番早いという村の若者に三メートルほど差を付けられて負けてしまった。日本育ちがアフリカ大地で生きている若者に脚力で勝つのは難しいのかもしれない。
「そろそろお風呂出来たかしら?」
「出来たと思うよ。お先にどうぞ」
「ええ」
カノジョは立ち上がり、私達の寝室へと向かった。そこに寝巻きや下着などの衣類全般が入った棚があるためだ。
「じゃあ、先に入るわ。覗いても良いのよ」
「はいはい」
カノジョの戯言を聞き流して、私は野球中継へとチャンネルを変えた。
四年ほどカノジョの彼氏をやって分かった事だが、どうにもカノジョは二人きりに成ると幼くなる。
風呂から上がり、二十一時ほど。寝巻きに着替えた私とカノジョは先の食卓の上に各々のパソコンを置いて、レポートを書いていた。
一昨日実験があり、そのレポートを出さねば単位をもらえないのだ。
当然、ギブミー単位なので、私達は昨日からこのレポートを書いている。
「飛鳥。ここの意味教えて」
レポートの何処かで詰ったのだろう。カノジョが実験の教科書を広げ、私へとそこに書かれた内容の意味を聞いてきた。
同じ実験のレポートなのだから私のレポートを写せば良いと考えない所が立花飛鳥のカノジョに惚れた理由の一つである。
「ああ、ここは――」
カノジョの疑問に私なりの解釈を混ぜながら説明し、カノジョは納得したようだ。
「良し。分かったわ。ありがとう」
それから二時間半、シャーペンとキーボードを打つ音だけが部屋に響き、私の方は何とかレポートの形が出来た。後は内容を確認し、印刷して提出すれば終わりである。
「俺の方は大体終ったけど、そっちは?」
「あと少し」
レポートを保存し、私は伸びをしながら立ち上がり、台所の冷蔵庫へと向かった。中にはフルーツジュースが入っている。
ジュースを二つのコップに注ぎ、片方をカノジョに渡す。
「ありがと」
「ん」
再びカノジョの向かいに腰掛けて、私は先ほど書き終えたレポートを読み直した。
一時間ほどして、どうやらカノジョのレポートも完成したらしく、私達は歯を磨いて寝る事にした。日付は半時間ほど前に変わっており、そろそろ眠気が襲ってくる。
歯を磨き終わり、スースーする口内を感じながら、私達は寝室へと入った。
中央に二人用のベットが置かれ、その隣に衣装箪笥と本棚、加えて小さな机が置かれている。
「飛鳥、寝ましょう」
カノジョはモソモソと布団に潜り、手招きをした。
私はそれに慣れた調子でその左隣へと潜り込み、机の上に眼鏡を置く。
少し伸びをして部屋の明かりのスイッチをオフにした。
瞬間、世界が暗くなる。
モゾモゾとカノジョの左手が私の右手を握った。
布団はまだ冷たいがそこだけが暖かい。
「おやすみ。飛鳥」
「おやすみ。風香」
今日もカノジョとの一日が終った。とても私は幸せだったのだろう。
私はちゃんと望月風香の彼氏をやれていただろうか?
四年前、望月風香の彼氏に成ったあの日から、私は毎晩それを思いながら眠りについている。
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