第5話 私のカノジョへの秘密

 一月六日の火曜日、私とカノジョはキャリアバックを片手に駅を訪れていた。週明けの月曜日から授業が再開であり、そろそろ帰らねば成らない。

 ガラガラガラと目的地である三番線ホームまで歩き、適当な乗車口で私達は足を止めた。時刻表を見ると次に電車が来るのは五分後である。

「……冬休みも終わりね。飛鳥はお正月どうだった?」

「初詣行った後は寝正月。偶に風香とデートするか、沢口と遊ぶかぐらいだったよ。毎年の通りだね。そっちは?」

「寝正月じゃなくて本を読んでいた以外は大体同じよ」

 実の所、カノジョには友人と呼べる人物が数える程しか居ない。

 私やカノジョの家族に対してはこうして様々な表情を見せ色々な事を話してくれるが、基本的に望月風香という女性は他人に対してとても冷たい反応を見せてしまう。

 空気を読んだ上で自らが正しいと思う行動のみをするのがカノジョであり、その背筋が凍るかと思える理性的な物言いから、カノジョは氷の女王と呼ばれていたのだ。

 実際に仲良くなって見れば、カノジョはとても面白く楽しい人間なのだが。

「家に帰ったらまず何をしようかしらね?」

「冷蔵庫空っぽだし、とりあえずスーパー行こうよ」

「そうね。ついでにノートも買っておきましょう。そろそろテスト期間だわ」

 カノジョと家に帰ったらする事を決めていたら電車が来たので、私達はこの鉄の車体に乗り込んだ。


 途中の駅で特急電車に乗り換えて少し、昼頃の時間帯、私達は東京のダンジョンこと新宿駅を歩いていた。

 路線を乗り換えるのに十分も歩くなど詐欺であり別の駅名とした方が良い、という取り留めの無い事をカノジョと話していた私は油断していたとしか言い様が無いだろう。

「あれ? 立花?」

 左前方から声をかけられた。誰の声かは分からない程度で聞き覚えのある声だ。

 ん? と私とカノジョが声の主を探して見るとそこに居たのは、同じデザインの茶色いPコートを着た男女の二人組みである。

 男の名前は千原、女の名前は松野であったはずだ。

〝はず〟というのも私と彼らが最後に会ったのは二年前、私が高校生であった時であり、彼らは私の同窓生なのだ。

「やっぱり立花だ。久しぶりだな。二年ぶりぐらいか?」

 私の喉が干上がっていた。

 ここで彼らに会うとは予想外だ。

 何故気を抜いてしまったのか、二分前までの自分を怒鳴りたい。

 断っておくが、別に千原と松野の事が嫌いな訳ではない。過去に私と因縁がある訳でも無い。

 彼らは学年で有名のお似合いカップルであり、とても好ましい人格を持つ二人であった。

 もし私がこの場で一人なら思い出話の一つや二つ咲かすだろう。

 だが、今私が、〝望月風香を連れた私が〟、私の〝高校時代の同級生〟と出会ってしまったという事実は最悪なのだ。

「知り合い?」

 カノジョの質問に、私は脳を搾り出し、この場を切り抜ける言葉を探すが、ついぞ見つからなかった。

 だから私は全力で口を回した。

「あ、うん。知り合い。千原と松野という昔の知り合いなんだ。千原と松野も久しぶりだな。昔と変わらず仲が良さそうで何よりだ」

「そうだね。昔も今も変わらずラブラブしてるよー」

「なー」

 松野の言葉に私はできるだけ早く返事をした。

 彼らとカノジョを会話させてはならない。

「そうか。それは何よりだ。でも、すまんな。ちょっと電車に遅れそうだから、俺達もう行くよ」

 横でカノジョが少しだけ怪訝な顔をしているが無視する。言い訳は後で考えれば良い。

「そうなのか。悪いな。引き止めて」

「いや、気にしなくて良い。また今度話そうじゃないか」

「ああ」

 彼らは嫌な顔一つせず言ったので、私は内心胸を撫で下ろしていた。

 だが、それは間違いだった。

 私は最後の最後まで気を抜くべきでは無かったのだ。

「それじゃあ、立花、彼女さんによろしく。今度A組の同窓会やるから来てな」

 千原がそう言葉を残してしまったからだ。

 彼にとっては単なる餞別の言葉であっただろう。

 彼らの視点で見るならば、今の台詞を言うのに丁度良いタイミングだったし、他意は無い筈だ。

 だが、最悪である。

 乗り換えのホームへと再び歩き出そうとした私達の足、正確にはカノジョの足がピタリと止まった。

「……A組の同窓会?」

 望月風香は疑問を放っておかない女性である。

 その困惑した声を聞いて私は失敗した事を悟った。

「あの、A組の同窓会とはどういう意味でしょうか?」

 カノジョは私より一歩前に出て、千原へと質問をした。

 質問に千原と松野は首を傾げた。

 当たり前である。彼らには何を聞かれているか分からない。

 私はこの場を取り繕う言葉を探したがそんなもの見つかるはずが無い。

 なぜならもう会話が始まってしまったからだ。

 一度始まってしまった対話は区切る事は出来ない。

 坂を転がる石が砕けるまで止まらない様に、始まってしまった会話は終着するまで紡がれる。

「私達、立花君とは高校の時同じA組だったんですよ。その同窓会です」

 カノジョは首を傾げた。

「すいません。わたしも飛鳥と同じA組だったはずなのですけれど?」

 その言葉に千原と松野は眼をパチクリとさせ決定的な言葉を言った。

「「飛鳥ってだれでしょうか?」」

 私は眼を閉じた。

 カノジョの時間が静止する。

 カノジョは今松野言った言葉の意味を理解できていないはずだ。

 瞳を開いて私はカノジョを見た。

 その顔は困惑に包まれている。

「……飛鳥は飛鳥ですよ。立花飛鳥」

 カノジョはそう私を指差すが、千原と松野は互いに眼を見合わせて、頭上に疑問符を浮べた。

 千原が彼の疑問を口にした。

「あの、間違っていたら本当に申し訳ないのですが、―――――――-」

 その言葉に

「…………………………………………え?」

 長い沈黙の後、カノジョは短く声を出した。


 ここでしばし過去話といこう。何故今こんな事に成ってしまっているのか。説明する義務が私にはあるはずだ。



 私がカノジョ、望月風香と初めて出会ったのは七年前。中学二年生の春の時である。私が通っていた中学は中高一貫校であり、私と兄はそこへ通っていて、兄はその時高校一年生であった。

 望月風香は兄と同じA組だった。(ちなみに我らが学校でのA組とは成績上位クラスの事であり、兄は私の眼から見てもとても頭の良い人間であった。)

 私がカノジョと出会った原因は我が兄の所属していた委員会に起因する。

 兄は何故か何の縁も無い図書委員に所属していて、カノジョもまた図書委員であったのだ。

 中学二年の私が暇なので図書室にあったブラックジャックを借りに行った時、兄とカノジョに出会ったのである。

 カノジョへの第一印象は静かな人だった。暇なのか色々話しかけている兄と対照的にカノジョは一言二言短く言葉を返すのみであり――図書室内なのだから当たり前なのだが――彼らはとても静かに過ごしていた。

 兄が異性にああも楽しげに話しかけていたのは初めてだったので、家に帰った私は兄に何故そこまでカノジョへ話しかけていたのか問い掛けた。

 すると、彼は笑いながらこう答えた。

『何かすごく面白そうな人だと思ったから』

 私は定期的に図書室に通った。元々本が好きだったし、通学時の電車の時間を潰すのに丁度良かったためである。

 そのため、図書室に行く事が習慣と化した私にとって、兄とカノジョが共に図書委員として仕事をしている様を見るのもまた一つの習慣と成っていた。

 兄は弟の私が言うのも何であったが変人で、家族である私でさえ思考を読み取れず、眼鏡の奥はいつも何を考えているか分からない、けれど理知的な光で満ちていた。

 その兄が『面白い』と評価したカノジョの事が私は気に成っていた。

 図書委員としての仕事はあまり多くないらしく、兄とカノジョはポツポツと本の返却や貸し出しを行っていた。

 カウンター席の兄とカノジョの距離は日が経つ毎に――牛歩の歩みよりも遅いペースだったが――近付いていったように私には思えた。

 遠くからそれを見ていたので兄の言葉にカノジョがどう返事をしていたのかは分からなかったが、日に日にカノジョが兄へと作っていた壁の様な物が薄れていったのだ。

 白状してしまえば、この時点でおそらく私はカノジョへと恋慕の情を持っていた。

 彼女の持つ物静かだが凛としている雰囲気に私は惹かれていたのだ。

 だが、中学二年生というおそらく人生で最も馬鹿な時期に居た私は自身の淡い恋心に気づく事も無く、毎日毎日同級生たちと生産性の無い会話で青春を消費していた。


 そんな懐かしき我が青春の日々のある日の事である。

 制服も夏服へと切り替わり、運悪く普段共に遊んでいた友が全員風邪で全滅し、何故か私だけが奇跡的に生き残っていた日の事。放課後共に遊ぶ相手も居なかった私は読みたい本も無かったが暇潰しに図書室を訪れた。

 図書室は相も変わらず閑散とした雰囲気を保っており、ちらほらと勉強をしている生徒や読書中の生徒が見えるだけである。

 そんな中、カウンター席にてカノジョが文庫本を読みながら一人で座っていた。

 図書室のドアを開けた私にカノジョはチラッと一瞥をくれた後、視線を文庫本へと戻して、ペラペラとページを捲り始めた。

 はて、こんな事は初めてである。

 いつものカノジョならば誰が来ようとも本からは視線を外していないはずだ。

 兄との――兄が一方的に話しているとも言える――会話の中でもその視線がページから離れる事は無かった。

 だが、そんなカノジョがその日初めて私へと視線を割いたのである。

 一体何故なのか?

 文庫本を手にとって適当な席に座り、私はしばし考えたが、疑問は十分も経たない内に解決した。

 図書室のガラス張りのドアを開け、兄が訪れたからである。

 私は見逃さなかった。

 兄が入ってきた瞬間、彼の姿を認知したカノジョが兄に見えないように小さく小さく微笑んだのだ。

 気付いたら私は息を忘れて眼を奪われていた。

 人はここまで幸せそうに笑える物なのか。

 何か謝っている兄に、澄まし顔で対応しているカノジョ。

 謀らずも、私はカノジョの心の一端を覗き見てしまったのだ。

 私は思った。兄は何とすごい人物なのだろうか。

 彼は氷の女王を溶かしたのだ。

 氷に隠されたあの暖かい笑顔を兄は見つけ出したのだ。

 何と尊い事だろう。

 この時になって初めて、私はカノジョへと恋を自覚した。

 私は今カノジョが見せた笑顔を見たかったのだ。

 あの笑顔を私へと向けて欲しかったのだ。

 けれど、あの笑顔は兄だけが誇れる物である。私が汚してはならない物だった。

 私は自分の恋に気付いた瞬間に失恋したのだ。


 私の中学二年生が終わる頃の三月十四日、ホワイトデー、カノジョと恋人になったという報告を兄自身から受けた。

 これまでに、体育祭で倒れたカノジョを兄が助けたり、文化祭に来た従妹にカノジョが嫉妬したり、何故かクリスマスデートしたり、新年に大国主神社でばったり会ったり、バレンタインデーにチョコ紛失事件を解決したり、と波乱万丈のエピソードがあったらしいが、それは私にはどうでも良かった。

 私が見てきたのは図書室での兄とカノジョである。

 ならば私にとっての彼らは図書室で完結している。

 兄の報告を受けた私は素直に祝福した。この頃には私は失恋から立ち直っていたし、兄が本気でカノジョに惚れている事は分かっていたし、カノジョもまた兄へ陶酔していた事は見て取れたためである。

 だから、兄へと向けた『おめでとう』という言葉は真実なのだ。


 晴れて兄が彼女持ちと成ってから、私とカノジョ、正確には立花家と望月家の付き合いが増えた。カノジョは良く私達の家に着ていたし、兄もまた良くカノジョの家へと遊びに行っていたからだ。

 これはつまり、私とカノジョの会う回数が一気に増えたという事である。

 図書室でカノジョと兄を見ていただけの私が、カノジョと話すようになったのだ。

 とは言っても、私とカノジョが話していた内容は専ら兄についての事である。兄の好きな食べ物、好きなテレビ番組、好きな音楽、その他諸々、カノジョは私とつぐみに良く質問をし、私達がそれに答えていた。

 本当にカノジョは兄の事が好きだったのである。


 そんな糖尿病に成りそうな甘々な一年間が過ぎ、私が高校生に成った頃、つぐみも我らと同じ学校に入学し、兄とカノジョは受験生であった。

 兄の背を見習った結果か否かは定かでは無いが、私の成績はそれなりに上位に食い込んでいたため、私は兄と同じA組、成績優秀者クラスへと割り振られていた。

 しかしながら、兄と同じ成績優秀者クラスに居たとしても、私と兄の成績には大きな開きがあった。兄はカノジョを押さえて学年の首席を取っており、私はせいぜい第十位程である。

 悔しさを覚えなかったと言ったら嘘に成るが、私は誰よりも身近で兄の努力を見てきた人間であったので、妬ましいとは思わなかった。

 私がしてきた努力など、兄の半分に満たないだろう。

 まあ、とにかく我らが立花家は長男の大学受験というイベントを控え、家族全員で兄を支えるという事が決定した。

 私は心の底から一年間兄をサポートするぞ、と意気込み、決意を固めていた。今まで世話になった恩を少しでも返そうと思ったのだ。

 けれども、私達の決意を知ってか知らずか、兄は私達の手を煩わせる事は無く、自身を律してカノジョと共に受験勉強をしていた。

 私達はペダルを踏み外した自転車の様に、あらら、と出鼻を挫かれ苦笑したのを覚えている。


 兄の努力は着々と結果を出し続け、夏の模試の時点で兄は志望校であるY大にA判定を取っており、その成績が落ちる事は無かった。

 兄の濃密な勉強量が伺える。ストレスも凄まじかった筈だ。

 だと言うのに兄は機嫌が悪くなる事も無く、穏やかなままで私達家族に接し、カノジョとも良好な恋人の関係を続けながら互いを励まし合い勉強を続けていた。

 また、受験生の一年間だというのに兄はそれなりに大変な最後の高校生活を送っていて、兄の周りで起こっていた友人関係の青春的な問題をいくつも解決していたりしたのだが、全く兄は良く体力が持った物だ。

 このため、兄の友人であった人々は皆兄に頭が上がらず、兄とカノジョの交際を祝福していた。

 兄とカノジョは学校公認の誰もが認めるお似合いカップルであったのだ。


 そして努力を裏切る事も無く、兄とカノジョは共にY大へと合格し、高校生最後のイベント卒業式を涙無くては語れない感動的な結末で終え、晴れて大学生になるまでのモラトリアム、春休みを迎えた。


 何故私とカノジョが現在の様な状況に陥っている事の確信となる出来事が起きたのはこの期間である。



 皆さんは男子学生の死亡理由の一位を知っているだろうか?

 不慮の事故である。

 実際に兄の場合、不慮の事故というか、英雄的な結末というかは人それぞれなのだろうが、春休みの三月十四日。奇しくも兄とカノジョが付き合い始めて丁度二年目のその日、私の兄は死んだのだ。

 実際に私がその場面を目撃した訳ではないので、病院や警察、父と母から聞いた話をまとめた物を語るとしよう。


 三月十四日、兄とカノジョは四月からの大学生活で必要な物を買うと言う名目でデートをしていた。受験と言う重圧も終わり、彼らが六年間過ごした学び舎を去ったという開放感にも似た寂寥感が彼らを包んでいた事だろう。

 まあ、とにかく兄とカノジョは新宿駅をぶらりぶらりと散策し、おそらく喫茶店に入ったり、本屋を巡ったりと言う彼ららしいデートを楽しんでいたはずだ。

 が、ここで不幸な事故が彼らを襲った。

 横断歩道で信号が変わるのを待っていた兄とカノジョを含めた八名の元へ、猛スピードの乗用車が突っ込んできたのだ。

 咄嗟の判断にしては良くやった物だと思うが、向かってくる乗用車を逃げられないと判断したらしい兄は、隣で体を強張らせていたカノジョを思いっきり突き飛ばした。

 そのおかげでカノジョの体は乗用車との突撃コースからはずれ、アスファルトに足を打ち付け膝を擦り剥く程度の怪我で済んだ。

 しかし、兄はそうはいかない。

 一瞬後、辺りには何人もの人が乗用車と激突する鈍い音が響き、その音の主の中には兄も含まれていた。

 私達家族がその事故を知ったのは病院からの電話で、父の車を飛ばして私達が病院に着いた時に手術中であった。

 オペ室のすぐ外ではカノジョと望月家の両親が居り、カノジョはただ眼を瞑って祈っていた。

 握られた手は血の気を失い真っ白に成っていて、肩は震え、ただただカノジョは願っていた。

 私達が兄の死亡勧告を受けたのはその十分後である。

『……嘘よ』

 絶望しきった表情で小さくそう言った後、カノジョは金切り声を上げた。


 この事故はニュースでも取り上げられ、二人の軽症者、三人の重傷者、三人の死亡者を出した悲惨な交通事故として一月ほど世間を賑わせた。

 そもそもの交通事故の原因は乗用車のブレーキの誤作動であったらしく、運転手の家族達が土下座をしてきたが、私達家族としてはそんな事どうでも良い。

 街灯の監視カメラで映された兄の最後の行動をマスコミは英雄的だの、勇気あるだの、かっこいいだの、ヒーローだの、好き勝手に騒ぎ、立花家と望月家に連日マスコミが訪れた。

 立花家から笑顔が消えたのを私は良く覚えている。つぐみと母は連日抱き合って泣いていて、父は何も言わず歯を食い縛っていた。

 だが、私は泣かなかった。歯を食い縛る事も無かった。苛烈に襲ってくる喪失感、怒り、悲しみ、寂しさ、その全てが私に泣くように囁いてきたが、私は一滴の涙も流さなかった。父でさえ流したというのに。

 これは、私が兄を愛していなかったという事でも無く、冷血だという事でもない。

 あの時の私は、自分は泣いてはならない、私一人は何があっても立ち続けなければならないと思ったのである。


 親戚一同が急遽集められ、兄の葬式が行われた。棺の中の兄の体は整えられ、生前と同じ様であり、今にも起き出しそうだった。しかし、そこにあったのは兄と言う生きていた物では無く、魂とやら抜け落ちた単なる物体である。

 そのパッと見は安らかに眠っている兄を見て、母とつぐみは膝から崩れ落ち、父も彼女らを抱く様にして泣いた。私はその傍らでジッと兄の顔を見るだけだった。

 遠巻きに居た親戚達も皆涙を浮べていて、辺りから啜り泣きの声が響いた。


 兄の葬式には多数の参加者が集まった。親戚一同を始め、クラス二つはあろうかと言う兄の友人達、私達の高校の校長を始めとした先生方、彼らは皆、痛恨の表情を浮かべて兄の棺の前で、思い思い手を合わせた。

 すすり泣く者、怒る者、叫ぶ者、黙る者、号泣する者、色々な人が居た。

兄がどれほど人に慕われていたのかが良く分かる場面であった。


 カノジョが来たのは最後だった。望月家の父母、悠太郎さんと玲子さんに支えられながら、カノジョはよろよろと幽鬼の様に兄の棺の前へ足を進めた。

 私は眼を見開いた。カノジョの瞳は何も映していなかったのだ。

 その瞳からは光が消え、その全身からは冷気が漂うかの様で、今にも脈動を止めてしまいそうであった。

 カノジョは足を止めて、ジッと兄を、正確には兄だった物を見下ろして、

『……飛鳥。起きなさい』

 と、冷え切った声で言った。

 今更言うのは何であるが、兄の名前は立花飛鳥と言う。

 遅ればせながら自己紹介をさせてくれ。

 私は立花飛鳥の弟、立花翼なのだ。


 葬式場に居た誰もの空気が止まった。

 ただ、カノジョの声が響くばかりで、急激に部屋の温度が下がる。

 異様な光景だった。

『そんな狭い所で何寝ているのよ』

『明日は大学で必要な物を買わないといけないのだから、早く起きなさい』

『私の声が聞こえないの?』

『分かったわ。私をからかっているのね。いつもみたいに』

 カノジョは膝を折って、届かんばかりにその顔を兄の顔へと近づけた。

『これだけ近ければ聞こえるわね』

『狸寝入りはもう止めなさい』

『……これ以上黙っている気ならキスするわよ』

 数瞬の間を持って、彼女は兄の唇と自分の唇を重ねた。

 童話ならこれで兄の瞳が開きそうな物だが、そんな事は起きる筈が無い。兄は毒リンゴで死んだ訳では無いのだ。

『……あら? 今日は強情ね。いつもならこれで飛び起きそうな物だけれど』

『良いわ。そういう事なら持久戦ね。あなたが起きるまで何度でもキスをしてあげるわ』

 カノジョがまた兄の唇にキスをしようとした所で、ハッと私はカノジョへと走りよりその肩を抑えた。

 これ以上は私が見ていられなかった。

 肩へと触れられてカノジョの体がピタリと止まった。

 カノジョは緩慢に私へと眼を向けて、一瞬眼を見開いて、

――――飛鳥?

 そう小さく呟いた。

 聞こえたのは私だけであろう。

『え?』

 私が動いた事で場の空気が再び動き出し、悠太郎さんと玲子さんがカノジョへと駆け寄った。

『風香。止めなさい。飛鳥君はもう死んでしまったんだよ』

 カノジョは悠太郎さんの言葉に首を振った。

『何を言っているの、お父さん? 飛鳥が死ぬはずが無いわ。ただ私をからかおうとしているだけよ。こんな大掛かりなセットまで作って失礼してしまうわ』

 悠太郎さんと玲子さん、そして私を初めとするこの会場に居る誰もが絶句した。

 カノジョの言葉の色に嘘が無かったからだ。

 カノジョは本心からそう発言したのだ。

『違うわ、風香。これはジョークでも何でも無い。飛鳥君は死んだのよ。あなたもその目で見たでしょう?』

 玲子さんの言葉もカノジョには届かない。

『いいえ。見ていないわ。そうよ。飛鳥は死なないわ。約束してくれたもの。何があっても私を一人にはしないって。飛鳥は絶対に約束を破らないわ』

『いい加減に現実を見なさい。飛鳥君は死――』

『死んでないっ!』

 カノジョが叫んだ。それはまるでヒステリーを起こした女優の様でもあり、夫を失った雪女の慟哭の様でもあった。

『飛鳥は絶対に生きているっ、絶対に絶対に飛鳥は起きるわ! 私を一人にしない! 四月から一緒に大学へ通うのよ! 飛鳥は、……飛鳥は――』

 そこまで言って唐突にカノジョは膝から崩れ落ちて気を失った。

『…………』

 葬式情に居る誰もが口を開けなかった。皆氷付けにされたように口を閉じ、沈痛な面持ちで顔を伏せていた。

『……申し訳ございません』

 悠太郎さんと玲子さんが私達に頭を下げて、カノジョを抱えて葬式場から出て行った。


 それから葬式は滞りなく進み、兄の体は火葬され、私が簡単に抱えられるほどのサイズの骨壷へと入れられた。

 父も母もつぐみも誰もが泣き腫らし、この骨壷を抱えられるとは思わなかったので、兄は私が抱える事と成った。

 生前の重さの何分の一なのだろう? 腕に掛かる重さにぼんやりとそう思いながら、私達は立花家へ帰宅し、兄をつい先日まで共に囲んでいた食卓へと置いた。

『飛鳥ぁ』

 母の涙腺が再び決壊し、その場で泣き崩れ、父が母の方を抱いてまた泣き出した。

『……』

 つぐみの涙はどうやら枯れた様で、我が妹は何の感情も移していない瞳で、食卓へと置かれた骨壷を見ている。

 どうやら、私が泣けるのはまだまだ先の事に成りそうであった。

 大きく息を吸って私は食卓とセットの椅子に座り、ゆっくりと長く息を吐いた。

 脳裏には葬式場でのカノジョの姿が過ぎっていた。


 兄の死から一月あまりの時間が経った四月終盤。時間という物は確かに悲しみを埋める特効薬だったらしく、まだまだぎこちなかったが立花家は日常と言う物を送れるように成った。

 通学、帰宅、就寝前に鈴を鳴らし、線香を上げるという習慣が増えた日常である。

 私は高校二年生に成っていて、事情を知る沢口や教員勢などから様々な支えを貰いつつも、別段前と変わらない学校生活を送っていた。

 気付いては居たが、予想以上に私は公私を使い分ける人間であった。演技派だったのだ。身内が無くなったと言うどうしようもない不幸に見舞われたにも関わらず、笑えないほどに私はそれをおくびにも出さなかった。

 毎日毎時間毎分毎秒の様に兄の事を思い出していたが、平行して授業を受け、友と談笑し、笑顔を張り付かせていたのだ。

 ふとした時に、母は涙を流していて、父は骨壷を呆けたように眺めていて、つぐみは不自然に幼く明るく振舞っていた。だから、私はできる限り、前と変わらない私を演じ続けようとしたのだろうと、今なら分かる。

 まあ、私の事はどうでも良い。今私が話さねば成らない事は、カノジョの話である。

 葬式の日以降、カノジョから立花家に連絡が来た事は無かった。悠太郎さんから何度か電話が来てはいたが、それの頻度も徐々に無くなり、この一週間は一度も連絡が無かった。

 専ら電話は私が受け取り、父へと渡していたのだが、電話の度に憔悴していく悠太郎さんの声に私は一抹の不安を覚えずには居られなかった。

 そんな折、半日授業を終えた土曜日の学校の帰り道、私は立花家の最寄り駅ではなく、一つ前の望月家の最寄り駅で下車し、一人望月家を目指していた。

 何故、今更カノジョの家を私が訪れようとしているのか。

 それは先日行われた兄の遺品整理が理由である。


 立花家は二階に、父と母の寝室、兄、私、つぐみの四つの部屋があり、兄の死から落ち着き始めた私達は兄の部屋を整理する事にした。

 兄の部屋は彼の性格らしく綺麗に整理整頓されていて、机とベットそれに本棚意外に目立つ物は無かった。

 この分ならすぐに終わりそうだと思っていた。

 しかし、兄の机を整理していた私達は、兄とカノジョの交際の証である様々な思い出の品を見つけてしまったのである。

 幾つかの綺麗に畳められた包装紙の束(おそらくカノジョから貰ったプレゼントの物だろう)。カノジョと一緒に写った写真。その他様々な小物。それらが皆兄とカノジョの恋愛の証であったが、最も眼を引いた物は、数冊の使い古されたノートである。

 ノートをパラパラと捲ってみると、それは高校生に成ってからの兄の日記だった。

 兄がそのような物を書いていたとは我ら家族は露とも知らず、悪いと思いながらも日記のページを捲った。

 日記の中には私達が知っていて、知らなかった兄の姿が在った。

 兄の周りで起きた事。兄が感じた事。兄から見た私達家族。兄の悩み、苦しみ、悲しみ、怒り、喜び、楽しさ、嬉しさ。

 兄が私達家族を愛してくれた証であった。日記を読んでいくうちに、私を除く家族は涙を流し、ぽたぽたと水滴がノートへと落ちていた。

 だが、何よりもその日記に書かれていたのは、カノジョの事だった。

 高校生に成って兄がカノジョに出会ってから、兄が死んでしまう日の前日まで、兄とカノジョの周りに何があったのか、兄が何故カノジョのためにそのような事をしたのか、カノジョと恋人に成れて兄がどれほど嬉しかったのか、カノジョと共に居た兄がどれだけ幸せだったのか、その全てが書いてあった。

 カノジョへの愛がそこには溢れていた。

 話し合った結果、私達家族はこの日記をカノジョに渡す事にした。

 兄がこの日記を読む事を許す人間はカノジョだけだと思ったからだ。

 そして、カノジョへこの日記を届ける役目を私が受け持つ事と成ったのである。父と母にはまだ家に居てもらう事にして、中学二年のつぐみにこの役目を任せるなど論外である。

 わざわざ学校帰りに行く事も無いと思ったのだが、望月家の希望の日がその日であったのだからしょうがない。

 年賀状から調べた住所を片手に駅から望月家を目指して十五分、私は望月家に着いた。

 閑静な住宅街にある一般的な二階建ての一軒家である。

 インターホンを鳴らし、電子音が混ざった返事が来る。

『はい。今開けます』

 時間を数える間も無く、望月家の玄関が開けられ、そこには悠太郎さんと玲子さんが居た。

 彼らの頬は心なしこけていて、目元にははっきりと隈がある。

 憔悴し切っていた


 私はリビングへと連れられ、テーブルを挟み、彼らと向かい合って座った。

 玲子さんが入れてくれたお茶を一口飲み、私は学生鞄から数冊に渡る兄の日記を出した。

『これが電話でもお伝えした。私の兄の日記です』

『これを風香に……』

 悠太郎さんと玲子さんはまじまじとそのノート達を見ていたが、私には気になる事があった。

 カノジョの姿が見えないのだ。

 まあ、カノジョも一応一介の大学生であるので土曜日に授業があっても可笑しくは無さそうであるが、葬式でのカノジョの様子が気に成った私は悠太郎さんに問い掛けた。

『はい。……ところで、風香さんは大学でしょうか?』

 私の言葉に彼らは顔を強張らせる。嫌な予感がその存在を主張し始め、私の中で加速度的に大きく成っていった。

 悠太郎さんが言い難そうに口を開いた。

『風香は今休学しています』

『……なら、風香さんは今何処に?』

 彼らは天井を――おそらく正確には二階にあるのであろうカノジョの部屋を――見つめた。

 どうやらカノジョは自室に居るようである。

 しかも、望月家父母の様子を見るに、中々にカノジョは酷い状況の様だ。

『風香さんに会っても良いでしょうか? 出来れば彼女の様子を知っておきたいのですが』

 玲子さんは曖昧に首を振ったが、悠太郎さんは数秒眼を閉じた後、頷いた。

『はい。会ってもらえれば分かると思います』

 そのまま私は悠太郎さん達に連れられて、日記を持った私は二階にある望月風香の部屋の前に立った。

『風香? 少し良いかい? 翼君が来てくれたよ』

 悠太郎さんが数度ノックをしたが、カノジョの部屋からは何の返事も無かった。

 こちらを振り向いた悠太郎さんは私に笑み混じりの苦しげな表情を一瞬見せた後、『開けるよ』と言ってドアを押し開けた。

 初めて眼にするカノジョの部屋は全体的に緑色で整頓されていて、ベットの中央に置かれた――抱き枕ほどのサイズの――熊のヌイグルミがアクセントと成っていたが、そんな物には眼もくれず私は顔を強張らせた。

 ベットの中央、今言った熊のヌイグルミの隣にカノジョは座っていた。手には何も持たず、音楽を聴いている訳でもなく、瞳も閉じず、ただ虚ろに虚空を見つめていた。

『風香。翼君よ』

 傍らまでカノジョの母親が語りかけていると言うのにカノジョは何の反応も見せなかった。

 まるで人形の様である。人形と区別される箇所は、かすかに上下する胸と体温くらいの物だろう。

 少しの間、私の体は硬直したが、残っていた理性が両足を動かした。

 私はカノジョの正面までゆっくりと歩き、カノジョの視線が私を映す様に膝を折った。

 努めて私は穏やかな口調で語りかけた。

『久しぶりです』

 思うのならここが、立花翼としての選択肢を間違えた瞬間であったのだ。

 冷静に理性的に将来を見つめるなら、私は何としてもここでカノジョに会うべきではなかったのだ。

 だが、私は間違えてしまった。

 正直な所、私の言葉にカノジョの反応など期待していなかった。実の父母の言葉にすら反応しなかったと言うのに今は亡き恋人の弟如き存在をカノジョが認知するはずが無いと思っていたからだ。

 しかし、この家に居た誰もの予想を裏切り、虚空を見つめていたカノジョの視線がスーッと私の顔へと動いた。

『風香っ』

 悠太郎さんと玲子さんの眼が輝いた。彼らの話から、久しぶりにカノジョが誰かに反応した事が分かった。

 けれど、彼らの反応とは真逆に私は冷や汗を流した。

 カノジョの視線は私を捉えて放さない。虚ろであった眼に光が戻っていく。

 とても暖かな穏やかな眼だった。

 そして、

『…………飛鳥?』

 と、今度ははっきりと聞き間違いが出来ないほどに澄み切った声で言った。


 ここで余談だが、私の容姿について語ろう。

 私の見た目を簡単に説明するのであれば、兄から眼鏡を外した感じである。

 もちろん私と兄は一卵性双生児でもまさかのクローンでも何でも無く、単なる兄弟であったので、見た目の全てが全て同じな訳では無い。

 しかし、私と兄は服を入れ替えて、少し話し方を変えれば、周りが騙される程度には似ていたのだ。

 実際に前回の葬式でも参列した十数名が私を兄と間違えたし、この一月何度か家族が私と兄を見間違えていた。


 悠太郎さんと玲子さんはその場から動けなかった。娘の異常行動に理解が追いついていなかったのだ。

『風香? 何を言っているの? 飛鳥君じゃないわ。翼君よ?』

『飛鳥、コンタクトにしたの? あんなに眼に硝子を入れるのが恐いと言っていたのに。大学デビューでもする気なのかしら?』

 玲子さんの言葉など届いていないかの様に――実際に届いていないのだろうが――カノジョは微笑んだ。

 私はゾッとし、同時に理解した。

 望月風香は壊れてしまったのだ。

 どうしようも無いほどにカノジョは兄が、立花飛鳥が居なければ駄目に成っていたのだ。

『……しかも何? 高校の制服なんて着て? 私達は春から大学生に成るのよ? 確かにまだ書籍上は高校生だけれど、もうコスプレに成ってしまうわ』

『風香。止めなさい』

 鋭く言う悠太郎さんの言葉もカノジョには意味を成さない。

 カノジョは微笑んでいた。

 それは在りし日の、私が図書館で見た物と同一である。

 だからこそ狂気であった。

 だが、美しい。

 それは廃墟が持つ不思議な魅力と似ている。壊れそうな、壊れてしまった物が見せる美しさだ。

『……さっきから何で黙っているの? 別にコンタクトがあなたに似合っていないと言った訳では無いのよ。ただずっと掛けていた眼鏡が無くなったのが少し寂しかっただけで。気に障ったのなら謝るわ。ごめんなさい』

 返事をしなかった私に何を思ったのか、俄かにカノジョが騒がしくなった。

 カノジョは怯えている。立花飛鳥には何としても嫌われたくないのだろう。

 私は瞬間考えた。

 立花翼は今どう言う言葉を返すべきなのか。

『飛鳥? 怒ってしまったの? ごめんなさい。何度でも謝るから。許して』

 カノジョは頭を下げた。

 数瞬だけ悩んだが、私は胸中でため息を吐きながら決断する。

 一度眼を閉じて私は兄の事を思い出した。

 兄は一体どういう口調だっただろうか?

『いや、ごめん。怒っているわけじゃないよ。少しだけ風香をからかっただけ。ちょっと考え事もしていてね』

 悠太郎さん達が眼を見開いてこちらを見たが、私はそれを無視した。

 転がり始めた石が砕けるまで加速し続ける様に、選択肢を間違えた私は更に間違え続けることにした。

『……本当?』

 おずおずとカノジョが顔を上げた。

『うん。本当だよ。俺が風香の事を嫌いに成るはずが無いじゃないか。ごめんね。不安にさせちゃって。後、眼鏡は昨日壊しちゃって修理中なだけ。風香が好きな眼鏡の飛鳥君は近日中に帰って来るよ』

『……なら良いわ。反応してくれないと不安に成るじゃない。私が寂しがり屋だと知っているでしょう?』

『寂しがり屋って言うより甘えん坊だね』

『……もう』

 カノジョは可愛らしくむくれ、それに私はアハハと笑った。

 そうだ。確か兄はこの飄々とした感じでカノジョと話していたはずだ。記憶を掘り起こして、ずっと私が見てきたあの図書館の日々を私は真似をした。

『ふわぁ』

 と、カノジョが大きく欠伸をした。

『眠いの?』

『ええ。何でかしら? とても眠いわ』

 カノジョは眠そうに眼を擦っている。

『また来るからさ。今は寝ちゃいなよ』

『うーん。分かったわ。必ずまた来てね』

 少しだけカノジョは残念そうにしたが頷き、ベットへと転がり、布団を被った。

 そして、ものの十秒で寝息を立て始める。

 まるで糸が切れた人形の様だ。

 いや、やっと糸に結ばれた人形と言った方が正解だろうか。

『……出ましょう』

 カノジョが完全に眠りに落ちたのを確認し、私は短く言って、悠太郎さんと玲子さんを連れてカノジョの部屋から出た。

 日記は私が持ったままである。


 リビングに戻ってすぐ、私は悠太郎さんと玲子さんに顔を向けた。その眼は困惑に満ちている。

 その口が何か言いあぐねている様に開閉していたので、彼らが言葉を生む前に私はお暇する事にした。

『すいませんが、今日はこれで帰る事にします』

 彼らの返事を待たずに私は学生鞄を持って玄関へと足を運びローファーを履いたが、悠太郎さんが慌ててこちらへと近寄ってくる。

『翼君! 君は――』

 私は彼の言葉を遮った。彼が何を言おうとしているのかは大体見当が付いていたが、それに相対する丁度良い言葉を私は持ち合わせては居なかったからだ。

『また来ます』

 速やかに玄関のドアを開けて私は望月家を後にした。

 時刻は午後三時を越えていて、暖かな外気と陽光が私の体を包んだ。

『……はぁ。やっちまったなぁ』

 私は額に手を当てた。

 彼らの感情は最もである。

 私は自分が正しくない選択肢を選んだ自覚があったし、アレが誰かの理解も得られない事も分かっていた。

 立花翼としての幸せを考えるのなら、間違い無くあの選択は不正解である。

 私がした事は立花飛鳥の尊厳を汚し、立花翼の未来を潰し、立花家の笑顔を奪う行為に他ならない。

 利益を横から掠め取るような卑怯極まりない行いだ。

 吐き気がする。

 ……だが、私はもう決めたのだ。

「……はぁ。何て言おう?」

 きっと、今日私は家族と大喧嘩する事だろう。

 その未来を想像して私はやれやれと息を吐いた。


 この後、一週間に渡る家族全員を巻き込んだ大喧嘩が繰り広げられるのだが、この場では割愛しよう。話したとしても特に意味の無い事だし、結論さえ分かっていれば問題がない。

 結果として、私はカノジョの前では立花飛鳥として生きる事にしたのだ。

 母は泣いて、父は激怒したが、私は自分の我儘を曲げなかった。

 立花家の幸せを考えるのなら、私はカノジョを見捨てるべきである。所詮他人であるし、家族より愛しているかと問われたら迷う相手だ。父と母とつぐみも同じ気持ちであろう。

 けれども、どうしても私を飛鳥と呼んだ時のカノジョの安らかな顔が忘れられなかったのだ。隈が貼り付いた顔、光を吸い込む様な真っ黒な瞳、触れれば壊れてしまいそうな体、壊れてしまった心、その全てを私は見捨てる事が出来なかった。

 望月風香は壊れていた。何時の間にか、カノジョは立花飛鳥が居なければ生きていけない様に成っていたのだ。

 我が兄ながら何という事をしてしまったのか。文句を言いたくなるが、死人に耳なし。今更何を言っても意味が無い。

 カノジョが私を立花飛鳥と認識したのは、一種の防衛反応だろう。立花飛鳥と似た顔を持ち、似た雰囲気を持つ私を心の平穏を保つための人形としたのだ。

 様は体良く立花翼と言う人間を利用したのだ。

 立花飛鳥の死から逃避したのだ。

 自らを守る為に、現実から眼を背けたのだ。


 だが、それの何が悪いのか?


 壊れてしまった心が現実から逃げた事を誰が責められよう?

 残酷な現実に留まり、擦り切れて死ぬのを待てとでも言う気なのだろうか?

 カノジョの心は壊れているが、まだ死んでいないと言うのに、カノジョの心に死ねと言う気なのだろうか?

 もちろんだが、私におぞましい下心が無かったかと言われれば嘘となる。カノジョは私の初恋の相手であったし、私はまだ若い男であったから、兄を失ったカノジョに付け入ろうと言う気持ちを嘘には出来ない。

 私は聖人君子ではなかったし、欲情を持て余す男子高校生であった。

 けれど、私の下劣な感情は置いておくとして、何よりカノジョの心に死んで欲しく無かった事は本当である。

 何時の日か、また、あの図書館での笑顔を私は見たかったのだ。私はあれほどまでに美しい顔を見た事が無かったから。

 最終的に夜を徹して行われた私の土下座と第八回立花家家族会議に父と母は折れ、カノジョの前限定で望月風香の彼氏と成る事を許してくれた。

 彼らにはもう頭が上がらない。

 また、ここでつぐみと一つ約束をさせられた。

 期限は私に任せ、その期限までは私の自由にして良いが、期限を超えたらカノジョに全てを話す事。つぐみは私が見た事も無い真剣な顔で家族の前で私にそう誓わせた。

 妹の意図はこうだ。

 時間をやるからそれまでにカノジョのを何とかしろ。

 彼女はしっかりと私の逃げ道を塞いだのである。


 後日、兄の眼鏡を掛けて望月家を訪れた私を見た悠太郎さんと玲子さんは苦々しく顔を歪めた。

 私はできる限り明快に快活に私が立花飛鳥として生きる事を説明した。

 彼らは共に険しい顔で私を見て、その場で深く頭を下げた。私にそんな選択をさせてしまった謝罪と、カノジョを助けてくれる感謝であったらしい。

 何度も何度も謝る彼らを宥めて、私は彼らに協力を要請した。いくら私が立花飛鳥を演じていても彼らが真相を話しては意味が無い。

 悠太郎さんと玲子さんは私の要請を受諾し、晴れて私と彼らは協力関係を築く事になり、私は早速カノジョの部屋へと向かった。

〝また来る〟とカノジョには約束していたので、それを守る事としたのである。

 望月家の階段を昇りながら、私は責められるべき自分の選択が招くであろう未来に気持ちが沈んだ。

 まあ、決めてしまったのだから、どんなに大変でも頑張るしかない。

 未だ、何時までカノジョの彼氏をやるかは決まっていない。

 それは追々考える事にした。とりあえず、目先に迫ったカノジョとの会話を切り抜ける事が大事である。

 そんな私を出迎えたのは

『久しぶり。待っていたわよ。飛鳥』

 と微笑むカノジョの姿であった。

 それは何とも美しかった。


 カノジョの前で立花飛鳥と生きる事にした私だが、問題は山済みだった。

とりあえず、兄の遺品である眼鏡を譲り受けた。事故によって多少の傷は付いたが掛ける分には問題が無い。

 兄と違って私は眼が良かったので、眼鏡のレンズを度無しの硝子に変えた。

 兄は私と違って左利きだったので、その日から私は左手で文字を書く練習を始めた。ミミズの様な線は三ヶ月もするとまともな字に成った。

 更に成績である。兄は学年一位であったので、兄と同じY大に行かなければ成らない私もまたそれを目指す事にした。勉強量は数倍に成り、ノートは瞬く間に積み上がって行った。

 兄と同じ順位に成ったのは一年後の学年末テストである。

 私はほぼ毎日カノジョに会いに行き、毎日のように立花飛鳥を演じた。兄は日記を残してくれたので、カノジョと思い出話をする事は出来たし、危ない場面はあったがカノジョも怪訝な顔をする事は無かった。

 この様な立花翼と立花飛鳥の二重生活を送っている内に、気付いたら私は視界の端に移る眼鏡の縁に慣れていた。カノジョの前で違和感無く立花飛鳥を演じられる様に成っていた。

 慣れという物は恐ろしい。

 何度も自分が誰なのか忘れそうになり、その度に体が震えたが、私は意地で自分が立花翼だと言い聞かせ続けた。

 幸いにして、カノジョの私に対する認識は中々に都合良く出来ていた。

 立花飛鳥の死に関わる全ての情報はカノジョの中で都合良く改竄されていた。たとえば、私――つまり、カノジョの中での立花飛鳥――とカノジョ自身が何時まで経っても大学に行かない事を疑問としなかった事などが挙げられる。

 そのくせ、四季の移りなどは正確に読み取っていたのだから、卑怯なほど都合が良い認識である。

 カノジョの中では望月風香の春休みと私がY大に受かるまでの二年間が矛盾無く存在していたのだ。

 おそらくだがカノジョの歪んだ認識もまた防衛反応の一つだったのだ。定期的にカノジョと行った慶人会病院のカウンセリングでそう聞かされた。

 カノジョは何処かで兄の死を認めていたが、それから眼を背けるために認識を歪めたのだと、カウンセリングの医師は言っていた。

 まあ、その歪んだ認識のおかげで私は同級生としてカノジョと共にY大に行く事が出来たのだから良いとしよう。

 しかし、ここでまた更なる問題が発生した。

 カノジョと兄はY大に受かったら同棲する予定だったのだ。

 その話をカノジョから聞いた私は頬を引き攣らせた。全く兄は何と面倒な約束をしてくれたのだろう。

 私は再び両親に頼み込み、三日ほど続いた第九回立花家家族会議によって、私は何とかカノジョとの同棲の許可を貰い、晴れて私とカノジョは二人暮らしをする事と成ったのだ。その代わりに私が二十歳と成った年度の一月十一日、つまり生きていれば立花飛鳥の二十二歳の誕生日の日までにカノジョに全てを明かす事を約束した。

 それからの二年間、私がカノジョと関る時間はより濃密になった。四六時中私と カノジョは一緒に居て、二十四時間私は立花飛鳥であった。

 何度発狂しそうだったかは分からない。

 鏡を見てもそこに映る男が誰だか、私は確信を持て無くなった。

 私は本当に立花翼なのだろうか?

 立花飛鳥なのではないだろうか?

 私は誰だ?

 アイデンティティが崩壊しかけた。

 苦しかった。カノジョと共に居る毎日は真綿でジワジワと首を締め上げていくようで、私から息をする事を奪っていった。

 だが、それと同時に私は幸せでもあったのだ。

 カノジョとの日々は幸せと愛に満ちていて、仮初とは言えそれを享受する事は甘美だったのだ。


 カノジョの愛は欠片さえ立花翼に向いていなかった。

 だから私は苦しくて、

 それでも私は幸せだったのだ。



 と、まあ、これが私のカノジョへの秘密である。その秘密を明かすのは五日後の立花飛鳥の誕生日の予定であったのだが、私は最後の最後に気を抜いてしまった。

 出来得る限り接触を避けていた高校生時代のクラスメイト、千原と松野に会ってしまい、彼らの口から「A組の同窓会」というフレーズを出してしまったのである。

 千原達と立花翼同じA組の同窓生だが、立花飛鳥と望月風香は私達の二つ上の代のA組である。

 カノジョにとって立花飛鳥が彼の弟の同級生である千原から同窓会に誘われるのはおかしいのだ。

 当然、カノジョは疑問を解消しようと彼らに質問し、彼らははっきりと答えた。

「あの、間違っていたら本当に申し訳ないのですが、彼は立花翼だったはずです」

 カノジョは間抜けに声を出した。

「…………………………………………え?」

 私は大きく息を吐いて新宿駅の雑踏を一瞥した。彼らは無言でロボットの様に各々の目的地を目指している。

 カノジョが眼を震わせながら私へと顔を向け、私達の視線が合う。

「…………飛鳥、彼らが何か勘違いをしている様なのだけれど?」

 私はチャンスだと思った。

 今のカノジョの顔には動揺が広がっている。

 動揺しているという事は私が立花飛鳥であると言う事に一辺の疑いがあると言える。

 昔より随分と回復した。昔のカノジョなら何を言われても私が立花飛鳥である事に疑念を抱かなかった。

 今がチャンスなのかもしれない。私はそう思った。

 私は生唾を飲み込んで、右手で眼鏡を外し、そのまま手櫛で髪をぼさぼさに乱した。

 私は昔こういう髪型だったのだ。

「……飛鳥?」

 カノジョの瞳が疑念に揺れる。

 最大級のアラートがカノジョの中で鳴っている筈だ。

 大丈夫だろうか?

 また壊れてしまわないだろうか?

 心は死んでしまわないだろうか?

 カノジョは耐え切れるだろうか?

 耐え切れるだけ回復しただろうか?

 心配したら切りが無かった。

 千原と松野が戸惑いながら私とカノジョを見ている。

 彼らには悪い事をした。この様な修羅場に巻き込まれ、運が悪かったと思ってもらうしか無い。今度ジュースでも奢る事にしよう。

 私は一度眼を瞑って大きく息を吸った。

 大丈夫かどうかは不明である。

「…………あす、か?」

 カノジョの体が震える。トレンチコートの裾が細かに振動する。

 さあ、言ってしまう事にしよう。

 存外に呆気無く、言葉を出せた。

「お久しぶりです。望月さん。俺の事を覚えていますか?」

 私は笑えているろうか?

 また、カノジョは笑ってくれるだろうか?

 カノジョの呼吸が止まった。

 眼は見開かれ、体が強張った。

 そして、小さく言葉が紡がれていく。

「……………………や。い、や。嫌よ。嫌……嫌嫌……嫌嫌、嫌よ。嫌よ。そんな、嫌……」

 声は徐々に大きくなっていって、

 弾けた。

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

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