第7話 私とわたしと兄とあなた

 結局カノジョからの音沙汰も無く、一月十一日日曜日に成った。

 朝日の眩しさで眼が醒めて、数日振りに昼前に眼が覚めた私はまずため息を吐いた。カノジョは来ないのだろうか? 私が待てるのは今日までである。

 眼鏡の縁が消えた視界にやっと慣れてきた。元々眼は悪い方ではなかったから眼鏡が無い方が楽であるのだが、四年間も視界の端にチラチラと存在していた景色が無くなるのは違和感を覚える。

 一階に下りてみると、家族の誰もまだ居ず、どうやらまだ全員寝ているようである。久しぶりに早起きをした。

 私は冷蔵庫のフルーツジュースをコップに注ぎ一息に飲み干した。甘さを持った酸味が口内に広がり、喉を通った後、ただ苦味だけが残った。

 と、私は左手でコップを持っていた事実に気付き苦笑した。

 カノジョの前で意識して左手を使い続け四年間、今では無意識にこちらの手を良く使ってしまう。

 コップを流しに置いて、私は左のペンダコを擦った。もう、右手で字を書いて良いのだから、この四年もかけて作ったペンダコも一月ほどで無くなってしまうだろう。

「割とあっさりだな」

 誰も見ていないので独り言を呟いた。

 この四年間胃が捩じれる様な毎日だったが、その証はすぐに消失するだろう。

 中々に気分が悪い。

「……はぁ」

 私は息を吐いて、リビングにある兄の仏壇の前に座った。

 写真の中の兄が私を見ているように感じたが、それは思い込みだろう。今日と言う日も相まって多少感傷的に成っているようだ。

 慣れた手つきで私は線香を立て、〝チーン〟と鈴を鳴らした。

「……誕生日おめでとう」

 遺影の前に置かれた眼鏡を撫でて、私はまた長く息を吐いた。

 今すぐカノジョの家に行きたかった。


 休みでなければ通勤電車に乗っている頃に成ると、家族全員が眼を覚まし、朝食と成った。

 ご飯に味噌汁に鮭とこれぞ日本の朝食と言ったラインナップを食していると、珍しく父から話しかけてきた。

「今日まで家に居るのか?」

「うん。明日早めに家を出て戻る。勉強道具は全部あっちにあるし」

 少し塩辛い味噌汁を啜りながら答えると、父は神妙な顔をして言葉を続けた。

「翼。もう風香さんと二人暮らしはしなくて良いのだろう?」

 事実である。私が立花飛鳥ではないとばれた今、私がカノジョと同棲する理由は無い。

「……そうだね」

「なら、二人が暮らしていた部屋は解約するか? この家からでも大学は通えるだろう? もしも一人暮らしが良いのなら、他の部屋を改めて借りれば良い」

 父の言い分は最もである。もう共に暮らさないであろう部屋を何時までも借りているのは金の無駄だ。

 私はここで頷くべきである。〝そうだね。じゃあ、解約してもらっても良いかな?〟と言うべきだ。

 なのに、口は開かなかった。

「……まあ、少なくとも来月一杯まで契約は続くから考えておきなさい」

 閉口する私に父はこう言葉を残した。

 未練でもあるのだろうか? カノジョと過ごしたあの部屋に。

 ……あるのだろう。あの部屋で過ごした二年間はあまりに重すぎた。

「……」

 私は再び味噌汁を啜った。

 今度は味が分からなかった。


 だらだらと午前を潰し、そのまま昼食を食べ終えた頃、沢口からメールが来た。立花家に兄の線香を上げに来たい様だ。

 特に断る理由も無かったので私は〝了解〟と短くメールを送り、彼の訪れを待つ事とした。

 沢口家から立花家まで自転車で十五分、すぐに来るだろう。

 沢口にはカノジョにばれた経緯をメールでだが話していたので、突然、我が家に来たいと言ったのは彼なりの気遣いに違いない。

 親友の思いやりに感謝しつつ、私はお茶請けの品が無いものか、冷蔵庫を漁った。


 程無くして沢口が立花家を訪れた。

「お邪魔します」

 彼は私達全員に頭を下げた後、兄の仏壇へと線香を備え、鈴を鳴らし、短く手を合わせた。

 私とつぐみも彼に続き、手を合わせて眼を瞑る。

「……良し」

 黙祷を終え、沢口は私を見た。その眼は先日会った時と変わらず、今にも何して遊ぶか問い掛けて来そうである。

「……ありがとうな」

「ん。気にするな」

 私に礼を言われ、恥かしくなったのか、沢口はつぐみへと眼を逸らした。

「つぐみちゃん。久しぶり。大きくなったねぇ。今年から受験生になるんだっけ?」

 つぐみはアハハと笑い、ポニーテールが揺れた。

「その事を思い出させないでくださいよー。現実逃避してたのにー」

「大丈夫だって。きっと受かれるさ。何処が志望校かは知らないけど」

「そうですか? まあ沢口君がそう言うなら、あたし頑張りますけど」

 私と沢口は十年以上の付き合いであり、当然、つぐみも彼とは十年を超える付き合いである。そのため、沢口はつぐみが家族以外の人に素を見せる数少ない人物でもあった。

 沢口が立花家に訪れた時、兄も含めた四人で良くパーティーゲームをし、大いに盛り上がった思い出がある。

 過去へと少々物思いにふけっていると、親友と妹は勝手にお喋りを始めていた。私を抜きに盛り上がるとは寂しいではないか。

「おいおい。俺を無視して楽しく喋るんじゃない。寂しさで震えるだろう。もっと兄と親友を大切にし給え」

 大仰に言ってみると、彼らは揃ってジトッと私を見て、

「めんどくさい。後、立花を大切に扱うのは親友として耐えられない」

「妹は兄を雑に扱う。それがあたしのアイデンティティ」

 そんな事をのたまった。

 少々傷ついた私はジュゲムに癒されようとしたが、我が家の猫はつぐみの側を離れず、そっぽを向かれた。

「俺の立場どんだけ低いんだよ」

 私は苦笑し、胸中で感謝した。

 彼らがどれほど私を気遣い、この様な三文芝居の如き日常を演じてくれているか。考えるだけで、言葉が出なくなる。

 親友と妹が頑張ってくれるのだ。私も彼らの提案に乗る事としよう。

「ああ、じゃあ、久しぶりに三人でゲームするか? 確か桃鉄あったし」

 予想通り、沢口とつぐみは頷いた。

「良いな。やろう」

「あたしソフトとか取ってくるよ」

 パタパタとスリッパを鳴らして、つぐみが二階へと上り、リビングには私と沢口のみと成った。

 父と母は両方とも日課の散歩に出かけている。帰るのは四時頃だろう。

「沢口」

「ん?」

「ありがとう」

「ああ、どういたしまして」

 照れ臭いが私は彼に礼を言った。


 テレビゲームが一段落した頃、父と母が散歩から帰って来た。

 そして、冷蔵庫に向かい、中を見た母が「あっ」っと間抜けな声を出し、こんな事を言ってきた。

「翼、飛鳥に供えるプリンを買ってきてくれない? お母さん達買い忘れちゃったみたい。ほら、駅前のケーキ屋さんのやつ」

 兄の好物は確かにプリンであり、特に駅前のキャロットハウスというお菓子屋のプリンを絶賛していた。

 毎年、兄の誕生日にはこの店のプリンを供えるのが習慣と成っているのだが、どうやら両親は散歩に夢中で買い忘れていた様だ。

 両親にしては珍しい事である。

 私はチラッと壁に掛けられた時計を見た。時刻はオヤツの時間を越えた頃で、カノジョが来る気配は未だ無かった。

 このまま今日一杯カノジョの事を待とうと思っていたので、少しばかり私は悩んだが、母のお願いを聞く事にした。

 プリンを買いに行く時間ぐらい家を空けてもカノジョは来ないだろうし、数日振りに外の空気を吸いたかったからだ。

「分かった。んじゃ、買ってくるわ」

 ソファから立ち上がる私に沢口も続いた。

「ああ、じゃあ、俺もこれでお暇するよ。時間的にも丁度良いし。一緒に買いに行こうぜ」

 話し相手とすれば申し分ない。私は頷いて、財布とスマートフォンを持った。

「兄ちゃん、いってらっしゃい。沢口君はまたねー」

 つぐみに見送られ、私と沢口は立花家を後にした。


 百時間強振りに感じる外の空気は中々に気持ちが良い。

「それじゃあ、行くか」

「おう」

 自転車を引く沢口をお供に、我々はいざキャロットハウスへと足を進めた。

 我が家からキャロットハウスまで徒歩二十分。のんびりと行く事としよう。


 キャロットハウスを目指し、テクテクと歩く。当然、終始無言と言うわけでは無いので、私と沢口はだらだらと喋りながら沈黙を潰していた。

 会話という物は互いの共通認識を確認し合うのが主であり、議題として最近起こった出来事が選ばれ易い。

 そのため、我々は自然と件のカノジョの話をする事に成った。

「望月さんから連絡とかは無いんだよな?」

「ああ、全く無い。悠太郎さんからは一日一回は連絡来るけど。何か家から出られないらしいよ」

「まあ、望月さんから見れば、自分の恋人の弟を恋人と思い込んで四年間過ごしてたわけだからな。居た堪れないのはしょうがいなか」

「当事者の俺が言うのもなんだけど、同感」

 沢口の言葉に私は頷き、赤くなってきた西日へと視線を傾けた。

「立花は良く頑張ったよ。お前が頑固なのは知ってたけど、まさか四年間演じ切るとは思わなかった」

「流石だろう?」

「流石過ぎて笑えねえよ」

 私達は眼を合わせて笑い合った。

 やはり、沢口と居るのは心地が良い。特に取り繕う必要も無く、素の自分で話すことが出来る。

 この四年間、つぐみや沢口が居なければ、私は潰れていた。

 立花飛鳥を演じられなくなるか、演技が演技でなくなるか、どちらかが起きていたに違いない。

 彼らの前では、私は立花翼に戻る事ができて、自分が立花飛鳥では無いと確認する事が出来た。

 この四年間、私の馬鹿な選択を見守ってくれた全員には言葉に出来ないほど感謝している。

 顔を照らす西日に眼を細めていると、沢口が声のトーンを変えて、聞いてきた。

「ところでさ、立花。質問なんだけど良いか?」

「……何だ?」

 自転車を押すのを止めて、彼は立ち止まる。

 先日の再現の様だ。

 数拍の間を持って、沢口は口を開いた。


「なあ、立花。お前は望月さんが好きか?」


 なるほど、その質問か。

 何時か誰かが聞いてくると思っていた。

 つぐみが聞いてくると思っていたが、沢口がこの言葉を口にするとは予想外だった。

「……今までの四年間の俺を見てれば分かると思うけど」

「はぐらかすな。ただ、答えてくれるだけで良い。お前が望月風香を好きかどうか、それを答えるだけで良い」

 別にこの質問に答えなくても、私と沢口の関係は崩れる事は無いし、彼は私の意思を尊重してくれるだろう。

 質問の意図までは分からないが、彼はそういう男だ。

 だが、ここで逃げるのは真摯ではない。

 言葉から顔を背けて、何が親友か。

 私は西日へと顔を向け、その眩しさに眼を細めた。太陽は四年前から変わらずに東から上り西に沈んでいる。あの光への感情が昔と今で違うのは、変わったのが私だからだろう。

 嫌な顔一つせず待つ沢口へ、私は正面から向かい合った。

 そして、時間にして十秒、言葉を整えて、この四年間誰にも言わなかった言葉を私は口にした。

「……俺は、風香さんの事が好きじゃない」

 きっと、望月風香の事を憎んでさえ居るだろう。

 確かに初めはカノジョの事が好きだった。あの恋の感覚は今でも覚えている。

 だが、この四年間、私がカノジョに向ける感情は変わり、元はあったはずの好意は見る影も無く捻じれ歪んでしまった。

 だから、カノジョの事が好きかと言うに問いに、私は決して肯定する事が出来ない。

 私の言葉を聞いた沢口は一度頷いて、「そうか」と短く呟いた。

「んじゃ、さっさとプリン買いに行くか。つぐみちゃん達が家で待っているんだろ?」

「ああ、そうだな」

 再び私達は歩を進め、いざキャロットハウスを目指した。

 後十分もすれば着くはずである。


 特に問題も無く目的のケーキ屋と私達は到着し、プリンを家族全員分購入した。後はこの菓子を持って帰宅するだけである。

 キャロットハウスを後にし、立花家と沢口家の分かれ道まで、雑談混じりに歩いていると脈絡も無く私のスマートフォンが震えた。

 振動の理由は着信であり、その送り主はつぐみであった。

「……電話か?」

「ああ」

 唐突に嫌な予感が私の全身を駆け巡り、脳裏に四年前の三月十四日の事が過ぎった。

 そう、あの時も突然鳴り響いた電話が私達家族へと不幸を報せたのだ。

 理由は分からないが、あの日と同じ背筋が割れるような気持ち悪い感覚が私の全身を包み始めた。

「……立花、出ないのか?」

「いや、出るよ」

 右手で通話ボタンを押し、左手でスマートフォンを耳に当てた瞬間、

「兄ちゃん! 風香さんが車に轢かれた!」

 つぐみの叫び声が鼓膜を震わせた。



「……ハッ……ハッ!」

 私は全力で自転車を立ち漕ぎし、慶人会病院を目指していた。この病院は私達が暮らす街の中で最も大きい大病院である。

 先の電話で、つぐみを問い詰めると、つぐみはカノジョがこの病院に搬送されたと言ったのだ。

 動揺した私が震え声で沢口にこれを話すと、彼は

『早く行ってこい!』

 と、私からプリンを受け取り、自転車を貸してくれ、私はすぐさま彼の愛車に跨り、その場から慶人会病院へと走り出した。

 今の私の頭の中にはカノジョの事しかない。

 ペダルを回す太腿が悲鳴を上げているが、そんな事はどうでも良い。

 頭の中で描く病院への最短ルートをなぞりながら進むが、途中何度も赤信号に捕まる。

「くそっ!」

 思わず悪態を付いた。赤が青に変わる一分ばかりの時間が煩わしい。

 信号が青に変わった瞬間、私は再びペダルへと力を込めてその場から加速する。

 ただ、自分に、急げ、早くしろと命じていた。

 何故?

 何故、カノジョが轢かれた?

 無事なのか?

 生きているのか?

 死なずに済むのか?

 グルグルと疑問が際限なく浮かび、全てが焦燥を募らせる。

 間違い無く人生で一番急いでいるのにも関わらず、眼に映る景色が全てスローモーションに見えた。

「恨むぞ、神様!」

 四年前の兄と同じ様にカノジョを連れて行くつもりなら、私は神と呼ばれる物を許さない。

 顔を歪めてペダルを回す私を通行人の人々が指差しているが邪魔である。

 その暇があるのならそこからどけ。


 心臓の苦しさが気に成らなくなった頃、目当ての病院に着き、私は駐輪場と思われる場所に自転車を乗り捨てて、慶人会病院の一階エントランスへと駆け込んだ。

 そこには父の車で先に来ると行っていたつぐみが居た。

 私を待っていたのだろう。

 脚の勢いを止めず、私はつぐみへと駆け寄り、その肩を掴んですぐさま聞いた。

「風香は何処だっ?」

「……兄ちゃん」

 つぐみは眼を逸らし、それに私は恐怖した。

「早く言え。何処に居る?」

 答えを渋るつぐみに私の焦燥は最高となった。

 まさか、最悪の結果になってしまったのか?

 また、私の大事な人が居なくなってしまうのか?

 恐怖は瞬間的に爆発し、私は息が止まった。

 と、唐突につぐみの表情が変わった。


 私の背後へと視線を向けた後、愛おしい妹はにんまりと笑ったのだ。

「……ごめんね、翼兄ちゃん」

「……は?」

 私は何故今つぐみに謝られたのか分からなかった。

 未だ心臓は早鐘を打ち、脳は茹っていた。

 上手く思考が働かず、一体妹が何を考えているのか分からなかったのだ。

 しかし、何故笑ったのかを問い掛ける前に、その答えが私の背後より襲って来た。

 ドンッ、と唐突に私は背後より衝撃を受けた。

 どうやら体当たりを受けた様だ。

 私は体当たりをして来た誰かと共に揉みくちゃに成りながら、病院の床を転がり、視界が二転三転した。

「……何だ?」

 背中に痛みを覚えながら、上半身を起こした私は絶句した。

 私の眼と鼻の先に、カノジョが、望月風香が居たからだ。


○立花翼→望月風香


 一月十一日。飛鳥の誕生日。今日も玄関の前で立ち尽くしていた。たった一メートル程足を踏み出せば良いのに、まるで見えない壁があるみたいに最後の一歩が生まれなかった。

 一昨日つぐみちゃんが来た。彼女のトレードマークであるポニーテールを揺らし、私に立花家へ来るように言い付けた。

 わたしはただ謝るばかりで、まともな返事をする事が出来なかった。

 加害者であるわたしが被害者である彼女らに我儘を言う権利は無いのにも関わらず、傲慢にもわたしは加害者の責任を果たそうとしていない。

 こんなわたしを見たら、飛鳥は何と言うのだろう。想像が付かなかった。いや、 正確に言うと、想像が出来ないでいた。

 飛鳥の事をわたしは考えられないでいた。

 彼を頭に思い浮かべるたびに、もう一人、翼君が飛鳥の姿に被る。

 飛鳥を想う時、わたしの心は彼一人で満たされていたのに、今そこには彼以外の誰かが居座っている。

 今までのわたしにとってそれは異物で、嫌悪の対象だった。

 そう、〝今までのわたしにとって〟だ。

 飛鳥を想う時、翼君の姿も同時浮かぶ事に今のわたしは嫌悪の念を覚えていない。

 わたしは自分の気持ちを否定したかった。

 これではまるで飛鳥以外の人を愛している様では無いか。

 そんな事は許されない。

 わたしが愛しているのはただ一人飛鳥だけだ。

 何よりわたしが愛を持って良いはずが無い。

「……はぁ」

 わたしは息を吐いた。

 否定すればするほど真実味が帯びて来る。

 自分が何を考え、誰を想っているのか分からなかった。

 ただ一つはっきりと分かっている事は、この家から出れば全てが終わり、自分の心が分かるであろう事だ。

 分かってしまうのが、知ってしまうのが、認めてしまうのが嫌だった。

 一度認識した想いは決して嘘には成らない。答え合わせがただただ恐ろしい。

「……そんなこと言ってはいけないのだけれどね」

 周り全ての不幸を糧に幸福を貪ってきたわたしがこれ以上我儘を言ってはならない。皆がわたしの幕引きを待っているのだ。

 わたし以外の全員がそれぞれ身を、心を削って尽してくれたのに、わたしが無理やり尽させたのに、それに答えないなど卑怯で卑劣だ。

 一歩前に進んでドアノブに手をかけた。

 今度こそこの扉を開けよう。

 そう思った瞬間だった。望月家の家電話がけたたましい音をたてて着信を告げた。


 リビングに居たお父さんとお母さんがその電話を取って少し、ドタドタと音を立てながら彼らは玄関に居たわたしの元へ走ってきた。

 両親の顔は切迫していて、お父さんが彼らしく無い口調でわたしにこの言葉を告げた。

「翼君が轢かれたっ」

………………………………………

…………………………………

……………………………

………………………

…………………は?

 翼君が轢かれた?

 何に?

 車に?

 飛鳥みたいに?

 何で?

「……どういう、こと?」

 脳裏に飛鳥がわたしを突き飛ばしたあの時の場面が過ぎる。

 わたしは震えながら、お父さんの突き出したコードレス電話を受け取り、耳に当てた。

『風香さんっ! 兄ちゃんが、兄ちゃんが轢かれた! 病院から連絡があったの! あたし達は今から車飛ばして行くから、風香さんも来て! 場所は慶人会病院! じゃっ!』

「待って」

『時間無いから無理!』

 それだけ言ってつぐみちゃんからの電話は切れ、ツー、ツー、ツー、というコール音だけが残った。

 呆然とわたしは通話口を眺め、一拍の間の後、

 望月家から飛び出した。

 無理やりスニーカーへ足を突っ込んで。

 体当たりする様にドアを開けて。

「……風香!」

 後ろからお母さんの声が聞こえた。

 それは何の意味も持たず、わたしは走り去った。


 慶人会病院はこの四年間何度かお世話に成っている。あの時は分からなかったけれど、壊れていたわたしがカウンセリングを受けていた病院だ。

 数日振り動かした体が悲鳴を上げていた。脇腹が痛み、足も上がらない。息は乱れ、手の動きも無茶苦茶だった。

 それでも、足は止まらなかった。

 何も考えられなかった。

 翼君が轢かれたとはどういう事だ?

 無事なのか?

 生きているのか?

 生きられるのか?

「……はっ。……はっ!」

 心が不安で押し潰される。

 わたしはまだ何も返していない。

 太陽の様に心を溶かしてくれた人は、恩を返す前に死んでしまった。

 月の様に寄り添ってくれた人にもわたしは何も返せないのか。

「……はっ。……はぁッ!」

 違う。わたしが悪いのだ。何時までも殻に閉じ篭り、ただ弱いままであったわたしが。

 いつでも家から出られたはずだ。

「……はっ」

 いつでも会えたはずだ。

「……はっ」

 いつでも謝れたはずだ。

「……はぁっ!」

 いつでも彼に恩を返せたはずだ!

 ああ、何でわたしはこんなにも愚かなのだろう。

 何でいつも一番大事な物を見失う?

「あっ」

 七つ目か八つ目の信号を渡り、交差点を曲がって、病院の姿が見えた。

 瞬間、わたしは足を縺れさせ、派手に転倒した。

「ッ!」

 ガリッ!

 アスファルトが手の肉を削り、ジーンズ越しに膝が擦り剥けたのが分かった。

 痛みよりも熱さが襲って来る。

 かなり酷くやってしまったようだ。

 後で痛みが襲ってくるだろう。

 それが何だというのが。

 わたしはこんなものよりも遥かに酷くきつい痛みを彼に背負わせ続けていたではないか! 

「ああ!」

 叫び声を挙げながら体を起こし、わたしはもう一度走り始めた。

 頭の中には翼君の事しかなかった。


 病院の坂を駆け上がり、すぐに慶人会病院の入り口が見えた。ガラス張りのドアで、わたしは更に足へと勢いを付ける。

 どんどん、病院の姿が大きくなって行く。

 心が爆発しそうだった。

 エントランスはもう十メートルに満たない距離に近付いていて、そこに居る人物達の姿をはっきりと見えるように成った。

「――」

 わたしは眼を見開いた。

 息を呑んだ。

 思考が停止した。

 そこには何度も何度も見た、翼君の背中があったからだ。

 もう何も考えずにわたしは直進し、エントランスのドアを勢い良く押し開けた。


○望月風香→立花翼


 ……何故カノジョがここに居る?

 ……轢かれたのではないのか?

 カノジョの体はボロボロで、至る所に擦り傷の後があった。右手は真っ赤に擦り剥けて、上着は肘の所が破けている。

「翼君ッ」

 カノジョの瞳はわなわなと揺れていて、その体は激しく震えていた。

 体中で恐怖を表し、ただ私だけを見ていた。

 カノジョはペタペタと両手で何かを確認するように私の頬を触る。

 そして、一通り私の全身に触れた後、カノジョは小さく呟いた。

「生きているわねっ? 生きているのよねっ?」

「あ、はい」

 私はもう何が何だか付いていけず、間抜けな返事をするしかなかった。

 一体何が起きたのだ?

 気の抜けた私の返事を聞いて、カノジョは私の頬へと当てていた両手を離し、飛びつくように私を抱き締めた。

 私はジェットコースターの様に変化する状況と突然自分を包む柔らかな暖かい感触に戸惑い、何か言葉を言おうとしたが、それは叶わなかった。

 その前にカノジョが泣き出したからだ。

「……あ、あああ、ああ……ああああああああああああああああああああああああああ!」

 泣き声は徐々に大きくなって行き、慟哭とでも言えるほどの大きさにまで成った。

 連動するようにカノジョが私を抱く力は強くなる。

 服越しでも互いの心臓の音が分かるほど私とカノジョは密着した。

 私は左手で体を支え、右手で半ば無意識に子供をあやす様にカノジョの背中を撫でた。

 未だ私は状況を飲み込めず、周りを見ると、猫のような笑顔を浮べたつぐみに、 私とカノジョの両親、それに手で謝りながらこちらへと歩いてくる沢口が居た。

「……なるほど」

 彼らを見て、私は悟った。

 私とカノジョは嵌められたのだ。

 つぐみが全員を巻き込んで一芝居打ったのだろう。

 まさかつぐみに騙されるとは。やってくれる。

 大方、私とカノジョ両方に、互いが事故に遭ったとでも連絡したのだ。

 私達はまんまと妹の思惑通り、ここに引き会わされたに違いない。

 まさか、この様な性質の悪い嘘を妹が使ってくるとは思いもしなかった。

 私は一度顔をしかめたが、すぐにそれを止めた。

 心臓に詰った石が取れた様だった。

 ずっとカノジョに会いたかった。

 しかし、私から会いに行っては成らないと思っていた。

 まるで息継ぎ無しで潜水している様でただ苦しかった。

 ダムの決壊の様なカノジョの涙はまだ続いている。

 私は一度息を深く吸って、それをゆっくりと吐き出し、

「……風香さん」

 ただ一言カノジョの名前を呼んで、右手でカノジョ、風香さんを抱き返した。

 今は立花翼として、望月風香に触れても構わないはずだ。

 初めて風香さんが私を見てくれたのだから。

 風香さんは温かく、折れてしまいそうなほど弱く、気付いたら溶けて居そうなほど儚い。


 ああ、私はこの人を愛しているのだ。


 すると、何故か途端に私の視界が濁った。

 一呼吸入れて自分が泣いているのだと理解した。

「……ハハ」

 何だ、私は泣けるじゃないか。とっくに涙腺が固まっていたと思っていたのに。

 愛しい人を抱く力を増やし、その肩を濡らした。


 あれから七分ほどの時間が経ち、私達の涙がやっと止まった。私とカノジョは未だ地べたに座り込んで抱き合ったままであり、そんな我々へつぐみが近付いてきた。

「いやあ、二人ともごめんね~」

 妹はニカッと笑っており、それに私はわざとらしくため息を付いた。

「……やってくれたな」

「流石でしょ?」

「ああ、完全に騙された。何時の間に準備していたんだよ?」

「一昨日、風香さんの家から帰った後から。ここに居るみんなにあれこれ付けて連絡して協力してもらったの」

 散歩に行くと言って帰りが遅かったあの日、こいつはカノジョの家に行っていたのか。

「良くそんな短時間でこんな大それた事出来たな? 病院からも許可貰ってるんだろう?」

「うん。ほら、ここって風香さんのカウンセリングしている病院でもあるじゃん? 割と簡単に許可は降りたよ」

 それは嘘だろう。確かにこの病院でカノジョは何度かカウンセリングを受けているが、病院がそうそう簡単にこの様な迷惑行為の許可を出すはずが無い。

 きっと、つぐみ並びに立花家と望月家の両親が病院に頼み込んだのだ。もしかしたら沢口もその場に居たかもしれない。

「……まったく、大した妹だよ。お前は」

 やれやれ、と私は首を振った。

「でしょ?」

 ドヤ顔である。

 と、ここでずっと私の胸に顔を押し付けていたカノジョが身動ぎをして顔を上げた。

「……やられたわ」

 憑き物が落ちた様な呆けた表情をして、風香さんは眼を瞑った。

 私はそれに苦笑し、同意した。

「確かに、やられました」

 風香さんは私へと顔を向け、眼を細める。

 寂しげであり切なげであったが、苦しそうではなかった。

「……んじゃ、とりあえず立ちましょう。ギャラリーも増えてきました。ずっと座っていたら病院に迷惑です」

「そうね」

 私達はその場から立ち上がり、罠に嵌めた全員を見た。

 父、母、つぐみ、沢口、悠太郎さん、玲子さん、良くも騙してくれた。

「「……ありがとうございます」」

 声が重なり、私達は揃って一度頭を下げた。

 こちらを見つめる十二の瞳は穏やかで苦笑しているようで微笑んでいるようでもあった。

 悠太郎さんがこちらへと近付いてくる。

「僕達大人はここで病院の方々に礼を言ってくるから、翼君と風香は先に帰っていなさい」

 彼の言葉に私と風香さんは頷いて、ギャラリーの注目を集めながら慶人会病院の自動ドアを潜った。後ろからはつぐみと沢口も付いて来ている。


 適当に乗り捨ててしまった沢口の自転車を回収するまで私達四人に会話は無かった。

 気まずいが心地良い沈黙が我々を包み、私は左側に立つ風香さんに意識を向けずには居られなかった。

「……自転車ありがとうな」

「おう」

 自転車を返すと、沢口はすぐさまこの愛車へと跨り、つぐみへと声をかけた。

「つぐみちゃん。ちょっと二人乗りしない?」

「良いですね。久しぶりに」

 つぐみはトンと自転車の荷台へと腰かけ、彼らはヒラヒラと私達に手を振った。

「それじゃあ、立花。俺とつぐみちゃんはちょっとぶらりしてくるから、お前らは先に帰ってろよ。それと、これさっき買ったプリン。二人で食べろ」

 先ほどキャロットハウスにて購入したプリンを私へと押し付け、返事も聞かず、沢口はペダルを漕ぎ出した。

「あ、おい」

「それじゃあ、翼兄ちゃん、風香さん、立花家で会いましょう」

「またなー」

 聞く耳など持つ気は無い様で、彼らはこの場から去ってしまった。

 残されたのは私と風香さんだけである。

「……どうしましょうか?」

 聞いてみると、風香さんはしばらく黙った後、意外とあっさりとその言葉を口にした。

「…………線香を上げに行かせて貰えないかしら?」

「……それは是非」

 断るはずも無い。


 慶人会病院から我が家まで歩きだと一時間ほど掛かる。普通なら電車やバスを利用するが、私と風香さんどちらもその言葉を口にせず、ただ、粛々と歩いていた。

 道中何か特別な会話は無かった。簡単な当たり障りの無い会話だけで終れるとは思わなかったからだ。

 家に着く前での一時間、私達は触れ合うほど近くに居て、決して重なる事は無く、互いの事を意識したまま無言であった。


「お邪魔します」

 ジュゲムに迎えられながら、私達は玄関を潜った。

 立花家が近付くにつれ、風香さんの顔は強張り、歩調もぎこちなく成っていく。

 その度に我々は立ち止まり、しばらく経ってからまた歩き出す。

 玄関を潜ったというのに私はまだ不安なままだった。

 風香さんは認めるだろうか?

 立花飛鳥の死を認めてくれるだろうか?

 大丈夫だろうと思っていても、大丈夫だと信じる事は出来なかったのだ。

「こっちです」

「分かったわ」

 一歩一歩、死刑台へと運ぶ様に風香さんを連れてリビングへ、立花飛鳥の仏壇が置かれた場所へと足を進めた。

 リビングまでのたった七歩ほどの距離があまりに長い。

 だが、ここまで家族が、妹が、親友がやってくれたのだ。

 今日この日私は全てを終わらせなければ成らない。

 ゆっくりと息を吐きながら私はリビングのドアを開け、カノジョを通した。

「――」

 風香さんが息を吸う音がした。

 その視線はこの部屋の一角に置かれた黒の仏壇に固定され、体は強張り、足が止まった。

「……」

 私は何も言わなかった。

 今の風香さんには何もしてはならない。風香さんだけで受け入れなければ成らない事なのだ。

 一度、強く眼を閉じて、風香さんは小さな歩幅で兄の遺骨が置かれた仏壇へと近付いていき、九歩目にしてやっとカノジョは兄の前に辿り着いた。

「……飛鳥。久しぶりね」

 風香さんの少し後ろで、風香さんと同じ様に正座をし、その背を見つめた。


○立花翼→望月風香


 目の前に額縁に入れられた飛鳥の写真があった。彼らしい理知的で優しげな笑顔。

 すぐ後ろには翼君が座っている。

 確かに写真を見てみると飛鳥と翼はまったくの別人で、どれほどわたしが認識を歪めてきたのか突きつけられた。

 わたしは遺影の前に置かれた飛鳥の――この四年間翼君がずっと掛けていた――眼鏡を撫でた。ステンレスの冷たく細い感触が人差し指に伝わる。

「……あなたは死んだのね」

 やっとわたしは認めた。

 そうだ。飛鳥はもう居ない。わたしの心を溶かしてくれた陽光の如き彼はもう居ないのだ。

 どれだけ、望もうとも彼はもう私に笑いかけてくれない。

 彼はもう私を包んではくれないのだ。

 笑顔を浮べる額縁の彼を見ていたら、言葉が溢れた。

「飛鳥。どうして死んでしまったの? 隣に居てくれると言ったじゃない」

 自分勝手な言葉なのは理解していた。

 でも、言葉が止まらなかった。

「何でわたしだけを助けたの? 一緒に助かろうとしてくれなかったの? どうして、わたしを独りにしたの?」

「……」

 後ろで翼君がこの言葉を聞いているのにわたしの喉は震え、言葉を作る。

「……飛鳥は知っていたでしょう? わたしはあなたに依存していたと。あなたがいなければわたしは壊れてしまうと」

 あの時のわたしは嬉しかった。飛鳥がわたしを受け入れてくれると言ってくれて、やっと自分の居場所が見つかったと思い、歯止めが利かなくなった。

「……あなたが居なくなって、わたしは最低な行為をしてしまったわ。わたしは翼君をあなたの代わりにしてしまったの」

 何て愚かな事をしてしまったのだろうか。翼君を飛鳥と思い込んで、翼君に飛鳥を演じさせて、心の平穏を保っていた。

 わたしは後ろに据わる翼君へと体を向けた。

「……」

 彼は真っ直ぐにわたしを見て、ただ言葉を待っている。

 一度わたしは眼を閉じて、この四年間を思い出した。

 本当に幸せだった。

 彼の不幸を礎にしたあまりに甘美で幸福な世界だった。

 それにわたしは幕を下さなければ成らない。

 カーテンコールの準備はとうの昔に出来ている。

 瞳を開けた。

 翼君は穏やかに笑って、眼を細める。

「ごめんなさい。あなたを不幸にしてしまった。ありがとう。わたしはとても幸せだったわ」

 しばらくの間があった。

「……なら、良かった。本当に良かった」

 頭を下げたわたしには翼君がどんな表情をしているか分からない。

 きっと見てはいけない。

 もし、今の翼君の顔を見て良い人が居るとするなら、それは飛鳥だけだ。


○望月風香→立花翼


 あれから、つぐみと父と母が帰って来てしばらくの時間が経ち、時刻は午後八時を回っていた。

 風香さんは時間的にそろそろ帰らなければならなくなり、私達は月に照らされながら夜道を歩いていた。

 風香さんを望月家まで送り届けているのである。

 黒と白のトレンチコートの裾が揺れる。

 そろそろ上弦を迎えようかと言う月は緩慢に動きながら私達に付いて来た。

「明日から大学ですね。風香さん」

「そうね。そろそろ学年末試験だわ。勉強は大丈夫なの?」

「知っての通りしっかりと勉強していますから大丈夫だと思いますよ。風香さんは?」

「翼君も知っている様に、わたしも対策しているわ」

 私達はこの二年間大体ずっと一緒に勉学に励んでいたのだ。互いの理解度は良く分かっている。

 余程の事がなければ試験は大丈夫だろう。

 柔い月明かりが雪の様に落ちてきて、私は眼を細める。

「プリン美味しかったですね」

「そうね。飛鳥が好きだったプリンだもの」

「確かに。兄の舌は確かでした」

「ええ。何度も美味しい物を教えてくれたわ」

 知っている。兄の日記で読んでいた。

 今、その日記は紙袋に入れられて風香さんに抱えられている。


 ああ、やっと渡す事が出来た。

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