白線は手をつないで跳び越えるもの


 ざわめく教室から視線を逸らした先に見えたのは、遠く澄んだ空に向かって枝を伸ばす桜の木だった。まだ固く結んだ蕾が幾つも枝先に宿っている。あと半月ほどすれば、きっと少しずつ綻び始めるだろう。


 ふと気付くと、さっきまでアルバムに寄せ書きをしたり、ふざけて制服のボタンを渡しあったり、これでもかと写真を撮りまくったりしていた同級生たちは、潮が引くようにいなくなっていた。

 誰もいなくなってしまうまで、教室に–––というか、篠宮先生のいるこの学校に–––残っていたかった。だって、わたしが生徒として先生に会えるのは今日が最後だから。今までは、早く生徒じゃなくなって会いたいと思っていたのに。自分でも不可思議な心境だ。


 ぽん、と音を立てて蓋を外し、筒から卒業証書を取り出してみた。端正な楷書で書かれた『佐倉澪』、それから『本校所定の課程を修了したことを証する』の文字。

 入学した頃は、何もかもが嫌で家も学校も居心地が悪くて、自分でもどうしたらいいのか分からない焦燥にかられながら、何処でもいいから逃避してしまいたいと思っていた。

 ……だけど、そんな時わたしは聴いてしまった。風に舞い散る桜の花びらの中で、物憂げに、哀しげに響くピアノの旋律を。


 わたしはゆっくりとまばたきした。息を深く吸い、吐く。そして、椅子を鳴らして立ち上がると、卒業証書の筒を手に教室を後にした。

 渡り廊下を渡り、普段からひと気のまばらな、音楽室や美術室、化学室などの集まる特別教室棟へと向かう。コンクリート造りの非常階段を一段一段登るたびに、わたしの思ったとおり、かすかにピアノの音が聴こえてきた。


 卒業式という晴れの日には似つかわしくない、ミステリアスで不穏な旋律。でも、そのピアノを奏でているのは音楽教師ではない。白衣をまとった、化学教師の篠宮先生だ。


「先生」


 扉を開け、届くか届かないかの小声で呼びかけると、ピアノはふつりと歌うのをやめた。先生は座ったまま柔らかに笑う。


「おや、佐倉くん。まだ学校に残っていたんですか。卒業生たちはこぞって打ち上げに出掛けていったようですけど」

「……もっと他に言う事ありません?」


 思わず脱力してため息を吐きながら、わたしはピアノのそばまで歩いていった。ゆらりと先生が立ち上がる。伸びすぎた前髪の奥の瞳が、いつものようにわたしの心を一瞬で捕まえた。


「そうですね。佐倉くん、卒業おめでとう」

「はい。おかげさまで、どうにか卒業できました」


 ぺこりとお辞儀したわたしに、先生は意地悪そうな笑みを向けた。


「2年3年に進級してからはともかく、1年の時の君は最悪の生徒でしたからね。君を卒業させるのに尽力した君のクラス担任には、僕からもお礼を言いたいくらいです」


 すぐそういうこと言う、とわたしが拗ねてみせると、先生はふわりと腕を伸ばしてわたしの髪を掬った。


「髪、伸びましたね」


 言いながら、先生がわたしの髪に唇を寄せた。ぢりり、電流が走るみたいに体じゅうが震える。いつだってわたしは、先生に触れられるだけで–––指先がほんの僅か触れる瞬間ですら–––頭の芯が燃えるように熱くなってしまうのだ。


「このまま伸ばすんですか? それとも」

「先生は、長いのと短いの、どっちが似合うと思いますか」

「君ならどちらでも似合いますよ」

「嘘」

「なぜ嘘をつく必要が?」


 耳元でくすりと笑われて、わたしは思わず先生から後ずさってしまう。が、即座に腕を掴まれ、先生の元へと引き寄せられる。


「せ、んせ」

「僕が君の『先生』でいるのは今日が最後ですね」


 そうですね、と答えようとした瞬間、先生の額がこつんとわたしの肩に乗っかった。


「……った」


 先生の低く掠れた声はあまりに小さくて、わたしには語尾しか捕らえられなかった。


「先生、今、何て……?」

「長かった、と言ったんです」


 何が、と聞き返そうとした時には、すでにわたしの唇は先生によって塞がれていた。–––ほとんど暴力的と言ってもいいくらいの激しさで。

 ほんの一瞬だけ離れた唇は、またすぐに覆い被さってくる。真近で交わす息が熱い。咄嗟に閉じた瞼の奥がチカチカと瞬いて、わたしは、角度を変えて幾度も重ねられる先生の唇や舌に合わせて呼吸をするのが精一杯だった。

 ああ、どうしよう。頭の中も胸の奥も、指先も爪先も、睫毛も髪のひとすじさえも、今のわたしは、身体の隅々まで先生を好きな気持ちで満たされすぎて決壊してしまいそうだ。先生が好き、と、叫びだしたくてどうしようもない。だけどそれこそどうしようもないので、代わりにぎゅっと先生の白衣を握りしめる(卒業式の日くらい脱いでてもいいのに、とぼんやり思いながら)。

 わたしなんて、このまま先生に壊されてしまえばいいのに。先生になら、わたしというわたしを全て壊されたってちっとも構わないのに。


「–––澪」

「は、はい……」


 やがてゆっくりと身体を離されて、わたしはそっと息を整えながら先生を見上げた。先生は、眼鏡のブリッジをすっと指で押さえると、さっきまでのキスなんて何でもなかったかのように微笑んでみせた。


「さて、そろそろ職員室へ戻らなければ」

「え」


 反射的にわたしがそう答えると、先生はわたしの頬を親指と人差し指でくいっと摘んだ。


「君はそうやってすぐ物欲しそうな顔をする。まだダメですよ、佐倉くん。……今夜は家族でお祝いするでしょうから、その代わり、明日の夜はきっちり空けておいてくださいね」


 わたしに断れるはずのない約束を勝手に結び付けると、先生はそっとピアノの蓋を閉じた。あ、と小さく声を零して、わたしは先生の腕を掴む。


「待って先生。……お願い、最後に一度だけ」


 唐突なわたしの言葉に瞠目する先生を、わたしは必死な想いで見つめた。


「お願い。先生がピアノが聴きたい。今、此処で、……桜の季節が来てしまう前に」


 –––どうして桜の時期にしか弾かないと決めたのか、それならどうして今日、弾いていたのか。そして一体、誰を想って弾いていたのか……そんなのわたしには関係ないし知りたくもない。

 ただわたしは、先生がそこを跳び越してきてくれるのをずっと待っていた。いつか先生が、先生を鎖みたいに過去に繋ぎ止めている何かからほどかれて、わたしの方だけを向いてくれるようにと、ずっとずっと願ってきたのだ。


「しぶといですね、君は」

「先生の事だけは誰にも譲れません」

「……ありがとう」


 そう言うと、先生はわたしの頬を両手で挟み込んだ。まるで世界を慈しむ神様みたいな優しい笑みを浮かべて。額と額がぶつかる。そして、唇が舞い降りる。さっきとは全然違う、穏やかで甘いキスだった。


「あの日、過去に縋るのはもうお終いにしようと思ってピアノを弾いていたんです。まさかそれを君に聴かれていたとは、学校なんかで弾いた僕が迂闊でした。–––でも、聴いていたのが君で良かった。これからは、君に聴かせる為だけに弾くと誓います」


 カタンと椅子を引いて腰を下ろすと、先生はピアノの蓋をゆっくりと持ち上げた。先生の細い指が鍵盤に触れる。奏でられるのは軽やかで柔らかな旋律。さっき先生が弾いていた『グノシエンヌ』とは別の曲だ。なんだか、スカートの裾を翻してくるくると回りだしたくなるように楽しげな、それでいて時々淋しさが顔を覗かせるような、そんな曲。


「……『ジュ・トゥ・ヴ』だ」


 やっと記憶から喚び起こした曲名を呟くと、先生は視線だけわたしに寄越して頷いた。と同時に、明るい旋律とは裏腹に情熱的な邦題を思い出して、思わず顔が赤くなる。そんなわたしの気持ちを見透かすように、先生はピアノを奏で続けた。


「佐倉くん、明日の夜までの我慢ですね。この数年の忍耐を思えば、24時間なんて須臾しゅゆか刹那のようなものです」

「知りませんよ、そんなの!」


 わたしは耳まで紅潮させたまま音楽室の外を見やった。まだ咲いていないはずの桜の花びらが、ひらり、螺旋を描いて舞い落ちる幻影が見えたような気がした。


 –––まるで、桜の降りしきる中、先生を初めて見つめたあの日のように。




 -END-




▼title/星食

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