あとは春を待つだけ


 音も無く、春風に誘われるようにして桜の花びらが舞い落ちる。一枚、二枚、……数えるのに追いつかない速さで。薄紅色を水で溶かしてあわあわとぼかしたような色の桜の花びら。夕暮れがほのかに迫る闇に浮かぶ花びらたちは、喘ぐように明滅する光にも見える。



 –––春というのは、どうしてこんなに、人をふわふわとした夢心地に連れていってしまうのだろう。わたしはそんな事を考えながら、相変わらず雑然と物の散らかった化学準備室でぼんやりと窓の外を眺めていた。


「佐倉くん、手が止まってますよ」


 ボールペンでこつんと頭を小突かれて、わたしははっと現実に引き戻された。放課後の化学準備室、辺りには先生のいれた珈琲の薫りが漂っている。

 手元に視線を落とすと、先生から春休み中の課題として渡された化学の復習プリントが、ほぼ白紙の状態で机に広げられていた。……そうだ、わたし化学の補習を受けてたんだった。


「進級早々に補習を開講させるだなんて、困った生徒がいたものです。……今日はここまでにしておきましょう」

 

 わざと嫌味ったらしく言いながらも、先生は珈琲の入ったマグカップをこちらに差し出してくれた。昔から–––わたしと先生が初めて言葉を交わした2年前の春からずっと–––変わらず、先生はわたしがこの部屋にいる時は必ず2杯、珈琲をいれてくれる。


 マグカップを受け取る時にかすかに先生と指が触れた。たったそれだけ、たったそれだけの事なのに、わたしの心臓はガンガンと早鐘を鳴らし出す。わたしはそれを抑えるように、窓の向こうに視線を投げて言った。


「……先生。桜、綺麗ですね」

「ええ。桜が散ってしまえば、今年の春ももう終わりです」


 わたしの座る椅子の横に立って、珈琲を飲みながら先生が言う。

 –––低い声。その口調があまりに淡々としているせいで、初めの頃は機嫌が悪いのかそれともわたしとは話したくないのかといちいち疑っていた。でも、そうじゃない。今はちゃんと分かる。

 授業中、教科書に書かれた文章をただひたすら読み上げる声も、わたし以外の誰かを指名する声も、放課後こうして2人きりでいる時の微かな咳払いの声でさえも–––先生の声を聴いた瞬間、わたしの鼓膜はざわざわと震え、胸の奥底はぞわりと波立って落ち着かなくなる。

 そんなふうに、先生の姿を見るたび、声を聴くたび手が触れるたび、わたしは先生のすべてに焦がれてどうしようもないのだ、と、自覚させられてしまう。


「佐倉くん」


 ふと、先生がわたしを呼んだ。おずおずと顔を上げると、野放図に伸びた前髪の奥で静かに微笑む先生と目が合ってしまった。……こうなると、もう逸らせない。


「今日は君の誕生日でしたね」

「え? あ、そう、ですけど……わたし誕生日なんて先生に話した事あったっけ……?」


 話の流れが分からずに立ち尽くすわたしの左手を、白くて細長い先生の指がそっと掴んだ。わたしは身動きもできず、ただ先生の伏せた目を見つめて立ち尽くした。


「僕は、君の枷になるつもりは決してなかったんですが」


 言いながら、先生は反対の手で白衣のポケットから何かを取り出した。


「枷……ですか」

「ええ。でも、どうやら無理そうです」


 ひやりと冷たい感触がして見てみると、わたしの左手首には金色のブレスレットが巻かれていた。カットの違う華奢なチェーンが二連になったデザインで、驚くほどわたしの好みに嵌っている。


「佐倉くん。次の春まであと1年、ですね」


 先生はわたしの左手を持ち上げると、そのまま手首に唇を押し当てた。いつもは冷たい唇が、今日はなんだか、ひどく熱い。


「来年の今頃には、もう君は僕の生徒ではなくなっているんですね。もっとも君が留年しない限り、ですけど」

「……先生、狡い」

「何がです?」

「今の今まで誕生日の話なんてした事なかったのに」

「生徒の誕生日くらい、いつでも調べられますから」

「–––悪い教師」

「君に褒められると悪い気はしませんね」

「褒めてません!」

「嬉しい癖に」


 くすっと笑って、先生がわたしの顎を指で掬う。そして、いつもより優しい、あたたかなキスが降ってきた。唇が離れては近づき、また近づいては遠ざかる。散る桜が、ふわり、くるりと舞うように。

 幸せな瞬間の連続で、胸が詰まって呼吸を忘れそうになる。唇が離れた隙に息を整えたわたしの肩をふっと押しやり、先生は余裕綽々な表情でわたしの唇を指で拭った。


「さて、帰りますよ佐倉くん。川沿いの桜並木も今週いっぱいでしょうから、今日は其処を通って帰りましょう。車からの桜見物は少し風情に欠けますが」


 先生は帰り支度を促すようにわたしの腕を引いて立ち上がらせると、珈琲の残ったカップを流しに運び簡単に洗った。そして、一見すると強盗に荒らされたかのようにも見えるほど乱雑に物の置かれた机から、いくつか書類の束を引き出して鞄に収める。化学準備室の古ぼけた鍵と、それから車のキーを掴む。白衣を脱いでハンガーにかける。

 そんな流れるような先生の動きを眺めつつ、わたしはプリントや筆記用具をのろのろと自分の鞄にしまった。


 –––パチリ。スイッチが押されて準備室の電気が消える。消える寸前、その瞬間、わたしの左手首のブレスレットが、キラリ閃くように輝きを放った。



 -END-



 ▼title/夜途

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