ひとごろし

相良あざみ

ひとごろし

『私は、人を、殺しました』



 ――なんて月並みな言葉だろう。



 斜めに射し込む陽に赤く照らされた室内の真中まなか、じっと立ちすくむ。

 どのくらい経ったのか正確には分からないけれども恐らく少し前、私はこの何もない部屋の中で、人を殺した。

 それまで感じていた激情が嘘のように凪いで、静かな心持ちでもって私はここにいる。


 呆気ないものだった。実に、呆気なかった。


 建物の中を駆けずり回った所為で、気管がずたずたになっているんじゃないかと思った。

 足の筋肉は限界で部屋へ辿り着いた時にはもう一歩も動けないと思った。

 人を殺すのはこんなに苦しいものかと、そうも思った。


 ――思った。それだけで、決して止める理由には成りやしない。


 戦慄わななく唇から、整わない荒く生暖かい息が洩れる。

 瞬きもせず丸く開かれたのは、黒い眼。


 ――かすれたようなからすの声が、微かに聞こえる。


 冷や汗にじっとりと濡れる首筋へ、斜めに上げた手で順手に持ち直した分厚い刃の包丁を当てた。

 嗚呼、脈打つのは首筋か、てのひらか。


 強く、強く押し当てる。


 けれどもそれだけでは、食い込みはすれどして切れてはくれない。


 目蓋を下ろし、視界を閉ざす。



 斜陽が薄い肉の外から突き刺して、暗く閉ざされる筈だったぐるりとまわった目玉の前を赤く染めた。

 いや若しか、それは血潮かも知れない。

 黒い柄を持つ、白くなった右手の上に、左手を重ねる。

 冷たい。血が良く通っていないらしい。

 そんなどうでも良い事を考えながら、左手で押すようにして一気に首筋から喉までを切り裂いた。


「あ」


 洩れたのは、その音だけだった。


 包丁は、耳の下を通る頸動脈と、気管を中途半端に切り開いて止まる。

 鮮やかな赤が飛び散り、喉を詰まらせ呼吸と思考を阻害している。

 鼓動に合わせて強弱を付ける血潮が、身体が傾くにつれ崩れかけた壁に波形を作った。



 息が出来ない。


 目の前が暗くなる。


 寒い。



 ――やがて、寒い事すら解らなくなる。



 そして私は、死んだのだ。





 何の感慨もなく、汚れた床に倒れ伏す身体を見下ろす。

 振り上げた足は、それを蹴る事なく投げ出された。


 ――人は死んだらどうなるのだろう。嗚呼、人を殺してみたい。人に殺されてみたい。


 頭がおかしい事は、重々承知している。

 けれども狂っている訳じゃない。

 理性がきちんと働いているから、虫だって必要がなければ殺さない。

 人畜無害。いなくても困りはしないけれども、いるとたまには役に立つ事も……まぁ、なくはない。

 恐らくそれが、周囲の私への評価だ。


 何もこれは自虐ではない。

 女と言う生き物は、悪意で繋がる生き物だと私は思う。

 いや、勿論全員が全員そんな人間ではないとも思うけれども、否定は出来ない筈だ。

 私は、私が席を外した隙にそうやって醜く笑い合う同僚を見たのだ。

 彼女等は、そんな私がよもやこんな人間だったと考えてもみなかったろう。


 そも、死んだ後では知りようもない。


 私は、決してこの歪んだ考えを洩らした事はない。

 何かに書き記した事もない。

 ソーシャルネットワーキングサービスに類するものはやった事はあるけれども、落ち込んでいるだとかマイナスな事すら書かないように生きてきたのだ。

 一昨日には、クレジットの先払いで通販を頼んだ。

 先の用意をしていたのだから自殺である筈がないと言う、ドラマで良く見掛けるあの仕掛けを逆に使ったもの。

 それが現実、どこまで通用するかは判らないけれども、まぁ警察も多少は悩んでくれるだろう。



 人を殺す。


 人に殺される。



 一応、完璧ではないとは言え、それらは完遂した。

 人は死んだらどうなるのだろう。

 それに対する答えは、何と言うべきか。



 ――魂は存在しました?幽霊になりました?



 そんな俗っぽいオカルティズムを振りかざす事になるとは思わなかった。

 まぁ、生前の考え――人は脳からの電気信号で動く機械でしかないと言うものだ――がそのまま成されたならこうして思考する事は出来なかった訳だし、良かったと言えば良かったのだろうか。

 ただこの現象が、私だけに起きたのか、それとも地球上に存在する全ての生き物に当てまるかのは私だけでは判断し兼ねる事だけれども。




 さて、と、必要もなく口に出す。


 恐らく私だけに聞こえるだろうと思ったその声を、しかし、烏は感じ取ったのだろうか。

 ああ、と嘆きにも似た声で返事をした。

 人の手が入らない所為で割れたまま放置されている窓ガラスの向こう側、真っ黒い眼とち合う。

 私を、その黒は視認している。



 私は、ここに未だ、存在している。



 口角が歪に上がった。

 何も遺さなかった私だ。

 ここは、一筆したためてみようではないか。



 もう拡がらなくなった赤い水溜まりに、実体を持たない指を浸す。


 ――付かない。やはり無理か。


 そう嘆息たんそくした所で、私が問題もなく床の上にしゃがみ込んでいる事に気付く。

 しか私の常識が、床は抜けない物だと思い込んでいるから出来る事なのかも知らないけれども、これは良い事に気付いたと自画自賛した。

 自分自身に触れられずとも、物ならば、持てるのではないだろうか。



 果たして、数十分の後に私は、そこら辺に転がっていた木っ端を未だ乾いていなかった血溜まりに浸す事に成功した。

 仕組みは判らない。

 判らないけれども、とにもかくにも、出来たものは出来たのだ。

 妙な昂揚感から小さく笑い続ける私を、烏は相変わらず見詰めている。

 鈍い赤に染まる木っ端を持って、立ち上がる。

 振り返った位置、身体が倒れ伏すところと逆には黄ばんだ壁がある。

 幸いと言うべきか、落書き等はされていないから丁度良い。


 粘度を持った赤が私の身体をすり抜けて、床へ密に花弁を付けた向日葵のようなシルエットを描く。

 点々と足跡を残して、壁の前に立った。


 何と書くべきか。


 ――いや、そんな事を考える必要などない。


 これしかない。



『私は、人を、殺しました』



 ――なんて月並みな言葉だろう。



 そう呟いた私の亡骸を、烏がついばんだ。

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