補章

―― 十二月十五日 ――

 中浜と二人、無人潜航艇の置かれた場所に戻ると、霧の向こうから金属が地面をこする音がした。

 地面を見ると、あわただしくイカたちがはいずりまわっていた。

「メルヴィルはどこに行った?」

 たずねてみたがイカたちは反応しない。言葉が通じずとも音に反応くらいはすると思っていたが、イカたちは何かを探しているかのように動く範囲を広げるばかりで、俺は全く無視された。あるいは、そもそも聴覚が発達していないのか。

 遠くに行くはずはないのにと思っていると、一匹のイカが丘をのぼっていくのを見つけた。ここへ俺たちが来た道のりをさかのぼっている。その白い体が霧に溶けこむ前に、あわてて後を追いかけた。

 イカの速度は意外と速い。なめらかに体側たいそくの鰭を動かして、蛇が滑るように地面を移動する。地面に段差がない場所ならば、二足歩行よりも効率は良さそうだ。

 一言も発さず、意思を伝えようともしない。今のイカはただの動物の群れだ。本当に俺はこの頭足類と会話をかわせたのか。何か大きな錯覚をしていたのではないか。


 息をきらせながら丘の頂上につくと、霧の奥に石の列が見えた。ハウランド丸船員の墓標だ。イカの姿も人の姿も見えない。ただ無機質な六角柱がならんでいるだけ。

 ふりかえったが中浜の姿は見えない。さすがに丘を走ってのぼる体力はないのだろう。俺は中腰になって息を整えながら周囲を見わたした。生きた人間どころか、人の形をしたものが何一つ存在しない。動くものは追いかけていたイカ一匹だけ。そいつは一箇所でしばらく立ちどまったかと思うと、さらに南へ向かって移動しはじめた。

 霧の向こうに消えるイカを追いかけて、ふたたび俺は走りだした。足裏に感じる小石の痛み。肉体よりも精神の疲労が動きをにぶらせる。

 こんな時こそパワードウェーダーのアシストが欲しいのに……そう思った瞬間、ようやく気づいた。ハウランド丸の墓標に、人の形をしたものがなかった。つまり俺が脱ぎ捨てておいたワタツミズの外骨格がどこかに消えうせていたのだ。

「……メルヴィル!」

 歯をくいしばる。まったく形状が違うイカが着たということは考えにくい。きっとメルヴィルがワタツミズを使っているのだ。しかし何のために。俺が中浜と話している時をねらって、こっそりおこなわなければいけないことがあるのか。

 イカが進むにつれて霧が濃くなり、息苦しさをおぼえるようになった。気温が少しずつあがっている。

 俺は喉の渇きを感じて、腰に手をやった。さげておいた水筒を取ろうとして、容器を口まで運んだ時、間違いに気づいた。ずっしり重い鉛の容器。かたむけた穴から、細いプレートが顔をのぞかせた。反射的に抜きとる。

 手の中でクリーム色のプレートは紫色をへて橙色に変わり、やがて赤々とした真紅に染まった。

 俺は顔をあげた。もうもうと蒸気のわきあがる場所がある。その境界線に群青色の人影。

「メルヴィル!」

「……カナダさん」

 霧の向こうから、くぐもった声が返ってきた。ワタツミズを着たメルヴィルだ。

「それ以上、近づかないでください。生身では危険です」

「わかっている」

 俺は赤く染まったプレートを見せた。黒色ほど危険ではないし誤差もあるが、年間許容量を一時間で超えてしまう放射線量だ。

「パワードウェーダーの防御くらいでは大差ない。君もすぐに降りるんだ」

 そういいながらメルヴィルのいる場所へ近づく。その足元では断崖絶壁が口を開けていて、対面は霧に隠れていて見えない。

 しかし周囲も頭上も霧に覆われているのに、かなり明るい。陽光が散乱しているにしても不自然なほどの光量だ。断崖の底のあちこちで青白い光が膨張と収縮をくりかえしている。

「チェレンコフ光なのか。しかしこの規模で発生するとは……」

「間違いありません」

 放射線が水中をつきすすむことで生みだされる光。

 さすがに見つづける気は起きなくて、すぐに俺は後ずさった。

「降りよう」

 メルヴィルは断崖へと目を向けたまま身動きしない。

「メルヴィルが降りるまで、ここで待っている」

 そういうとメルヴィルは黙ってついてきた。ため息をついている。

「ため息をつきたいのは俺のほうだよ」

 小走りで斜面を降りながらふりかえる。バイザーを上げたメルヴィルの顔は青ざめているが、放射線による急性症状というわけではないようで、とりあえず一安心した。

「あれは原子炉か」

「ええ」

 ハウランド丸の墓標にもどり、外骨格を脱ぎ捨てたメルヴィルと会話をかわす。のぼってきていた中浜は地面に座りこみ、あえぐ呼吸を整えながら俺たちの会話に耳をかたむける。

「イカたちの文明には原子力が必要ということなのか」

「半分は正しく、半分は間違いです。あれは天然原子炉であって、イカの技術で作られたものではありません」

「天然原子炉……」

「核燃料となるウラン鉱脈が自然に臨界をむかえることを指します。核燃料は高い密度で集積するだけでも核反応を起こしますから。かつてカナダさんの国でも、手作業で臨界事故を起こしたことがありましたよね」

 俺が黙っていると、かわりに中浜が答えた。

「……ああ、学校で習った記憶がある。核燃料にするウラン溶液をバケツであつかって、死傷者まで出した」

 よくメルヴィルは知っていたなと思ったが、これもあらかじめ調べていたのだと気づく。こうなることも予想していたのだ。

「もちろん持続的な原子炉となるためには必要な条件がいくつもあります。地球全体でも形跡が数箇所だけ発見されているだけでしたが……」

 先をうながすように俺は問う。

「それが南極大陸にあったというのか」

「ええ、間近で発熱と放射線を測定してきました。危険ですからカナダさんには黙っていたのですが」

 そういってメルヴィルは顔をそむけた。本来ならワタツミズもメルヴィルが着こむ計画だったのだろう。大きすぎる体は外骨格に入らなくても、小さい体ならば関節を調節すれば対応できる。

 怒りは感じない。きっと俺のためを思って黙っていたというのもは嘘ではないのだろう。しかし秘密にされていた悲しさはあった。

「わかった……大量の放射線が放出されていたことを疑うつもりはない。しかし南極に核燃料の鉱脈があるなんて聞いたことがない」

「昔から南極には多くの地下資源が発見されています。石油や石炭、コバルトやマンガン、もちろんウランも。条約でどの国も領有権を主張できなくなったため、誰も採掘や利用がおこなえず、無視されてきたにすぎません」

「つまりエイハブが……その裏にいる連中が本当に求めていたのは……」

「ええ、南極大陸の核燃料です。オーストラリアは昔から南極の領有権を主張してきた国のひとつです」

「ならば……あの天然原子炉とやらを、危険な連中にわたすことは避けるべきだ」

「そうですね。あれは彼らが生きていくために必要なものです。人間が勝手に利用することは許されませんし、彼らも許さないでしょう」

 それきりメルヴィルは口をつぐむ。

「それでメルヴィルさん、先ほどいっていた半分は正しいというのはどういう意味かな」

 横から中浜が口をはさんできた。質問が理解できない俺のためか、説明を足す。

「イカの文明に原子力が必要だという話のことですよ」

「そのことですか……」

 メルヴィルが墓標に目をやった。石柱がならぶ端で、一体のイカがたたずんでいる。

「まず大氷嘯が起きたのは、天然原子炉の発する熱で氷床が底から溶かされたためでしょう……もともと要因の全てではなくとも、ひとつではあると予想されていました」

「それもふくめてイカの住める気候をつくりあげたのは天然原子炉だったというわけか」

 俺の問いにメルヴィルはうなずき、話をつづける。

「それだけではありません。いくら巨大な体になっても、頭足類が哺乳類のように体温をたもつことは難しい。クジラにせよイカにせよ、私たちと同じ神経組織をもつ生物が高い知能を持つためには、ある程度の熱量が必要と考えられていました。その熱を、どこからえるのか……」

「それが核物質の崩壊熱というわけか」

「ええ、核物質は原子炉のような急激な核反応を起こさずとも、一定の熱を発しつづけます。もちろん水中でも。核物質を体内にとりこむことで彼らは体温を保っているのでしょう。また、イカたちの急速な進化も放射線による突然変異が介在している可能性が高いと思われます」

「しかし、そんな遺伝子異常をひんぱんに起こして、癌になったりしないのか?」

「わかりません。癌化を防ぐ機能もまた、私たちの肉体より進化しているのかもしれません」

 わからないことだらけです、とメルヴィルはいって口を閉じた。

「……俺たちにとって毒になる物質をとりこむことで生きている動物か。そんなものと本当に共存できるのか」

「人間だって、毒をとりこんで生きているんだよ」

 ぽつりと中浜がつぶやいた。

「今、地球上にいる生物のほとんどは酸素を呼吸して生きている。でも、原始の生命にとって酸素は急激な酸化を起こして肉体を破壊する、危険な物質だった」

「ええ、現在でも酸素によって死ぬ菌類は多いですね。そういう菌類を私たちは酒や調味料を発酵させるため、太古から利用してきました」

「だからさ、そんなに難しく考えることはないんだよ。まったく異なる生物とだって共存できないってことはない。今回の相手は異質とはいえ知能を持った存在だ。何とかなるさ」

 そういって中浜が笑う。

 その顔を見て、俺は何もいえなくなる。

 中浜の表情が苦しげに見えたのは、自分で自分の言葉を信じていないためか。それとも中浜を見る俺自身の気持ちの投影だろうか。

 墓標のならぶ霧の向こうから、白鯨の鳴く声が聞こえた。

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青のラムシュプリンガ @Qtarou

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