終章
―― 十二月十五日 ――
見上げた空は青く、地平線からの陽光に照らされた霧が真白い。
白鯨が導いた入江で、メルヴィルは目の前に広がるなだらかな山を見あげた。
「この先です」
「ここが終着点ではないのか」
「いいえ、陸地を進むように指示するコードがとどきました。コードの発信源も同じ方向にあるようです」
携帯パソコンをのぞきこむと、モニターには理解しがたい数列の断片と、単語の欠片が並んでいた。
俺の顔を見て、メルヴィルがキーボードへ指を走らせた。
「機械的な意訳ですが……」
解読された文字列は、幼児が学ぶような単純な文法の英文で出力された。
「くじらが、きみたちをでむかえる。ついてきてほしい。いりえから、やまをひとつこえると、みずうみがある。そのみずうみで、まっている」
これまでと比べて、はるかに情報量が多い。
「距離が短くなったので、複雑な情報も伝えられるようになったのでしょう」
「しかし湖か……他の湾へ行くわけじゃないのか。そこに白鯨がいるのか?」
「大氷嘯の隆起で海が取り残された湖かもしれません」
地形を把握しているということは、白鯨には陸上を移動する能力があるということなのだろうか。クジラは陸上で生活していた種が水棲に戻った哺乳類なのだから、ふたたび地上で生活するようになっても、さほどおかしくはない。
「現状では何ともいえませんね。二人で議論するよりも、じかに目で確認することが早いと思います」
「そうだな」
俺は背中にメルヴィルを乗せ、その上から防寒用の布をマントのように羽織った。ワタツミズ後背のアームを開くと、ちょうどいい足場になる。
マントからメルヴィルが首だけ出した状態で、俺たちはタルシシュ半島の斜面をのぼった。
「暑いくらいですね」
溶岩が黒々とした岩石に固まった地面。そこかしこから今も湯気がたちのぼって視界をさえぎる。しかし山火事のような風景だが臭いはなく、湯気の成分はほとんどただの水らしい。
海岸の水も熱せられ、半島の周辺には流氷が存在していない。かわりに赤紫色や緑色をした半透明の海藻が、岩にはりつくようにして育っていた。
探査機は浅瀬に係留しておいた。バッテリーの残量は充分だったが、ワタツミズを充電できるほどではなかった。無人機の周囲には複数の小さな白鯨が横たわり、あたかも包囲しているようであり、あるいは流されることを防いでるようでもあった。
道は予想されていた地形よりもずっと平坦で、火山性の有毒ガスにも出会わずにすんだ。計測器具からいくつかプレートを引き出して変色をたしかめたところ、やや放射線量が多いくらいで、硫化水素や塩化化合物は検出されない。無数の工場が水没している旧先進国の海岸より安全なくらいだ。
霧に覆われながらも……いや、むしろ近くや遠くでたなびく蒸気が距離感を明確にさせて、風景の雄大さが際立って感じられる。人間の文明はもちろん、白鯨の群れとも比べものにならない、大地の重厚な存在感があった。
背後で周囲を見わたしながらメルヴィルがいった。
「ひとつ、懸念が解消されましたね。もしも白鯨の活動が大氷嘯を発生させたのならば、本当に知性体であっても、人類社会が受け入れることは困難だったでしょう」
珊瑚礁のように、動物の活動で地形が変わることは少なくない。人類文明の農耕や建設、様々な環境破壊もそのひとつだ。もし白鯨が大氷嘯のような気候変動を起こすような生物であれば、共存の道を選ぶことは難しい。現実的にも、心理的にも。
「この風景を見る限り、生物活動で氷床が裂けたというわけではなさそうです。もちろん、まだ推測にすぎませんけど」
「そうだな、むしろ地形が変化したために進化がうながされ、生態系が変化したという順序の方が納得できる」
徐々に斜面の勾配がきつくなってきた。しかし左右に移動しても崖が高くなるばかりで、どうやら正面を登るしかないようだ。
いったん俺はメルヴィルをおろした。外骨格も脱いで、機械の足首を補修する。気温が高いため潤滑液が凍ったりはしていないが、わずかにフレームがゆがんでいたり、足裏で地面をしっかりとらえるための金属爪が割れていたりした。
メルヴィルと協力して直せる限りは直し、ふたたび俺は外骨格を着込んで、メルヴィルを背負った。そして四つんばいになり、機械の手足を使って斜面を登る。
岩石はもろく、良い足がかりと思って踏むとあっさり崩れたりする。右手、左足、右足、左手、また右手……俺は手足三本ずつ固定したまま、順番に一本ずつ動かしていく。外骨格が動力で補助してくれるため、肉体的な負荷はほとんどない。どちらかといえば、動作が単調でいて一瞬の判断が要求され続ける心理的な疲労が強かった。
背中にはりついたまま動けないメルヴィルの疲れも相当なものだろう。布でおおっているので落ちることはないだろうが。
「大丈夫か」
「……ええ」
背中から返ってきた声は小さかったが、まだ気力は衰えていなさそうだ。
「右斜め前に洞穴が見えます。休めるかもしれません」
メルヴィルの言葉で首を上げると、確かにぽっかりと黒い穴が空いていた。奥に有毒なガスが溜まっている可能性も高いが、入り口で一休みするくらいなら問題ないだろう。
パワードウェーダーの四肢を周囲につっぱるようにして、穴に固定する。外骨格から腕を抜いて、簡単にストレッチ。メルヴィルも手足をのばし、水分を補給していた。
そうした休息をはさみながら移動している間、ずっと太陽は地平線の近くで俺たちを照らしていた。この季節の南極は、なかなか太陽が沈まない。少し頭が地平線の下に消えても空は明るいし、すぐに昇ってくる。
時計を見る。陽が沈まないため感覚がおかしくなっていたが、気づけば日づけが変わっていた。
「……そういえば、俺はいってなかったな」
「何のことでしょうか」
背中につかまっているメルヴィルがもぞりと動いた。
「たしか、もう誕生日だろ。祝ってやるよ」
一瞬きょとんとした空気が流れ、しばらくしてメルヴィルの笑う声がした。
「ありがとうございます、でも、ちゃんと前を見ていてくださいね」
「いっしょに死ぬのは嫌か?」
俺の冗談にメルヴィルは笑いながら答えた
「はい、私の誕生日に身近な人が亡くなるのは、もう嫌です」
「……悪い」
「いえ、謝らないでください。でも、キイチロウさんのそういうところ、好きですよ」
ほがらかに笑う少女へ何といって応じればいいのかわからず、その後の俺は黙々と斜面を登った。
ようやく勾配がゆるやかになったころ、一瞬だけ風がふきぬけて、遠くまで視界を晴らした。頂上近くに灰色の六角柱が何列も直線に並んでいる。
背中のマントをメルヴィルがめくり、飛び降りた。
「あれは、きっと人工物です」
少女の小さな足音と、それを追う機械の音だけが荒野に響く。追いかけながら叫んだ。
「陸にのぼった白鯨の仕業だというのか!」
「わかりません! だから確かめます!」
いくすじもの湯気がたなびく丘で、六角柱の石が列をなしている。高さは膝くらいで、意外と小さい。
ほとんどの石が割れたばかりのようにざらついた表面をしていて、いびつな形なりに何者かの意思で加工されたことをうかがわせる。
「まるで墓標のように見えます」
墓碑銘も花もない、一人の人も来ることができない。だが……
「まるで、じゃない。墓標そのものだよ」
俺は外骨格をきしませながら石列にひざまずき、地面から船員手帳を拾い上げた。佐久間吉良という名前を確認する。ハウランド丸の船長のものだ。他の石も、周囲に死者の遺物らしい様々な物品が置いてある。
俺は丘を見わたす。
「だがこれが墓なら、何かが足りない気がするな」
俺はワタツミズのバイザーマスクをあげて、素の目で見わたした。肌にふれる大気は暑くも寒くもなく、湿気以外は不快でなかった。
「ここに生きている者はいないようです。先へいきましょう」
十字を切ったメルヴィルが移動を再開した。俺はバッテリーを節約するため外骨格を脱ぎ、生存に必要なキットは腰にさげる。それからヘルメットも外し、メルヴィルの後を追った。
丘の頂上にたどりつくと、石列とは比べ物にならないほど人工的な物体に出会った。
ゆっくり細長い板が上がっては、反対側へと下りていく。音もなく
しかし近づけば、どう見ても風車だ。
平たく薄い金属板が組み合わされ、風を受けて回転している。振動や音はほとんどなく、かなり高い技術で作られたことがうかがえる。しかしどれも高さは3メートルほど、回転の中心が目の高さと同じだ。
「安定した動力源としては小さいですね。技術の限界でしょうか」
「もとは風車じゃないんじゃないか。これが白鯨のつくった装置だというならさ」
「どういうことでしょうか?」
「水中では巨大すぎると効率が悪くなるし、強度をたもつのが難しいだろう。これは水車を転用したものじゃないかな」
「なるほど、それは充分に考えられますね」
そういってメルヴィルが周囲を見わたす。
風車の基部からそれぞれ三本の金属線が地面にのびる。金属線は網目状につながりながら太いケーブルになって薄霧の向こうへ消えていく。半透明の柔らかい正体不明の粘着物が、被覆するように金属線をおおっていた。
「発電しているのでしょうか」
「俺たちが知っている社会と全く別の文明が発達していることは、とりあえず確実らしいな」
丘を越えるとゆるやかな下り坂となり、中腹に巨大な水たまりがあった。霧にさえぎられて奥までは見えないが、湖と呼んでいいほどの広さはありそうだ。
「ここなのか」
メルヴィル指先をが湖にひたし、それを舌先でなめて顔をしかめた。
「海が隆起してできた塩湖ですね」
「危なっかしいな。火山から毒が流れ出る危険もあるだろうに」
「臭いはありませんし、味を確認するだけならたいていの毒物でも死ぬことはありません」
水際にそって歩いていくと、しばらくして、例の風力発電からのびていたケーブルにつきあたった。
ケーブルの先を見ると、金属板や白い固形物で覆われた無人探査機が、湖のほとりで鎮座していた。このケーブルで探査機へ電力を供給しているらしい。
「間違いありません。これです」
メルヴィルがかけよる。無人探査機の背後には、高く枝分かれした金属棒がとりつけられ、タイプライターのように機械式のキーが並べられた半円状のキーボードと、別のケーブルでつながっている。
そのキーボードを、白っぽい鞭のような何かが叩いた。一本、二本、三本、それ以上……その鞭の根本は、無人探査機の陰に隠れて見えにくい。そのなめらかで半透明に輝く鞭は有機物でできているらしく、少なくとも人間やクジラの肉体とは質感が全く異なる。
俺たちは小走りで探査機に近づいていった。
探査機を回り込んでいくと、キーボードを叩く存在の姿が俺たちの前に現れた。
俺は立ち止まり、周囲を見わたした。白鯨の姿はどこにも見当たらない。
メルヴィルが息を飲む音が聞こえた。俺はキーボードを叩いている知性体へ視線を戻す。
知性体は、金属製の大きな筒から白い半透明の体をのぞかせ、地面に寝そべっている。様々な色の光点を明滅させながら、はいずるように触手をのばし、キータッチを続ける。
メルヴィルに目をやると、口をうっすら開けて知性体を凝視したまま、何もいわない。目の前の光景に理解が追いつかないようだった。俺も何をいえばいいのかわからず、メルヴィルが持つ携帯パソコンへ目を走らせた。
知性体のキータッチと連動してコードが送られ、解析された文章がモニターにならんでいく。
「ずっとあなたがたと、はなしがしたいとおもっていた。わたしたちは、くじらをしいくして、のりこなした。そして、なわばりをひろげたとき、あなたがたとであった」
白鯨はたしかに新たな生物だった。
しかし白鯨は人類と対等な知性ではなく、猪に対する豚、あるいは狼に対する犬と同じ意味で新しい生物にすぎなかった。
俺たちは、偏見を排して新しい知性の存在を信じたつもりで、もっと大きな偏見をいだいていた。
目の前にいる人類と対等な知性体は、白鯨とは別の存在だった。
「なあ、こいつは火星人ってやつなのか?」
しぼりだすように俺が口にした冗談へ、メルヴィルがかすれた声で応じる。
「……H=G=ウェルズという小説家が空想した、火星から地球を侵略しにきた知的生命体のことでしょうか? 火星の重力が弱いため、手足が極めて細長いという」
「そう、たぶんそれだ。触手で歩いたり、物を持ったり……」
質問したことで、少しはいつもの調子を取り戻したらしい。メルヴィルは生真面目な口調で説明を続けた。
「それはいろいろな挿絵の中で最も有名なものですね。ウェルズの作品描写とは少し違います。それに、この知性体は地球の重力下で生まれ育っているはずです。ゆえに触手は人間の手と同じ役割しかもたないようです。どう見ても移動の役には立ちそうにありません」
「ああ、そんな感じだな……移動する時は、たぶん体の横から出ている鰭を使うんだろう」
薄笑いを浮かべながら、俺は正面へ向き直った。
「思い返せば、予想できてもおかしくなかった」
今まで見てきた光景が、聞かされてきた知識が、情報が俺の脳裏で繋がっていき、ひとつの答えを指し示した。
クジラと生息域が重なること。
俺を助けた白鯨に騎乗していたこと。
自力で発光する能力を持つこと。
異なる生物の殻で自らの身を守る種類がいること。
海中生物でありながら、陸上行動が可能な種類も存在すること。
人間の道具も使えるほどに器用な触手を持つこと。
イルカの先端に騎乗するとイッカクのようにも見える体型であること。
高度な知能に進化しうる余裕となる、巨大な神経節があること。
文明を作り出すにあたって充分な体の大きさがあること。
そう、知性を持つのは人間に近い生物だという思い込みさえ排除すれば、全ての手がかりが頭足類と呼ばれる無脊椎動物……つまりイカやタコを指し示している。
どれも旅で教えられた中にある知識ばかりだ。
俺たちのとまどいを気にしているのかどうか、地面に寝そべるイカは鈴型の眼をキーボードへ向けたまま、鞭のような触手で叩いていく。
「幽霊の正体見たり枯れススキ、か……」
謎の答えは、しばしば単純でバカバカしいものだ。
ロゴス博士の言葉に今ごろ納得する。悪魔の魚という英単語をそのまま解釈するべきだった。デビルフィッシュとは頭足類を指す言葉だ。
メルヴィルは携帯パソコンへ指を走らせ、解読を続けている。考えるよりも先に体が動いているようだ。それとも、じっくり考えることを先のばしにしようとしているのか。
いや……探査艇に乗る前にジョン=フランクリン号の船倉で二人きりになった時、彼女が示唆していたことが、まさにこの光景だったのかもしれない。
「ななねんのときをかけて、ようやくいまここであうことができた。うれしくおもう。わたしたちはあなたがたと、ともにいきていきたい。たがいにきずつけず、できるならたすけあって」
共存の可能性が少ないからこそ、対話ができるならおこなわなければならない。ロゴス博士の言葉は、こういうことだったのか。
巨大な脳を持つクジラに高度な知性の可能性があるというなら、巨大な体のイカも同様だ、と気づいても良かった。
半透明の白い触手がたくみに動き、半円形のキーボードをすばやく叩いていく。その動きは明確な意思を持っているようだが、どのキーがどの意味を持っているのか俺には理解できない。
メルヴィルの手元にあるモニターに流れる文章を見ても、ほとんどの意味が理解しにくい。文章量も多くて、メルヴィルは懸命に意訳を続ける。
「わたしたちが、はじめてちせいをみいだしたのは、あなたのちちおやであったということは、いまはじめてしった」
わたしはここにいます。あなたはだれですか……俺たちを導いてきた文章は、この軟体の知性が海底から人類へ呼びかけた言葉だったわけか。
「おんぱをつかって、いしのそつうをしているあなたがたに、わたしたちはきづいた。あなたがたが、おんぱよりもでんぱをつかうことがおおいことを、しばらくしてしった」
知性体の姿から受けた衝撃が薄れていくと、かわりに新しい疑問が浮かんだ。なぜ対話ができるコードを七年前に入手しながら、ずっと手をこまねいていたのか。なぜ三ヶ月前になって、急に電波通信をおこなったのか。
「おんぱをでんぱにかえるほうほうは、うみにすむことがおおいわたしたちには、とてもむずかしかった。かれのたすけなくしては、あなたがたと、はなすこともできなかった」
メルヴィルはキーボードに指を走らせた。「かれ」の正体をたずねるために。
ややあって、モニターにひとつの文章が浮かんだ。
「かれはそこにいる」
知性体が、ホタルのように体側の光点を明滅させた。その触手の先端が湖を指す。
メルヴィルが立ち上がり、湖を見わたす。その視線を俺も追った。
個性ゆたかな色合いの殻を着た無数の知性体が、水面をただよい、プランクトンを固めたらしい餌を口に運んでいる。透明度の高い水をとおして底を見ると、ねじまがった金属板と様々な色の結晶体を組み合わせた、きらびやかな巣が見えた。まるで水中にある宮殿のようだ。
「来ているらしいと聞いていたんだが、遅かったな」
水中に見とれていると、ふいに背後から声が聞こえた。穏やかな、人間の男の声だった。
ふりかえると、白い霧の向こうに長い三本足の影が見えた。聞きおぼえのある口調。その影に向かって俺は歩き出す。
ゆっくりと影がゆれうごき、霧の中から姿をあらわした。白い布をつぎはぎしたような服。なめした皮を紐でしばった長靴。三本足に見えたのは、左足が欠落した人間が、鯨骨を組み合わせた松葉杖をついている姿だった。薄紫色にレンズを変えた丸眼鏡が湿気でくもっている。
俺は理解した。墓標の数が足りなかったのは、俺以外にも一人生き残っていたということだ。
あの日、嵐の海でいえなかった名前を俺は叫んだ。
「中浜!」
影が立ち止まり、丸眼鏡をなおす。
「待ちくたびれたよ」
そういって、中浜が笑った。
俺たちはメルヴィルから少し離れ、ほとりの地べたに座った。
そしてこれまでのことや、これからのことを、二人で話しあった。
中浜はやせてこそいるが、血色は良く、健康状態は悪くなさそうだ。聞くところによると、海に投げ出された直後に知性体に助けられ、南極へつれてこられたという。低い水温のおかげで仮死状態となり、無呼吸状態でも生存することができたらしい。
そして知性体に食べ物を与えてもらいながら対話を試み、ついに機械ごしの会話に成功した。
中浜の視線は、水際にうごめく知性体の群れへ向いている。俺もその視線を追う。視野におさまるイカの数は、そう多くない。それでひとつ納得した。
「わずか数年で白鯨が見つかりながら、彼らが発見されなかったのも考えてみれば当然か。人の目から隠れていただけじゃない、単純に数が違うんだな。畜産は人工的に爆発的に繁殖させられるが、彼ら自身はそうではない」
「そうだな。話した限り、世界中の海にいる彼らを合わせても、十万くらいしかいないらしい」
「しかし、なぜイカなのにはハクジラを家畜化したのだろう。自分達を食べる天敵だろうに」
俺の疑問に中浜はあっさり答えた。
「そう不思議でもないさ。人類の最も古い家畜も犬といわれているのだから」
「そうか、犬はもともと人を襲う狼から進化した獣だったな」
水際に数匹……いや、数杯……それとも数人と呼ぶべきだろうか、ともかく知性を持つイカがメルヴィルをとりまくように集まっている。メルヴィルと会話して、通信用に改造した無人潜航艇の使用法を教えつつ、質問攻めにしているようだ。
ふいにメルヴィルが、持っているパソコンのモニターから目をはなし、無人潜航艇の一部にふれて、そっとなでた。チューブやコードで縛りつけられるようにして、見おぼえのある携帯パソコンが組みこまれている。たぶんあれが、俺と同じ機種を使っていたという父親の遺品なのだろう。
「船長達はどうした。……いや、あの丘の光景を見ればわかる。あれは墓なんだな」
中浜は首を縦にふった。
「おそらくね。ただ、彼らにとっては失敗した出会いを戒める、石碑のようなものでもあったのだろう」
そうつぶやく横顔は、徳の高い僧侶か仙人のように穏やかだった。半年間を彼らとすごして、中浜は何を思ったのだろう。
「なあ、中浜は彼らの言葉を信じるか。人類と友達になりたいという言葉を」
哺乳類でないどころか、脊椎動物ですらない。そもそも本当に知能があるといえるのだろうか。
「正直にいえば、ここで中浜が独学で人工知能を作ったといわれても信じるぞ。あの機械を通してしか会話できないんだからな」
返ってきたのは当惑した表情と、一瞬後の苦笑いだった。
「南極で何を学べばそんな高度な電子工作とプログラミングが一人でできるというんだ。たとえ会話が機械でしか行えないといっても、あの水中の文明を作り上げることが怪我人一人でできると思うか?」
「……それもそうだな」
俺たちは見つめあい、やがて笑いだした。
「クジラを敵視する連中が、そして逆に崇拝する連中が、本当の相手がイカだと知ってどんな顔をするかな?」
「さあ、どうだか……見てみたくはあるな」
遠く霧の彼方から、汽笛のような鳴き声が聞こえる。山と霧にさえぎられているため、白鯨の様子は想像するしかない。結局のところ、白鯨の気持ちはわからないということがわかった、そういう旅だったのかもしれない。
湖の周囲を少し歩き、洞穴に金属板で蓋をした住居も見せてもらった。与えられたという貝やカニの殻、海藻の切れ端が外に積まれている。松葉杖で貝塚を軽く叩き、中浜は薄く笑った。
「さすがに同じ味ばかりで飽きたけどな。砂糖や果物の甘味がなつかしいよ」
手を貸そうとする俺をさえぎり、中浜は杖を支えにして、よろめきつつも一人で立ちあがった。
俺も立ち上がりながら、ふと青く輝く内海を見て、つぶやいた。
「まるで、ラムシュプリンガだな」
「何だって?」
首をかしげる中浜に、俺は苦笑いを返す。
俺たちは今、新しく知った社会とどのように向きあうか、その岐路に立っている。あたかもアーミッシュが行う成人の儀式のように。
今後、考えるイカは海洋資源を奪いあう敵になるかもしれない。しかし逆に協力してくれるなら、かつて夢物語だったクジラ類の家畜化などが可能になるかもしれない。新たな海洋資源の発見にも繋がるかもしれない。
もちろん、これから様々な困難があるだろう。しかし人類は古くから天敵とも共存することができた。十年前の大氷嘯からも生きのびることができた。少しばかり外見や文化が違う隣人が生まれたからといって、きっと怖がる必要はない。
白鯨の鳴く声を聞きながら、そう俺は信じることにした。
そう信じたかった。
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