番外編

バレンタインSS

 二月十三日。

 バレンタインディの前日の、その朝。


 わたしと弓月くんが囲むダイニングテーブルの上にはトーストを中心にした朝食が広がっていた。具体的にはトーストのほか、スクランブルエッグ、生ハムのサラダ、コンソメスープというメニューだ。


「今日は学校が終わったらお店?」

「そのつもりです」


 弓月くんはまだ口の中にさっき齧りついたトーストが残っていたのか、口を掌で隠しながらわたしの問いに答えた。飲み込んでしまってからでもいいのに。


 時は流れて去年の春、わたしたちは学年がひとつ上がった。


 わたしは二年生に。弓月くんは三年生。

 春からわたしは三年生になり、弓月くんは卒業してしまう。


 私立水の森高校は進学校で、ほとんどの生徒が進学する。もしくは、少なくとも進学を進路として卒業する。


 だけど、弓月くんはその『ほとんど』に含まれない稀有な例だ。


 一昨年の冬、ある人が弓月くんに小さなカフェを遺した。それをどう扱ってもいいという話だったけど、結局彼はいろいろ考えた末にお店を継ぐことにしたのだ。


 卒業したら、今は休業中のそのお店を再開することになっている。


 この一年、弓月くんは馴染みのコーヒーショップにアルバイトという名の修行をしていて、最近ではバイトがない日は引き継いだお店でコーヒーの研究をしている。今日もそのつもりらしい。


「佐伯さんもきますよね?」


 そして、そこにわたしもついていくのが、最近のわたしたちの日常になっていた。

 でも、今日は首を横に振る。


「ううん」

「何か用でも?」


 そんなわたしの返事が意外だったのか、弓月くんは不思議そうに問うてきた。


「明日の用意」


 わたしがそう答えると、彼はさらに怪訝そうな顔になる。


「あれ? 知らない? バレンタイン。イタリアの伝説のマフィア、ドン・ブラコッコが裏切りものを始末する前には必ずチョコを送りつけたことから――」

「知りませんよ、そんな話」


 弓月くんは呆れたような声でわたしの話を遮った。


「そんな血なまぐさい話に由来するチョコなんて、どう考えても物騒な予告でしょうが」

「おお!」


 或いは、いいところ決闘の申し込みだ。


 さて、口から出まかせは置いといて。


「今日はね、明日のためにチョコを作るの。手作りチョコ」

「だから、君、そういうのは内緒でやるものでは?」


 たぶんさっき弓月くんが変な顔をした理由はここだろう。事前にチョコを用意してますなんて普通は言わない。


「手作りチョコという選択をした時点で隠すのはむりだから」


 何せ一緒に住んでいるのだからサプライズにも限界がある。それに同棲ならではの利点もある、というのは去年の宝龍さんの言葉だ。


 宝龍さんとはいちおう仲直り(?)はしているのだけど、どうも彼女には生来の意地の悪さみたいなのが見えて、素直に言うことを聞くのは少し癪だ。でも、その意見には一理ある気がしたので、今年は参考にすることにした。


「あ、失敗したときのために、ちゃんと有名店のは買ってあるから」

「佐伯さんなら失敗はしないでしょう」

「だといいんだけど」


 未来の旦那様はわたしの料理やお菓子作りへの信頼が篤い。


「成功しても失敗しても、どのみち珍しいチョコは押さえておきたかったし。デパートのチョコ売り場、すごかったよー。見たことないやつばっかり」

「でしょうね」


 弓月くんは苦笑する。


 デパートはどこも明日のバレンタインディに向けて特設会場を設けている。この時期にしかお目にかかれないものもあって、うまく商売にのせられてるなぁと思いつつもやっぱりワクワクしてしまう。


「ひとりの男の子をかけて三人の女の子が熾烈なチョコ選び、みたいな場面を見たかったけど、残念ながらなかったー」

「君は何を期待してるんですか」


 呆れる弓月くん。


 大丈夫。自分でもよくわかっていないので。きっともっと未来の話だろう。




                  §§§




 弓月くんと並んで学校へ向かう。


 わざわざふたり別々に家を出ていたのははるか昔の話。今ではこうして一緒に出るのが当たり前になっている。もう一年以上こうしているけど、このあたりで同じ水の森の生徒とあったことはない。


「あれ? もしかして弓月くんが卒業したら、もう一緒に住んでることがバレてもいい?」


 在校生同士なら問題があるけど、片方が卒業してしまえば問題はないのではないだろうか。例えば、もう卒業してしまった先輩の家でお世話になっているという体裁は整う気がする。


「いいわけないでしょう。過去に遡って、痛くもないどころか思いっきり痛い腹をさぐられますよ」

「それもそっか」


 まぁ、別に言いたいわけでもないし、黙っているのが辛いわけでもない。むしろ内緒にしているのが楽しいくらいだ。


 目の前に交差点が見えてきた。

 そこの信号を渡ると学園都市の駅と水の森高校を結ぶ道だ。そろそろ話題に注意しないと。


「ん? あれは?」


 弓月くんが声を上げる。


 何だろうと思って視線を少し遠くへ向けると、信号を渡ったところに宝龍さんがいた。わたしと弓月くんが一緒に住んでいることを知っている数少ない人物だ。どうやらわたしたちを見かけて待っているらしい。


「今日はちがう道で行こっか」

「何でですか」


 苦笑いする弓月くん。


 何でって、そこに意地に悪い先輩がいるからに決まっている。


「おはよう、ふたりとも」


 わたしたちが信号を渡ると、美貌の上級生がそう挨拶を投げかけてきた。そのまま並んで学校へと向かう。


「朝からずいぶんと楽しそうね」


 どうやら彼女は思ったよりも早い段階でわたしたちを見つけていたらしい。目がいい。


「何の話をしていたの?」

「明日はバレンタインだから、弓月くんと一緒にチョコを作る約束をしてました」


 周りにはわたしたちと同じく学校へ向かう生徒がいるが、この程度なら聞かれても大丈夫だろう。どちらかの家に行ってチョコをつくるという解釈もできる。


「あら、あなた、意外と素直なところがあるのね。私のアドバイス通りじゃない」

「……」


 しまった。マウントを取りにいくつもりが、これではありがたい助言をもらったみたいになってしまっている。


「ふたりにいつどんなやり取りがあったか知りませんが、僕はそんな約束初耳ですが」


 そりゃあ言ってないもの。


「この時期にバレンタインとは余裕ね」

「受験しないクチですから」


 宝龍さんの呆れた声と、それに応える弓月くん。


「わかっているわ。あまり浮かれていると、まだ試験が残っている子たちが怒ってくるわよ」

「それこそわかってますよ。学校ではちゃんと合格組と一緒におとなしくしてます。それを言うなら、宝龍さんだって同じでしょう」


 弓月くんから聞いたところによると、今の時点でこの宝龍さんと滝沢さんがすでに大学を決めているらしい。矢神さんと雀さんは本命の大学の試験がまだとのことだ。


「ええ、その通り。余裕があるから幸嗣にチョコを買っておいたわ」

「ちょ……!」


 誰だ、さっきバレンタインで浮かれるなって言ってたのは。まったく人のこと言えた義理ではない。


「あら、どうかして?」


 と、宝龍さん。


「どうかって、目の前で人の彼氏にチョコをあげようとしないでもらえます?」

「気にしないで。日ごろのお礼に渡すだけよ。他意はないわ」


 しれっとそんなことを言う。


 どうやらここに嘘はないみたいなので、なおのことたちが悪い。


「昔ならその子より私にしときなさいと言っているところだけど、もう恭嗣の意志は固そうだし、気が向いたときにでも私につき合ってくれたらいいわ」

「僕をどういう人間だと思ってるんですかね」


 流れ弾に当たる弓月くん。


 同じ方向に向かって歩く水の森の生徒は多く、宝龍さんの言葉が聞こえた人たちがぎょっとしているのがわかった。


 わざわざ知らない人にまで公言はしていないけど、弓月恭嗣と佐伯貴理華はつき合っているのだろうなぁ、という空気が学校にはある。そこに彼女のこの発言なので、男子生徒の憎悪を一身に背負った弓月くんは果たして無事に卒業することができるか、といったところ。


 そんなことをしているうちに目の前には学校が見えてきた。


 今カノと元カノにはさまれて登校する弓月くんには、何としても今日を生き延びてもらいたい。




                  §§§




 夜。

 わたしは買ってきた生チョコをもとに手作りチョコの制作に勤しんでいた。


 ひとり四苦八苦、試行錯誤していると、玄関ドアの鍵が回る音がした。一拍遅れてドアが開いて、閉まる。


「ただいま帰りました」


 そうして弓月くんがリビングに這入ってきた。


 かつて大失敗をした経験から、どんなときも玄関の鍵は閉めるようにしている。こうやって弓月くんが後から帰ってくる場合はチャイムを鳴らしてくれたら開けるのに、なぜか彼はそうしてくれない。持っている鍵で開けて入ってくる。わたしの手を煩わせるのが申し訳ないと弓月くんは言うけど、案外おかえりと出迎えられるのが恥ずかしいのかもしれない。


 とは言え、今はちょうど手が離せなかったので、その気遣いには助かった。


「おかえりー」


 そう応えて振り返ると、弓月くんは何やら複雑そうな顔をしていた。


「君、夕食は? ……いや、こういう言い方をすると作ってもらうのが当たり前みたいであれですが、そうではなくて……」

「あ、いいの。そこは単なる役割分担だと思ってるから」


 別に弓月くんが男女かくあるべしと考えているなんて思っていない。多少失敗したり遅くなったりしても目を瞑ってくれたら、食事担当はわたしでいいのだ。


 弓月くんは改めてキッチンを見回した。


「もしかして夕食も食べずにそれにかかりっきりですか?」

「ん? ……おおぅ、もうこんな時間!?」


 壁掛け時計を見ると、もう時間は二十時近かった。夜八時。チョコに夢中で時間を忘れてしまっていた。


「それからもうひとつ」


 弓月くんは重ねて言う。


「なんですか、その恰好は」

「何って……見ての通り制服エプロンだけど?」


 わたしは何かおかしな恰好をしていただろうかと、自分の姿を見直してみた。だけど、学校指定のブラウスの上からエプロンをつけただけの、何の変哲もない制服エプロンだ。


「もちろんナマ足」


 残念ながら弓月くんとはダイニングテーブルをはさんで向かい合っているので、同じく学校のスカートから伸びた足は目に映ってなさそう。


「いや、もうこんな時間なんですから着替えたらどうですかという話です。それともその手間すら惜しんでやりはじめたんですか?」

「そういうわけじゃなくて」


 そこはもちろん考えがある。


「最初は水着エプロンでチョコまみれになろうかと思ったんだけど」

「ならなくていいです」


 呆れた調子の弓月くん。


 でも、これはただの合いの手なので無視する。


「たぶん熱い」

「でしょうね。たぶんどころか確実に熱いです」


 さすがに弓月くんもこれには小さく笑った。


 たまにボウルをひっくり返してチョコまみれになっているドジっ娘のイラストを見るけど、体の表面に沿ってチョコが流れるくらいだとけっこうな熱をもっているはず。似たようなことをするなら生クリームだろう。なので、この水着エプロンでチョコまみれ改めクリームまみれは、いつかケーキを作るときにでも実行することにする。


「というわけで、代わりに制服エプロンで、学校の先輩の家にごはんを作りにくるかわいい後輩プレイになりました」

「なんですか、それ?」

「いーの。……で、どう? ぐっとくる?」


 わたしはくるりと回ってみせる。


「……それより君、夕飯はどうするんですか?」


 おっと、答えなかったぞ。灯台下暗し。こんなところに刺さるポイントがあったか。


「まずこれを手伝って。その後、夕飯」


 わたしはキッチンを示しながら答える。


「え、僕がですか? 確かそれって明日僕が受け取るチョコですよね?」

「うん、そう」


 そこは間違いない。


「だけど、兎に角これを片づけないと晩ごはんの支度ができません」

「……」


 弓月くんが思わず言葉を失くす。


 確かにバレンタインチョコを作るのを男の子に手伝ってもらった女の子の話や、手伝わされた男の子の話は聞いたことがない。でも、キッチンの大部分を占拠しているこれらをどうにかしないと夕飯づくりに取り掛かれないのも事実だ。


「常々料理を手伝うのも吝かではないと思っていましたが、どうも想像していたのとちがうかたちで実現しそうですね」

「あー、ほらほら、嘆いてないで。早くやらないと」


 何やら悲嘆にくれる弓月くんを、わたしは急かす。


「とりあえず先に着替えさせてください。君もそんな恰好でいないで着替えたらどうです?」

「水着?」

「ちがいます!」


 自分の部屋に入りかけていた弓月くんが目を三角にして振り返る。


「普通の服です。間違ってもそんな恰好で出てこないように」


 そして、念を押すようにしてそう言い放ち、部屋の中に消えていった。


 これはあれかな? 古くから伝わる「押すなよ、押すなよ」という忌まわしい因習の話かな? もしくは、伝統芸能。


 と思ったけど、あまりやりすぎると弓月くんを怒らせてしまうので、今日はこのあたりにしておこう。


 さ、まずはチョコを仕上げて、それから夕飯の支度だ。

 順番がおかしいけど、弓月くんと一緒にキッチンに立つなんて初めてだ。少し楽しみ。




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【あとがき】

もう3月だが?

むしろホワイトディのほうが近いが?


そもそも書きはじめたのも遅かったのですが、間でいろいろ作業が割り込んできたもので。

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佐伯さんと、ひとつ屋根の下 I'll have Sherbet! 九曜 @krulcifer

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