エピローグ


肇は、ひたすらに分厚い本のページをめくり続けていた。文字を追うかれの目は真剣だが、読書しているというよりも何かを探しているかのような顔だった。

かれが居るのは、大学の図書館のすみっこの席。かれの前には宗教関係の書物類が、うずたかく積み上げられている。おもに日本の神話・呪術・フォークロアにかんする学術書のたぐい。これまでのかれには、縁の無かった分野である。

記紀に著された、悪霊邪気のものがたりと神々の系譜。さらには施設の様式、しきたりの謂われ、儀式の意味―――ここ数日のあいだ手当たりしだい、かたっぱしから無数のデータを読み漁っているのだが、何かがつかめたわけではない。無論いまさら詮索しても、何かが変わるわけでないことくらいは分かっている。とはいえあの奇妙なできごとは、かれにとっても「危ない橋」には違いなかった。だがそれにも増して、解釈不能の経験でもあったのだ。彼女とはもう会えないのだろうか、いったい自分は何をしたというのだろう・・・

そうだ、けっきょく知りたいのはただひとつ、彼女の正体。それが気になって仕方がないのだ。無駄なことと分かっていても、衝動がかれを突き動かし、作業を続けさせてもいる―――

―――そんなものを読んでも、わたしのことは何ひとつ分からないぞ

不意に、梨神の声がちょくせつ脳に響いてきた。肇は目を見開き、視線を宙におよがせる。周囲でレポート作成に必死の学生たちは、かれの異変に気づくそぶりもない。

(古来の宗教がどうこうではない、人の知覚と言葉をつかった定義がどうこうでもない。

名状しがたき、「物の怪」というものがいる。人の命を供物となし、人の運命に干渉して悦に入る、わたしのような者のたぐいがな―――)

女の声は、深く静かに、染み入るように肇の心に呼びかけてくる。

―――さわらぬ神にたたりなし。だが世の中には時に、触りたがる者がいる。相手によっては話も聞こう、供物によっては、相応のむくいもあろう。だが忘れるな、わたしはおまえたちに御されるものではないし、御していいものでもないということだけはな―――

肇は声に出さず、心の中で尋ねる。「また会えるのか?」と。

しばらくのあいだ、静寂があった。だが彼女はまだいる、ため息をつく音が心の中に響いてくる。

―――さあな。会うかもしれないし、会わないかもしれない。それはおまえしだい、わたししだい・・・

歌うような声。ただし少しずつだが、遠のいていく。肇は必死で目をつぶり、小さくなっていく声を聞き漏らすまいと心の耳を澄ます。

―――・・・二度とないかもしれないが、もしかしたら、またおぬしと寝たくなるやもしれぬ。そのときは押しかけてもやろう。おまえもそれを望めばこそ、そうやってわたしに拘っているのではないのかな? それとも怖くて忘れられぬのか? まあ、わたしにとってはどちらでも良いが―――

ただしひとつだけ言っておく。わたしの姓と名を、いちどに声に出さぬが良いぞ。あれはまあ、一種の忌み名のようなものなのでな・・・

それっきり、声はしなくなった。彼女は完全に消えたのだ。肇はいそいで顔を上げた。勢いよく立ち上がって彼女の名を声に出して呼ぼうとし、はっと気づいて口をおさえる。周りの学生たちは肇の挙措に気づき、訝しそうな非難の目を向けた。かれらの視線など気にもならなかったが、肇はじぶんを落ち着かせようとゆっくり、ふたたび腰掛ける。

そのまま彼は、しばらくひたすら座っていた。目の前に積み重なった蔵書の山が、なんだかひどく空しいものに思えていた。

それからふと気づいて肇はポケットからメモ用紙を取り出し、衝動的にペンを走らせていたのである。紙片に書きだしたのは今しがた禁じられた、彼女の姓名。

「太田梨神」

そう綴り終えてからしばしの間、かれは黙って自分が書いた四文字を凝視する。

そして漢字の横にひらがなで、ルビをふっていく。ぜんぶで五文字・・・

「たたりがみ」

なるほど、そういうことか―――

心の中でそうつぶやきながら。肇はくっくっと、どこかで聞いたような小さな笑い声を上げていた。目の前で資料を読んでいた女子大生が、不機嫌さもあらわな表情で、資料をかかえて立ち上がった。

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たたりがみ 青沼亜門 @bluefrontier

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