第4章



銀嶺市最大のその総合病院は新築だったが、薬品臭と入院患者の生活臭によって早くも病院独特の空気を、確実に醸成しつつあった。

それでも面談室はその役目柄、まだまだ新築のコンクリートと壁紙の新鮮な匂いに満ちている。その室内で、介添えを同伴しながら患者服姿で車いすに座している志村頼子は、悄然とした表情でうつむいていた。

「どうしても、思い出せないのですか?」

対座する刑事がそう尋ねたのは何度目のことだったか。しかし頼子はおなじ返事しかできない。

「正直いって、何もした覚えがないんです」

これも、これまでの陳述どおりである。「ボスといっしょに銀嶺本社に行って、喫煙室で時間をつぶしていた後のことは、なにも―――」

そこで記憶が絶えている。警察に出頭したことさえ覚えていないのだ。ただ、気づいたときには首筋から背中にかけて、激しい痛みが走っていたのである。そして激痛と出血のために失神し、気がついたら病床にあっただけである。

「君は任意出頭を求められて、神無月と一緒にやって来た。そして上司であり加害者でもある神無月守男との関係について、洗いざらい喋った」。刑事は腕組みしつつ、そのときの彼女の口調まで指摘してみせる。「あっけらかんと楽しそうにさえ見えたので、奇妙には思えたがね。ただ、そのときは刀剣のたぐいは持っていなかった。神無月より一足先に釈放され、その足でホテルにもどり、チェックインしたところまでは分かっている」

頼子は黙っている。刑事はさらに説明を続ける。

「奇妙なことだがホテルのフロントに入るとき君は、それまで持っていなかったはずの刀剣とおぼしき細長い包みを、背中にしょっている」

これはホテルのスタッフも目撃しているし、防犯カメラの映像にも残っていて疑う余地もないことだった。ホテルの室内からは包み布や鞘も、刀剣本体とともに回収されている。問題はその刀剣を彼女がどこでどうやって手に入れたのか、また保管していたのか、そして何より、なぜ運んでいたのかということだけだ・・・

しかし頼子は、かぶりを振り続けた。「覚えていない」の一点張りだ。

「一時的な記憶喪失かもしれない」との病院の説明ではあったが、検査によれば脳には異常はみられないともいう。そして事件があった日のほんの数時間をのぞけば、彼女の記憶にはいかなる混濁もみられないともいう。

(しかし神無月の証言が正しければ、頼子はとつぜん奇行に走り、神無月を挑発しながらあの刀剣を使って暴行を加えているはずなのだ・・・)

それを隠しているのだろうか? いやいや、それだけならここまでの空とぼけはすまい。ではやはり、桃井の死と彼女は何か関係があるのだろうか?

頼子が啜り泣きはじめたところで、刑事はあきらめて立ち上がる。けっきょく凶器の出所どころか、本人がそれを所持していたことすら知らないのだから話にならない。

いずれにせよ―――くだんの凶器から桃井文太郎の血痕が確認されているいじょう、その所在経路がどうなっているのかは、重要な要素である。

すでに警察は、意外な情報をつかんでいた。ニューランドマーク社内の人間を聞き込みしてみたところ神無月と頼子の愛人関係は、誰もが知っていた。しかし頼子と桃井の関係に気づいている者は、一人もいなかったのである。

それとなく匂わせてさえ、誰もがきょとんとするだけで、「たしかに志村さんは、いわゆる発展家だけど」と口を濁らせつつ、「でも桃井さんはどうかなあ? あの人、妙な噂があって・・・」などと言い出すのである。

「妙な噂?」

「あの人、女性を襲う悪癖があるんだって。昔それで捕まったとか、うまく逃げおおせたとか情報は錯綜しているんだけど」

これは事実だった。たしかに桃井は過去に三回、性犯罪の容疑者になっていたことが判明したのである。

いちばん最初のものはまだ彼が十代のころのことだ。場所は、かれの死に場所となる銀嶺市。同市はかれの生まれ故郷でもあった。

すでに四九年前のことになる。ある女子高生が行方不明になったさい、かれを失踪現場の近所で見かけたという目撃情報があったのだ。あいにく証拠不十分のままその事件はけっきょく、その女子高生が失踪したまま迷宮入りになっているのだが。

ほかの二度は、かれが三〇代になったばかりの時期と四〇代後半になった時期のこと。いずれも未遂をふくめ、寂しい夜道で女性が屈強な覆面の男に襲撃されるという事件が数件起きており、これまた目撃情報によってかれに嫌疑がかかったのである。

だがそのつど桃井は証拠不十分で逃げ延びている。ただし噂にはなってしまった為そのつど、転職と転居を余儀なくされている。ともあれこれらの事件も迷宮入りとなった。おそらく泣き寝入りしている女性もいるであろうと仮定すると、かれは悪運のつよい犯罪者にすぎないのかもしれない。

ともあれ、その手の噂がつきまとったせいか、それなりに学歴もありどんな職業に就いてもそこそこ有能なのだが、桃井は良い働き口に恵まれず、世俗的には成功者といえない暮らしを送っていた。それでも独身でもあり浪費癖はなかったせいもありで、経済面でひどく貧窮したことはない。

加えてかれは、意外にも「もてない男」ではなく、筋肉質のワイルドな肉体と陽気な気質をそなえ、タイプはさまざまだが六六才になるまでには、いずれも短期間ながら三人の女と同棲した過去があることも判明した。ちなみにかれが通っているジムでは、かれに口説かれて一夜をすごした女がけっこうな数にのぼっているらしい。しかもその多くは二〇代、年かさでも三〇代後半だという。そういう関係は、頼子との恒常的な関係がはじまってからも継続していた。六〇代とはおもえない絶倫ぶりである。

「要するに、『女日照りのもてない陰気野郎』だから性犯罪に走るのではなく、性向として、趣味の一環として走るタイプらしい・・・」

ともあれ桃井は、けっきょく最後まで尻尾をつかまれることのないまま、性犯罪の加害者ではなく猟奇殺人事件の被害者というかたちで警察のお世話になってしまったわけだ。おたがい皮肉というほかはない。しかも、まだ容疑が固まったわけではないがら「パートナー」である、志村頼子が所持する凶器によってである。

「とにかく社内的には、かれを火遊びの対象とする女性がいたとすればちょっと冒険が過ぎますね」と、社内の証言者は言うのだった。

もちろん、そういう噂が立ったのはつい最近のことではあった。桃井がニューランドマークに契約社員として勤めだして七年になる。仕事は出来るし押しが強いので、神無月常務もときどき気圧されつつもタフさが要る交渉ごとを任せられる部下として便利使いしており、それなりに地歩は確立していた。

だが二年前のこと。取引先の女性社員が社用であいさつに訪れて、かれを見るなりさっと顔色を変えたのである。その女性はニューランドマークの営業に勤める同性の係長とは同窓の仲で、プライベートな交友関係にあった。その友人関係を通して彼女が中学時代、近所に住んでいた「容疑者」と顔見知りだったこと、その人物こそ桃井であるとのただならぬ噂が、社内に広まったのである。

ただしくだんの噂発信源である取引先の女性じしん、じつは不運な被害者当人であり、しかも外聞を恐れて届け出を断念し、事件じたいが闇に埋もれたままになっていることは伝わらずじまいだったのだが。

「だから、気さくないい同僚だとは思っていたけど、女子社員はひそかに敬遠していたんです。あの年齢で独身って、やっぱり何かあるんだってイメージも手伝って―――」というのが、女子社員たちの桃井評だった。

ところがその件について頼子本人に問いただしてみると、そちらの方はあっけらかんと供述したのである。

「知ってたけど、気にならなかったんです。むしろ周囲の女子に警戒されていることが、関係を隠すには良いカムフラージュになったし・・・むろん誘われたときはリスクも考えたんだけど、要はこっちにその気があればトラブルにならないかなと思って」

いずれにせよ。供述を信じる限り、桃井は痴情のもつれで神無月と揉めるには、女性に対して徹底的に即物的すぎる男のようだった。神無月は愛人と桃井の仲を知らないから、こちらにも殺す動機はない。そして頼子にはどちらの男にたいしても危害を加える理由が無いはずなのである。まるで八方ふさがりだった。一体、何がどうなっているのか。




病院を辞去して覆面パトカーに乗りこんださい、頼子の尋問にあたった例ののっぽの刑事は、「もういちど鑑識に顔を出してみようか」と空しさ半分で物思いに耽っていた。今回も含めてさんざん敷鑑(人間関係の洗い出し)・地取り(目撃情報の収集)に勤しんできたというのに、桃井の死に結びつく決定打は、依然として得られない。

やはり決め手はナシ割、つまり凶器の入手経路だ。警察もいまや自白主義から証拠主義。「血痕が付着した凶器」という物証をおれたち警察が握っているかぎり、神無月と頼子がいかに桃井の死を知らぬ存ぜぬと言い張ったところで、かれらが被疑者であることに疑う余地はない。かならず尻尾をつかんでやる。

しかし覆面パトカーが署にもどったとき。かれは捜査班の同僚たちが一様に複雑な面もちをして囁きあっていることに気がついた。いずれも場数を踏んできたベテランぞろいだが、まるで酢でも飲んだような顔つきをしている。はじめて目にする光景だった。

「何かあったのか?」

そう尋ねるとかれと同期の同僚が、眉間にしわを寄せつつ囁くように応える。

「例の、女のルポライターが発見した四九年前の女子高生の、ホトケの件だがな・・・」

「あれは、俺たちの担当とは別の班だろ。たしかに現場は同じだが」

同僚が首を振る。「現場から出土した遺留品だけどな、桃井文太郎の生徒手帳が確認されたんだそうだ。それでこっちに照会があった」

のっぽの刑事は、言葉の意味をすぐには理解できなかった。

「―――どういうことだ?」

「わからん。だがとにかく、桃井について分かっている情報は、あっちにも流さねばならん。以前にも性犯罪の嫌疑がかけられるたびに『逃げのびて』いた男だそうだが、どうにも気味が悪い話だぜ―――」

同僚はそこで言葉を切り、黙りこくる。のっぽの刑事も、いそがしく頭蓋の中にある灰色のコンピューターを回転させた。じゃあ何か? 桃井の「初犯」だったかもしれないと噂されていた「事件」の罪体が、よりによって本人が変死した直後、その傍で発見されたということか!

だが、かれらの驚きがそこで終わることはなかった。

「ちょっと皆、会議室に来てくれ」

なぜかひどく不機嫌そうな、それこそ苦虫を百匹くらい噛み潰したみたいな顔をして現れた捜査課長にそう言われ、かれらは雑談をやめてぞろぞろとカモの群れのように、会議室に向かうことになったのである。室内では銀縁めがねで小太りという、いかにも科学捜査チームに居そうな白衣の男が待っていた。じっさいかれは、鑑識畑における医療分野の人間である。

「県警本部の科捜研からたったいま、連絡がありました」

せかせかした口調だが、何ともわけがわからない、という顔をしている。

「二種類の血痕のうち新しいほうは目撃情報どおりで現行犯の被害者・志村頼子のもの。これは説明不要でしょう。そしてもう一つの血痕ですが」

そこでかれは一呼吸置き、ゆっくりとうなずく。「桃井文太郎のDNAと一致しています」

刑事たちは低いうなり声を上げ、互いの顔を見合わせながら頷きあう。やはり、あの刀が桃井の首を切断したのだ。

「ただ、そのう―――重大な問題がふたつあります」。白衣の男は、急に聞かれるのを恐れるかのような、低い声になった。「まず第一に―――あの刀が志村頼子に傷を付けたということは、考えられません・・・」

「え?」。刑事たちが不審そうな顔をするのと、課長が顔を朱にして一喝するのとは同時だった。

「鑑識が終わったあと、当然だがホテルがわでは、血だらけの部屋を殺菌消毒し、壁紙やら絨毯やら改装せざるをえなくなった―――ところがその時になんと業者が、鑑識が見落としていた重要証拠品を発見したのだ!」

そう叫ぶなり課長は、手に隠し持っていたビニール袋を全員の前にかざしたのである。そこには血糊がこびりついた、ステンレス製とおぼしきフルーツナイフが入っていた。

「ベッドの下に転がっていたよ。現場に皮をむきかけたリンゴがあったのに、なぜか見つかっていなかったフルーツナイフだ。見てのとおり血塗れだ。指紋や血液の鑑定はこれからだが、これが凶器とみて間違いない!」

刑事たちは、一斉に眉をひそめる。何を言っているのか分からないといった風情だ。

「被害者が負った刀傷を考慮すると、使われた凶器はそれしか考えられないんです」。白衣の男が、いそいで付け加える。「もともと最初から、おかしいと思っていたんです。刃渡り七二センチの真剣で切ったにしては、傷跡が細くて浅すぎる・・・刃渡り一二センチの果物ナイフのほうが、理にかなっているんです」

「ま、待ってください」。刑事たちは一斉にがやがやと騒ぎ始める。

「じゃあ、あの刀に付いていた血液は?」

「たぶん、飛び散った返り血を浴びたのだろう」と、捜査課長。

「でも、証言はどうなんです? 容疑者本人は、確かにあの刀を手にしていたことを認めているし、指紋も検出されているんでしょ・・・?」

「知らんよ、そんなことは。奇妙なことに当人の殺意の否認についていえば、かえって有利になっているけどな」

フルーツナイフで人を殺した例はいくらでもあるが、それでも使った武器が刀剣だったのと比べれば、裁判官に与える印象もちがう。

刑事たちの顔に、複雑な表情が浮かぶ。課長の怒声にもかかわらず、半信半疑の思いをぬぐえない。まるで狐に化かされているようだ―――

なるほどナイフを見落としたこと自体は、ひどい失態だ。最悪のばあい、責任者が処分される可能性もある。それは認めよう。とはいえそんなご都合主義みたいな展開があるものか、という疑心暗鬼に、かれらは囚われてもいた。

「だがな、失態はこれで終わりじゃないぞ!」。捜査課長がほえるように叫んだ。半ばうっすらと涙目にも見えたのは、あるいはかれの捜査歴に重大な過失が付くことへの恐怖だったろうか。

「あの刀にはなるほど桃井文太郎の古い血痕もあった。にもかかわらずあの刀は、凶器ではない!」

刑事たちは目を白黒させた。何人かが抗議にちかい質問の声をあげようとしたが、白衣の男はその隙をあたえず容赦なく追い討ちをかける。ただし、消え入りそうな声でではあったが。

「あれ、竹光なんです・・・」

え? もはや刑事たちの表情は、混乱という表現でどうにかなるものではなかった。だが白衣の男は、あくまでも本気の態度を崩さない。

「うちの鑑識と県警本部の科捜研が目下、必死で記憶を照合しているんですがね。全く、わけがわからない―――

樫でこしらえた木刀に錫箔しただけの、たぶん江戸時代の竹光なんです。抜き身での重量は、四〇〇グラムもありません。本物の刀の重さの、せいぜい三分の一くらいなもので、もちろん人体を切断することなどできやしない。『ほんもの』の凶器だったフルーツナイフなみの刀傷すら、作れやしないでしょう。

でも鑑識のメンバーが手にしたときには誰ひとり、見た目といい手にした重みといい、真剣であることを疑う者はいなかったのです。いったい何が、どうなっているのやら・・・」

静寂が室内を覆った。誰もが耳を疑っていたのだ。じゃあ、桃井の血痕のほうはどう説明するのか。矛盾だらけじゃないか。

なにか、解釈不能なことが起きているらしい―――分かったことはそれだけだった。それが何なのかは分からなかった。ともあれ室内を支配している異常な空気が恐怖へと変質するのに、時間はかからなかった。





JR秋葉原駅の電気街口から徒歩で五、六分ほどの場所にある、セルフサービスのチェーン店カフェ。土岐肇は二階のガラス窓に面した席に座り、ひどくむっつりした顔で写真週刊誌を読みふけっていた。

かれが開いているページには、木下まつりの白黒の顔写真が大きく掲載されている。いかにも古い写真らしく画像はかすれているが、着用しているセーラー服はまさしく先日、忘れもしない事件当日に着ていたものだ。

見出しは「一九六七年、行方不明になった女子高生の遺体」。

「なんだよ、これ―――?」。誰に聞かせるでもなく、肇は疑念を声に出していた。「どういうことだよ」

何度も読み返しつつ、肇はなおも自分の目のほうを疑おうとしていた。だが記事を読めば読むほど、腑に落ちる点もある。

まつりの顔写真の片隅に、彼女の母校である「現」私立聖パウロ高校の写真がちいさく掲載されていた。なんでも三五年前までは女子校で、「聖パウロ女学院」と称していたそうである。それだけ古い学校なら、制服のデザインが途中で変更されていたからとて、怪しむには足りない。もっとも木下まつりが着ていたセーラー服のほうこそが、とっくに廃止された古いタイプというわけだが。

さらに記事には、死体の発見者である女性ルポライター・早瀬恵美のインタビューも載せられていた。

「死体のそばから、本人のものとは別の生徒手帳を見つけた」というのである。記事が出た時点では、鑑定結果は公表されていない。しかし恵美の口ぶりは、それが誰だかすでに把握していると言わんばかりだ。いずれ自分の名で書く記事の、隠し玉にしているに違いない。

また、彼女が死体の場所を特定できたのには電話による情報提供者がいたこと、しかし相手が匿名で、その件についてはまったく手がかりが無いことも、恵美は記事の中で語っていた。このぶんなら、肇のことも黙秘してくれることだろう。かれにとっては願ってもないことだが―――

「なに怖い顔してるのよ?」

とつぜん背後から声をかけられ、ぎくりとして肇は振り向く。梨神の笑顔がそこにあった。若草色のスーツとパンツ姿で、いかにも都会の出来る女といったふぜいである。手にはアセロラ・ソーダのカップを載せたプレートを持っている。

「どうかな、似合うかな?」

肇はうなずいたが、彼女の美しさを称揚するほどの余裕はなかった。どうして彼女はいつも登場するとき、人をからかうみたいに脳天気にふるまうのだろう。

「お父さんとはあのあと、連絡とってる?」

「ええ、ゆうべ。上京が長引きそうだから、ひょっとしたら春休みぎりぎりいっぱいこっちに居ると。だいぶ依頼料が入っていると見えて、上機嫌で承知してくれました」。肇は皮肉めかして、軽く一礼する。もっとも今夜あたり、また電話がかかってくるかもしれないと肇は予想していた。まつりの件がある。状況は一変している。

父も遅かれ早かれ、木下まつりの顔を何かの媒体をとおして確認するにちがいない。そうなれば、息子が桃井の変死と近似した時間帯に八蛇神社にいたこともふくめて、ただの偶然とは考えなくなるだろう・・・

梨神は対面の席に座りながら、空いている店内を見回した。遠くの席で中年の男性客が二人、新聞を読んだりスマートフォンをいじったりしているだけだ。

「せっかく秋葉原だから、メイド喫茶とかいうのに入れば良かったのに」

「遊びに来たわけじゃないし、遊びでも行く気はないです」

「目の前にただ眺めるだけでは終わらない、楽しい女もいることだしね」

「からかわないでください」。あわてて肇は目を伏せ、とっくにぬるくなっていたコーヒーを一口すする。そんな肇を、梨神は面白そうに眺めている。

「神無月は愛人への傷害では起訴されるけど、桃井の件では証拠不十分になるわ」と梨神。あいかわらず可愛い声で、託宣のように断定する。彼女のそういう態度ははじめてではなかったが、あらためて根拠を聞きたくなってくる。だが肇のあからさまに不審にみちた視線を歯牙にもかけず、梨神は続ける。「おまけに勤めていた会社の不透明なお金の処理方法とか、銀行・政治家との表ざたにしにくい関係も、ひとまず追求されることはない。介入したがっている関係者は、渋い顔してるけど」

「なぜ、追求されないんです?」

「上の筋からの圧力よ、きまってるじゃない。おえらい政治家さん」

「あなたはなぜ、そこまでご存じなんですか?」

「教える義務はないはずよ。あなたは、わたしの可愛い駒」。人差し指をのばして、肇の唇にふれた。「あなたが罪に問われることはないから、安心しなさいな。ただわたしの頼みを、聞いてくれるだけでいい」

「今度はなんです? ただ都内を散歩して」

「あの女ルポライターから私的に貰った資料を読みこむことで、けっこう退屈はまぎれてたんじゃないの?」。梨神が意味ありげな顔で瞳の奥をすこしずつ、青く光らせはじめる。「たしかにあの女から情報をとるのは許可したけど、よけいなことに首をつっこんで何になるの? 蛙の子はなんとやらで、探偵の血でもうずくのかしら」

「どうしても、気になって」。肇は頭を抱えていた。あのニューランドマークとかいう会社の会長は、自分の手で解体した八蛇神社に、誓紙を奉納していた―――そして梨神はおそらく、そのことでかれを恨んでいる。

だが、そのことと起きていることが結びつかない。何よりも分からないのは、木下まつりのことだ。だが肇の心を見透かすように、梨神は自ら言い出したのである。

「まつりのことなら、先に教えておくね。あれは四九年前から、うちのお社の居候だったの」

「・・・居候?」

「例の桃井という男と木下まつりは、どちらも当時、市内に住む若者だった」。ストローを手の中でいじくりながら、梨神が答える。「桃井ってじいさんは生来、牡の獣性を飼い慣らせない男だったようね。まあ牡の欲望が飼い慣らしにくいものであることは、あなたも男なら分かるでしょうけど―――」。そこで彼女は、意味ありげに意地悪そうな笑みを形の良い唇に浮かべる。

「そして運悪くまつりは、人気のないあの林道で『あの男』とばったり、遭った・・・木下まつりがせっかちで、しばしば登下校の近道にあの林道を使うのを知っていたようだわ。桃井は神社のそばで待ち伏せていた―――」

悲鳴はむなしく林道に響くのみだった。まつりはあの八蛇神社のすぐ近くで、桃井に捕まったのである。だが桃井もそのときが長い犯罪歴の初体験であり、段取りに慣れていない。まつりはまつりで、抵抗をやめなかった。かっとなった桃井はまつりを殴りつけた。そして最後には、首を絞めた・・・

「ま、桃井文太郎も殺人はそのときが最初で最後。獲物を襲うのはあくまでも『食べるため』であって、殺したのは慣れない初心者ゆえの、予定外の行為。けっきょく、生きた彼女を抱くことはできなかった―――死んだのを気絶と勘違いして、しっかり『する』ことはしたんだけどね」

だが無我夢中で、かれの無数の性体験のなかで唯一となる死姦をすませたあと・・・ようやくまつりの死に気づいて、当然ながら狼狽した。ある意味で口封じは完璧だったが、その口が呼吸までしなくなったら「死体の隠匿」という、別の厄介ごとに追われるのである。

「かれは性犯罪にかんしては口止めすれば何とかなる、最悪つかまっても数年で出所できると高をくくっていたみたいね。でも殺人者として裁かれることにだけは、いっぱしの恐怖を抱いていたのよ」

その後の人生でも桃井は性犯罪の「キャリア」を着実に重ね、巧妙に逮捕は免れたものの容疑をかけられ続けて、日陰者の人生を歩む。だがそちらの運命は、かれにとって痛くも痒くもなかった。

然るにかれは「人殺しめ」と後ろ指さされることだけは、怖くて耐えられなかったのである。まつりを乱暴したことには罪悪感がなかったが、殺したことだけは罪の意識にさいなまれ、時効になろうがなるまいが、また死刑になろうがなるまいが、墓場まで持って行きたい秘密となっていた。

「あの男は八蛇神社の拝殿の裏側に、まつりを埋めた。でも焦りすぎて、じぶんが犯人だと証明できる証拠品まで埋めてしまったの。だからそのあと暫くは、お社にやって来てこっそり掘り返そうとしていた。そのたびにわたしが脅かして、追い返してやってたのだけど―――」

梨神はややおごそかな口調に改めつつ、ストローでジュースを一気に飲みほす。「どの道まつりをわたしのお社に埋めたのが、あの男の運の尽き。わたしはそれ以来、彼女の保護者になった・・・」

お社のぬしとしては、たとえ目前であれ境内の外で起きたことに介入する義理はなかった。問題は桃井が、死骸を神社に埋めてしまったことなのだと梨神は言う。

「なにぶん血で汚されたでな―――いずれ彼女の死は、明るみにする腹づもりではあった。よもやあのようなかたちに至るとは実のところ、このわたしでさえ思わなんだがな」。半ば本気で、彼女は意外そうな顔をしてみせる。「まあ『別の案件』もできたこととてこの機会を逃すこともあるまいと、やや無茶な力業にいたってしまったが。あればっかりはあの男が背負っていた、因果の糸というしかない・・・」

ともあれ。まつりの遺体は、遺族により埋葬される。おかげでわたしの、肩の荷もおりた・・・梨神のその言葉を、例によって肇はどう問いただせばいいのか、言葉が思い浮かばない。ただひたすら、奇妙な感覚に襲われている。そして梨神の目の奥の青い光は、いまや明けの明星のように強い光を放っていた。

その光に見とれていると肇は、彼女に何を問いただせばいいのか、そもそも何を疑問とすればいいのか分らなくなってしまう。だがそれでも・・・辛うじて、その疑問だけは口に出来た。

「あの―――いま機会と言いましたよね。ひょっとして、桃井文太郎を殺したのは―――?」

「そうさな。まつりではない。もとより桃井が処されることは彼女にとっても、望ましいことではあったが・・・死霊は死霊。呪殺などという器用なまねはできぬ。むろん協力はさせたが」。梨神は、意味ありげに頷いて見せる。

「そして桃井を処する動機と力を持つとすれば、それはお社を血で汚された、わたしのほうかも知れぬな」

ならば。ならば桃井文太郎氏の首を切りとばしたのは・・・?

「ま、それ以上は聞かぬが華ね。巻きこまれたくないのなら」。さっと目の青い光を打ち消して、梨神は愛嬌のある軽妙な口調に戻った。

肇の心が呪縛から解き放たれた。かれは反射的に立ち上がる。背中に悪寒が走っていた。梨神はそんな肇をまるで何かに幻滅したかのように、どこか醒めた目でみつめている。

「あなたは『雇われた人間』として、金銭分の仕事だけを、すればいい」。ややあって彼女は、あきらめたようにそう言った。「桃井とまつりのことは深入りさえしなければ、関係者にならずに済む。そう割り切ればいい。それよりも残るミッションに参加して、今後のキャンパスライフに要する学資を案じなくて済むだけの収入を得ること―――あなたが優先すべきは、そのことじゃない?」

「・・・刑事罰に問われるようなことでなければ」。しばらくためらったあと、かろうじて肇はそう答える。父の顔が脳裏に浮かんでいた。おやじを巻き込みたくない、巻き込んでいいレベルのことじゃないと自分に言い聞かせながら。ましてや彼女が何者なのかという疑問は、なぜかまったく詮索する意欲がうせていた。

そんな肇の心を見透かしたかのように、梨神はちょっとだけ微笑む。それから不意に、艶っぽい目つきを走らせた。「どうする? 今夜また、あなたのホテルに泊まりにいこうか? せっかく東京で合流したんだし。夜をともに過ごすのも悪くないわね・・・」

肇の頬がこわばった。少なくとも、今すぐ答えることはできなかった。

「じゃ、最後の仕事を与えるね」。あきらめたように彼女はため息をついた。それから口頭で、ごく簡単な命令を伝えたのである。だが何度も復唱してもらわなければ覚えることもできないほど、肇の心はざわめいていた。




「八蛇神社―――そうだ、あの神社はたしかそういう名だった・・・」

書斎で虎皮のソファに身をうずめ、頭を抱えながらも末橋は、おのれの記憶をさぐりあてつつあった。

あれは五〇年前、学生時代のことだ。末橋は学生たちのサークルで急激に加速していた反政府運動に熱中するあまり、道を踏み外しかけていた。

ふと気がつけばかれの所属するささやかな組織も警察の監視対象であり、末橋は約束された「エリート大学出身者」という椅子を失う恐怖に、おびえるはめになっていたのだ。かれはひそかに、同志と袂を分かつ方向を模索していた。

貧乏な苦学生が、弁が立ち頭が切れるのを買われて学生の政治ごっこの小宇宙で注目を浴び、組織のリーダーの目にかなって組織内末端としてはちょっとした「出世」に酔いしれたのが、思えばケチのつきはじめだった。

もともとかれに、その種の活動に積極的に関わる予定があったわけではない。当時の大学の雰囲気、社会のムードというものに合わせ、のってみただけである。何よりかれは、子供の頃から父を手伝い労働にいそしんできた貧しい庶民出身者だけに―――机上の理想におぼれない生活者のリアリズムを、併せ持ってもいた。

だが末橋が「(理論派ではないが)腕のいい勧誘者」に祭り上げられて束の間の栄光に得意になっているうちにも、所属組織の過激な路上デモのパフォーマンスは、当局から目を付けられてしまっていた。警察が接触しはじめると、サークル内部はあっさり動揺した。

あげくのはてに組織上層部は追いつめられた集団によくある興奮状態となり、「かくなる上は本格的に大学から脱出。ほかの組織と合流して山岳地での潜伏闘争に移行すべきだ」という意見が、大勢を決してしまったのである。

末橋は内心で狼狽した。常日頃、かれが仲間を煽っていたこともそういう結論にむかう一因になっていたのだが、末橋自身にしてみれば、手綱を離れた馬などに用はなかった。あげく口実をもうけて移動中の組織から離脱し、「後は野となれ山となれ」とばかり、故郷に逃げ隠れてしまったのである。

さいわい、かれとおなじく「巻きこまれた末端」のなかに末橋の離脱を怪しむ周囲をはねのけて庇ってくれたお人好しがいて、おかげで辛うじて虎口を脱することができたというわけだった。

「同志末橋は、おれたちを裏切り逃げる臆病者じゃない! 本人のいうとおり、やむをえない事情ゆえのもの。かならずアジトに戻ってくる!」

わしの下手ないいわけを盲信して、立ちはだかってくれた男。名をなんと言っただろうか? はやせ・・・早瀬武とかいったっけ。ふむ、おれに煽られて勧誘された、おっちょこちょいで単純なやつだった。やはり才能のある人間は知らず知らずのうちにチャンスの種をまき、あとで投資を回収できる。おれの「煽り」のうまさに乗せられた人間が、はからずもおれの逃走の役に立ったというわけだ―――

ともあれ、ほとぼりが醒めるまでは身を隠そう。なに、長く待つ必要はない。いずれ連中はつかまり、退学となっておれの視界から永久に姿を消すだろう。そうなればおれは、ほんらいの大望である金銭的・社会的な成功に専念することができる・・・

自分は仲間内では「煽る側」だった。だが、運命をともにする義理はない。煽られて踊ったバカの面倒まで見ていられるか。あのときは自分の身の安全とその先にほんらい待っているはずの成功が、ひたすらに愛しかった・・・

そして忘れもしないあの日。おれは、不安におびえる日々を紛らわすように綾樫郡の林道に踏み込んでいった。日中なのに、霧が濃くて薄暗く、ともすればそのまま迷子になってしまいそうな。やがて眼前に、荒れ放題の神社があらわれた。しかも奇妙なことに女神のような冠をかぶる、赤い装束の女が微笑んでいて―――

「おまえ、仲間を裏切って逃げてきたな」

見透かしたような笑顔で、現に見透かしてのけたのである。だが驚く暇はなかった。彼女は嘲りであることを隠そうともしない笑いかたで、さらに驚くべきことを言ったのだ。

「ひどい男だ。おまえが逃げるとき、おまえが戻るのを信じて一時離脱の許可を進言した仲間もいるようだな。おまえに勧誘されて仲間に入り、おまえのせいで窮地に立つのに、不義理なことだ」

「なぜ、それを―――?」

「この境内に踏み入りし者の過去も今後も、わたしにはわかる」。女はゆっくりとうなずく。怪力乱神のたぐいを信じない社会科学運動家のはしくれ・末橋だったが、このときはあたかも夢の中にいるかのように、女の言葉に疑問を持つことなく受け入れていたのである。

「よいのか、救う手だてを講じずに? そいつはたぶん、おまえの代わりに死ぬぞ―――殺されて埋められる」

おれ―――わしは、確かにそう聞いた。末橋はソファにもたれつつも、喉の奥から何かの獣のような唸り声をあげていた。いまや記憶は、すっかりよみがえった・・・そうだ、わしが「命の恩人」を見捨てたことを、知る者がいたのだ!

そのときの末橋は、ただ顔を横に背けるだけだった。早瀬のいかにも人なつこそうな笑顔が、一瞬だが脳裏にうかんで消えた。女の指摘が真理であることを、かれは知っていた。心に咎めるものがないといえば嘘になろう。だが下手に通報すれば、こんどこそ積極的な報復の対象になるかもしれない。そもそもそういう情報を知っていることじたい、復学するにあたって不利な条件になりかねなかった。さいわい彼自身はまだ、「リーダーに気に入られてはいるが組織の重要案件にはうといお調子者の末端」にすぎず、警察からマークされていない。

(『知らぬ存ぜぬ、途中でケンカ別れした。今後は故郷の両親のため、心を入れ替えて勉学に励む』―――当局に問いただされたときは、そう言い通すしかない)。末橋はとっくに、そう決めていたのである。

「どうだ。わたしに願いをしてみるか―――『このまま同志からも官憲からも逃げおおせますように。そして、栄えある人生を過ごせますように』とな・・・そう誓いを立ててみようとは、思わぬか?」

不意に、女がそう言う。驚いて顔を上げた末橋に、童顔の美女は皮肉めいた口調で言う。

「人が願いを叶えるには、善良である必要も正直である必要もない。ただ、頭が切れて欲望が強ければよい―――おまえは窮地を脱し、世界を得たい。そうだろう? たとえ魂を失っても、そうしたい男だ」

そのときなぜ、驚きもせず相手の正体をたしかめなかったのかも分からない。今となっては、ひどく薄ぼんやりとした記憶である。

精神的に追いこまれていたせいでもあろう、相手が神秘を感じさせる装束と美貌のぬしであることも、作用したかもしれない。ともあれ若き日の末橋は、すがりつく思いで女の申し出に頷いていたのだ。

「ただし」と、女は言った。

「とうぜん、相応の供物を差し出してもらわねばならぬ。それを含めて、誓紙を出せ・・・」。女の左手に、いつの間にか紙とペンが用意されている。いっそ滑稽なことだが、何の変哲もない洋紙と万年筆が。

「供物?」

「おまえが裏切ることになる、おまえの仲間の魂」。女はくっくっと楽しそうに笑う。「その者の名を書き、その魂を供物にすると約定せよ。なに、どうせその男は死ぬ。おまえの裏切りでな。ならばついでに供物にしても、惜しくはあるまい・・・」

女は赤い唇をゆがめて、うっすら笑みをうかべる。その唇がわずかに舌をのぞかせたとき、(まるで蛇の舌なめずりのようだ)と、恐怖を感じるでもなく末橋は思っていた。

「あと、もうひとつ―――」

夢遊病患者のようにふらつく足取りで女に近寄り、さしだされるままに万年筆を手に取った末橋の耳朶に、女の声が木霊していた。

「もしわたしの恩義を忘れ、このお社に不義をなしたと判断したとき―――そのときはおまえもまた、わが贄となる。それも誓うがいい・・・」




そうだった・・・わしはたしかに、誓紙を出したのだ。ただし世間に吹聴しているのと異なり、あの廃屋と化した神社にだ。完璧に己をだましてきたが―――

「これでいい。おまえは今後の人生で、二度とあの忌まわしい連中とは関わらずにすむ。学び舎を出でしのちは栄誉も富も、望むまま手に入れるだろう・・・」

その託宣のような言葉を、わしはどんな想いで聞いていたのだろう。今となっては思い出せない。ただ、彼女の語った一字一句が、やけに鮮明によみがえるのみである。

「だが、気をつけることだな」。末橋が書き上げた誓紙を懐におさめながら、そう忠告した女のことばが心に浮かぶ。

「心のおもむくまま勝ち続ける万能感に酔いしれ、わたしを忘れ、増長して不義理をなす―――おまえは、そういう星のもとに生まれているのかもしれんぞ」。女はくっくっと、耳に障るいやな笑い声をたてつつ、そう忠告した。いや、忠告と言うよりも期待、期待と言うよりも予言?―――

「そうなれば今度は、おまえから贄を回収する。勝利は遠のき、おまえの屍は無惨な敗亡のなかで、打ち捨てられる・・・

心せよ、末橋雄斗。そういう因果はわたしにすら、どうしようもないものなのでな―――」。そしてそのまま彼女はきびすを返し、霧の中を去ってしまったのである。あわてて声をかけて探してみたが、もはや誰もいなかった。壊れかけた神社の中に、末橋はただひとり、ぽつんと残されていたのだった。

狐に摘まれた思いで実家に帰ってみると、おりしもテレビのブラウン管が、かれが予想していたとおりの運命を告げていた。袂を分かった組織のアジトが公安に摘発され、破壊工作の準備の証拠が押収され、なおも数人がちりぢりに逃げたという報道が。

末橋をかばってくれた早瀬武の名も、行方知れずの数人の中に混じっていた・・・いらい、かれとは一度も会っていない。そのまま逃亡扱いとなり、退学処分となって終わった。末橋は、あえて探そうともしなかった。

もともと勧誘されて勧誘員になっただけ。「ちょっとリーダーに可愛がられてもいたようだが表での目立った活動をしていない、組織の末端」。官憲の目にもさして重要な存在と見られていなかった。今となっては矮小な存在であることのほうが、うれしかった。わざわざ注目を浴びるようなまねをして、何になる。復学した身を守るのが先決ではないか―――

それから半世紀がたった今。一代で帝国を築いた男・末橋雄斗はあの、追われるねずみだった時代とおなじくらい臆病な素早さで、書斎を飛び出していた。今すぐにでも、腹心の重役に確かめなければならない。綾樫郡のリゾート開発責任者は、誰なのかを。

そして、八蛇神社がいま、どうなっているのかを―――




マンションの室内で。恋人の近藤憲一が背後から肩を揉んでくるのも構わず、早瀬恵美は苦笑しながらパソコンにむかい、文章を作っていた。

「もう仕事はいいだろ。飲もうぜ」

「忙しくなったのよ」。笑いながら恵美はかぶりを振る。「あとでちゃんと相手してあげるから、いまは待ってて。今夜中に、死体を発見したときの体験記を書かなくちゃ」

四九年前に失踪した少女の遺体発見のからみで、たんなる被害者だった桃井文太郎にかんする世間の目が急激に変化している。いまだ不透明ながら事件関係者とおぼしき、拘留中の上司のことも。ニューランドマーク社はほんらいの業務にまつわる悪評とは関係ない、オカルトじみた連続猟奇事件で結果的に注目を浴びてしまっていた。

うまくいけば綾樫郡をはじめとする様々な物件買収や事業展開にかんする、法的なグレーゾーンにも注目がいくかもしれない。それを突破口にした、あの奇妙な強運をもつ奇妙な強運の帝王の過去も追求できるかもしれないのだ。恵美がジャーナリズムを志したほんらいの目的はそこにある。オカルト話は好事家にまかせておけばいい。

恵美の携帯端末がメロディを奏でたのは、そのときである。

「あなたのインタビュー記事、読ませてもらったわ」。それは聞き覚えのある声だった。「貴女自身、仕事で一皮むけたってとこかしら?」

「情報については、お礼申し上げます」。狼狽と興奮を抑えながら、恵美は答える。「今回はどんなご用件でしょうか? 素性を教えてくれる気はないんですよね?」

「素性など知らなくても、わたしの情報がほんものなら貴女にとって不都合はない。ましてあの末橋の謎を解く鍵ならば。そうでしょう?」。例のくっくっという、からかいのこめられた笑い声が電波ごしに響く。だがもはや恵美は、それに反発する気など失せていた。

「・・・今度は、何を提供してくださると言うんですか?」

「ねえ。あなた、『早瀬武』のお兄さんの、孫なんだよね―――?」。反問してくる女の声に、恵美は反射的に立ち上がっていた。

「なぜ、それを!」

「それは、秘密」。女は恵美の当然の疑問を、いっそ面倒くさそうなくらい、ぞんざいにはねのける。「あなたが末橋会長にこだわるのも過激活動にまきこまれたあげく、逃亡者として消息がとだえた大叔父の謎を調べているうちに、重要人物として浮上してきたから―――だよね?」

そのとおりなのだ。当時、山中に潜伏していたところを逮捕されて懲役となり、出所して一市民になった元・過激派学生たちも、捜し当てて取材しようとすると邪険に拒絶する。あるいは「よく分からない」と、口をつぐむ―――「警察が踏み込むより前に逃げてしまって、それいらい会っていない」の一点ばり。

ただ、どうも末橋と懇意だったことが、大叔父の消息に決定的な関係があるらしい。そこまでは突き止めている。そこから先がどうにも分からず、手をこまねいていたのである。

「大叔父さんのことで、末橋に強い関心を抱いている、そうでしょ?」

恵美は、黙っていた。相手が何を言い出すのかを待つだけだ。鼓動が高鳴る。

「どうやら、図星ね。じゃあ、おしえてあげる。あなたが興味をもっている『本丸』の情報を」。若い女の声は恵美を震撼せしめる言葉を、歌うかのような抑揚でさらりと言う。「ねえ―――あなた、また穴掘りしてみたくない?」

「どういうこと―――?」

「末橋がまだいっぱしの反政府戦士だった時代、かれが属する組織がお山にこもって戦争の準備をしていたのは、知ってるわよね。まあすぐ地元警察に踏みこまれて武器を押収されたし、それ以前の段階で足抜けしていた末橋は、無罪放免になってしまったけど。でもね・・・」

女の声が、まるで地の底から響くようにくぐもりはじめる。聞き漏らすまいと受話口に耳を押しつける恵美を、まさに底なしの闇の奥にひきずりこむように―――

「ほんとうは彼の、いってみれば『身元保証人』になったことが仲間に咎められて、大叔父さんは死んだのよ。早瀬武の死体は、まだあの山中に埋まっているわ。どこに埋まっているか、わたしは知っている・・・」




その翌日・・・

その夜の梨神は、派手な装身具でかざりたてた、黒いカラスのようなドレスをまとっていた。

そんな格好で国会からほどちかい、オフィス街の夜景を眺めている。周囲には人っ子ひとりおらず、ただ電球色の照明だけが境内のところどころを幻想的に浮かび上がらせている。それは都内のとある神社。梨神は視線を夜景から、背後の拝殿のほうに移した。拝殿にはたった一つ、人影があった。

白いスーツで眼鏡をかけた、長身の若い女性であった。なにやら熱心に参拝していた。いかにも知的な風貌、まじめな印象。かなり長い時間をかけた、儀式にのっとった丁寧な拝礼をすませたあと、彼女は拝殿を背に「無人」の神社から去ろうとした。

「こんばんは」

梨神が、にっこりほほえむ。手を伸ばせばお互いにふれることができるほどの距離に、いつの間にか梨神は立っていたのだ。メガネの女性は彼女にとって神聖な時間にいきなり忍び込んできた闖入者に、ひっと小さな悲鳴をあげて後ずさった。しかし梨神はますます嬉しそうな表情で歩を進め、女の顔をのぞきこむのである。

「驚かせてごめんね」。言葉の割にちっともすまなさそうな声で、梨神は言う。「ちょっと、協力してほしいことがあるんだ」

それからしばらくして―――梨神は鼻歌を歌いながら、長い石段を降り始めた。

石段を下りた先には、タクシーがアイドリングしながら停車していた。さきほどの長身で眼鏡の女が、待たせているタクシーだった。




梨神が小高い神社から見下ろしていた、国会議事堂にて。控え室にむかう長い廊下を闊歩しながら、岸部副総理はならんで歩く森田代議士から、抗議めいた忠告を受けていた。

「本当にいいのかね? あそこまで肩入れして。あの会社には調査に立ち入りたがっている筋の役人が山ほどいてな、みんな恨みがましそうにしていたぞ―――」。心なしか残念そうに、かぶりを振る。「わしとしては自分の引退がてら、あの男と派閥との悪縁も、終わらせたかったんだが」

「残念ながらわたしも昔、あの男には多少の縁を作っていますからな」。岸部は難しい顔つきで、首を振る。「あの男の動向が巷間で取りざたされるのは政権運営上、まずい。そう判断したまでです」

「保険というわけか。だがいったんは縁が薄まっていたし、切り捨てるかもと思っておった」

「まあ、しかるべき筋には『わたしが再び副総理を辞任したら、それが合図だ。好きにしていい』と、伝えております」

「じゃああと二年は、逃げ道をつくる猶予があるわけだ」。森田は苦笑というには豪快な笑い声を上げる。「あの男、つくづく不思議な強運をもっておるわい―――ほんとうに誓紙を出したとか言う英霊の神々に、愛されておるのやも知れぬわな」

森田がそう言いおえて二秒とかぞえぬうちに、岸部の顔がゆがんだ。とつぜん腰に、すさまじい激痛が走ったのである。それはかれにとって記憶にある、不吉な痛みだった。

「医者を呼べ!」

あわてて駆け寄ってきた秘書や警官にそう叫びながら、森田はうずくまって悶絶している岸部副総理を介抱していた。

彼がこのときの自分の軽口の重大な皮肉に気が付いたのは数週間後、岸部副総理が持病の復活により先輩より一歩はやい引退を余儀なくされ、「約束」どおりニューランドマーク社に容赦しなくなった関係各位の非情な活躍ぶりを、目の当たりにしてからのことである。




都内のホテルのシングルルーム―――値段なりの狭いベッドにねそべりながら肇は、恵美から貰ったニューランドマーク社に関する資料を読みふけっていた。

もう何度も熟読してはいるが、いくら読みこんでもそこからは、じぶんが味わっている奇妙な事件との関連性は見えてこない。とりわけ「主人公」ともいえる創業者・末橋雄斗会長の半生にいたっては。

それは限りなくダークにちかいグレーではあるが波乱と強運に富んでもおり、書き手(恵美)の主観にもとづく否定的な筆致であってさえ、一代の風雲児の立志伝には違いない。そこからは今回の猟奇事件との関係性はもとより八蛇神社との関係も、何一つ抽出することはできない。分かったことと言えば末橋会長が、まれにみる強運のもちぬしだということだけだった。

「末橋会長が飛行機に乗ろうとしたさい、搭乗寸前に虫の知らせでキャンセルした。はたして乗るはずだった飛行機がハイジャックされ、テロに利用されて墜落。乗員乗客は全員死亡した・・・」

「末橋の事業部門で安全管理に関する重大な不備が発覚したことがある。末橋はその部門を閉鎖して物件を売却したが、結果としてそれらの土地が暴落する前に売り抜けた」

「末橋は株で負けたことがない。暴騰前夜の底値を買い暴落前に売り抜けて、株だけでも数十億円を稼いでいる・・・」

大きな事業や歴史に名を残す功績をたてた人物はしばしば、ギャンブル漫画の主人公みたいな強運にめぐまれているものだ。それにしても末橋会長という人物は、羨ましくなるほどの強運であることがルポからも感じ取れた。いっぽうで裏ではかなりきわどい法律すれすれのことをやる人物で反感も買っていること、かれの金と権力と権威への執着にはなにかしら宗教性を感じるほどの思いこみを伴っており、下の人間にはあたかも教祖のごとく振る舞い、かつ扱われなければ人物であることも余すところなく描かれている

とはいえ。いずれにしろ一社員にすぎない桃井の件と末橋本人は、結びつきそうにもない。強いていえば、「別件逮捕」されている金庫番の重役が、今後の問題になりそうなことだけか―――

肇は寝返りを打って、テレビニュースを見る。木下まつりの遺骨のそばから、桃井文太郎の手帳が発見された謎について報じられていた。続いて、神無月守男が愛人を刃物で傷つけた事件も。ところが犯行に使われた凶器は、当初報じられていた日本刀ではなく、フルーツナイフであることが判明したというキャスターの説明に、肇はあんぐりと口を開けていた。

肇の携帯が鳴り響いたのは、まさにそのときである。

「おい、肇。そっちの様子はどうだ?」。案の定、それは父の完治の声だった。

「明日、最後の仕事をやることになってるよ」。肇は正直に打ち明ける。「意味は分からないけど、難しい仕事じゃない」

「―――もういい、何もせず帰れ。富田氏にはこっちから連絡を入れる」ややあって、完治が言う。

「どうして?」

「いまさらだが今回の依頼は、気味が悪すぎる」。完治の声は、おびえていた。「そもそもあの神社のそばで首切り死体が発見されたとき、打ち切るべきだったんだ。おれも当時はまさかおまえたちが関与してはいまいと思っていたし、じっさい警察がおまえたちを疑うことはなかった・・・

だがな、その後のおまえと依頼主の行動は不審すぎる。車さえあのホテル『セイレーン銀嶺』に置きっぱなしにしたあげく、いまや東京だと? いまは何をしている。おまえは探偵社の人間だ。依頼人の指示内容は、俺に伝えるべきだろ」。

肇は吐息をつき、桃井の死体発見の件や依頼主と寝たこと、あげく便乗しての個人的な情報収集活動をしていること等を伏せつつ、昨日した報告を繰り返す。「とにかく木下さんとは、あの日いらい会ってない。そのあとはただホテルに待機して、ガキの使いみたいな仕事をひとつやっただけ。いままで話した通りさ。隠すことは何もない」

完治は電話の向こうでしばらく黙っていたが、どうやら切れたらしい。「木下さんの件を、おまえは何とも思わんのか?」と叫ぶ。

「おまえもニュースを見たはずだ。あの女の子の遺体が、発見されたのをな。疑う余地はない、あの写真だ。なにより名前が一致している」

ベテラン探偵の父がこんなに恐怖にかられた声を出すのは、はじめてだ。しかし他人が動揺していると、かえって人は冷静になるものだ。肇はやりきれないと吐息をつきつつ、空とぼけることにする。

「落ち着いてよ、父さん。四九年前の写真だぜ? 単に名前が一致したり顔が似たりなんて偶然の一致、ありふれた話さ。血のつながった親戚ってこともある」。肇はじぶんでも不思議なくらい、落ち着いた声でそう言い渡す。「とにかく、依頼料は破格の高額なんでしょ? こっちに危険はおよんではいない。だったらしっかり、続けない手はないよ。違うかい?」

完治は、押し黙った。肇の説得を信じたわけではない、あれはどう見ても木下まつりだ。

ただ、それをどう説明すればいいのかはかれにも当然、わからない。実際的な人間である完治はかねがね、オカルト的な現象を認めていない。まして息子に鼻で木をくくったように否定されると、なおも恐怖を露わにすることはやりかねる。収益が無視できないという指摘は、そのとおりだ。

「―――おまえは、それでいいのか?」。ややあって、父の疑い深そうな声が響く。思った通りだ。濡れ手に粟の儲け話に、父はたっぷり未練があるのだ。むすこに危険が及びさえしなければ、いろいろ疑念の種子は尽きないが完遂するに越したことはないのだろう。

「せめて、居場所を教えてくれないか―――」。懇願するような父の声。「おまえが受けた指示の目的は分からないが、太田とかいう女がニューランドマーク社の会長に何かを仕掛けるつもりであるのは、明らかだ。まきこまれたら厄介だ。用心するに越したことはない。いますぐ俺がそっちに向かい、代行しても良い」

しかし肇は、これには冷徹だった。梨神は、探偵社の上役である父に連絡や報告をすることは禁じていない。だが肇が受けた任務には時間指定があり、いまさらこっちの都合で延期するわけにもいくまい。

「心配要らない、心配になったら教えるから。言ったとおり、やることは単純さ。じゃあ、もう切るよ」

電話を切ってから、念入りに電源も切る。そうしてからかれは二度、深呼吸してデスクの前に腰かける。デスクの上には、梨神から受けた「最後の任務」が鎮座していた。例の、かれが預かっている「末橋雄斗」の署名入りの茶の封書が。

肇はそれをひっつかみ、立ち上がった。時刻は夜の一〇時をまわっているが、これからそれを「ある人物」に手渡さなければならなかった。

それが肇の、最後の仕事である。





おなじ夜。ニューランドマーク社傘下の宴会ホール「オルレアン」内では、瀟洒なシャンデリアの照明の下、いかにもヨーロピアンなインテリアの濃い色調の大広間を貸し切りで、五〇人は下らないスーツ姿の男女がいくつかの円卓に分かれ、美酒と美食を楽しみながら歓談していた。

壁面には会長主催の「第一〇回・末橋がえらぶ有識者講演会」なる、ちょっと気取った表題の毛筆の額が、掲げられている。

それは本社から徒歩五分の場所にあるホールで、なおかつその最大の広間貸し切りで開かれる、会長個人名義での定例会合である。

毎月一度、末橋会長と取引先の企業や政治家たち、さらに選抜された数人の重役もまじえての親睦会。、政治家および会長が指名した数人の来賓をのぞけば飲食代をとられるもののニューランドマークの権勢を誇示するための恒例会だ。また、側近はもちろん下請けの管理をも兼ねている。

「政治家にとっては、献金を惜しまない『優良企業』への顔つなぎ。下請け企業のおやじたちにとっては、かれらの『帝王』である会長をほめたたえて今後も仕事にありつくための挨拶セレモニーだよ」

その夜にあつまった客たちも、顔見知りどうしはひそひそ声と苦い顔でそう評していたものの。莫大な資金力を誇るニューランドマーク社の、いや末橋雄斗の権威を遺憾なくセレモニーにはちがいなかった。毎回八〇名をくだらない『客』があつまるこの会はでかれは臣下を謁見する王者として講演者とともに上席に座ることは末橋にとり、何度やっても飽きることのない愉悦である。いずれ銀嶺本社のほうでも地元の古い顔なじみを相手に、もうすこし小規模な会を開いてみよう。もちろんあの忌まわしい事件が一段落し、「元」常務の神無月の始末がついてからだが―――

さて。ちなみにこの会合、いちおう名目は「講演会」とされている。そのため高名な社会学者や作家、ばあいによって宗教家・思想分野の有名人や、一芸に長じることで話題になっている人物などを呼んで、適当に演目を決めて貰っては三〇分ほど語って貰うことになっている。

この夜も末橋は、上席に陣取り、主賓の到着を待っていた。普段なら演出効果をねらって開会式ぎりぎりで入場するかれがすでに着座しているのは、肝心の主賓が遅刻しているからである。

「いま竹下先生から連絡がありました。タクシーが渋滞に捕まって、五分ほど遅れるとのことです」。秘書がそうささやく。心ここにない面持ちで、末橋はむっつりうなずく。「とにかくメイン・ディッシュがこなければ仕方ない。皆さんにも伝えておけ」と、指示するのみだった。秘書から伝言を受けた司会はうなずき、一同に説明する。

実際にはこの会、主賓のあとの会長の一席こそが真のメインである。己の「偉大な半生」をふりかえっての人生訓、実業家としての自慢話まで話題はさまざまだが、何かといえば要人との友情を誇示することが多い。独自の外交観や歴史観を披露することもしばしばだった。もっとも、わりと底の浅い陰謀論だの講談だのをうのみにしているのが、彼の特徴である。末橋の経歴を知るものからみれば、三つ子の魂なんとやら。学生時代と変わらず「思いこみの激しいアジテーター」というのが、かれへの密かな評価であった。

やがてさっと扉が開き、やや遅れていた主賓の講演者が現れると、司会が紹介した。「O女子大学の準教授を勤めておられる宗教学者、竹下栞先生です!」

会場に拍手がわきおこる。面識のない若い女の学者に待たされた末橋は思わず「ふん」と鼻を鳴らした。実を言うとここ数日おきている椿事と、例の不思議な女の思い出のことで今回の参加には身が入っていなかったものの。何も言わずに栞と握手し、うなずいて歓迎の意を表する。

その日の講演は「日本伝統の宗教観について」と称して、若手の宗教学者が招かれていた。まだ三十路半ばと若く、細身長身で銀縁メガネがいかにも知的な彼女は、学者であると同時に日本最大規模の宗教法人に所属する神職でもあり、古都で代を重ねていた華族の血筋でもある。与党からはパトリオティズム推奨運動における、理論的指導者の一人と目されていた。

(気が進まないが、岸部に取り入るよすがは、一つでも手繰り寄せておかねばな・・・)。正直、本人にたいしては関心はなかったものの岸部副総理と縁が深いことが、かれには大事なことであった。末橋の心を知ってか知らずか、握手を終えた栞はさっそうと壇上に立ち、機嫌よく聴衆を見回す。

「さて。本日はいわゆる日本古代のアニミズムと、中世以降のより整備された神社・仏閣の違いや変遷について、なるべく分かりやすく、お話したいと思います・・・」




大広間の入り口にて。参加者名簿をチェックしていた受付嬢がふと顔を上げたとき、目の前におよそ宴の席に似つかわしくない、ラフな服装の若い男が立っていた。土岐肇である。不審そうな顔つきになった受付嬢に、肇は先手を打って語りかける。

「べつに講演予約者じゃありません」。と、肇は言う。「ただこれを、今日の講演者に取り次いでほしいんです」

そういって、一通の茶封筒を差し出す。「ただ手渡すだけでいいんですが、ただし会長を通じて手渡してください。なにぶん、会長の私物なものですから―――」

「あの。竹下栞先生の助手かなにかですか?」

そう尋ねながらつい機械的に受け取った大きい茶封筒の署名を一瞥して、受付嬢は眉をひそめる。たしかに表に「誓書」とあり、裏に「末橋雄斗」の名がある。彼女もニューランドマーク社員のはしくれとして会長の色紙や揮毫を目にすることは多く、会長の筆跡に似ていることはすぐに分かった。封も切られていないようだ。しかし、これだけで何かが分かるわけでもない。講演に使う資料だろうか? だが同時に、会長の私物だという。

「あなたの、お名前は?」

「八蛇神社の使い」。そう言ってから、「末橋会長の学生時代の同志が埋葬された場所について、『興味を持っている関係者』と伝えたほうが確実かもしれませんね」と、付け加える。

もとよりその説明は受付嬢を納得させる内容のものではなかったが、要は気迫だ。精いっぱい「どす」を効かせた強い視線で、肇は受付嬢に迫る。

「これ以上は言えません。一社員である貴女がそれ以上知ることを、会長は好まれないはずです―――お急ぎを」

受付嬢の顔に、不審さに加えてかすかな不安が浮かぶ。意味はわからないが講演者の名も出されていることではあり、いたずらにしては手が込んでいる。彼女は立ち上がって声をあげ、廊下の隅に立っていた黒いモンキーコート姿のスタッフを呼んだ。背の高い若者が寄ってくる。

「お客様に、ここで待ってもらっておいてください」

屈強な同僚に険しい表情でそういうと、さっと身を翻して大広間に入っていく。怪訝そうな顔で見下ろしてくる黒服の男を前に、肇は内心では途方に暮れていた。強引に逃げたらかえってまずい。




「・・・しばしば教理や教義がないとされる日本の伝統宗教も、律令時代の神祇制度でピラミッド式の組織構造がつくられ、九世紀からは神仏習合、さらに近世の国学といったぐあいに、時代がくだるにつれ理論化と整合化の努力もされてまいりました。ただそのいっぽうで、着帯の祝いや初宮詣で、七五三に年祝いなどの通過儀礼や、松迎え・左義長・節分・端午の節句にひな祭り・盆行事・重陽の節句・霜月祭りなど、民衆の年中行事を支える文化的基盤にもなっており―――」

栞の、おっとりした口調の講演を末橋は、眠たげな目で聞き流していた。学術的な意味での宗教にはとんと興味のない者にとって彼女の講演は、退屈で冗長なうんちく自慢でしかない。末橋がそんな講演者をえらんだのは、ひとえに彼女がじぶんの支援する政治派閥から、覚えがめでたい有名人だからにすぎなかった。まあ末橋にかぎらずお義理で参加している聴衆の三割がたの口から、あくびが出てはいたのだが。

常日頃、与党政治家たちと肩をならべて文化的伝統の復興をさけぶことに快楽を感じ、国威復興を示唆するセレモニーに参加し、政権のパトリティオズム推奨を支持する旗振り役としても知られている末橋。だが実はこの種の学術的な分析など、かれにはどうでもいいことだ。

学生運動時代からこのかた、教義の「理屈」よりもそれが生み出す情念的な権威だけが、偏執的だが実際的でもあるかれの、関心の対象である。自動車の利便性を愛することと、そのメカニズムや関連法規を学ぶのを愛することとは、別だった。かれじしん熱弁を好んだが、理論よりも煽ることが主目的であり、深い真理をもとめる学究肌の人間ではない。

それにしても―――こうしている間にも、かれのあくまでも現実主義的な心にも、名状しがたい奇妙な不安が生まれているのは否めない。

「八蛇神社は、すでに解体撤去が完了した」―――

それが、事業責任者の返答であった。

「解体した建て物の中から、何か見つかったか?」という問いには、「何もなかった」という返事である。末橋は安堵したような、拍子抜けしたような気分になった。やはりあの誓紙を書いた経験は、追いつめられた人間の現実逃避の白昼夢だったのかもしれない・・・

しかし代わりにほどなくして、地面の下から古い女子高生の死体が見つかるという椿事が起こり、社内にまたしても一波乱起こってしまったのである。

しかもその波乱も、最初はただでさえ遅延していた工事期日のさらなる遅延が主要な関心事だったのだが、驚くべきことに一連の変事の発端となった、文字どおり首を切られた社員が、関与している疑惑があるらしいと報じられることで、異なるイメージがつきまとうことになってしまった。リゾート開発事業にケチがついたなどという生やさしいものではない。対応をまちがえれば、ニューランドマーク社全体のイメージにもかかわる大事に発展しつつある―――

「会長、おそれいります。いま、奇妙な人物が受付に来ておりまして」

半世紀を経た深刻な物思いに浸っているいる末橋の耳に女の囁き声が飛び込んできたのは、栞のうんちくが佳境に入ってきた頃合いのことである。「若い男性ですが、会長の私物を・・・たぶん拾ったのでしょうが、お渡ししたいとか言っております。」

「う、うん―――?」。椅子にもたれていた上体を起こした末橋は、ぶしつけにもいきなり声をかけてきた受付嬢を見上げ、差し出された封書を確認する。

「なんだ、これは?」

「あの、会長の署名が入っております―――」。受付嬢はおろおろしている。「相手は、会長を通して、本日の講演者に手渡ししてもらいたいとのことなんです。ただ、ほかにもちょっと意味不明な言っておりますので、悪戯かも知れないとは思ったのですが、いちおうお耳に・・・」

「ふん―――」。封筒の署名はたしかにおれの字のようだ、しかしありふれた茶封筒でもあり、覚えはない・・・このときの末橋は心ここにあらずで、表紙の「八蛇神社」「誓紙」という宛名すら読まなかった。

加えて受付嬢は雲上人の会長に、多くを説明することをためらった。そうでなくとも、多忙なかれには会合途中で秘書やら重役が急の案件をもちこむことが少なくない。あいまいな話でいちいち腰を上げさせていたら、こっちの立場が悪くなる。

「その客とやらの実名と連絡先だけ、控えておけ。あとで確認する」。そういって末橋は茶封筒をぽんと表紙を上にして目の前の机上に置き、軽く手を振って受付嬢に引き下がるよう命じた。受付嬢はほっとした顔で、手ぶらで大広間を出て行ったのである。

異変が起きたのは、まさにそのときのことだった。

「あらぁ? ちょうどお話が本題に入ろうとしているときに、会長さんの手元に面白いものがおありのようですねえ。ここからも読めますけどそれ、お社あての『誓書』ですね」

いきなり講演者の栞が、そう声をかけてきたのである。聴衆はざわめきこそ立てなかったが受付嬢の挙動と、会長の対応は目にしていた。とはいえそれは講演者の真横の数メートル離れた位置で起きた、ほんらい講演とは無関係な雑事でしかないはずだ。めざとくも不躾に指摘の声をあげる講演者の態度は、突飛というも訝しい珍事というしかなかった。

この会で上席に座るときはいつも泰然として己の威風の演出をこころがける末橋も、このときばかりは驚愕の面もちを隠さず、講演者のほうを振り向く。

「えーとですね。これは今からお話する、日本古来のアニミズムに関してお話するのに、ちょうどいい資料が届いたようです。じつはわたし、さきほど立ち寄った神社で、面白い方にお会いして、おもしろい話を聞かされたのです」。栞はいきなり人が変わったように、躁病にでもかかったような立て板に水の勢いでしゃべり始める。「名前は言わなかったけど、八蛇神社という神社のあるじの女性からということで―――会長さんは、その神社に誓紙を、お出しになったことがおありなんですってね!」

聴衆はいっせいに、末橋会長のほうに視線を集中させた。

「で、その方、わたしにもご親切に、会長さんとの出会いのいきさつをお話してくださいましたので。もしよろしければ講演の資料にというので、ちょっと貸していただけますでしょうか?」

栞はそういうと、にっこり笑って末橋の前まで歩み寄り、手をさしだしたのである。「なんでしたら、ごじぶんで開封してくださると嬉しいんですけど?」

「・・・開封は、やりかねる」。末橋はかろうじて小声でそういったが、小声すぎて聞き入れてもらえたかどうか自信はなかった。かれは、ほとんど腰を浮かせていた。だがどんなときにも動揺だけは人に見せないのが、末橋の流儀である。いっぽう栞は「そうですか」と、頷いた。ややためらったあと。けっきょく末橋は栞に、封書を手渡した。




時刻は、その日の昼過ぎにさかのぼる。一台の四輪駆動の白いミニバンが、とある内陸県の山道を駆け抜けていた。

よほど田舎の道なのだろう、後続車は見あたらない。街路灯さえなく、夜中に引き返すときはガードレールの反射光だけが頼りになるだろう。助手席に乗っているのは早瀬恵美。運転しているのは近藤憲一である。

「しかし、疑うわけじゃないけど―――」。近藤は渋面をつくりながら、すでに何度も口にしている疑問を口にした。「君の情報提供者とかいうのは、なんで『そんなこと』まで知っているんだ? 情報は確かなのか?」

「前回、彼女は木下まつりの遺体の位置を言い当てた。なら今回も、そうだと考えて行動すべきよね」。それに、と恵美は心の中で言葉を続ける。今回の情報は彼女にとってとびきりの特だねだ。じぶんがニューランドマーク会長という大物を追いかけ続けてきたモチベーションの源泉―――大叔父・早瀬武の失踪の謎がかかわっているのだから!

「君につきあうおかげで、こっちは会社まで休まなけりゃならんというのに・・・」。近藤はそうぼやく。

「わたしがルポライターとして成功すれば、新婚家庭の財政も大助かりのはずよ」

「そうさな。成功して、テレビのコメンテーターとか大学の講師とかやるようになって、おれをマネージャーに雇ってくれたら、その言葉を思い出すよ―――おっ、この分岐を右に曲がればいいんだよな?」

そこでミニバンは、山頂にむかう上り坂にむかいはじめる。そこはすでに未舗装であり、たぶん車道ですらないだろう。軽自動車一台が通るのがやっとの道幅だった。だがその道を慎重に上り初めて三分とたたぬうちに車は、せまい空き地にたどり着いたのである。それこそが、目的地だった。

いまや草木が生い茂る一角であり、住所表記範囲も漠然としてはいる。そこで行き止まりになっており、ほんらいなら車はおろか人だって入るはずのない道だった。

それでも正確にたどり着けた理由―――それは、たとえば「民宿の看板」や「路傍に打ち捨てられた廃車のワゴン」といった、ほんらいカーナビにさえ無い目印を、情報提供者が懇切丁寧に教えてくれていたからに外ならなかった。

車から降りるなり、恵美はきょろきょろと周りを見回す。はたして「情報」どおりの風景であり、変哲のない雑然とした自然の中にもかかわらず、目的の場所を見つけだすのは簡単だった。

一羽の大きな白いウサギがうずくまっていた―――空き地の隅っこで、二人を「待っていた」のである。

「目印は、白い大きなウサギよ」と、情報提供者の若い女は言っていた。「ウサギがいる場所を、掘りなさい」

「え」。さすがに恵美は耳を疑ったものである。「ウサギの看板か何かがあるってこと?」

「いいえ、言ったとおりの意味」。女のからかうような笑い声が響く。「とにかく、行けば分かるから―――」

要するにウサギの形状をした目印があるということか。恵美はそう解釈したのである。だが、現にそこにいたのは本物の、生きた白ウサギだった。近藤が興奮して叫んだ。

「おいおい、生きたウサギかよ?」

二人が近づいてもなお、ウサギは逃げようともせずうずくまっている。物怖じすることもなく、赤い目で恵美を見上げた。それから一瞬だけ身震いすると、さっと身を翻して藪の中に姿を消す。ウサギがうずくまっていた位置には、彼が掘ったと見られる穴だけが残っていた。雑草がうずたかく生えているだけの変哲もない地面で、そこだけがぽっかりと、まるで何かの綺麗な円周の黒い闇になっている。恵美は穴に顔を近づけた。闇の奥に、遺影で見た覚えのある、いまの自分より若い大叔父の顔が見えたような気がした。

まちがいない、ここに大叔父の遺骸が埋められているのだ・・・

「ひょっとして、またしても本当に骨を掘り当てちまうのかな―――」。ミニバンの荷台から、すでに一度使っているシャベルを取り出し、近藤は泣き笑いの顔になっている。肉体的にも強健であり臆病でもないが、殺人の証拠品としての遺骨を掘り当てるという経験を、楽しむ趣味はない。

しかし恵美は確信をこめて無言のままうなずき、近藤の手からひったくったシャベルの刃を、穴の中に入れた。

(もし、大叔父の遺体が発見されれば・・・)。手を動かしながら恵美は、頭を働かせることも怠らなかった。

(今は何食わぬ顔で市井に暮らしている、元過激派学生たちの罪があらためて白日のもとに曝されるだろう。そして―――)

かれの死の直接のきっかけを作った裏切り者の男の、暗い過去を暴きたてることもできるはずだ―――シャベルをふるう彼女の手に、熱がこもる。

二人が早瀬武の遺骨にたどりつくまでに、一五分とはかからなかった。





宴会ホール「オルレアン」の大広間は、いまや半ば騒然とさえしている。栞が、たかだかと茶封筒を胸元に掲げ、これみよがしに聴衆にみせびらかせている。ときどき表と裏をわざとらしくひっくりかえし、「誓紙」という文字と「末橋雄斗」の名が聴衆の目に入るようにしながら。

「ご存じのとおり王権によって格付けされ、組織化されるよりずっと以前からこの島国には自然の山や川にうごめく、さまざまな物の怪―――もうちょっと格好良く言えば八百万神、精霊とかスピリッツとかいうものが住み着いておりました。

ミシャグジ信仰っていうのは、みなさまも聞いたことありますよね、御作神とか赤口とか書くやつ。先住民の縄文信仰とか、記紀の時代より古い神道ってやつです。あれがこの島の、ほんらいのカミのすがたです。

諏訪をはじめ東京の石神井もミシャグジ神が祀られた場所ですね。土地の豊饒を祈念する木や笹や石を、依代にして降りる精霊です。だけどね、ここで大事な点は、いにしえのカミは生け贄としての供物を望むことです」

えらばれた少年を「神を下ろす神官」としてえらび、任期を終えたら人身御供として殺していたのだと、栞は指摘する。くわえて海洋性製鉄民族がいる諏訪では、蛇体の蛇神が多かったともいう。

「でも、そういうカミは王権が島のすみずみを覆うにつれて薄れてしまい、人身御供も禁じられるにいたります。いまでは人界の戦で死んだ有志の人霊を神として祀る、唐土の流儀にちかいお社とか、あるいは天竺の地にあって瞑想により森羅万象のことわりを悟った王子釈尊とか、さらにわたしの知り合いにも居ますが人を愛する神の子イエズスとか、まあそういう神こそが幅を利かせるようになり、この島ほんらいのカミは、脇にやられた存在になりはててしまったのです。

でもね・・・」

そこまでさしかかった頃には声の抑揚ばかりではない、声質そのものが完全に変わっていることに、聴衆も気づいていた。それはすでに、栞の声ではなかった。

「いけにえを求め、人のいのちという供物に飢えてこそのカミもまだいる―――かれらが食い扶持をもとめていまも闇をさまよっていること、ゆめ忘れるなかれ。お互いのためにもね・・・

で、そんな野良神さまと仲がよいのが、じつはここに居る末橋会長さん」

栞がいきなり末橋に皮肉な目を向ける。聴衆は息をのみ、奇怪な口上を述べ続けている若手女流学者の姿を見つめるばかりであった。

「ここにある『誓書』なんですが、ここにはかれが五〇年前、八蛇神社という、まあそれじたいは江戸時代に縁起担ぎでつくられた神社なんですが、その神社の祭神に人身御供にさしだしたある学生の名前が書かれています。ともうしますのも、当時のかれはある反政府運動のメンバーに属しておりまして・・・」

それから栞は、エリート学生時代の末橋が反政府活動の組織員だったことと、その組織が過激化したさい、逃げるために恩人を捨てたこと、そしてその恩人の魂魄を生け贄にして神社に誓紙をさしだしたことなどを、簡潔にではあるが誤解の余地がないほど明白に説明したのである。

「で、生け贄にされた恩人の名前、早瀬武という人物なんですけれども、その名前がこの封筒の中には会長さんの直筆で、ちゃんと書いております。文面はこう―――

『われ末橋雄斗は、八蛇の祭神に誓うものなり。わが友 早瀬武の魂魄を供物としてさしだし、もって我が身を救い将来の栄達を得んことを。そして八蛇の祭神の恩顧を忘れしのちは、我が得たすべてを供物として差し出すことを』―――」

口上を読み上げおえるなり、栞はにっこり笑って茶封筒を頭上にかかげ、聴衆の目に焼き付けてからこれみよがしに、形相をこわばらせている末橋の目の前で開封する。それを受け取ったものが自ら封を切るのに、なんの遠慮があるというのだろう?

彼女はそのまま、入っていた紙片を取り出して頭上に掲げる。目の利く近くの聴衆たちは、大きく豪快に書かれた文面が、おおよそ栞のいうとおりであることを確認して息を呑んでいた。紙片はそのまま、風にでも飛ばされたかのように栞の手を離れ、ふわりと宙を舞って壁にべったりと張り付いたのである。それは後日、無理やり削り落とされるまで糊で張られたかのように壁に張り付いたままとなり、文面は多くの関係者が知るところとなった。

ともあれ末橋は必死で虚偽だと叫ぼうとしていたが、なぜかそのときかれの全身は、ぴったりはまる金型のなかにでもはめこまれたかのように身動き一つとれなかったのである。声さえ出せないままただ身震いしているだけだった。聴衆には、真実をあばかれた会長が恐れのあまり口がきけなくなったかのように見えたかもしれなかった。

「そして、当の八蛇神社が会長のリゾート開発できれいにつぶれてしまいましたので、こうやって、ご本人に誓紙をお返しするというわけです。でもこれでお社の保護はなくなった。おまえからも回収はさせてもらうと、八蛇神社の祭神はもうしております―――」

末橋は顔を朱にそめながら、すさまじい意志力で「おのれ・・・」と叫ぶなり、ばったりとうつ伏せに倒れた。そのころには聴衆も騒然となっていた。中には立ち上がり、抗議の声を上げようとする者もいた。ただし気絶はしていない。

だが、遅ればせながら黒服のスタッフたちが駆け上がり、壇上の栞の肩に手をかけて強引に「講演」をやめさせようとした時。ほぼ同時に広間のシャンデリアというシャンデリアが、はげしい点滅をはじめたのである。

「―――?」

聴衆のざわめきがさらに一オクターブあがった。そしてその刹那、末橋の呪縛も解ける。かれは反射的に立ち上がり、殺気をこめて栞を指さし「きさま、何者だ!」と誰何していた。だがかれが人差し指をむけた先に、竹下栞は居なかった。

そこには黒いドレスをまとい黒い長髪をたゆたせる、あの半世紀前に出会った童顔の女の姿があった。心の底からおかしくて仕方ないというように蛇のような目を金色に輝かせる、魔物の姿が。キキキキキキキという、人の声と何かの生物の鳴き声を混ぜたかのような薄気味悪い声でひたすら笑い続け、末橋の瞳孔をまっすぐに見据えていた。

それから不意に、シャンデリアの照明がすべて消えた。とつぜん訪れた薄闇の中、もはや聴衆は混乱の極みにあった。明かりがふたたび点灯するまではせいぜい一分かそこらだったはずだが、人々が気づいたときには竹下栞はとっくに壇上でうつ伏せに倒れており、外傷こそなかったものの完全に気絶していた。彼女がやっとのことで意識をとりもどしたのは、救急車が駆けつけてストレッチャーに乗せられた直後のことである。




のちに彼女は、講演のときの言動はいっさい記憶にないと言い張った。講演前の移動中、みかけた神社に職業上の興味から立ち寄って、参拝してから先のことはまったく覚えていなかったのだ。




とつぜん照明が消えたのは広間だけでなく廊下のほうも同じだった。室内から騒然と声があがることで、廊下側にいた宴会ホール・スタッフも漫然と待機しているわけには行かなくなった。リーダーとおぼしき壮年男のかけ声で、一斉にドアから広間の中に入っていく。肇を監視していた青年と受付嬢も例外ではなかった。肇のことなどに構ってはいられない。

「さ、行きましょ。逃げるわよ!」

暗がりのなか、不意に肇の手をつかむ女の手。声には聞き覚えがあった。梨神だ。

「もしかして、広間の講演パーティに参加していたんですか?」

引きずられるようにして走りながら、肇はたずねる。答える梨神の顔こそ見えなかったが、声はいかにも楽しそうだった。

「もちろん! あんな面白い宴はひさしぶりよ。あなたにも見せてあげたかったわ・・・」。そういってから梨神は梨神で、ふと改まった口調で肇に質問してくる。

「ところで、足が着くようなマネはしてないわよね?」

ホールの屋外に飛び出し、光にあふれる夜の都内を走りながら肇は吐く息とともに「もちろん」と答える。受付嬢にもとめられて書いた名前と住所は、でたらめである。このあと何かあっても、追求されるおそれはない。

「じゃあ、ここでお別れ」

地下鉄駅前の雑踏までたどりつくと、彼女はにっこり笑ってそう言った。

「長いことご苦労様。もう会うこともないわ。明日の朝、新幹線で銀嶺市に戻るといい―――前にも言ったけど」

彼女はふいに肇の頬に顔を寄せ、接吻した。

「おまえからは、贄はとらない。これでよい」

そういって、にっこり笑う。そしてそのまま背中を向け、あっという間に雑踏の中に消えていく。肇はぼんやりと、暫くその場にたたずんでいた。




留置所の寝台の上で、神無月守男が目を覚ましたとき―――時刻はまだ深夜で、草木も眠るなんとやらで、周囲はどこまでも静まりかえっていた。

かれは起きあがって曇りガラスがはめこまれた天井近くの窓ごしに、月明かりを見つめる。ふいにかれは、虚ろな笑い声をあげていた。

明日、ぜんぶ吐いてしまうとするか―――なぜかかれはそのとき、そう決意していたのだ。かけられている容疑とは別件のこととて今は聴取される気配もないが、どうせ司直は興味津々であり、あくまでも会長がなんらかのルートをつかって抑えているだけなのだろう。だが、その堰がいまや決壊しかけていることを、なぜか彼は確信していた。どのみち妻と愛人の両方を失い、会社にも戻れない。なによりニューランドマーク社という帝国が、じきに発破をかけられたビルのように瓦解してしまうことを、このとき彼は確信していた。

(頼子はどうしているだろうか?)。一瞬、その想いが脳裏をかすめたが、もはや愛人への未練そのものは、彼の中から失せていたのである。





帰宅した肇をむかえた土岐完治は、何も聞こうとはしなかった。おかげで肇は、じぶんが体験した数奇な事件について心の中にしまっておくことができた。

もっとも完治は、さすがに簡単な報告メモだけは要求したが、実のところそれも職業上の習慣にすぎなかったらしい。「なにせ出資者の富田氏が長期療養に入っている」と、かぶりを振った。「もう長いことないらしい―――おまえが太田さんと行動をともにしていることを連絡したら、『それなら心配いらない。依頼料は払うし、報告も必要ない。じぶんは死ぬ準備に忙しい』とのことだった」

いずれにせよとうぶん大学の学資を心配することもないから、今後は学業だけに専念するようにと、父は肇に申し渡した。探偵社の経営はあいかわらず繁盛からほど遠かったが、事務と経理をひきうけてくれるアルバイトの娘をやとう程度の余裕はうまれていたのである。

「オルレアン」で起きた奇妙な出来事は、おそらく参加者全員に箝口令がしかれているのだろう。ことさら報道されることもなく、オンラインにそれらしい噂が飛び交うこともなかった。竹下栞準教授はあいかわらずテレビの教養番組に出ては、古来からの宗教的な伝統や文化について、おっとりした口調で解説している。

ニューランドマーク社によるリゾート造成事業も一時の混乱をものともせずに再開されており、八蛇神社はその跡地でさえ重機が運ぶ土砂のなかに埋もれて、もはや痕跡をとどめてはいない。おそらくあと一年もたてば美しい芝生のゴルフ場とロッジが、景色を一変させていることだろう。




肇が梨神と別れて一週間後。傷害事件で逮捕されていたニューランドマーク社元重役が同社のグレーゾーンについてあれこれ暴露しはじめたことで、同社の裏事情についてあらたなスポットライトが当てられることになった。

結果から先に言うと。それは同社にとって浅からぬ打撃であり苦難の道となったが、最終的には屋台骨は守られた。幾つかの案件で懲罰こそ課され、またいくつかの部門からの撤退をも余儀なくされたものの。なんだかんだで首脳陣刷新による新体制に移行。組織の透明性を重視する欧米人をふくめた改革者をむかえるなど、ドラスチックな改革で新生を謳うにいたったのだ。

メインバンクの銀嶺銀行も、清算しなければならない不良債権で大わらわになったとはいえこちらも地元経済にたいする影響を考慮され、外部の血を導入して救済されることとなった。むろん血を出す改革がもとめられ、頭取は更迭されてしまったのだが。

当然のことだが、同社創業の生きた伝説・末橋雄斗会長もまた安閑とした傍観者でいられるはずもなかった。首脳陣の刷新の総仕上げとして、経営からの正式な引退が公表されたのである。この報道は巷間にしられる名物経営者の失意の晩年ということで、みじかい期間ではあるが話題となった。

もとより末橋は創業者でもありオーナーでもある。社内的には野党はいないから、ほんらいなら持ち前の執念で、頑張りぬけていたかもしれない。

だが会長主催の竹下準教授講演会で椿事があったのとちょうど同じ時日のこと―――若い男性の遺骨が某内陸県の山中から発見され、学生による政治運動が華やかだった時代の粛清被害者とおぼしきことが早々に特定され・・・あげく何食わぬ顔で一般市民にもどっていた数人の男たちが逮捕されるという「事件」が起こったことが、最後の一押しになったのだ。

「一見関係ないようだが、この事件発覚ではべつの事実も発覚した。財界における『生きた伝説』とよばれるある人物が、早瀬武の災厄に、間接的に責を負っていたことだ・・・」

遺骨発見者であり、死者の縁者でもある女性ルポライターがそういう書き出しで著したルポには、まさにだれの目にもわかる筆致で、「末橋会長の過去」も克明に記されていた。そのルポは、法的責任は別にしても日本的な義理人情という側面で、末橋雄斗のキャラクター・イメージを、ひどく損ねてしまったのである。

末橋にとっては理不尽に思われたが、被害者の兄の孫でもある女性ルポライターは、下手人である犯人たちよりも殺人の原因を呼んでしまった末橋のほうを、より恨めしく感じているようだった。末橋にたいする筆致は、実行犯にたいするそれ以上に辛辣だった。

かくして末橋は、蜘蛛の巣にひっかかってもがく蛾の気分を、ぞんぶん味あわされることとなった。会計のグレーゾーンがどうこうという決め手のよわい報道では腰がひけていたメディアも、謎の情報源によってあばかれた数奇な刑事事件には食いつきがよかったし、法廷からも事件当事者としての証言をもとめられる立場を、余儀なくされてしまっていた。

そうなるとニューランドマークという会社そのものはともかく、末橋自身の社会的地位を庇うものは、政界の有力者にすら皆無になる。

竹下栞の講演会に参席していたある若手の都議会議員は、気味悪そうな顔で「あんな気味の悪い事件にかかわった男は、もう社会の表面に出るべきじゃないな―――」と、公言するしまつだった。ただしかれが口にする「奇妙な事件」とやらが末橋の学生時代の事件のことを指すのか、はたまた彼自身が体験し秘匿している怪異現象のことだったのかは、ついに問われることがなかったが・・・




かくして末橋は、「法的な責任範囲」は措くとしても社会の空気という圧力のもと、引退を余儀なくされた。数千億円と噂される資産もふたを開いてみると、かなりの部分が抵当に入っていた。さすがに日々の暮らしに困るほどの窮地には至らなかったものの。富と権力をほしいままに誇示していた過去との落差を印象づけずにはいられない、失意の晩年を送ることとなったのである。

その後の彼はみずからも表世間に出るのを避けるようになり・・・会ったものは、そこに魂の抜けた姿を見たという。「冥界の友に、生きながらにして連れ去られたかのような気配だった」と、怖気をふるって言いふらした。

しかし人の噂もなんとやら。しばらくすると、かれの名前を思い出すものはかれが興した会社の中にさえ、ほとんど居なくなっていた―――


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