第3章


「一体、何が起きているというのだ?」

都内のホテルの、シックな控え室の室内で―――同じ場所をぐるぐる歩き回りながら、ニューランドマーク社の創業者にして総帥・末橋会長は叫んでいた。「神無月はいったい何をやらかしたというのだ?」

「それが・・・」。困惑しきった表情でその日の犠牲者である、側近の部長が答える。「押収された刀剣からは、まちがいなく桃井の血液も検出されたと、報道されたばかりでして。刀剣の入手経路や持ち運びについての不明点は多いものの。いまや常務が殺人容疑者に切りかえられたことも、確かでございまして」

「元常務だ!」。末橋会長が吼える。「殺人の動機や方法など、我が社にはどうでもいいことだ。どうせ奴は懲戒免職だ。

それよりも重要なことは、奴がわがニューランドマーク社の、情報の鍵を握っておることだろう。きさまには優先順位がわからんのか?」

忌々しさを隠さず、末橋は自分の支配する帝国が背負っているウイークポイントについて、心の中で思い当たる問題を並べ立てる。

(わが社の財務内容は、上場会社のようにはいかない。目こぼしてもらうため政治家には、相応の礼を尽くしてきた。だが、神無月の出方しだいではその外堀が埋まるやもしれぬ。打撃は避けられまい―――)

もとより末橋はニューランドマーク社をはじめとした、傘下にある全ての関連会社についても全株オーナー。全能の実業家であり、組合活動を厳禁していることも相まって、絶大なワンマン体制を確立している。彼の一声、一挙手一投足は神の声、神の裁き。末橋の社内における地位それじたいが、今回の醜聞程度で揺らぐことはまずない。

だがその体制を維持し強化しつづけるためには、並外れて有能だが謀反気が持てないタイプの忠僕を、必要不可欠とした。そのてん神無月は理想的だった。かれが取引銀行の閨閥に連なっていたこともあったにせよ。基本的には忠誠心こそが、かれを引き立ててやった原因である。なのによくもわしの恩顧を裏切り、こんな大失態をしでかしおって!

「とにかく、ことは急を要する」。歯ぎしりしながらもこの時点での末橋は、半世紀ちかい日々をかけて築きあげてきた己が帝国・ニューランドマーク社がこれしきで屋台骨を揺らすことになろうなどとは、まだ夢にも思っていなかった。

「・・・不本意だが、やはり『シンダキタロー』の力を借りねばな」。ややあって末橋は、現与党の領袖にして国内利権最大の元締めとして知られている、ある有力国会議員のニックネームを苦々しげに口にする。ニューランドマーク社が強引な事業展開をしてきたその過去においてさんざん世話になってきた人物だが、その名を口にしたときの末橋の顔は、お世辞にも楽しげではなかった。

「あの棺桶に片足をつっこんだ老人には、ずいぶん恩を売ってきたのだがが―――しかも今となってはあいつ自身よりも、あいつの後輩を紹介してもらわねばならんというのに。迂遠にすぎるわ」

そうなってしまったのも後継者との顔つなぎに失敗した会長、あんたのせいだろう―――部長は心の中でそう毒づいたが、もちろん口には出さなかった。その代わり追従をこめてこの風変わりな勤務先の神を激励する。

「しかし現内閣の副首相も官房長官も文科大臣も、元をただせば森田先生の派閥。かれらを動かすのも森田先生しだいです」

「うむ。それにわしの地元で実力者といえばシンダだけだ。やはりあいつを手蔓にするしかない」

「さようでございます。何といってもあの先生は、会長とは同郷。

あの方の副首相経験者としてのご威光で、これまでも何かと助かっております」。部長は比喩でなく、じっさいに揉み手をしながらうなずいていた。「今回も関係するVIPとよいご縁をとりもって頂ければ、仮に神無月が聴取のさいよけいな口を滑らせたとしても、予防線は張れるものと―――」

「わかっておる。だからこその、今夜の政治資金パーティなのだ!」

爆発寸前なほどイライラしつつ、末橋は大股で控え室を出ていく。(転ばぬ先の杖とはいうが、まったく迂遠すぎる!)



鬱屈した思いを抱えつつも末橋は、淡黄色の照明が照らし出す長い廊下をのし歩いていく。末橋を先導していた部長が、手にした無線機で連絡をとりつつ行き止まりの壁にある両開きの、彫刻が施された大扉をひらく。

開けた先に広がる祝宴用の大広間に末橋が入るなり、いっせいに視線がかれに集まり大きな拍手がわき上がった。数百人の来賓たちが見守るなか壇上に上がった末橋を、待ち受けていた司会者が紹介する。

「『森田先生をねぎらう会』の主催者・末橋雄斗ニューランドマーク会長です! 会長、さっそくですがご挨拶を賜りたく―――」

そのあとの退屈なパーティの進行内容を、末橋は何一つ覚えてはいない。なんであれ自分が主役ではないパーティには、関心ないのである。

とはいえ今回はちょっと特殊な事情がある。じぶんの庇護者を自認してきた大物政治家に接触し、有無を言わせず協力をとりつけなければならない。

一通りのあいさつが終わり、雑談タイムとなるのを見計らった末橋はウーロン茶を片手に愛想良く笑いながら、ビールグラスを片手にやや顔を赤らめている長老政治家に近づいていく。ふだん、傘下の取引先や社員を前にする祝宴では最上席に鎮座し、数百人の社員の献杯と万歳を受ける立場のかれがこういう立場を甘受するのは、近年では異例のことであった。だが今回の祝宴は、配下の管理が目的ではない。

「やあ、末橋会長。今宵はおかげで実に愉快な夜を過ごさせてもらっておるよ。もはや後輩たちの時代なのに私の名で一席設けてもらえるのも、君がいればこそさ」

配下にくばる餅の大きさで知られ、長年にわたって与党の実力者だった森田喜太郎元副首相は、上機嫌で末橋の献杯を受けた。

「こうやって君の酌で酒を飲めるのも、ひさしぶりだ。いや、売れっ子アイドルの娘っ子たちからお酌されるよりうれしいよ」。一気にビールをあおりながら森田代議士は、豪快に笑う。

やや粗野だが、ひとかどの指導者―――森田は、そういう人物だった。背丈は末橋より頭ひとつぶん高い巨漢で、色のうすいサングラスをかけている。

「おそれいります」。末橋が浮かべた愛想笑いは、社員が見れば目を疑うに違いない。

学生相撲では県大会に優勝し、数学オリンピックでは準優勝したクールな頭脳を併せ持つ。この人物に秘書を介して接近し、大きな「餅」と引き替えに便宜を図ってもらってきたのが末橋だった。リゾートや都市計画事業、さまざまな飲食店チェーン。それらに関わる仕事をしていれば契約関係はもとより建築基準法、労働基準法に労働安全衛生法、自然保護法にかかわる諸―――ー

コストカットして利潤のパイプを太くするには、抵触しやすい諸問題が山積していた。だが森田が背後にいることで法律は飴細工のように甘くなり、役人どもは押し黙った。そのかわり末橋も森田のために、潤沢な資金を調達する。おかげで森田は、副首相にまで上り詰めた。片方が太ればもう片方も成長する。まさに二人三脚。

そんな森田も、いまは第一線から退いている長老。むろん党内にはまだ隠然たる影響力を残してはいるが、往年ほどの発言力はない。今回のパーティ企画も、森田のほうで頼んだものではなかった。末橋が、是が非でも彼にすがるしかなかったから実現にこぎつけられたのだった。話をもちこまれた森田のほうは何事かを察したはずだが、曖昧にうなずいた。どうやら末橋の出方への、様子見を兼ねるつもりらしい・・・

「実は先生。ちょっとばかり気になることが、我が社で起きております」

ひととおり互いの家族の近況について雑談しおえたあとで、末橋は声を潜めた。「ご存じかとは思いますが、うちの常務が秘書に傷害をおわせ、あまつさえ部下の殺人容疑までかけられておるのです」

「まったく、驚かされたねえ」。森田もうなずく。「いやいや、御社にとってもイメージ的に辛いことではあろうが、ここが正念場だ。御社ほどの巨大組織が、この程度でゆらぐはずもない。そうなのだろう?」

末橋ははっとした。森田は茶目っ気めかして笑いかけているが、その態度には「俺は関係ない」という、冷ややかさが込められている。

長いつきあいだが、友情というより共犯関係の仲だ。手を汚してカネをつくる者と、それを食う代わりにカネをつくる場を提供する者。全盛期の森田は、政権運営にあたって湯水のようにカネを必要とした。だが功成り名遂げて後任に実務を引き継いだいまの彼には、もはやカネは必要ない。権勢欲こそ末橋どうよう人並みはずれているが、個人的な物欲・金銭欲については末橋と異なり、いっそ淡泊な男でもある。共生関係はもはや終わったのだ―――だがそれでは森田は良くても、末橋が困るのである。

「神無月という男は、弊社の重要機密を持つキーマン。弊社としては、かれがしたことでの社会的制裁は甘受すべきと考えています。しかしもし万が一、弊社の機密関係でつまらぬ容疑をかけられたとなると心外であり―――」

「警察関係者に、別件に関しては『手心を加えてくれ』と、そう声がけしろというのかね?」。いっそ非情といっていい口調で、森田は核心を突く。末橋は曖昧に笑った。

「悪いが政治家はそういう問題には、手を染められない。御社がまともなら、恐れることなどないはずだよ?」

何をいまさら、良い子ぶりおって・・・「過去」を共有するものとして憤怒がわき上がったが、命綱を握る相手にそう言い切られては、末橋も卑屈に笑みを浮かべるしかない。畜生、やはり見捨てる気なのか?

いっぽう森田は森田で、一見どこにでもいる恰幅のいいおやじ顔で目を細めながら、末橋会長の表情を探っていた。

(どうしてだろうな? 一代で大企業を育ててきた『生ける伝説』のはずなのに。昔からこいつには、カリスマとか魅力というものが、まったく欠けているんだよなあ・・・)

ハングリー精神は認めよう。はじめて出会ったとき、新興実業家のかれが見せた飢えた肉食獣のような目は、年の功で身につけた老獪さもあって見えにくくなってはいるものの、失われてはいない。

ただしおなじ肉食獣とはいっても勇壮なライオンと刺々しいジャッカルとでは、だいぶ印象がちがう。末橋はたしかに執念と覇気はあるものの人間不信がひどく、視野がせまくて目の前の勝負に固執しすぎる・・・森田が八〇年近い人生で人間観察してきた範囲では、かれは大成する器などではなかった。せいぜい一発屋で終わるか、地元の小物資本家として盛衰をくりかえすタマでしかない。「実業界のギャンブラー」というのが今なお動かぬ、森田の末橋評である。

(だがこの男は、たしかに異常な幸運にめぐまれているのだ―――)

実を言えばその点では森田も末橋に、恐怖にちかい敬意を抱いていたりする。なぜかオカルトじみた選球眼で間違いなく大当たりする商談を、それも後にして思えばこの瞬間しかないというタイミングで引き当ててきたのである。それも一度きりではなく、何度も何度も。

そのため社員は、かれを自分たちの庇護者としては頼りがいなく感じている反面、強運への信頼と畏敬だけはあって、一定の指導力は確保できているという。

(どうみても本人は、学生運動あがりにありがちな書生だ。ルサンチマンをかかえ執念はあるが、視野は狭い。普通なら世を呪う負け犬として終わるのが関の山。だがこいつには、一つだけ違いがある。なぜかは分からないが、何かの神に愛されている・・・)

世間にはときにそういう奇妙な人種がいることを、森田は政治家となることで学んでいた。よい相互利用関係が持てそうだ。お互いに相手を、必ずしも敬愛すべき友などと見なしていないにしても―――そういう関係が、かれこれ三〇年以上も続いてきたのだった。

だがそれも終わりだ。おれの時代は終わったのだから・・・森田はそう考えていたから、今回のパーティ企画にも乗り気ではなかった。末橋の方の目的ははっきりしている。すでに腹心や政界の仲間たちからも、それとなく「例の猟奇事件とは距離を置く」よう、メッセージが届いている。

(そろそろ引導を渡すべき時期だ。会を主催してくれた礼として国際イベント関連の利権でも口利きしてやって、それを餞別にしてやるか)

そういう腹だったから事件については口を濁しつつ、森田は近来開催される文化・芸術関係のイベントについて言及した。「君のところの施設も利用する段取りができているよ。何だったら開催式典で君もあいさつするといい」

そういってウインクする。

しかし末橋は食い下がる。「うまい話」には耳も貸さず、ただ彼の派閥や後継者にかかわる資金経路の古い過去があばかれる可能性について、執拗に匂わせ続ける。不機嫌を押し隠しつつ森田はたくみに別の参加者との会話で末橋から逃れようとしたが、末橋もこのチャンスを逃す気などない。相手はとっくに、公然とは喧嘩できない土俵にあがったのだ。今をおいてチャンスはない。

「仕方ないな。今度だけだ」。森田はうつむきつつ、口元を怒りでわななかせながらとうとうそう呟くしかなかった。(今は同盟国との関係の見直しや国防関係の法改正など、大事な時期だ。つまらない古傷で、我が党が長年積み上げてきたものを崩されることは避けたい・・・)

末橋の尻拭いに深入りしてドツボにはまる危険はむろん考えたが、背に腹は代えられない。

「岸部君に口利きしてやるよ」。しばしためらった後、森田はついにその名を挙げた。「君の会社への捜査に圧力をかけることが出来る人物は、かれしかいない」

「岸部史郎先生、ですね?」。やっと勝ち取った譲歩にもかかわらず。現役の副首相の名を聞いて、末橋は必ずしも喜びはしなかった。だが森田は容赦しない。

「あいつが僕の派閥を受け継いだ、いわば後継者なんだ。いちどは君に紹介してやったのに、君のほうから切ったんじゃないか。なんとかして彼の気を引け。これが最後のチャンス。活用できるかどうかは君しだいだ」

露骨に突き放す物言いに末橋も、ついむきになり言い返す。

「わたしは岸部先生を尊敬し、応援を惜しまずにきたつもりなのです。先生の票田である宗教組織はつねに支援してまいりまして―――」

「ま、そのあたりの君の美徳は、かねてから僕も高く評価しておるよ」。森田がうっすらと笑みを浮かべる。学生時代は反政府だったはずなのに、人間変われば変わるもの、いや、かれがそういう点で特異なのではあろうが。

「なら、その接点をあらためて大事にすることだ。ま、拝みさえすれば用の済む神さんへの義理よりも、岸部君への義理を大事にしたほうが、その逆よりずっと良かったと思うがね―――」

森田はそういうなり、厄介払いよろしくさっさとその場を離れてしまう。

森田の言わんとすることは明白だった。一度はこっちが離れた実力者との復縁だけが、突破口というわけだ。とにかく「場」は設けてもらえるようだ。賭けるしかないだろう。

ため息をつきつつも末橋は、森田の背中をしばらく睨むように凝視し、それから「先ほどのイベントの件、お忘れなく」とわざと大声で言うのだけは忘れなかった。そうしつつも「どうもおかしい」、とも彼は思う。いつもに比べて、今回のピンチは妙にしつこい。





都内中央本線の千駄ヶ谷駅。電車から降りたばかりの肇が改札口のそばできょろきょろ周囲を見回していると、小麦色という形容がぴったりの、浅黒いが端正な顔をした若い女が駅舎の外から駆け寄ってきた。

「やあ、君が電話で連絡してくれた土岐くんですね。はじめまして、ルポライターの早瀬です」

そう自己紹介した彼女の後について行き、駅の近くの喫茶店にはいると、早瀬は早速、携えていたショルダーバッグから名刺を差し出す。

早瀬恵美。いま売り出し中のフリージャーナリストだという。セミロングの茶髪をポニーテールでまとめており、目元は鋭い切れ長。たぶんその目つきにふさわしく、カミソリみたいに頭が切れているのだろう。

服装もいまだ肌寒い初春の末というのに薄着のパンツ姿。見た目はアスリート選手でもやっていたほうが似つかわしそうな、快活でスマートな女だった。

「さっそくですが、ご用件の詳細をうかがいましょうか」

それぞれ注文を頼みおえると、待ちかねたように恵美は身を乗り出す。

「あなたご自身は代理人だそうですが、なにやら銀嶺市の猟奇事件について興味深い情報をお持ちだそうで」。

「ええ、でもお互いの情報と交換です―――あ、ちょっと失礼。あなたに接触したらただちに連絡するよう、クライアントに言われておりますので」

そういいながら肇は携帯電話をとりだし、じぶんが今朝まで居た高級ホテル「セイレーン銀嶺」のフロントにかける。フロントからスイートを呼び出してもらうと、はたして梨神の声が返ってきた。「首尾はどう?」

「順調です」。肇は指示されたとおり、恵美の携帯番号を彼女に伝える。

「ありがと。じゃああとは任せるね」。そういうなり、梨神はそっけなく電話を切ってしまう。そのやりとりを、恵美は目を丸くして見つめていた。

「すいません、すぐに本人から貴女に、連絡がくると思います。本題については、彼女から説明があると思うので」

肇にやや弁解がましく言われて、恵美は気にしていないという風に手を振って見せる。「いいですよ、事情は人それぞれ。変わった流儀を持ってる情報提供者は、この業界に珍しくないから―――それと、これはわたしの勘ですけど」。恵美は探るように、両手を組みながら肇の顔をのぞきこむ。「あなたが私に求めている『情報』は情報提供者ご自身じゃなく、あなた個人が求めている依頼なんじゃないのかな?」

肇は思わずうつむいた。図星である。「なぜ、そう思うんです?」

「まあ、何となくなんだけど」。恵美は肩をすくめた。「代理人とはいえあなたには、伝えたい側じゃなく聞きたい側の匂いがしたからかな」

「ええ、でも依頼主は、かまわないと言ってくれてます。何より、あなたの前歴には彼女も関心を持っているらしくて・・・」

すべては梨神の指示によるものとはいえ、せっかくの単独行動である。できれば自分も今回の奇妙な体験について、なにがしかの情報を得ておきたかった。

「あなたはもともと、政界とか企業のスキャンダル・疑惑といった方面にお詳しい方と聞きました」

「まあ、ほんらいそっちを専門にするつもりではあるんですけどね。でもまだまだ駆け出し、そうそう仕事を選んでいられないんですよ」。陽気でフランクな態度だったが、思うに任せない新人の身の上に忸怩たるものがあるらしい。ちょっと声のトーンが落ちている。

「となると、いま問題になっているニューランドマーク社の会長のいろいろな噂についても、いろいろご存じなんですよね?」

「ま、かれはネットでもよく話題になる政商ですからね。一通りのことは―――でも残念ながら、まだ公表するには証拠が少なすぎるというので、デスクでは採用されていません。あなたはそのあたりが、知りたいのですね」

「はい」

「たしかに今回の猟奇事件は被害者も容疑者も、その会社の人間ね。でもあいにく、事件そのものは経営者とは関係ない。叩いてもなにも出てこないはずなんだけどな?」

「ええ、でも僕もジャーナリズムという仕事に、興味がありまして」。でまかせではあったが、動機を無理なく説明するにはそれしか思いつかなかった。「大学を出たら財界や政界畑の報道に携わってみたい。ニューランドマーク社の会長の半生は波乱に富んでいて、なかなか面白そうだ。それもわりと、黒幕的な意味で。だから参考までに情報を得ておきたくなって」

恵美は苦笑まじりに首をかるく振ってみせる。「悪くない着眼点です。しかし正直いうと、あの会社の追求はジャーナリストの世界では『鬼門』なんですよ。うまく言えないけど、変な雰囲気があって」

「雰囲気とは?」

「政商としてやってること自体は割と単純かつ、がさつなんです」。如何にもばかばかしいと言いたげに、恵美は苦笑しつつ首を振る。

「政治家だけじゃなく銀行とも、分かりやすいかたちで癒着している。あくどい商売も色々と聞かされる。会社じたい、会長が死ねばつぶれるという噂さえある―――」。さすがにこれには肇も驚いて問いただしたが、恵美はむしろその程度のことも知らないのかとさえ、言いたげだった。

「だけど絶対に尻尾を見せない。ひとつは言うまでもなく、権力の保護。かれは保守系の大物政治家・森田元副首相と同郷・・・」

ウエイトレスが運んできたクリームソーダを一口飲んでから、恵美はちょっと恥ずかしげに苦笑してみせる。

「そしてもうひとつ。これは二一世紀を生きるジャーナリストとしては、ちょっと公言しにくい話なんだけど・・・」

そこで彼女は頭をかきつつ、視線を脇にそらした。

「なーんか憑き物がついているというか、オカルトめいた強運でのしあがった人物なんですよ、末橋雄斗って男はね」

なにせ強引な商法だったから、内外に敵は多い。恵美らジャーナリストはもちろん建設省に公正取引委員会に各地方の市議会、労働基準監督署や税務署、あげく司直にいたるまで、かれと敵対した相手は数知れず。恨みを抱く商売敵の企業にいたっては、浜の真砂ほどもある。

ところがみんな、末橋が一枚上手だったという以上に不思議な現象で、不戦敗にされてしまうと恵美は言うのである。

「不戦敗・・・」

「頭は切れるけど、やることは強引だしがさつだから、足下すくうのは簡単なはずなんですよ。でもね。どういうわけか偶然はつねに彼に味方し、最後にリングに立っているのはいつも彼だった―――ほんと世の中には、もって生まれた強運の主ってのがいる、そう思わせる人物の一人です。

まあその辺もふくめてかれの数奇な人生は、むかし書いて没になったルポのコピーを、資料として持ってきましたから」

無論ほとんどは分散されつつも公表済みの情報だし、切り札は伏せている。だが紙媒体のダイジェストとしてはもっとも詳しい内容だと、恵美は自負している。彼女はいそいそとバッグから、分厚いA4サイズのファイルを取り出した。

「はい、これを後でじっくり読めばいいわ。ちなみに、その資料の中で個人的に面白く感じている点を、一つだけ挙げておきますけど・・・」

年下の男にものを教える楽しみでも感じたのか、恵美は自身が関心をいだいる末橋のパーソナリティについて、説明をはじめた。何でも、今でこそ末橋は保守派政治家とつるんでいるが、もとを正せば学生運動家だったのだと、彼女は指摘するのである。

「学生運動・・・聞いたことがあります。コスモポリタンな厭戦運動とか同盟条約の是非とかめぐって、ヘルメットかぶった学生がキャンパスを行進してたんでしたっけ?」

「いまどきの学生にしてはよく知ってるわね、まあイメージは間違ってないわ」。言いつつ恵美は、いらぬ先輩風でかえって下手を打ったと気づき、心の中で舌打ちする。自分だってまだ二〇代後半。話題はとっくに「歴史」の分野ではないか!

「末橋は要領がいいうえ上昇志向でね。属する小派閥でも新兵ながらリーダーに注目されて、幅をきかせたんだとか―――」

青年時代の末橋は貧家の出ながら成績優秀であり、官立名門大学の苦学生だったという。革新的な思想をちょいとばかりかじり、学生運動でもいっぱしの扇動家として鳴らした時期があるという。

しかしかれの活動時期は長くはなかった。かれが属する小派閥の仲間たちが街頭での示威に飽きて非合法な潜伏破壊活動に移行し、次々に逮捕されて組織が崩壊された時期に終わったというのだ。

とうぜんだが罪を問われた学生等は塀の中に入ったあげく、大学を去った。あげく大学にも戻らず逮捕もされずに行方不明になった者すら居る。噂だが、内部抗争が激化して粛清されたともいう。

末橋も潜伏工作活動への関与を疑われたが当人は否認し、また証拠不十分ということで辛うじて首の皮が繋がった。それに末橋にはもともと、一流大学の卒業証書という武器を得て貧しい暮らしを抜け出したいという強烈な渇望があり、その渇望がかれをして転向にいたらしめた。

いずれにせよその時の経験がよほど鮮烈だったのだろう、かれの人生観も改まり、社会に出てからは一転してカネの亡者となりはて、事業の世界に邁進したというのである―――

「卒業してからは、かぶれていた社会革新思想とやらは、どこへやら。特に実業家になってからは、妙に国威復興を鼓吹するようになりましてね」

与党によるパトリオティズム推奨運動の賛同者になって、戦死者を祀るお社にも有力者とつるんで拝礼。献金しエールを送るなど、さかんに忠勤ぶりをアピールしているという。

「実業家を志した学生時代に、『故郷銀嶺の善胤神社に、誓紙を出した』などとアピールしていますよ。ま、信心というよりその活動で、各方面の有力者とコネ作りしてきた印象ですけど―――」

恵美の声は冷ややかだった。末橋の露骨さに、露骨に呆れているのである。

「よしたね?」。肇は首を傾げた。「じぶんも銀嶺市民なんだけど、ちょっと、どこのことだか・・・」

「え。銀嶺市民なのに、ご存じないんですか?」。恵美は、末橋とは別の意味で呆れ顔になるしかなかった。

「地元の招魂社。戦死者が祀られている場所。ただ、これは予想だけど誓紙の件は眉唾。さっきも言ったけど末橋がパトリオットを自認しだしたのは、実業家として余裕ができてからですし。ただまあ、それはともかく―――」と、恵美は苦笑する。

「あなたも地元民なのに、知らないとはね」

「あ。ああ、あのお社ですか」。あわてて肇も記憶をさぐり、すぐに気づいた。銀嶺市郊外にある、無数の名簿がきざまれた石版のそびえ立つ中規模のお社のことならかれも知っている。「恥ずかしながらこれまで、漢字を誤読していたんです・・・『ぜんいん』って読んでました」。そういって頭をかく。

「実はうちの父がまるっきり宗教に無関心なもので、おっくうがって初詣すら怠けるんです。ついでに自分は、死んだ母がハーフだった縁で形だけのクリスチャンだし・・・」

「ああ、なるほど」。歴史がかかわる地元の宗教施設でも特別なこだわりがなければ、知らない人は知らないものなのだろう。時代の流れといってしまえばそれまでだ。とはいえ末橋のパーソナリティを知りたいのなら外せない情報だと、恵美は言う。

「末橋にはいわゆる宗教や教義への強い関心がありますが、動機は、それらが『権威』を生むからです。度胸のある利己主義者、ドライな計算ができるパラノイア―――興味深い人格には違いないです。ただし子供もなく、後継者も未定。はたしていつまでもつのやら」

恵美はクリームソーダを一気に飲み干す。彼女がストローから口を放すのを見計らってから、肇は感じていた疑問を口にした。

「一つ聞いていいですか?」

「なに?」

「あなたはなぜ、末橋にこだわるんです? どうみてもネタという以上に、個人的感情がからんでいる気がします」

「答える義務、あるかしら?」

「いいえ。話したくないなら結構です」

「そう。じゃあ、話したいから話す」。恵美は頬杖をつき、ふっと遠い目をする。「遠い親戚が、末橋と同窓の学生でね、末橋に煽られておなじ組織に加入したの。

で、潜伏活動のために組織が移動したとき同行する羽目になり、そのまま行方不明になった・・・」

そういってから、照れくさそうに苦笑する。「勘違いしないで。べつに仇討ちなんて感情じゃないから。そもそもその親戚と直接の面識はないし、本人が逃亡者になろうが噂どおり殺されていようが、自業自得―――かれの家族には同情しているけど、それでもあんな、財界に知らぬものなき大巨人を敵に回すモチベーションにはならない・・・ただ」

恵美は、刺すような視線を虚空にさまよわせていた。「やっぱり、かれを追えば解ける謎がある気がするのよ―――根拠のないカンだけどね」

それから彼女は、おもむろに肇にむかって手を差し出す。「さて、こんどはあなたの番。銀嶺市の事件について、興味深い情報をくれると言ったわね。

地元の探偵の息子というふれこみだからつい乗ってしまったけど、足を運んだだけの値打ちがあるかどうか、ここで確かめさせてくれます?」

肇もまた、手にしていた鞄からB5の茶封筒を取り出す。受け取りながら恵美は、封筒をあらためて鼻先に不審げな小皺をつくった。「わざわざ糊で封しているのね。中身は読んでないのですか?」

「禁止されているんです」。肇はそういってから、急いで付け加える。「雇い主からね」

恵美は肇のまじめくさった顔と受け取った封筒を、なんとなく疑い深そうな表情で見比べたが、それ以上はなにも言わずに、封を切る。中から出てきたのは、古びて黄色く染まった地方紙の、切り抜きだった。「銀嶺タイムス」というその古新聞の日付を確かめて恵美は、目を疑う。一九六七年の初春。現代をさかのぼること、ちょうど四九年前ではないか。紙面には大見出しで「女子高生、行方不明。誘拐の可能性も」とあった。

眉をひそめた恵美だが、とりあえず記事を読みこむ。「×日の午後、銀嶺市の私立パウロ女学院から下校中の女子高生・木下まつりさん(一六)が、下校路にて行方不明になった。三日経っても何の連絡もないことから警察は、事件と事故の両方の可能性を見て公開捜査に踏み切ることとした。なお綾樫郡周辺では、変質者とみられる男に襲われかけたという届け出がここ一年のあいだに三件ほど上がっており・・・」

(何なのよ、これ)

恵美が露骨に不満を表情にあらわしたとき、彼女の携帯端末がメロディを奏で始める。それと同時に、肇は梨神との約束通り立ち上がった。「それ、ぼくの雇用主さんからです。あとは本人と話してください。じゃあ僕は、これで」

そういって封筒を入れた鞄を小脇に抱え、伝票をつかんでそそくさと喫茶店を出て行く。むろん恵美が梨神からどんな情報を与えられたのか、また与えられるのか、知りたくなかったといえば嘘になる。

が、それを覗き見するのは裏切りであるという思いのほうが先に立っている。なんといっても梨神はすでに、単なる雇い主ではないのだし・・・

「あ、ちょっと―――」

恵美はいそいで手を挙げて肇を呼び止めようとしたものの、すぐに端末から声がする。否応なしで対応していたそのすきに、かれは二人ぶんの支払いをすませ、喫茶店から姿を消していた。ただし自分のコーヒーには一口も口を付けないままだったが。

「はじめまして。肇くんの雇い主です」。声は若い女のものだった。

「どういうことでしょうか?」。思った以上に幼い声に、たちまち恵美は不快な疑念にかられてしまう。ひょっとして、一杯くわされてるのか?

「あなた、その新聞を読みましたよね?」

「正直、拍子抜けですね。これが何か?」。恵美はつい、声を荒げてしまっていた。「銀嶺市のバラバラ死体と傷害事件についての情報だと聞いたから、わざわざ時間もとったし、代理人の個人的な好奇心にさえ応じてあげたんです。なのに、何ですかこれ。わたしをからかう気なの?」

「まあ落ち着いて。その行方不明者、ついに見つからないまま時効になったのはご存じかしら?」

「知らないわよ!」。苛立ちながら、恵美は答える。「それが何だというんです、もう半世紀前の迷宮事件でしょ。関係ないじゃない」

「意外と鈍いのね、もうすこし鼻が利くと思ってた」。くっくっと、まさにからかうような笑い声。「事件が起きた現場を、読みかえしてみなさいよ。銀嶺市でしょ。まさしく今回の事件現場じゃない」

恵美は押し黙った。どうやらお遊びではなさそうだ。職業意識をともなった好奇心が、頭をもたげる。

「その娘は殺されて、埋められているわ。それも、犯人がうっかり一緒に埋めてしまった犯人の手帳と一緒にね。もちろんその手帳には、持ち主を特定できる情報がたっぷり詰まっている。しかもあなたが追いかけている事件の関係者とその手帳の持ち主は、一致する―――」

一瞬、周囲の空気が凍り付いたかのような戦慄が、恵美の背筋を走る。

「なぜ・・・なぜそれを知ってるの?」

「わたしがどうして代理人を立てたのか、意味を考える事ね」。心なしか女の声は、興ざめしたように事務的になった。「そこまで教える義理は、ないってこと」

「わかったわ、貴女については、詮索しません」。恵美は、電話にむかってうなずいていた。彼女の職業上の直感が「これはガセじゃない、調べる値打ちがある」と告げていたのである。

「それでいいわ、とにかく興味を持ったのなら、掘り起こす作業は急ぐことね」。まるで恵美の表情の変化を見透かしたかのように、説明の声が響く。

「じつは死体が埋められた場所は工事現場でね。現場にある古い建物は、早くも解体撤去作業が始まっているのよ。手をこまねいていれば土砂で埋めたてられるのも、そう遠い先のことではないわ―――むろん何かの拍子で、重機が死体をほじくり返す可能性は無きにしも非ずだけどね。手帳は土砂にまぎれて分からなくなる恐れだってあるし、なにより貴女の手柄にならないでしょ?」

恵美は反射的に立ち上がった。それから彼女の商売道具の中でも最強の武器・赤黒二色のボールペンとメモ帳をとりだし、「罪体」が埋められている場所のくわしい情報をうながした。




もうじき明け方ではあるが太陽はまだ、東の空に顔を出していない。

荒々しく白い息を吐きながら近藤憲一は必死でシャベルを操り、地面の穴を大きくし続けている。そのすぐそばで大型の懐中電灯を肩にさげ、手には小型のビデオカメラを持って恋人の作業現場を照らし出しつつ記録していた早瀬恵美は、シャベルが泥に染まった布きれを探り当てたのを見逃さなかった。

「あった! それ衣服の端切れだわ!」

近藤は気付かなかったらしい。怪訝そうな顔をして作業を止め、じぶんが掘ってきた穴の中を見つめる・・・たしかにそこには、衣服とおぼしき布があった。

「おい、これ―――」

「いいから作業を続けるの!」。そう叫ぶなり恵美は録画装置を三脚に立ててからじぶん自身も穴の中に飛びこみ、スコップを持つ手で土の中をかきわける。「ここから先は、手で掘るわよ!」

半信半疑でかり出されるハメになった彼氏の近藤も、それまで終始一貫みせていた面倒くさそうなそぶりを、いまや完全に投げ捨てていた。二人は夢中になって、石ころだらけの穴を深く広く、掘り進めていく。かつては鮮やかに染色されていたのであろうの女子用の学生服がほぼ一人ぶん出土し、変色した人骨が顔を出し、ついには半ば崩れかけた髑髏が、泥の詰まった眼孔から虚空をみつめる・・・恐怖よりも、探り当てたという達成感が先に立ち、二人は思わず興奮の声を上げていた。

やがて―――震える近藤の手が、分厚く泥をまとった薄い箱型の出土品をつまみあげる。「これじゃないか? 『本命』は」

「生徒手帳ね」。恵美がうなずく。さいわいカバーは合成樹脂製、そしてそこに挟まっている学生証も写真つきのプラスチック製カードのはずだから、洗えば誰のものか判明するだろう。謎の通報者の情報が正しければ―――それは先日、この穴から百歩と離れていない林道で首を切られた変死者として発見された、桃井文太郎のものであるはずだ。

「これ以上は、掘ることもないわ。現場を保存するのよ!」。作業の功労者たる恋人にたいして、まるで幼い息子を叱りつける母親のように恵美は言い渡す。「警察を呼ばなくちゃね。作業員がここに来るころには、ふたたびキープアウトのロープが張られてるようにしてやるんだから!」

「分かってるよ」。近藤は苦笑しながらうなずく。「俺はただの労役馬だからな、ルポでも協力者の個人特定できるような書き方は、なしだぜ?」

近藤の声を聞き流しつつも恵美は、これからどう立ち回るか、今回の奇妙な体験について、どこからルポを書き起こすべきなのか―――疲労と興奮でつい混乱しそうになる頭を必死で働かせている。ともあれ彼女は作業のしめくくりに注意深く、泥まみれの手帳をビニール袋に収めた。

いまやむき出しになった綾樫郡の八蛇神社跡地はとっくに建物が取り壊されており、雑草や若木もぞんざいに切除されている。遠くで鳥の声がする。

そのとき・・・恵美の目にこそ入っていないが二人の背後の、ほんの数歩ほど離れた場所に、木下まつりが佇んでいた。彼女はなおも忙しく打ち合わせしているカップルを見つめてほんの少しだけ微笑むと、すっと明け方の太陽の光の中に、溶けるように消えていった。





岸部史郎副総理はここ数十秒、ずっと目の前で平伏しつづけている末橋会長の後頭部を、複雑そうな表情で眺めている。ここは彼の自宅の応接室。この傲岸な実業家の卑屈なさまを目にすることができる男など、世界広しといえども俺くらいしかおるまい。

だが生憎、それを誇らしく感じる虚栄心も、嗜虐的な復讐の快感を得る趣味も岸部にはなかった。強いて言えばこの面倒な義理をひきうけるリスクと、代わりにもたらされる実益とを天秤にかけた、せめぎ合いといったところだ。

「いいかげんに、頭をあげてください」。岸部は面倒くさそうに手を振る。持ち前の嗅覚で、その言葉に寛容の匂いを感じ取った末橋はすばやく顔を上げる。「やむをえぬ事情で疎遠になっておりましたとはいえ」と、なにかの芝居の口上みたいなもったいぶった言い回しで、末橋は言う。

「閣下ならばわたしの真情を汲んでくださるものと、かねて信じておりました」

「べつに、あなたの真情を疑ったことなどありませんよ」。相手の面の皮の厚さは知った上で岸部はしぶしぶ、社交辞令を返す。

こいつはかつて、森田先輩のひきで俺の後援会長をやってくれた男だ。ただしその会は会計の不透明さを取りざたされたあと、うやむやのうちに別の人間が引き継いでいるのだが・・・そもそもこの男、資産家であることを誇る割にしぶちんなんだよなあ。

それでも岸部が当人と周囲の望みどおり党の重鎮に出世し副総理に上り詰めると、この会長は実に熱心に「応援団長」としての抱負を語り、いっぱしの忠臣であるかのような物言いを、エッセイやら講演やらで喋りまわっていた。ただのがめつい政商ではなく一応は未来のヴィジョンをおなじくする、損得勘定ぬきの理想肌な部分もあるのかもしれないな・・・岸部も一瞬だが、そう考えたこともある。

だが忘れもしない六年前。任期半ばにして岸部が、持病の腰痛を悪化させて副総理辞任のやむなきに至り、あまつさえ長期療養生活に入ったとき。末橋は手のひらを返した。長年の投資が無駄になったとばかり見舞いの品ひとつ贈ることはなく、「あの人は、もう終わりです。これからは先生に頼るほかない」と、かれのライバルや後輩格の政治家連中に近づきつつ言いふらしていたと、病床で報告を受けるはめになったのである。

かれらが「岸部さんも健康が回復しつつあることだし、復帰の芽はある」と指摘しても末橋は副総理のポスト再任の前例がないことを挙げ、がんこに否定する始末。要するにかれにはかれなりのジンクスにもとづいた政治分析があって「投資の失敗」を自己分析し、見捨てていたわけである。

そうこうするうち健康回復した岸部は、対立政党の失策と対立派閥の失墜によりふたたび指名を受け、副総理としてやり残した仕事に着手する環境が整った。

それは彼を心から支持する有志たちと、鼻の利く政治記者にとっては予定通りの流れだったが、最強のアナリストという自惚れに浸っていたフィクサー兼評論家にとっては、青天の霹靂だったことだろう。何食わぬ顔でご機嫌うかがいと復縁とを打診してきたが、覆水盆にかえらず。岸部にしてみれば末橋がじぶんの入院中、政界にばらまいていた言動は筒抜けなのである。門前払いにしたのもむべなるかなではあった。

しかもそれ以来、ニューランドマーク社の社運にも翳りが見え始めた。

傘下のゲームセンターやスポーツジムの価格設定の高さとサービス内容の貧弱さがアンバランスだ、顧客から暴利をむさぼっている、といった小見出しの短文記事がインターネットで配信されたのを皮切りに、徐々にではあるが同社の、放漫経営にひとしい拡大路線体質にたいして疑念をいだく声が、業界の内外ではびこり始めている。

もとより岸部が悪意をこめて嫌がらせをしたわけではないが、政治家の保護を失った政商が自動的に化けの皮を剥がされていくさまを岸部はちょっとばかり、小気味よく眺めていたものである。

しかしいまや、岸部に派閥をゆずってくれた森田御大がふたたび最後の影響力を発揮して、岸部と末橋の関係修復に乗り出してきている。まあ、かれも決して乗り気ではなさそうだが、捨て鉢になった末橋が一蓮托生とばかり与党の過去の恥部を吐露したりでもしたら、面倒ごとが増える。頭ごなしに無視するわけにもいくまい。さて、どうしたものか・・・

「ところで、わたしは国防および教育・宗教方面での国家制度の建て直しに、強い興味を持っています。確か、閣下もそうでしたよね?」

ややあって岸部がそういうと、末橋は、悪びれもせず嬉しそうに飛びついてくる。

「もちろんです、エッセイにも書いておりますが、わたしは青年実業家となるべく志を立てた学生時代、尊敬してやまない地元の善胤神社に参拝して、つわものの魂魄に祈りを捧げたのです。『かならずや母国の役に立つ成功者となる』と!」

「へえ。本当ですか、それ?」。岸部は冷淡に反問する。末橋が学生時代、反政府派の運動家だったことは聞き知っている。現在の本人は「若気の至りで」と、簡潔にまとめてしまっているものの。岸部はもうすこし立ち入った情報を、しかるべき筋から聞いてもいる。

しかしこのときの末橋は、何気なく反問した岸部にたいし質問者がぎくりとするほどの剣幕で叫んだのだ。

「本当です! わたしはその祈念の誓紙を、ひそかに奉納したのです! これはわたしの回想記にも評伝にも、かならず書いてあることなのです!」

あ、ああ、そうですか―――気圧された岸部は、つい反射的にうなずいていた。

(芝居につきあう気もないがこのまま切って捨てるのも、森田先輩の顔をつぶしてしまうしな。何より・・・)

岸部は顎をなでながら、自身の置かれている現状を冷静に計算していた。

(改革はまだ峠にさしかかったばかり。なのに、潜在していた反対派が思った以上に、大同団結の流れを加速させ始めた―――)

こうなると、「実弾」となる資金源があるのとないのでは大違いとなる。実弾の提供を惜しむ気のないこの男を、利用できるものなら、しない手はない・・・そういう打算もまた、かれの判断に迷いを与えていた。

「閣下が改革を成功されたあかつきには、かならずや共に母国の無名戦士の墓前で、勝利をご報告いたしたい所存・・・」

岸部の迷いを抜け目なく察知したらしい。たたみかける末橋に、さすがに不愉快さを隠せなくなった岸部は、ぞんざいに手を振った。

「あなたは、日本屈指の高額納税者です。財務省の官僚は、あなたの会社の安定をとても気にかけている」

それからわざと身を乗り出し、声を低める。「しかるべき筋には常務さんのことであなたを余り虐めないよう、私的な場でこっそり耳打ちしてあげてもいい・・・」

とたんに末橋は、ぱっと顔を輝かせる。だがその現金な顔をただちに曇らせるに十分な言葉を、岸部は容赦なく投げつけたのである。

「まだ話は終わっていませんよ、会長さん」

副総理はかんで含めるように、ゆっくりと伝えた。

「もう森田先輩の時代じゃない。とにかく、あなたのやり方については、ぼくが副総理でいるあいだしか手心はないものと心得ることです」

静寂が室内を支配する。演技が通じることがないと理解した末橋は、もはや卑屈さを演じなかった。神妙な面もちだが顔を背け、きびすを返した。





岸部宅を辞去した末橋は車中で終始、むっつり黙りこくっていた。なんとか手蔓はつかんだとはいえ、我ながら首尾は上々とはいえない。

普段なら賽の目はもうすこし、わしの方に微笑むはずなのだが。

だが、運を天に任せるのはかれの流儀ではない。つねに強引に未来をもぎとるのが、かれのやりかただ。都内でも五指にはいる城館のような自宅に戻るなり、末橋は寄ってくる使用人たちを無造作にしりぞけ、書斎にこもる。こもるなり、とある古い知人に電話をかけた。「越田さん、元気かい」

「やあ、会長」

電話口に、太い響きの声が返ってくる。「夜分に直接の電話かい、こりゃかなり大きな案件だな。税務署がらみか?」

「いや、別件だ。銀嶺市の事件は知っているだろう?」

「ああ、あれか」。ちょっと含み笑いが聞こえてくる。

「驚いたねえ。ニューランドマークの常務さまともあろう男が、いったいどうやって長ドスなんぞ手に入れたんだ? 言っておくが、俺たちは関係ないからな」

「元常務だ」。すかさず訂正して、末橋は続ける。

「もしかしたら、君の部下に一仕事やってもらうことになるかもしれん」

「そりゃまた久しぶりだな。具体的にはどんなことを?」

「それは、まだ分からん」。末橋はため息をつく。「君の力が必要な気がするから、あらかじめ耳に入れておいたまでのことだ。ただ、どうにも今回の件は腑に落ちないのだ。何者かがわしを追いつめようと、悪意を持っているような気さえする。とにかく、いやな予感がするのだ」

「めずらしく弱気じゃないか」。電話口から響く越田の声は、優越感を隠そうともしない。「しかしその口調じゃあ、さっき入ったばかりのニュースは見ていないな。あんた自身に関係あるかどうかはともかく、あんたが買ったあの銀嶺市の原野は、まだまだ注目の的になりそうだぜ」

「どういうことだ?」

「電話を済ませてからニュースで確かめるんだな。そんなことより末橋さんよ、せっかく久しぶりの電話なんで、こっちも確かめておきたいことがあるんだ」

不意にあらたまった口調になり、末橋は眉をひそめる。率直にいって越田は暗黒街の男だが、懇意にしている末橋には終始、くだけた態度だった。それだけに今回の口調の響きには、事態のただならさを予感できた。

「あんた以前、言ってたな。うちの地元の善胤神社に、誓紙を出したと」

「ああ。それはほんとうだ」

「だがなあ」。ふいにどすの利いた声で、越田が問う。「知っての通りおれも商売がら、お社とのつきあいがある。あんたとも新年の地元商工人のあつまりでは、お社に仲良く拝礼した仲だ」。そこで自嘲まじりに含み笑う。「ま、おれらみたいにかたぎじゃない稼業の人間のほうが色々と験をかつぐし、『国教』を掲げる政治結社も親戚筋に、あるしでな」

そう言ってからやや間をおき、意味ありげに訪ねてくるのである。「善胤神社では、『誓紙なんてもんは知らない、受け取ってない』と言ってる」

「いや。それがな―――」。あわてて末橋は説明を付け足す。「たしかに女の神主に、渡しているんだ。ただし個人的に渡したから、かならずしも処理されなかったかも分からん」

「そうか。だがな、あのお社に女性神職が就いたことはない」。電話口の声は、ますます冷ややかだった。「あんたが政治家や俺らとのつきあいのためだけに、まるっきり嘘をついたとは思わない。その上で確かめたい。

おそらく、あんたが誓紙を奉納したとかいうのは善胤神社じゃない、そうだろ?」

(いったい、こいつは何を言い出しているんだろう?)

末橋はあやうくその疑問を、口に出す寸前になっていた。たかが神社ではないか。

たしかに保守派に取り入るため利用し、口では大いにかれらの守旧の価値観を是として称揚し、みずからも主張てはいるものの。実のところ儀式の主宰者としての立場から周囲を睥睨し、上下関係を確認すること・・・それがかれの信仰心の本質でありすべてだ。信心などというのは、バカどもを安くこきつかう道具でしかない。

まあ、そんなことは今はいい。たしかにおれは、虚偽を口にした。こいつには言っても構うまい。「ああ、そうだ」。悪びれるそぶりも見せず、末橋はうなずいていた。「誓紙を出したのは事実だが、別の神社だったかもしれない・・・」

「ふうん―――実際には、どの神社なんだ?」。ことさら責めたてるでなく、越田が問いただしてくる。

「どこでも良いだろう。善胤神社とおなじ市内の郊外で、どこぞの無名のおんぼろ神社だったとだけ、記憶しておるよ」

「市内? 銀嶺市のことか」

「当然だ、あそこはわしの出身地だ」

不意に受話器の向こうで、越田が黙りこくる。それからややあって、妙に重々しい声でかれは言った。

「やっぱりだ・・・あんたは、神に不義理をしたようだな」

「え」。末橋は、耳を疑った。だが越田の声は、あくまでもまじめだ。

「いちおう、誓紙は出したんだろ? 公表しているのとは、別のお社に。

だとすればおまえは、神の加護を受けて成り上がったくせに、ちんけな見栄をはって善胤神社と詐称し、おまえ自身の守護神の顔に泥を塗ったわけだ。

気をつけろよ、いまあんたが抱えているピンチは、ただ事じゃないっぽいぜ。神罰の始まりかもしれない」

(こいつ、本気か?)。暗黒街の男の意外な言葉に、末橋はしどろもどろで答えていた。

「いや、しかしだな、わしはこれでも・・・」

「おれに言い訳してどうする」。越田はぴしゃりとはねつける。「あのな、神さんってのは、あれで結構うるさいんだぜ? おれも不義理をやらかして、ひどい目に遭った。

事務所に祀っている神棚のほこらを、壊れたまま修理代をけちっていたことがある。そうしたら夜中、トラックにつっこんできた鉄砲玉に殺されかけた。いらい、片足をひきずるようになっちまった」

「いや、しかしあの」

「早めに詫びを入れることだ、手遅れになっても俺は知らんぞ」。越田は真剣そのものの声で、そう忠告する。

「とにかくニュースを確かめるこったな、あと荒事が必要だというのなら、そっちは引き受けるから心配するな」

そう言うなり、かれは一方的に電話を切ってしまった。末橋は後に取り残されたような気分になり、毒気を抜かれたような面もちで、豪華な虎の毛皮のソファに疲労しきった身体を沈める。

それからふと気づいて、テレビのリモコンを入れた。数分も経たないうちに末橋は、越田が意味ありげに言っていたことの意味を理解した。




大画面いっぱいに映し出された夜の林道の前。現地取材のキャスターが、照明に照らし出された白い顔を緊張した面もちでこわばらせながら、さかんに喋っている。

見るからに駆け出しとおぼしき新人とみえてやや早口ということもあり、疲労した末橋の七〇才の耳にすべてが聞き取れたわけではなかったが、それでも刺激的すぎる語彙が次から次へとほとばしっていることに変わりはない。それを聞くかれの表情は、いまや岩のようにこわばっていた。

「綾樫郡・廃神社の跡地から、女子高生のものと思われるセーラー服の遺体が発見され―――」

「なお遺体の傍からは、本人のものとは別の生徒手帳が発見されており」

「関係者の話によりますとこの近辺では四九年前、行方不明になった女子高生がおり、衣服などに一致点があることから・・・」

その遺体とやらがどこの何者であるかは末橋にとり、どうでも良いことだった。問題はいったい何故、あの土地からこう次から次へと、おかしなトラブルが連発されるのかということだ。まるでわしをねらい打ちしているかのように。

待てよ? 「あやかし郡」だと―――ほんらい回転のはやい彼の頭脳に、これまではただの数ある開発予定地にすぎなかったその土地の名が天啓のごとく閃いたのは、その瞬間である。

かれは額に拳をあてて、必死で古い記憶をさぐっていた。越田の忠告が、かれのインスピレーションに刺激を与えていたのである。

そうだ、思い出したぞ・・・末橋は傷ついた獣のように、低いうめき声をあげていた。


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