第2章



全国放送となった事件とはいえ。現地メディアは地元ならではの情報力を用いほんの少しだけ詳しい情報を、ほんの少しだけ早く報道しうるアドバンテージを持つ。月曜日の夕刻に発見された惨死死体の件で速報性と信頼性の両面で頼りになる情報源は、やはり地元である銀嶺市の地方紙と地方局であった。土岐肇は終日、ホテルのスイートのリビングに陣取りつつ地元メディアによる情報収集に余念がなかった。部屋のカーテンというカーテンは閉め切られており、昼でも夜と見分けがつかない。

「被害者は、ホテルでは偽名を使っていたものと思われます」

淡々とニュースを読み上げる地方局アナウンサーは、「島田源太郎」という名を紹介した。宿帳に記載されていた住所も虚偽のものであり、死体が所持していた財布を含めてひとまず身元を特定できる情報はなかったらしい。被害者が携帯電話を持っていたかどうかは、報道されなかった。怨恨の線もふくめて捜査されているとのことであった。

「事件の現場はリゾート開発が始まることになっている綾樫郡であり、事件発生の時点ですでに社有地となっているため、現地に無断で立ち入ることは禁じられていました。

すでに被害者とみられる男性を現地まで乗せたという、タクシー運転手の証言も得られており―――」

深いため息をつきながら、肇は頭を抱えて絨毯の上にうずくまる。気が遠くなるほど時間が経過したかのようにも思えたが、まだ火曜日の夕方でしかない。事態はゆっくりと、確実に進行している。

被害者が何者であれ、それは俺の死ったことじゃない。だがかれの血が着いた刀は、まぎれもなく俺が持っている。それにニューランドマーク社にも警察の捜査は及んでいるはずだ。偽名刺で大学の研究者を詐称して許可証を手に入れたあやしげな中年男の情報は、警察にも知らされているに違いない!

肇は頭をかきむしる。いったい何がどうなっているというのだろう。いくら記憶を探ってみても、自分には人を殺した記憶はない。単に何かの拍子に気絶していただけだ。だいいち、知らない相手なのである。

いずれにせよ、梨神がのらりくらりしている案件が残っている。目撃者は梨神だけじゃないはずだ。木下まつりは、彼女は今どこにいるんだ―――

「いつまでそうしている気?」

ドアが開いて、梨神が薄暗いリビングの中にお盆を持って入ってくる。

「差し入れ。コーヒーとお菓子。何か食べないと体にわるいわよ」

「やっぱり、やっぱり警察に言う!」

肇は、震えながら梨神ににじりよる。「どうせ足跡や血痕、自動車の轍、目撃者の証言、下手すると車道の監視カメラとか、とにかく何かしら痕跡が残ってる。そこから割り出されてからじゃ遅い」

「そうね。まあ可能性は無くはないけど、科学捜査は万能じゃないわ。だいいちあなたはやってないんでしょ?」

「でも目撃者だ」

「血のついた刀を持ってはいたね、たしかに」。そういう梨神の口元がごくわずかだが妙なかたちに歪んで、肇は目を疑った―――この女、笑ってる?

梨神はあくまでも落ち着いており、あやすような優しい口調だった。

「思うに」と、彼女は言った。「あの男はかまいたちに殺られたのよ、か・ま・い・た・ち。知ってるわよね? なにしろ北風がつよい時期だから。その血がたまたま、近くを通りかったとき刀に付着した。どう、これで。完璧な科学的説明ね」

「ふざけないでくれ!」

思わずそう叫んだが、梨神の底なしに落ちつきはらって肇の顔をのぞきこむ。

「あなたは、やっていない」。心にじかに届くような声で、彼女は言う。

「やっていないのだから、焦ることはない。

ただ誤解を避けるためにも、いまは下手に動くべきじゃない。いいね」

肇はしばらく、目の前の梨神の瞳を見つめる・・・心なしか、うっすらと青く光っているようにも見える。その瞳を見ているうちに、すこしずつ落ち着いてくる。

そうとも、おれが焦ることはない。やってないんだから。いまは、依頼人に言われたとおりに動くべきだ・・・

「あなたのお父さんには、富田さんからも電話で事情を話しているわ。お父さんは『我々』を信じている」

けっきょくあのあと、動揺の収まらない肇を尻目にかれの父である完治にコンタクトをとったのは、梨神から話を聞いた富田だったそうである。完治も、結局すべてを了解してくれた。職業柄これまでも何度か面倒ごとに巻きこまれそうになった経験はある。問題は不慣れで小心者の肇だけだ。あげく、完治のほうから説得の電話を入れてきたのである。

そのとき肇は、父が「ご神体が刀剣だったこと」も、肇が「死体発見者であること」も、まして「刀に血がついていたこと」すら聞いていないことに気が付いた。ただ単に、「同じ場所で入れ違いで殺人事件が起きているが、何も見ていない。何も見ていないのに無用のトラブルにかかわりたくないから、容疑者が捕まるまで依頼者とともに待機する」というふうな説明を受けているだけのようであった。

「おまえも分かっているだろう。太田さんはつまらない騒動に巻きこまれることを殊の外、きらっておられるんだ」

どうやらたっぷりと料金をはずんでもらったらしい。肇が電話口に出るなり、完治は息子を諭しにかかる。「探偵をやっていれば危ない橋を渡ることもある。だが、おまえは殺人などやっていない。それだけは俺にも分かっている。おまえと太田さんはただ、無いにこしたことのないイザコザを避けているだけだ。だから恐れるな。

とにかく、嵐が過ぎるまで潜伏していればいい。そのうち犯人も捕まるだろう。以後、連絡は不要だ。おれのほうは心配するな。ニューランドマーク社の立ち入り許可をもらったときは、偽名を使った。そこから俺が割り出される危険は万に一つもない」

「え、でも―――」

「ちなみにここを乗り切れば、おまえは二度と学費のことで気を煩わせなくて済むんだ」

完治はそういって、耳を疑うような額の現金が提示されたことをにおわせ、ほぼ一方的に電話を切ってしまったのである―――

肇は目の前のクッキーを並べた皿とコーヒーを、ただ機械的に口に運ぶ。

そんな肇の耳元に、梨神がささやく。「あそこは社有地だからね。立ち入ることが出来るのはほんらい、社の人間だけ。そして何度もたくさんの会社関係者が出入りしてる。まず疑われるのは彼ら。それに日曜日には、市域一帯に雨が降った。あなたが案じるほど、捜査があなたにたどり着くのは容易ではないわ」

「ちょっと待って―――聞きたいことがあるんだ」

「まつりさんのことでしょ、何度も言ってるじゃない。安全な場所で次の出番を待っていると」

梨神がくすりと笑う。「あなたは心配性なのよ」

「あんた、木下まつりさんのことを言うとすぐはぐらかしますよね?」

肇は恨みをこめて、梨神の美貌をにらみつける。「あなたはあのとき現場に居た。何が起きたのか見ていたんでしょう? それともあなたが犯人とか?」

精一杯の嫌みだったが、さすがにこの華奢な童顔の娘に大柄な男の首を切り飛ばすなんて荒技ができるとは、言いながらも肇は信じていなかった。誰か第三者があの場にいたのだ。そして自分を殴りつけ、気絶しているあいだに刀で人を殺し、俺に見せかけようとして工作したのだ。

とうてい信じてもらえない話と分かった上で、肇はそう思うしかないのだった。だとすれば梨神やまつりも、真犯人と一枚かんでいる―――?

「そうね。じゃあ教えてあげるわ」。肇のただならぬ表情からかれの懸念を察したのか彼女はやや物憂げに、しかし明瞭に言った。「あの島田という偽名を使っていた被害者、本名は桃井文太郎というんだけど・・・」

いきなり、肇が知る限り報道されていないはずの情報を出してかれを驚かせつつも一息おいてから、梨神はうなずいてみせる。

「かれを殺した容疑者が、もうすぐ捕まるわ。あなたとお父様が捜査線上にあがることは絶対にない。だから安心して。明後日の夜までには、必ずそうなるから」

あまりに自信満々な態度だった。肇は眉をひそめて問いただすより先に、思わずすがりつくような表情を浮かべていた。





神無月守男常務が、先週末の不倫旅行に続いてふたたび銀嶺市の地に降り立ったのは水曜日の朝。今回も有能な部下にして豊満なる愛人の志村頼子が、彼のそばに寄り添っている。だが神無月の顔色は悪かった。

「今回は遊びに来たんじゃない」。かれは愛しい部下に、そう言い含める。「かつてない異常事態だ。とにかく銀嶺本社の社内は動揺している。会長に代わり、わたしが事態を掌握しなければならない」

頼子は小さな声で応じたが、余計なトラブルに巻き込まれたことへの不安と不満が、ありありと顔に現れている。もちろん二人きりのときしか見せない表情だが。

「もしかして今回の件がきっかけで、わたしのことが奥さんにバレかけてでもいるんですか?」

頼子は空港を出るとき、そっと囁いた。「わたしたち、ちょうど被害者とかいう人の死亡推定時刻のときドライブで綾樫郡を通ってますし、おまけに、その―――」

そこでちょっと顔を赤らめる。「ボスったらいきなり催しちゃって、林道に車を乗り入れちゃいましたしねえ。あんなの初めてだったから、わたしビックリしちゃったんですけど」

「こらっ。人に聞こえたらどうする」

あわてて叱責の声を上げ、きょろきょろと周囲をみまわす。そんな上司の様子を見ながら頼子は(子供のころ飼っていたウサギみたいだ)と、やや冷めた表情になっていた。しょせん会長の威を借りていない時のかれは、頭がいいだけの小心者。学生時代には成績だけが取り柄で、まわりを仕切る器量もない秀才くんだったのだろう―――

月々の小遣いに宝石の指輪やネックレス、ブランドもののハンドバッグや腕時計やハイヒールに本物の毛皮のコート。在り来たりではあるが、現に所持してみるとその名声が伊達でないことがわかる「本物」たち・・・それらを惜しげもなく提供してくれるボスのおかげで頼子は、思春期の日々を机にかじりつくことでありついた学歴よりも、親からもらった「そそる容貌」のほうがはるかに苦もなく勝利の果実を与えてくれる社会の現実を学んだ。むろんそんな関係と、それに伴う「利権」が永続するはずもないことは承知している。常務との関係は、人生をステップアップさせる一段階での火遊びでしかない。しかも常務に「開発される」ことを通して彼女は、その行為自体が気に入ってしまってもいた。

(ま、あっちに関して言えばこの男は小銭。多少年輩でも、ずっと野性的な男は他にもいるしねえ・・・)

最近はそんな不埒な考えさえ抱くにいたり、あげく「実行」すらしている頼子なのである。ただし彼女がそこまで大胆になれるのも、やはり小心者のボスの立場が、基本的にもろいせいでもあるのだが。

神無月常務がニューランドマーク社のメインバンクの行員たちと学閥上の人脈をもっていること、しかもそれが縁で頭取とも「特別な関係」を獲得できたのが幸いして会長に引き立てられたことは、頼子も知っている。それを失えば、困るのは自分よりもむしろボスのほう。ちょっとくらい彼の年上の部下と火遊びしてたって、そんなのは彼女を満たせないボスのせい・・・いずれにせよ彼女は彼女で、今回の猟奇事件には人にいえない事情で衝撃を受けており、途方に暮れていた。

今回の事件で、「妙な偶然」が重なってしまったのは事実だ。しかしあたしたちがやったことは殺人ではなく「あれ」だけじゃない。まあ確かに、ばれたら奥さんに慰謝料を請求されてしまうかもだが。いやいや、仮にも金持ちの令嬢ともなれば、がめついことはすまい―――

どのみち愛人というおもしろい余録がなければ勤務先ごとき、去っても惜しくないブラック企業。いっぽう若さと学歴という武器は、いぜん健在。けっきょくのとことろ頼子には、たとえ不倫がばれても別の人生を送るチャンスがある・・・もとより望む展開ではないにせよ、頼子はその点、わりきってもいる。

だがすでに重ねたキャリアと家庭をもつ神無月は、そうはいかない。かれはなぜ「あのとき」に限ってあんな妙な欲望が押し寄せたのかと、おのれのリビドーの理不尽さに腹を立てていた。たしかに未だ三八歳。時には欲望を飼い慣らせず困ることもある。しかし神経質なかれはそれが人気のない山林であれ田舎であれ、いやそうであればこそ野外でことに及ぶような大胆不敵な行動はとれないのだ。

それがあのときにかぎって急に盛りのついた犬のように下半身が熱くなり、息を弾ませながら勝手知ったる社有地の敷地内にレンタカーを進入させたあげく、助手席のシートを押し倒してことに及んだのである。目標の温泉宿の途中であり、かつ人目を避けやすい場所としてすぐ思いついたためだったとはいえ。魔が差したとしか思えない。

「ボス、ずいぶん情熱的ですね」

ことが終わったあと、頼子は乱れた服装をととのえながら神無月に笑いかけたものである。「いつもこうだったら、わたしもっと燃えちゃうのに」

だが愛人たる上司のほうでは、普段に似合わぬ行為をしてしまったことに内心で狼狽していた。運転席の時刻表示は、はや一六時半。たぶん正味二〇分かそこらだとは思うものの、大胆なことをして時間をロスってしまった。おり悪しくその場で別の欲求まで催してしまい小用も足さねばならなかったが、それが済むなり神無月は、急いで車を発進させたのである。

(もしあのとき、誰かに見られていたら―――)

そのことを思うと、神無月は憂鬱にならざるをえない。いや、むろんかれ自身は殺人などとは何の縁もない。かれが恐れているのは、捜査の途上で不倫という事実が、社外の人間にまで公然とされてしまうことだった。

「なに考えているんですか、ボス?」

タクシーの車内でわざとらしく? 神無月の顔を覗きこんでくる愛人の色っぽい顔が、今は破滅の陥穽の縁であるかのように彼には思えた。おれが現在の地位を若くして手に入れることが出来ているのも、ひとえに社のメインバンク「銀嶺銀行」頭取さまの娘を妻にしているからなのだ。会長からは、「愛人が欲しければ社内に限定しろ。社内の情報はわしが管理できるからな」と、言い渡されている。じっさい会長の威光が暗黙の箝口令となり、頼子の件はこの一年半、妻にはまったくばれていない。

しかしもし事件のあった現場に、いくら社有地とはいえ用事もないのに一定時間レンタカーを停めていた件が社外の、それも捜査員の注意をひいてしまったらどうだろうか。

神無月は、「不細工」は言い過ぎにせよ華やぎのない、妻の顔を思い浮かべる。ふだんは己のバックを鼻にかけることもないおっとりした妻ではあるが、けっして大人しく夫の背信行為を耐えてくれるほど気弱な女でも愚かな女でもないこともまた、夫のかれは知り抜いている。




神無月が銀嶺本社のオフィスに着くと、副社長の根本とその腹心である部長がさっそく不安そうな顔をそろえて出迎え、常務を最上階の副社長室に案内した。秘書の頼子は席を外すよう命じられ、喫煙室でコーヒー缶を片手に紫煙をふかす羽目となる。ともあれ根本はもちろんだが部長の方も、遠い東京本社財務部のうち、神無月および頼子とだけは顔見知りだった。

「稲村部長。例の変死体の死亡推定時刻は先週の土曜、つまり帳簿の件でわたしに説明をしてくれた午後のことだそうだね?」

先ほどとは打って変わって、さすがに愛人でもない同性の目下の前では、神無月も社の非常事態を確認する常務というポジションに徹することができた。「警察にも事情聴取されたそうだが、何と何を話したのかわたしに説明してほしい」

「は、はあ。それがその・・・」。根本がいきなり口ごもる。これは何かあるらしい、ぴんときた神無月は身を乗り出す。

「いいから、すべてを話してくれ」

「実はあの日、事件発生の時間帯に、社有地に入りこんだ人間が居るんです」

「なんだって?」

神無月は根本と稲村がびっくりするくらいの大声を上げた。「それは確かなのか?」

「はい。正確には『入りこんだはず』の人間が、それも二人か三人。それはこちらの稲村君が対応したのですが」

言われて稲村が、話題を引き取る。

「あの土曜日の午前・・・一〇時すぎくらいでしたか、銀嶺大学の准教授というふれこみで中年の男が当社を訪れてきたのです。なんでも綾樫郡の廃神社を調査したいという目的で」

神無月は夢中になって身を乗り出す。「で、どうしたのだ?」

「はあ、その日の午後だけという確約をとり、立ち入り許可を出してしまったのです。その―――どうせまだ、ただの雑木林という油断もございましたので。わたしの独断で、かつ手続きも略式で・・・」

弁解を縷々述べようとする稲村の顔面に、神無月は待ったといわんばかりに手をかざし、先を促す。「弁解はいい。あったことだけ話したまえ」

「それが、それだけなのです。相手の名前は聞いておりましたし名刺も見せてはもらったのですが、記帳しか残しておりません。そして厄介なことですが銀嶺大学に問い合わせたところ、『その教授は居たと思うが、三年まえに異動して、今は九州に居る』とのことでした。もちろん九州の問い合わせ先も聞いてみましたが、相手はまったく見に覚えがないと言い張っています。ともあれ名刺を受け取っていなかったのが、痛恨の極みです」

「とにかく、その人物に立ち入りの許可証は与えたのだろう? 」

「はい。日付がナンバリングされた略式の許可証ですから、使い捨てですが。まあ犯人なら返しにくるはずもありませんが」

「警察には言ったのか」

「もちろんです。記帳ノートも預けております―――」

「うむ、筆跡しだいでは割り出せるかもしれないんだな?」そこではっとして、神無月は叫ぶ。「そ、そうだ。防犯カメラ。防犯カメラには写っていないのか?」

「残念ですが、ありえません」根本はやや非難するかのような目で、神無月を見やる。「本社移転のさい、経費削減のために裏口の警備窓口と金庫室をのぞく防犯カメラは、すべて撤去してしまいましたから」

ほかでもない、それを決めたのは俺だった。思わず痛恨の表情をうかべた神無月の、舌打ちの音が室内に響く。

いずれにせよ、その謎の男が犯人である可能性を警察はあまり重視していないようだったと、稲村はなおも弁解がましく説明した。計画性こそ感じない犯行ではあるが、わざわざ現場に立ち入ることを申請した人間がその場で犯罪をおかす可能性は、きわめて低いからである。むろん衝動殺人という線は考えられるにせよ。いずれにしろ名刺ひとつ獲得していないからにはそもそもこの話自体、警察の反応は「御社の虚偽ではないか」と言わんばかりだったと、稲村は言うのである。

「虚偽?」神無月は眉をつり上げる。「なぜ我が社がそんなことをする必要がある?」

それを聞くなり根本と稲村は、ひどく困惑した表情で目配せしあった、やがて諦めたように根本がかるくため息をつき、神無月に引導を渡す。

「あのう、申し訳ないのですが常務」。おずおずと、かれは言った。

「常務がこちらにお見えになったらかならず知らせるよう、刑事から指示を受けております―――任意で事情聴取したいからと、求められておるのです。実はその、すでに部下が常務の来社を、警察に知らせております」

「なんだと?」

神無月の不審と反発を承知しつつも、根本と稲村は意を決していた。根本がすばやく、自分たちがすでに得ている情報を披瀝する。

「現場に落ちていた携帯電話が見つかり、それをもとに死んだ被害者の身元が割り出されたのです。じきに昼のニュースには出るはずですが、桃井文太郎。本社財務部の契約社員―――あなたの直属の部下の、一人です」

その次の瞬間、根本はなおも権勢ある上司を恐れつつも、ある種の探求心を隠せないと言わんばかりに目を光らせていた。

「つまり常務。あなたは被害者と面識があるばかりか、関係者ということになる。彼はなぜか偽名をもちい、社用でもないのに銀嶺市に来ていた。しかも、あなたと同じ日時に・・・」

たたみかけるように稲村も根本のそれと同じ光をその目に閃かせつつ、衝撃のあまり口もきけずに立ちすくんでいる神無月に追い討ちをかける。

「常務―――ちなみにあの日、常務はレンタカーを借りてこちらに来社されておりましたよね? じつは犯行当時、現場の近くにレンタカーが停車していたとの目撃情報が、地元民から寄せられているとのことでして。車種も割り出されているそうです。つまりそのー。常務が被害者の行動について何かご存じなのではないかと、警察は考えているようなのです」

ぐらりと、世界が揺れたような気がした。根本と稲村がなおも何事かを早口でうったえていたが、すでに神無月の耳には届いていなかった。




おなじころ頼子は頼子で、喫煙室で驚愕を隠そうともせず―――というのも喫煙室にはそのとき彼女しか居なかったので、隠す必要もなかったのだが―――、だらしなく口を開いていた。喫煙室に備え付けの地元テレビ局のニュースが、例の社有地における猟奇殺人事件の、被害者の姓名を報じていたのである。しかも年齢と社会的立場をふくめて。

「桃井文太郎、六六歳。ニューランドマーク社の契約社員・・・」

うそ―――嘘でしょ。桃井さん? 有給取ったとは聞いてたけど、なぜ彼が銀嶺市に来て、しかも殺されちゃってるわけ?

彼女はほとんど本能的な保身本能で、スマートフォンを取り出してメールをチェックする。「Bun」というニックネームで登録している男性からの、一連の受信メールリストを検索し、最後のメールをチェックする。それは土曜日の午前のメールだった。

「事情があって、休暇中は会えない。女絡みじゃない。事情は後で話す。君はパトロン氏に気づかれぬよう、引き続きご用心」

このメールの数時間後に桃井は―――彼女の「浮気」相手は、殺されたのだ。それも首を切り落とされて。画面を凝視しながらスマホを持つ頼子の手は、いつしか傍目にも分かるほど震えていた。指先で画面をすばやく操作し、「Bun」名義のメール記録を「全削除」の手前までもっていく。

だが彼女はしばらくためらい、削除を断念した。

どうせ完全消去は不可能なのだ。いずれにしても、状況がまだ何もみえない段階で被害者との関係をあえて隠蔽工作するかのような行動は、かえって自分を不利にするだけではないかと思い至ったのである。殺人にかんして頼子は「白」だ。それは誰よりも、自分がいちばんよく分かっている。

だとすれば、桃井と男女の仲になっていたことを警察から問われた場合は正直にそういえばいい。おそらく会社にも居づらくなろうし神無月常務との関係も終わりだろうがどの道、それはいつかは来ること。単に時期が早まっただけでしかない。

それにしても一体、だれがなぜ桃井さんを? そして彼はなぜここ銀嶺市に来ていたのだろう? おたがい割り切った関係だったとはいえ半年ちかく男女の仲になってきた男の死そのものについての疑念が、一瞬だけ頭をよぎる。が、いまは詮索も感傷もあとまわしだ。大事なのは我が身の保身。とにかく今は、状況を見定めることだ―――

頼子がすばやくそこまで計算を進めたとき、背後から女の声がした。「いろいろお悩みのようね、常務の愛人さん。それと、桃井のセフレさん」

反射的に頼子は、手にした缶コーヒーを取り落としていた。飲みのこしの無糖コーヒーが白い床に、小さな黒い花を咲かせる。振り返るとそこには、二〇歳前後とおぼしき美貌の娘がほほえんでいた。赤いワンピースをまとい手にはなぜか、鞘におさめた刀剣を抱えている若い女が。

「だ、誰よ貴女?」

ついさっきまで、喫煙室には自分しか居なかったはずだ。いつのまに背後に立っていたのだろう? いやそれ以前に、ここはニューランドマーク社の社内だ。彼女のラフな服装は、どうみても社員でも関係者でもない。

「誰でもいいでしょ。ちょっと借りるね、その身体」

娘がそう言うのを耳にしたあと、頼子の意識はすっと遠のいていった。





根が小心者の神無月でさえ、ようやっと聴取から解放されて銀嶺市の警察署から出てきたその時ほど血の気のない顔をして見せていたのは、人生で初めてとは言わぬまでも三度目を上回ることはなかったろう。

かれが幽鬼のような足取りで歩道をよろめきつつ歩き出したとき、目の前に一台の赤いレンタカーがすっと寄ってきた。

「予約していたホテルまでお送りしますわ、ボス」

運転席から顔をだしてそう呼ばわったのは、かれの秘書にして愛人の頼子である。しかし愛しい愛人の顔をみるなり、それまで魂の抜けたような風情だった神無月の表情が一変した。その変化はいつもの頼子なら、いや頼子にかぎらず神無月の関係者という立場にある者なら、漏れなくぎょっとして固まってしまうほどの強面だった。しかしそのときの頼子は平然たるもので、はじめて見るはずの鬼のような顔つきをした愛人を、からかうような微笑すら浮かべている。その「ふざけた」表情は、神無月の恐怖を徐々にではあるが確実に憤りへと化学変化させうる、触媒となった。

かれはそのまま無言で、ホテルまでの道を車が揺れるにまかせた。そして頼子があらかじめチェックインしてくれていた、ビジネスホテルのツインルームへと入る。だがドアが閉まるなり、彼は叫んだ。

「君も聴取を受けたはずだが?」

「ええ、でもわたしの聴取は、あっという間で終わりでしたから」。

ソファに豪快に身を投げ出しながら、頼子は答える。「任意出頭をもとめられたのは常務とおなじとはいえ、被疑者ではなく参考人ですしね。だったら素直に応じた方が、警察の心証もよくなるじゃないですか」

「おれは、重要参考人という扱いだった・・・」。長椅子に深く腰掛けたまま、神無月は頭を抱える。「くそっ、あの刑事めが。どうみても俺を疑ってかかってやがる!」

「まあ、状況から言えば悪い偶然が重なりましたよねえ」。妙にのんきな間延びした口調で、頼子は言う。「でも首切り死体なんて荒業、さすがに最悪でも『主犯じゃない』って見ているでしょうし。まあ常務にもできることとは思えないけど。常務も疑いをはらすには、隠し立てしないのが一番ですよお」

そう言いながら彼女は、テーブルの上においてあったレジ袋からリンゴを二つ取り出し、これも買ったばかりらしいナイフで皮を剥き始める。「コンビニで買っておいたんです。一緒に食べましょ。おなか空いてると思考力が鈍くなる、甘いものがいいって、いつも言ってるじゃないですか」

「ずいぶんと余裕だな!」。神無月はかっとなってナイフをひったくり、頼子を問いただす。「警察はわたしと君の関係はむろんのことだが、君と桃井の関係にも興味をもっているようだぞ。発見された桃井の携帯電話には、君とのメールが大量に残されていたんだってな!」

感情的にそう叫んで、はっと気がつく。そうだ、そもそもそれこそが、おれがこの女に確かめておかねばならないことだ!

神無月は無意識のうちに、頼子から取り上げて握りしめているナイフの、その鏡面のような刀身に映る己の相貌を見つめていた。先刻の取調室で、いかにも陰険そうなのっぽの刑事がつめたく問いただしてきた衝撃的な事実の数々を思いだし、自問自答していた―――




「・・・ところであなたは部下の志村頼子さんと、どういうご関係なのかなあ。ただの秘書ってことで、いいんですか?」

防音壁にかこまれた、薄暗いという以上に陰気な取調室の中―――灰色のスチール机を挟んで神無月の真向かいに腰掛けていたのっぽ刑事は、手にしたボールペンを猫がネズミをいたぶるかのように弄びつつ、だしぬけにそう問うてきたのである。「どうなんです?」

「な、なんのことです? わけがわからないな」

ギクリとしてとぼけようとしたが、そのときの態度はまちがいなく心証を悪くしたにちがいなかった。

「たしかに志村君は、わたしの秘書ですが―――」。愛人ではない、と否定しようとして、さすがに思いとどまる。どうせ別室で聴取されている頼子が一足先にしゃべっているのだろう。その点を隠しとおせない可能性は想定していたし、なんであれ警察に嘘をつくのは、やはり得策ではあるまい。とりわけこんな場面では。

当初のうちは当たり障りのない質問をかさねていただけの刑事だったが、核心に踏みこむにつれ敬語ではあったが刺々しい質疑へと空気が変わっていた。なるほど自分でも驚くほど不利なタイミングが重なってはいるが、被害者と個人的な怨恨関係その他のトラブルを抱えた記憶は、神無月にはない。かれはそこに賭けることにした。最悪でも身に覚えのない殺人容疑者になることだけは、避けねばならない。

「・・・まあ、たしかに志村君との愛人関係は、否定しません」。しぶしぶ自分の口で、神無月は頼子との仲を認めた。正直に話してしまえば最悪でも妻が相手の、ただの民事裁判だ。刑事事件との関係性さえ無いと判断されればそれ以上は詮索されぬだろう、うまくいけば妻に知られる事態ですら、避けられるかもしれない。

「とにかくそのことと桃井君の殺人事件とは、関係ない。単なるプライベートでしょう―――」、思い切って挑むようにそう付け加えると、刑事はかるく肩をすくめた。おいおい、そんなつまらない答えで俺が満足するとでも思っているのかよ、と言いたげに。

「いや。だってあなたと志村さんの仲って、社内じゃ公然の秘密だそうじゃないですか」。刑事がぐりっ、とボールペンを掌の中でひねる。「とうぜん桃井さんも、そのことはご存じだ。だけど桃井さんだって独身で、志村さんを憎からず想っている。だからこそ決着をつけるため、あなたたちの社用にかこつけた銀嶺市への浮気旅行を好機到来とばかり、あなたがたの後をつけてきた。しかしあなたに逆襲されて・・・」

さすがに神無月は血相を変えて、目の前の机をたたいた。

「なにを馬鹿な! 憶測にもほどがある。根拠あっての質問なんでしょうな? でたらめな冤罪をかぶせようとしているようにしか思えない」

刑事はすこしばかり押し黙ったが、怯む気配は寸毫もなかった。

「―――ほんとうに、なーんにも知らないんですな。へぇえー」。三文ドラマの悪代官にでもしたらぴったりと言いたくなるような薄笑いを浮かべて、のっぽ刑事は神無月の目をのぞきこむ。

「しかしそう考えた方が、いろいろ説明がつくことが多いんですよ。たとえば桃井さんがホテルで変名を使っていたのは、あなたを襲撃するためだったと仮定すると、わかりやすい」

そこでかれは、微かに笑う。「まあ頭かくして尻隠さずというか、死体が携帯電話を持っていたもので身元の特定は公表されるより、だいぶ前でした。カメラ機能で自分撮りするのが好きな方だったようで、しかも仕事関係でも個人携帯を使っていたからメールその他のデータがそのまんま。変名を用いていた割にちぐはぐだが、おかげで御社に関する知る気のなかった別件情報も、結果的に知ってしまっているのですよ」

恐れることはない、これはただの揺さぶりだ。神無月は常務というおのれの役職を思いだし、ポーカーフェイスをよそおう。桃井ごとき契約社員は社の命運にかかわるような、大きくかつヤバい案件になど関わっていない・・・

とはいえニューランドマーク社では仕事用の携帯を支給されるのは中級以上の管理職だけであり、一般社員は正社員ですら仕事で個人の携帯を使っている。今回はそれが裏目に出たのも間違いなかった。この件ではそろそろ、吝嗇な会長を説得すべきかもしれない―――

「それはともかく神無月さん。上司としてはどうだか知らんが志村さんの『オトコ』としては、被害者があなたを重んじていなかったかもしれないわけだ―――そこはどうなんです? 思い当たるふしは」

「しつこいな、なんの根拠があるんです? それこそ頼子にでも聞いてみたらどうなんだ!」

そう叫んでから神無月ははっとした。頼子・・・そうだ、頼子も取り調べを受けているはずだ。聴取がはじまってずいぶん時間がたったが、彼女は今、どうしているんだろう?

「そうですね」。刑事は思いの外、あっさり引き下がる。「まあこの件はもういいや、ちょっと質問を変えてみましょうか」

どうしてこの刑事は不倫をふくめて、こうも短時間のうちにかなりつっこんだおれの事情を探り当てたのだろう? ほんらい鋭い神無月の脳裏にその疑念が一瞬、よぎった。桃井の携帯電話につまっていただろう情報はもちろんだし、一緒に出頭している頼子が別室で一足先に、いろいろ喋っているであろうことも間違いなかった。だが彼女とて、おれとの「共犯」ともいえる不倫以外に「罪」は犯してはいない。ことさら愛人であるところの上司を、不利にする理由はないはずだ。

いや、ちょっと待て。この刑事はあきらかに桃井について、俺が知らない何かの「ネタ」をつかんでいる。それも不倫にかかわる点でだ。そしてそれは桃井と、もしかしたら頼子の二人だけが知っているネタなのではあるまいか―――神無月がそこに思い至ったとき、しかし刑事は、かれがその先を考える暇を与えなかった。

「あの日あの場所で、あんたと志村さんはわざわざ車を停めて、何をしていたのかな?」

「・・・」

神無月は口元をゆがめて俯いたが、かけられている容疑は不倫ではなく殺人だ。どうせ愛人関係であることをカミングアウトしたばかり。毒を食らわば皿までだ。

「たぶん、志村君から聞いてご存じでしょうが―――」。そう、この期に及んで彼女がわざわざ隠すはずもない。ふかい吐息をついて、神無月は白状したのである。「わたしと彼女は、あのとき車内で情事にふけっていました」

「ふむ、それはこっちがつかんでいる情報と一致しますよ」。刑事はわざとらしく生真面目な顔つきをしてみせる。「でも、それだけですか? ことが済んだあと一人だけ車から降りて、彼女と離れた瞬間があったのでしょう」

それも身に覚えがあった。だがあまりにも低次元なことだけに、そこが致命的なウイークポイントになるとは思えなかった。

「ちょっと催して、小用を足しただけですよ! 二分も離れていないし、彼女の視界からも消えてなどいない」

「それがねえ―――」。刑事は面白そうな顔で言った。

「志村さんはあなたが車から出た後、すぐに眠くなってグッスリ眠っていたと、そう言っているんですが。これは間違いありませんか?」

「・・・」

神無月は自分でも自覚しないまま、口をあんぐりと開けていた。すかさず刑事がたたみかける。

「それとも彼女は、嘘をついているんですかね?」

神無月は必死で記憶をさぐる。おかしいぞ、これはいったい何の罠だ。

「いや、でもね」。弁解がましく、神無月は説明する。「寝ていたといっても、わたしが車を離れたのは用を足すためでしかないのは、彼女も知っていますよ!」

「ええ、でもほんとうに小便だけだったのか、どれくらいの時間がたってからあなたが車に乗りこんだのかを、彼女は知らない。これも事実だ」。刑事が目を細める。「志村さんは『目が覚めたときはもう旅館についていた』と、そう仰っているんですワ。つまりあなたがやっていた『小便』とやらが二分かかったのか二〇分かかったのか、彼女には判断しようがない・・・それで間違いありませんね?」

神無月は絶句した。そのとおりじゃないか!

なぜかあのときの頼子の眠りは深く、声をかけても肩を揺さぶっても起きなかった。よほど満足したに違いない―――ちょっとばかり得意な気分になった神無月は、彼女を無理に起こすのをやめてそのまま車を発進させ、旅館まで彼女が眠るにまかせてしまったのである。しかもちょっとスピードをあげるたびに寝づらそうに唸るので、ついいつもより速度をおとして運転してしまい、情事につかった時間もあいまって旅館に着くのも予定より、ずいぶん遅れてしまっていた。だがそれが今や重大な意味を帯びつつあることに、神無月は恐怖しつつ思い至っていた。

そう。頼子は、パトロンが車を離れたことだけは証言できるくせにいつ戻ったかについては「何も知りません」と、言い切れる立場にあるのだ。結果的にではあるにせよ、いちばん大事な時間帯のアリバイについて自分自信は完璧に守りつつ、神無月を突き放すことができるのである!

それでも神無月は無実であればこその強みで、反撃することができた。

「少なくとも人殺しが出来るような凶器を、わたしは持ってなどいない。それとも警察のほうで、回収しているのですか―――? わたしの指紋でも検出されているのでしょうか。ありえない。なぜならそんなものは無いのだから」

どうやら刑事にとって、それこそが弱点のようだった。表情こそ変えなかったものの二回、素早くまばたきしたのである。

「これ以上の時間拘束は、不当と申し上げる」。刑事の動揺を見逃さず、神無月は言った。「わたしはあの場に桃井さんがいたことを知らなかったし、とうぜん凶器など準備していない。なにより彼の方が年配者とはいえ、単独かつ短い時間で桃井さんを殺し、あげく猟奇的なやり方で死体の首を切断するなど、わたしのようなひ弱な男にできる芸当じゃない。そうは思いませんか、刑事さん?」

なおも動揺を表情に出すことはなかったが、そう反問されてしまうと刑事のほうは、これ以上の手札がないことを内心で認めるしかなかった。たしかに目の前の男は勤め先での権勢はともかく肉体的な意味で、「大仕事」を成し遂げるタマには見えないのだ。刑事の直感に限って言えば、かれはもともと神無月に、あまり強い疑念は持てないでいた。

もとより凶器は、奪えるし隠せるものだ。だがそれに加え、いま神無月が口走ったことばにも、重要な問題があった。

(こいつは今、たしかに「殺されてから死体の首が切断された」と言ったよな―――だがじっさいにはホトケは、首を切りとばされることで絶命しているのだ・・・おれたち警察が公表せずあえて曖昧にしている部分だが、こいつは事情を知らない人間がすぐ推測するような殺し方を、口にした)

もちろん知ってて意図的にトボケているのかもしれないが、ともかくも神無月が粘りに粘った事情聴取をつうじて「犯人でなければ知り得ない情報」を何一つ漏らしていないのは、事実だった。刑事は「無駄足を踏んでいるのではないか?」という挫折の疑念を、疲労感とともに覚えはじめていた。

加えてかんじんの凶器を発見できていないのも、警察の弱みだった。現時点で神無月が抱えている事件との接点は動機とアリバイだけであって、猟奇事件の真犯人像と神無月の実体とは、あまりにも遠い。せいぜい重要参考人と目すのが精一杯なのである。

「―――本日のところは、帰ってくださって結構です」

ややあって―――聴取中の饒舌とはうらはらに言葉を惜しむかのような態度で、のっぽの刑事は言った。

「ただしいつでも連絡できるようにしていただきたい。また志村さんだけでなく、ほかの社員や家人の方も参考人として呼ぶことがあります。今後ともひきつづき、ご協力おねがいします」




そして今。ホテルの部屋で、官憲の掌中からひとまず解放されたふたりの参考人は、向き合っている。頼子は血相を変えている神無月の顔色に気づいているはずであったが、不可解なくらい泰然自若に落ち着いていた。それがまた神無月にはかんに障る。かれはさんざん貢いできた愛人に、どうしても確かめておかねばならないことがあった。

「正直に答えてくれ」

神無月は、嫉妬に満ちた疑念と不安をありありと表情に浮かばせつつ頼子に尋ねた。「刑事は、桃井が君に懸想していたと匂わせていた。君には思い当たる節でもあるのか?」

「あはは、そうみたいですね。まあ仕事関係でもメールしあう仲だったから、不自然なことじゃないとはいえ・・・」

悪びれもせず、頼子は驚くべきことを口にする。「あの人、なんだかんだで常務に嫉妬をつのらせていたのかしらね。先週末の不倫旅行をかぎつけて、ここまで乗りこんできたのかもしれないです」

「おい!」

神無月は叫んだ。「桃井がストーカーならストーカーと、はっきりそういえばいいだろう。なぜ黙ってたんだ?」

「だって、ストーカーじゃありませんもの」

頼子はにっこり笑う。「あの人、あっちのほうも凄いんです。年齢こそあなたとは父子くらい開いているけど、あのマッチョでしょ。それにお互い独身だし常務はなにかとお忙しい。それなら常務がお忙しい時分だけ、おたがいの時間と身体を有効利用しようと、そういう話になりまして」

神無月は開いた口がふさがらなかった。

「君は―――君は桃井と浮気していたことを、認めるのか?」

「言葉は正確に使ってください。独身であるわたしが誰と交際しても、それは自由ってもんです」。まだ皮を剥いていないリンゴを一つとりあげ、一口かじってから頼子は首を振る。

「むしろ頭取の娘である奥様を裏切ってきたのは常務、あなたです。どうなさるんです。殺人容疑はともかく、浮気の方は? 会長にご迷惑がかかるとすれば、そっちのほうでしょう。幸い、あなたのお義父さまはこれしきのことでニューランドマークの会長と切れることは無くとも、あなたを切ることはできます。会長もそれだけなら甘受するでしょうし」

この女、いくらなんでもぬけぬけと・・・神無月はこれまで何かと都合のいい愛人と思ってきた女の豹変ぶりに、戦慄にちかいものを覚えていた。

「君はおれの無実を知っているはずだ! 桃井とつるんでいたのはそっちなんだからな!」

「つるむ? 大げさな」。頼子はちらっといたずらっぽく、赤い舌先をのぞかせる。あたかも蛇の舌かのように、神無月には思えた。「ただ桃井と寝てただけですよーだ」

頼子は踊るように身体をくねらせる。「この身体に狂ったふたりの男が、わたしの所有権を賭けて戦った―――女冥利につきる話ですが、生憎わたし、いたって刹那的な女なんです。つまらないトラブルは願い下げですよ。あと、これだけは誤解のないよう申し上げておきますけど死んだ桃井さんもわたしも、後ろめたさが無いとは言わないけれど、あなたを騙して陥れる算段はなかったです」

この言葉に虚偽はなかった。桃井はとある旧悪がからんで懲役刑だけは怖れていたが、性欲については徹頭徹尾、原始的でネジが緩んでいる男だった。その点で頼子と桃井は割り切った同類といえた。桃井は目の前に稚魚が泳いでいればそれが自分が生んだ子でも食ってしまう魚とおなじで、ただ頼子という「食える肉」に、本能のおもむくまま食いついていただけなのである。

だがいまや、神無月は確信していた。それが何かは分からないが、この女は何かを知っている。最初からおかしなことだらけだ。何かが不自然で、何かのつじつまが合わない―――それはすべて、この女が原因なんだ!

「おまえ、桃井に何をふきこんだんだ?」。そう尋ねつつ神無月は、愛人の娘にじりじりとにじり寄る。「そしておれを、どういう策にハメた?」

「あら、わたしをお疑いなのですか、神無月常務・・・」ゆっくりと後ずさりつつ頼子は笑う。

「桃井さんの件は、わたしたちのこととは別件だった―――わたしをお疑いになる前に、そういう可能性も検討してみるべきではないでしょうか・・・」

頼子はあくまでも悪びれない。

「たとえばそう・・・会長やメインバンクのお義父さんの橋渡しで、いろんな無理筋の泥かぶってて、いろんな筋から疑念や恨みを買っていることとか・・・そういう巨悪にたいする、報復の一環だったという可能性を―――」

「やっぱりだ!」神無月は吼えた。「おまえ、なにを企んでいる?」

神無月はもはや、頼子のからかうような口調に耐えられなかった。猛獣のように彼女にとびかかり、肩を揺さぶりながら問いただす。

「さあ言え! おまえは何を知っている? おれと桃井に何をしたんだ」

「何もしちゃいないよ、ばーか」。男に体重をかけられて押し倒されてもいっこうに恐れる気配もなく、頼子はけらけらと笑い出す。「おまえは自業自得で破滅するんだ。桃井とおなじさ。わたしは何もしてなどいない、おまえたちはおまえたちの業にふさわしい目に遭うだけだ」

ばしっ、と激しい音が鳴りひびき、神無月は眉間に激痛をおぼえて床に倒れ伏す。みれば頼子はすでの立ち上がり、なにやら細長い棒のようなものを手にしているではないか。

いつの間にそんなものを? 神無月が疑問を問いただす暇すらあたえずに彼女はそれを振り上げ、嘲笑しながら神無月を叩きのめす。

な、なにをする? そう叫ぼうとしたが、激痛がかれの声帯を、悲鳴以外の目的で使うことを拒んだ。いったい何が起きているのかすら理解できないうちにも身体のあちこちに次から次へと激痛が走り、神無月は転げ回る。およそ女の力とは思えない打擲だった。

「ほらほら、どうしたの? 常務様だの会社の功労者だのと祭り上げられても、おまえの本性はただの卑屈な虐められっ子。みじめなものよ」。転げ回る神無月の足を、腰を、背中を、頼子が振り上げる棒が打ちのめしつづけていく。恐怖と激痛におそわれた神無月が頭を抱えてうつ伏せると、頼子のものとは思えない、あざけりに満ちた罵声が頭上から響く。

「愛人の小娘に打擲されてはいつくばるその無様な姿こそ、おまえにふさわしい姿。会長に取り入り権勢をふるって得意になっているが、しょせんは下っ端。最高学府やら外国のアイビーリーグとやらを出ても、下っ端は下っ端!」

それにしても実におもしろい姿だわ。頼子ははげしく笑いだす。彼女は使っていた棒をころりと投げ、神無月の伏せた頭の前に転がした。「どう? 目下に女を奪われたあげく、その女から叩きのめされてひいひい泣き叫んだ気分は? それこそがおまえの真の姿。いやいや、おもしろい見物ね」

そういって頼子は背を向け、ドアに向かったのである。「一暴れしたら喉が渇いちゃたわー。どぉれ、ビールでも買ってこようかな?」

その言葉を耳にするなり、すさまじい憎悪と恥辱と憤怒が、神無月の心を津波のように満たしていた。かれは咆哮し、飛び起き、凶暴な手負いの獣のように猛然と雄叫びをあげる。なのに頼子は振り返ろうともせず、まるで檻の向こうのライオンを無視するかのように背中を向けたまま、室外に出ようとしているのだ。まさに傍若無人。神無月の理性の衣の、最後の一枚がそのとき、完全に吹き飛ばされた。

「この売女があぁぁ!」

そう叫びざまかれは、ちょうどドアのノブに手をかけガチャリと開けたばかりの頼子の背に、いつのまにか手にしていた何かを袈裟懸けに振り下ろしていたのである。

「死ねぇ!」

「キャーッ」

頼子の悲鳴があがる。

次の瞬間、神無月は目を疑った。気がつくと肩から背中にかけて頼子の衣服がきれいに切られて、背中の地肌が露出しているのだ。彼女の背中にはざっくりと一文字の裂傷がうまれ、そこから熱い鮮血がほとばしっていた。返り血を浴びた神無月の顔も真っ赤に染まり、かれは何度も寝床の中で感じてきた彼女の体温を、いまや異なる方法で感じていた。驚愕した神無月は、あわてて手にしていた何かを放り出す。そしてつい今しがた自分が手にした物の正体をたしかめ、愕然とした。血糊で赤く染まりつつも、ぎらつく白刃がそこにあった。

それは日本刀だった。頼子が持っていた、あの棒か? 彼女は鞘に納めたままの刀を棒に見立てて、使っていたのだ。

あげく鞘を抜いて、神無月のそばに置いていた―――? だが彼がそこまで状況を把握しえたのは、留置所に入れられた後のことである(無論そんなご都合主義の証言を信じてくれる者など、いる筈もなかったが)。

神無月はぼんやりした顔で、たたずんだ。何かをしなければならない気がしたが、何をすればいいのかがわからなかった。

頼子は侮辱した男の反撃を、まったく予期していなかったのだろう。先ほどの高慢さはどこへやら、部屋の外の廊下に転び出て、幼女のように泣き叫んでいる。

「だれか、だれか助けて! 痛い、痛いよぉっ」

ちょうど頼子たちの隣の部屋に数人の宿泊客と、かれらを案内するベルガールの一行が向かっているところだった。かれらもまた目の前にとつじょ発生した惨劇に驚くひまもないまま、唖然とした顔で反射的にあとずさり凝視していた。ややあってベルガールが何ごとかを叫び、次の瞬間には宿泊客らとともに一目散にその場を駆け去っていく。しばらくして館内全体に、非常通報が響きわたる。

やがて頼子は自身の血で血塗れになった廊下にうつぶせに倒れたまま、動かなくなる。失血が多かったのもさることながら突然の恐怖で、意識を失ってしまたのだ。彼女を救おうともせず、室内でぼんやりと痴呆のように突っ立っている神無月に現行犯で手錠をはめたのは、先ほど警察署で見かけた、のっぽの刑事の仲間たちだった。初動の早さから察するに、あるいは尾行していたのかもしれない。

瀕死の頼子を乗せた救急車と神無月を乗せたパトカーが、ホテルのエントランスからそれぞれ反対方向へと出発したのは、同時だった。

「大胆なものだな、あんなものをまだ持ち歩いていたとは」。パトカーの車内で神無月の横に座った刑事は、苦笑していた。「あの刀は、すでに鑑識が確保した。科捜研できっちり調査されるさ。血液反応が二人ぶん出たばあい、あんたの罪は相当なものになる」

「ちがう、あの刀はおれのものじゃない・・・」。無駄と知りつつ、また抗弁するというには弱々しい口調でそうつぶやきながら。神無月は茫然自失たる表情で、窓外の市街の夜景を見やっていた。さまざまな色調で美しく輝く無数の電光が、いまや遠い世界のものとなりつつあることを自覚しながら。





翌日、木曜日の夜・・・

ホテル「セイレーン銀嶺」の最上階スイートにて。注文したピザとコーラもそのままに、土岐肇は大画面テレビの速報を、ぼうぜんと眺めていた。

「・・・秘書の女性に重傷をおわせて現行犯逮捕された神無月守男・三七歳はニューランドマーク社の常務取締役であり、犯行当時は室内からはげしい口論の声が聞こえたという証言もあります。なお被害者の女性に命の別状は無いものの、聴取できるまで回復するには時間がかかるものとみられており、警察は犯行の動機ならびに凶器となった刀剣の入手経路などのくわしい事情について、引き続き犯人から事情を聴取しているとのことです―――」

ニュースが終わるなり、肇は猛然とインターネットにかじりつく。ネットの掲示板でも事件関係のスレッドは、にわか探偵たちのあてずっぽうの推理討論でもちきりだった。

<しかしまあ日本刀なんて物騒なもん、なんで持ってたんだろうな? 警察もかなり興味を持っているらしいけど>

<そこが謎ですワ。だけど『警察関係者筋の情報』ってことで昼のワイドショーでもやってたけど、刀に付着している血痕には被害者女性のものの他にも微量だがすでに乾いた血痕が確認されたそうで、科学鑑定の結果が待たれるとか>

<どういうことですかそれ? ほかにも被害者がいるってことですか?>

<横レス失礼、なんか、そんな匂わせ方なのは確か。俺が見た朝のバラエティじゃ、警察はこの男を事件の前から捜査中だったらしい。なんでも別の事件にも、関係してるんじゃないかってことで>

<何というバイオレンス常務。これは死刑待ったなしですわ>

<ちょい待ち。そういえばちょうど先週末、銀嶺市で発見された首切り死体っての、身元が割れたばかりだったのを思い出したんだぜ。この常務さんとこの会社の社員だったじゃん。ニューランナウェイとかなんとかいうのの>

<ランナウェイ=×、ランドマーク=○>

<おおおおおお>

<異なるふたつの事件の、点と線がつながる悪寒キタコレ>

その会話のくだりを肇はたっぷり五分ちかく、睨むように凝視していた。が、やがてため息をついて首を振り、頭を抱えてしまう。そのとき呼び鈴が鳴り、はっとした肇は壁に備え付けのモニターまで駆けより、訪問者を確認する。

「梨神ですよー」。今日の梨神は青いブラウス姿で、片手にワインの瓶を持っていた。「祝杯をあげようよー」

「祝杯って、なんの祝杯?」

上機嫌の梨神を部屋に入れ、スイート専用食器棚からワイングラスをふたつ取り出しながら、肇が尋ねる。未成年の肇はまだ、アルコール類を日常的にたしなんでなどいない。しかしクライアントのご希望とあらば付き合うのが苦痛でもないしやぶさかでもない。

「決まってるじゃない。あなたが晴れて容疑者の不安とおさらばできた、その祝杯よ。『凶器』はすでに、わたしたちの手を離れてる―――」

おどけるような乾杯のしぐさを見せてから、グラスに注がれた深紅のワインに一口つけた梨神はくっくっと笑い声をあげる。

「ニュースは見たよね? ニューランドマーク社の常務の殺人未遂事件。あの犯行で使われた凶器と公表されている刀こそが、あのご神体なのよ。つまり、完全にあなたの手を放れた―――」

やけくそ気味に一気に呷ったワインは、わりと高級なものだったらしい。その芳醇な味わいにすこし心が和んだ肇だが、梨神のこの言葉には、耳を疑うしかなかった。「なんですって?」

「あのご神体には桃井の血痕も残ってる。いちおうふき取ってはおいたけど、返り血は鍔や鞘にもけっこう残っているしね」

梨神が注いだ二杯めの酒を呷ろうとした肇が激しくむせているのを面白そうに眺めつつ、梨神は続ける。「容疑者さんもこれから大変でしょうけど、自業自得。綾樫郡の事業がらみでも、それ以外にも、いろいろ悪どいことしちゃってるしね。下手すれば、そっちにも捜査が及ぶ。ニューランドマーク社はいまごろ、天地がひっくり返ったような騒ぎね」

「ま、待ってくれ!」。肇は血相を変えて叫んだ。「あの神無月と言う人に、冤罪をかぶせるというのか?」

現行犯の傷害はともかく。少なくともあの首切断事件で神無月氏が裁かれるのは不当だ。なぜならあの時、少なくともあの刀を持っていたのは、自分なのだから。

「心配いらないから」。梨神はそういって深々とうなずく。「警察は神無月があのご神体をどこでどうやって手に入れたのか、絶対に割り出すことなど出来はしない。神無月も被害者の志村頼子も、『気がついたらそこにあった』としか言えない。ホテルの防犯カメラはそれがもともと頼子の持ち物だったことを証明するけど、頼子自身には記憶がない。たぶん被害にいたったときの記憶すら、曖昧よ・・・」

桃井文太郎の死に限って言えば、ついに立証されないまま迷宮入りになる。神無月が裁かれるのは、激情にまみれて愛人に傷害を負わせたことやそれがもたらす家庭争議も含め、彼自身がやった別件の悪事だけ。むろんそれだけで、死刑になることはない―――梨神は自信たっぷりにそう断定するのである。

「だとしても、そんなことは僕がさせない!」。憤然として、肇は立ち上がる。「やっぱり警察に、何もかも喋る!」

「何もかもって、何を?」。そう問い返す梨神は、あたかも出来の悪い生徒を哀れむ教師のようだった。「あなたが桃井を殺した犯人だと、名乗り出るの?」

「そうじゃない、あの刀を持っていたのは自分だと言うことだけだよ」

「警察はそれを信じるかしら? あなたも刀を持ち出したとき軍手をしていたし―――それに、あなたは証明できるの?」。その美しい相貌にあからさまに軽蔑の色を浮かべて、梨神は尋ねた。「わたしがどうやってあの刀を、あの神無月という男の手に持たせたのかを。そもそもわたしの言葉を、なぜあなたはそこまで信頼できるのかしら」

「それは―――」。いわれて肇は口ごもる。確かに、おかしなことだらけだ。なるほど彼女の予言が「当たった」かのように、刀剣による傷害事件が起きた。それも被害者の桃井とかいう人の、会社関係者によって。しかしその刀が、彼が八蛇神社から回収したご神体かどうかなど、分かろうはずもないのだ。ただこの梨神とか言う、神職とおぼしき女が言う通りにことが運ばれているかのように、「見える」だけである。

「―――あなた一体、何者なんです?」

そう問いつつも肇は、身体がカッカと火照りはじめている。どうやら興奮もあいまって、酔いがまわり始めているようだ。だが酔いに任せて眠ってしまう前に、知っておきたいことが多すぎる。「そもそもあのご神体とやらは、大事なものじゃなかったの? いいんですか、犯罪の道具として押収されちまってて」

「いいのよ。祀る場所のない祭具など、ただのがらくた」。そう言う梨神の表情がふいに曇ったように見えたのは、あるいは肇の思い過ごしだったのだろうか。少なくとも続く言葉は、いささかドライな事実を告げるものだった。

「こういうことでも無ければ、もはや使い道などないものなの・・・骨董品としても、さほどの値打ちはない。貧乏浪人の持ち物を買いとって、らしく飾っただけ。文政五年のことよ」

「え?」。さすがに耳を疑った。「ぶんせい五ねん?」

「江戸時代の末期も末期。現代の西暦になおせば一八二二年ってとこかしらね」。梨神は、おどけたように肩をすくめた。「神社そのものだって、似たようなもの。寛政一〇年、一七九八年に地元の地主、富田家の先祖が験かつぎの面白半分で、余った土地に自家の守護神とやらをでっちあげたのが起源なのよ」

あげく世代交代しているうち尾ひれが付いて、「妖しい神霊が宿る」と噂されたこともあるものの。神主なんて、居たためしもないのだという。

だからご神体などといっても美術品とか工芸品なんて呼べる代物ではなく、史料的価値でさえ、資料館や博物館に飾れるほどのものではない。

「叩き折って火にくべても、惜しいものではないの」と、梨神は断定する。「じつは武器としてもなまくら以前のしろものでね、『人』が人を殺せる凶器なんかじゃない―――だから、心配はいらない」

「ちょ、ちょっと待てよ」。さすがに肇は、混乱せざるをえない。

「それが事実だとして、そんなつまらん代物のために、あなたがたは大枚をはたいて僕らを雇ったのですか?」

「何が詰まるもので何が詰まらないものかは、雇われた側が決めることじゃない―――」

クッションにもたれ掛けていた梨神がすっと立ち上がり、同じようにクッションに腰掛けていた肇を、ちょっと冷ややかな視線で見おろす。「このわたしが決めることよ、そうじゃなくて? 肇くん」

「でも」。疑問がつのるばかりじゃないか、肇はやや憤然としていた。「さっき言いましたよね、八蛇神社には神主など居たためしもないと。あなたは八蛇神社の、神主とか宮司とかではないのですか?」

「わたしは、あの社に宿るあるじ。そうとしか言いようがない―――」。そう言う梨神の目が、ぼうっと青白く光る。不思議な現象のはずなのに不思議とすら思わず、ただ吸いこまれるようにその光に見いっているうち、肇からはなぜか、それ以上たずねようとする気力が失せていく。よく分からないがとにかく彼女は八蛇神社について、「絶対的な権利」があるらしい。理屈では説明不足のことだらけなのに何故かかれは、そう納得してしまっていた・・・

それから彼女は、不意に意外な行動に出た。まとっていた青い服のボタンを、すばやく外し始めたのである。

「え」。肇は混乱しながらその動きを押しとどめようともせず、ただ呆然と見つめてしまっていた。まばゆいほどに美しい肢体が露わになり、梨神は肇に微笑みかける。童顔だがやはり彼女は大人の女性であり、えもいわれぬ妖艶さを醸し出していた。酔っているせいもあったにせよ、肇はじぶんが情けなくも盛りのついた牡という属性をもつことを、自覚せざるを得なかった。

「わたしと契れ、土岐肇。おまえは神に気に入られた」

彼女は肇の肩に両手をまわし、抱きついてくる。肇は湧き出る唾液を何度も飲みこむばかりで、彼女の動きを拒もうとはしない。

「おまえもおまえの父も、保護してやろう。むろんわたしがおまえを気に入ったから、そうするだけのこと。見返りの贄は求めないから案ずるな。

すでにしてくれたこと、これからしてくれることだけで十分だ―――」

だがそれを聞く肇の心はとっくに肉の快楽におぼれており、相手が何を言おうが耳に入りこそすれ、頭の注意力が失せていた。ましてその直前に心配していたもろもろの事、もろもろの疑問など、どうでもよくなっていたのである。興ざめすることを、言うべき場合ではなかったし―――

スイートの絨毯がやわらかくて良かった・・・信じられないほどの甘美な快楽に理性がすっかり消し飛んでしまう直前、肇が思ったことはそれだった。いくら理想の美女を相手に一夜を過ごせるといっても、堅くて冷たい床の上では興ざめというものだからだ。


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