第1章



いわゆるブラック企業といわれる会社にも、いやブラックと呼ばれていればこそ訳ありの人物が集まって来るものである。

桃井文太郎が六六才にして、現代日本人男性の平均値からすれば早すぎる死を迎えたのも「会社の事業が、期せずして社員に死をもたらした」という定義を拡大解釈すれば、ある種の「殉職」と、表現できないことも無かった。もっとも自業自得だったことも、また確かなのだが。

「いまをときめくニューランドマーク社が、同社発祥の地でもある銀嶺市の郊外に、リゾート地を開発する」

銀嶺市からとおく離れること空路一時間半、帝都東京に勤務する桃井がそんな非公開情報をいちはやくキャッチできたのも、その情報が公然のものである唯一の場所、すなわち同社オフィスに勤めていればこそであった。もっとも銀嶺市とて横断するのに車で小一時間はかかる面積を有しており、市内にはニューランドマーク社の息がかかった娯楽施設や飲食店、不動産が少なくない。問題はそのリゾート地の場所である。

「綾樫郡の一帯らしいっすね」

若い同僚から具体的な地名を聞かされた瞬間の桃井の顔が、陳腐な表現だが豆鉄砲をくらった鳩であるかのようであることに、情報提供者である同僚はすぐに気づいた。はたして顔色を変えているくせに表情や声音はわざとらしく落ち着き払って、桃井はたずねる。「綾樫郡といってもかなり広いだろ、ぜんぶ買い取った訳じゃあるまい。どのあたりなんだ」

「いえ、おれは地元の人間じゃねーっすから。詳しいことは社内メールで広報部が発信してるでしょ」

平静を装っての取り留めのない雑談をすませるなり、桃井はじぶんのデスクのパソコンにかじりつく。なるほどメールには「社外秘」というカッコつきの冠頭句を添えて、綾樫郡の一件が社員むけにより詳しく報じられていた。ゴルフと射撃、ウインタースポーツ、温泉と屋内プール・・・複合的かつアウトドア系の娯楽を主軸コンセプトにし、そのうえで五〇〇人ちかいキャパシティをもつリゾート宿泊施設・・・規模から考えて、今は変哲のない綾樫郡の雑木林は少なくとも八割がた伐採され、造営のためにブルドーザーやショベルカーを入れられ、地表は削られる。

電気や上下水道などのインフラ整備のため、地中深くに配管が埋められる箇所もあるだろう。もちろん大半の地面は、無造作に土砂をかけられて終わるはずだが、掘り返されたとき「隠れた過去が姿を現す」部分がある限り・・・単なる偶然にじぶんの運命を全て預ける気には、なれそうにない桃井だった。

「急の用件があるので、有給をいただきたいのです」

十五分後、かれは二周りちかく年の若い上司の常務・神無月守男にそうねじ込んでいた。急のこととてせいぜい一日か二日くらいのものだと思った神無月は、桃井が差し出す申請書類を何気なくあらため、土日もあわせるとほぼ一週間、桃井が席を空けるということに気が付いて眉をひそめた。かれの職場に限らず全国に支社を持つニューランドマーク社のオフィスにおいて、業務はいつでも山積している。私生活については妙な噂を聞いたこともあったが、何であれ職務はそつなくこなす初老の部下が一時的であれ急に不在となることを、効率第一の上司は望んでいなかった。

「明日から土日として、そのあと月曜から木曜まで休みたい、ってか?」

さすがに不機嫌さを隠せず、神無月は首を振る。

「急の申請だというのに、一週間もとるのかい。法事でもあるのか? 君は近しい係累など、居ないはずじゃなかったの?」

だが神無月は、それ以上に言葉を継ぐのは断念した。桃井の表情がこれまで見たことがないほど切迫していたからである。どう考えても取って付けた理由にも、しぶしぶ頷くしかなかった。

桃井は、昔のことではあるが高校時代は県選抜の格闘スポーツ選手だったというだけあって今でもジムでの筋肉づくりを怠らず、肌は浅黒く背丈も一八五センチあって上司より頭ひとつぶんは高い。まるでアメコミのヒーローみたいにマッチョな肉体をもつ精悍な男でもあった。頭髪こそやや薄くなっているがまだ白髪と黒髪が半々づつ、ふだんは愛想良い笑顔を浮かべているがいざとなればいくらでも威圧感を演出できる男であり、事実このとき、その威圧感を臆面もなく上司に披露していたのである。ニューランドマーク社の金庫番を預かるキーマンと目され、ある意味では会社の黒幕ということで不穏な噂もついてまわる神無月ではあったが、こういう場面では押しの強いヤンキーに気後れするメガネ少年という、少年時代の構図を再現するほか無かった。


有給にありつくなり桃井は取るものも取りあえずインターネットで、翌日の第一便の航空機チケットを購入した。行き先は銀嶺市である。

ただし翌日の朝、航空機に乗りこんだときのかれは携帯電話以外、それこそ財布の中に有る名刺やカードのたぐいも含めて、身分証明が出来るいかなる情報の切れ端も持ってはいなかった。むろん航空便が墜落したばあい自分の身元は割れるだろうが、どうせ死ぬからどうということもない。ただし航空便がぶじ着いた先での行動は、可能な限り特定しにくくしておきたかった。

午前中のうちに銀嶺市最寄りの空港に降りたかれはタクシーに乗りこみ、行き先を告げる。車内でふと気づき、半年前からつきあっている同僚の女宛てに「休暇中は会えない」むね、メールすることにした。

おなじ部内だけに休暇の件は相手も承知しているし、どのみち今週の週末は、相手のほうの都合で会えない。だが問題は銀嶺市に来ていること、いや旅に出ていること自体を会社に隠していることだ。

なにせ熱い女だ。こっちが長期休暇を取ったら取ったで「週明けには最低一晩、お誘いがあるはず」と、皮算用しているに違いない。割り切った火遊びとはいえ、いやそうであればこそ用心が不可欠だ―――変に詮索されぬよう、短いが練った文面を桃井が送信し終えた時、タクシーはホームセンターに到着した。

軍手とタオル、運動靴と折りたたみ式のシャベルと四五リットルの黒ビニール袋を買いこみ、さらにガムテープと懐中電灯と、蝋燭まで取りそろえる。喫煙者であるかれは、ライターだけは買う必要がなかった。

それらを無造作に、これまた買い入れたリュックサックにほうりこんだ桃井はそれらをかつぎ、チェーンの牛丼屋でほとんど味わうことなく昼食をかきこんでから三〇分ほど歩いて、市内のビジネスホテルにチェックインしたのである。

「島田源太郎」。宿帳への記入のさいは、架空の変名をもちいた。住所のほうは一瞬ためらったのち十年前まで住んでいたアパートの住所を、数字の部分だけでたらめに変えて記入する。法律違反だが、これからもっとやばい違反行為をしようとしているのだから仕方がない。

購入した長靴に履き替えると、もともと履いていた靴と鞄だけを室内に置いて、購入した道具類とともに出発。フロントのホテルマンがちょっとだけ奇異な視線を光らせたかもしれないが、それだけならどうということもない。レンタカーを借りることはできなかったので、ホテルの前でふたたびタクシーを呼んだ。目指すは綾樫郡。つまりかれの会社が事業を展開するために購入した土地である。


造成工事を間近に控えたその雑木林一帯は、高速道路インターからは乗用車で一〇分、銀嶺市の中央からは二〇分かかる場所にあった。敷地内にもいくつか廃屋があり、好奇心で遊びに来る若者もいるものの敷地の外の周囲には民家と田畑がとりとめもなく散財しているだけであり、ふだんの人通りはまれな僻地である。土建業者が乗りこんで工事が本格化するまでのしばしの期間、ひとまず「社有地につき立ち入り禁止」の立て札とロープをはられただけの変哲もない土地でしかない。

だが工事の手が入りだすのは、早くてもさ来週の月曜からである。それから先は敷地を囲うフェンスも容易に通ることは出来ない板壁となり、昼夜を分かたず警備の目も厳しくなるだろう。敷地内に侵入して何かやろうとするのなら、残された時間は一週間に満たないのだ。できればこの土日のうちにでも後始末をふくめてことを終わらせ、来週の火曜か水曜までには東京のアパートにもどり、独身男の気楽で散らかった部屋で一人酒を楽しみながら、安眠につきたい・・・

タクシーから降りた桃井は「さ来週の月曜の朝がタイムリミット」ということばを、何度も何度も心の中で繰り返していた。

かれは綿密に思考をめぐらせていた。現時点でも、侵入はともかく夜間の産廃不法投棄を監視するために、巡回警備が姿を現す可能性はある。何より、さすがに明るいうちでなければ活動の自由が奪われる。作業は日没前のほんのわずかな時間帯をねらうべきだと、桃井は考えていた。もちろん、いかに田舎とはいえ人通りが皆無なはずもない。「作業」に来ていいのは出来れば一度だけ、最悪でも二度に押さえておきたいところだった。

桃井がタクシーから降りたとき、とうに時刻は午後三時半をまわっていた。さいわい人気はまったくない。季節は初春、日がすっかり落ちるまであと二時間しかない。桃井はポケットから取り出した軍手をはめ、リュックを背負って林道に入っていく。おおよそ三分ほども歩くと、目的地である神社の境内にたどり着いた。

その神社は、おそらく敷地面積は百坪もないだろう。周囲を林野で覆われ、まるでミニチュアのような鳥居と拝殿ならびに正殿のほかには手水舎があるっきり。あるいは撤去されたのかもしれないが、納札所や社務所や摂社のたぐいもない・・・おそらくは極めて私的な神殿なのであろう。境内一面に背の高い草がぼうぼう生え、参道すらわからない。鳥居や拝殿や正殿をふくめて蔦と苔で緑色に染まっており、屋根のひさしは蜘蛛の巣だらけ、壁板は腐食が進んでかなり大きな穴があいており、賽銭箱は釘を打った板で蓋をされていた。

華奢で背の低い鳥居はかろうじて立っているもののもともと塗装されていないものらしく、古さと蔦の絡みぐあいも相俟って、奇形の枯れ木と見分けがつかない。二基しかない小柄な灯籠も倒され、草の中に埋もれているが苔が生えているので、ちょっと見ただけでは分からない。要するにどこからどう見ても地元の過疎化にともない、役目を終えた神社にちがいなかった。

しかしそれは、驚くことではなかった。桃井がこの銀嶺市で高校に通学していた時代、すでにこの神社は事実上の跡地といってよいものだったからだ。むしろこういう場所でありつづけたことが当時も今も、かれにとっては好都合だったのである。

地主の老人が何かの気まぐれで、境内の参道の草だけは伐採していたらしいが、それすら後継者の代になってからは絶えたようだ。境内が完全に森林の一部となることなく、鳥居や正殿が形を残していたことのほうに、桃井は驚いたくらいである。

(良い目印が残ってくれたもんだ)と、桃井は心中つぶやいた。(これで彼女をどこに埋めたのか、おおよそ見当が付く)

桃井はすぐに草をかきわけながら参道を進み、正殿の後ろがわに回った。そこもまた、あたり一面、雑草が伸び放題の羊の毛のように生えわたっている。桃井は顔をしかめた。そうだ、草刈り鎌を―――いや、原動機つきの草刈り機でも準備しておくべきだった。

とはいえ、ホームセンターに引き返す時間はない。なにより自分で埋めた場所だ、だいたいの当たりはついているのだ。柄を持つ手に力をこめ、桃井は体重をかけて目星を付けた場所にシャベルの刃を入れた。

「何やってんの? ひとの神社で」

とつぜん背後から若い女の声がした。おもわず何かの鳥みたいなぶざまな叫びをあげ、桃井は目を見開いて背後を振り返った。はたしてそこには、赤い装束をまとい額に金色の冠をつけた女の姿があった。巫女というよりは、神職の女らしい。

「誰だ!」

「それはこっちの台詞」。女は冷ややかにかぶりを振る。「ここは今や、どこぞの横柄な会社の社有地のはずだけど、あなた関係者かなにか?」

怪しんでいるというより、からかうような口調だった。

衣装こそ変わっているものの、狂人や物の怪のたぐいではなさそうだ―――何より女の口から「社有地」という世俗的な法律用語が出てきたことが、彼を勇気づけた。桃井はただちに、恐怖を胸の奥底にしまいこむ。

六十路とはいえ鍛錬を怠らないかれの筋力は、その女の二人ぶんにはなるだろう。手に握るシャベルの、武器としての確かな重みも彼に勇気を与えていた。相手が物の怪のたぐいであってさえ、恐れることはない・・・

「だったら何だっていうんだ。あんた誰だ、一体いつからそこに居た?」

「いつからだって問題ないわよ、わたしのお社なんだから」。彼女はすねたように口をすぼめる。「とにかく、わたしの目の前でわたしの神社に、不敬なまねはさせないわよ?」

薄暗い林の中とはいえまだ太陽は沈みきっておらず、よく見れば彼女がまだ二〇歳になるかならないかの、小柄で可愛らしい娘である。驚くほど髪の長い女で、漆黒の髪の毛が別の生き物のように薄明かりの中で光沢を放っている。

まだ心の中に鳴り響く警鐘は消えていなかったにせよ。娘の正体を把握しようとする理性が不安に優先することは、難しくなかった。「あんた、この神社の女神主か何かか? 社有地である以上、侵入者はそっちだろう」

「浮き世の取引はどうあれど、おたくの会長さんとはまだ色々と『契約』問題で、ごたついていてね・・・」

彼女は不快そうに首をふって、さも面白くないことを思い出したといわんばかりに眉間にしわを作る。「まあとにかく、信じようが信じまいが契約は契約―――あなたに伝えられたらの話だけど、おたくの会長に伝えておくことね。勝手気ままに神社を取り壊そうというのなら、それなりの罰を与えねばならないってことを」

ははあ。どうやらこの女神主、俺のことを社のまわしものか何かと勘違いしているんだな―――桃井はようやく話が見えてきたと合点し、緊張を完全に解いた。じぶんの勤務先が土地取得や利権譲渡のさい、相手に恨みを買うような無理押しをすることで悪名たかいことは、桃井もイヤといいほど見知っている。

「とにかく今日は、お引き取りくださいな。その目障りなシャベルで、何をしようとしていたのかは知らないけど」

「そうさせてもらおう」。詮索されるのは厄介だ。この場は、話を合わせて引き返すしかないだろう。いかにも「業務」であるかのように見せかけるため、捨てぜりふも忘れない。

「どうせ、さ来週からはブルドーザーが入る。そうなればおしまいだぞ」

「お好きにしなさい。でも罰はかならず与える。あの末橋にはね」

やれやれ、何様なんだこの女。愛社精神どころか直接の上司の神無月にさえ、ある「不義理」を働いている不良社員の桃井だったが、彼女の得体の知れない尊大さにはむっとしていた。

ともあれ死体と、なによりも彼の「慰留物」を掘り返す作業は、いずれやらねばならぬ。彼女が居ない時間帯をねらって、深夜に再訪するのが正解だろう―――

心の中では「再挑戦」についての算段に腐心しつつ。桃井は女神主に背を向け、シャベルをかついでバケツ片手に鳥居をくぐり、もと来た道を引き返す―――しかし境内から出て一〇〇歩ほども歩いてから、いきなり彼はあることに気づき、愕然としたのである。

待てよ? おれは以前にもあの女を、この場所で見た覚えがあるぞ!

そうだ。なぜ気付かなかったのだ。あれは四九年前のことだ。うかつにも死体のそばに落っことし、気付かず埋めてしまった手帳を掘り返そうと、神社に何度か再侵入を試みていた時期・・・

「あなた、何してるの? わたしのお社で」

そのたびに声をかける女がいて、逃げだした。あげく回収を断念し、時が経った―――そうだ、あの顔・・・あの女だ!

「ねえ。ところであなた、ほんとは会社の用じゃないのよね?」

逃げ足を速めつつ桃井が叫んだ反問は、完全に悲鳴まじりだった。「じゃあ何だってんだ?」

とたんにすぐ背中から、暗くて低い声がした。陳腐な表現ながら、まさしく冷たい地の底から響くかのようという形容がぴったりの声だった。

「四九年前、お前が一七才だったとき犯して殺めた、娘の事だ。

娘の遺体とともにうっかり埋めた己の手帳を焼き捨てて、骨は別の場所に隠すつもりだったのだろう? 分かっている」

体内に、いきなり冷水をじかに浴びせられたような奇妙な感覚が、桃井を襲っていた。ほとんど本能的にバケツを放り投げ、シャベルを両手で構えながら桃井は背後を振り返った。しかしあの、やけに派手な赤装束の女神主の姿は見えなかった。

そのかわり彼が見たものは、手を届けば触れられるほど目の前にまで迫っている、古めかしいセーラー服姿の、ショートカットの女子高生の姿だった。その細い首にはむごたらしい痣が出来ており、うつろに見開かれた目の瞳孔は開いていた。その虹彩には、恐怖と絶望に満ちあふれた桃井の表情が映っていた―――

けたたましい悲鳴を上げながら桃井はシャベルを振り回し、めくらめっぽうに走っていた。足に蔦がからみつき、転ぶ。自分でも何をどうしたいのか分からないまま、シャベルだけを必死でつかみ、手足を動かそうともがき続ける。

ごっ―――

すさまじい突風が巻き起こり、かれの首筋に氷の刃のようなするどい痛みが走ったのは、その刹那。

次の瞬間に彼が見たものは、腐葉土の上に崩れるように倒れていく、自身の胴体だった。胴体の上についているべき首はなかった。

切断された首の切り口から溢れだす鮮血を、桃井の顔は浴びていた。その熱さを頬の皮膚に感じたのが、かれが最後に抱いた生命の実感だった。それから二秒とたたぬうちに、見開いたままの桃井の視界に、真の暗黒がおとずれる。

桃井文太郎の切断された首は赤い夕焼けを睨んだまま、六六年間にわたって継続してきた思考を停止した。




桃井の首が空しく虚空を睨んでいる林道の出口から、蒼白な顔つきの若者が足早に飛び出してきたのはそれからほんの数分後のことである。若者はその手に血糊のついた刀剣を握りしめたまま、まるで死人のような恐怖の表情をうかべていた。かれは林道から出てくるなり、空き地の奥に停車していた軽自動車に乗りこみ、何度も自動車のキーを取り落としつつ、なんとかエンジンを始動させようと躍起になる。

「焦らなくていいってば。何度いわせるの・・・」

そういって、連れだって後ろから歩いてきた赤い服の娘が、若者に続いて助手席に乗りこむ。「ほら、その『荷物』は預かっておいてあげるから」

そういって彼女は若者がなおも片手にしていた抜き身の刀をひったくり、血痕を無造作にハンカチでふき取ると、そのままじぶんが手にしていた鞘に音もなく納めてしまった。その作業に専念している娘の挙措は若者とはおよそ対照的で、波一つ無い水面のように落ち着きはらっている。もし桃井の魂魄がその場面をみたら、あるいはこう思ったかもしれなかった。あれ、あの女、いつのまに洋服に着替えたんだろう? と。

二人を乗せた軽自動車が、砂塵をあげてその場を立ち去る。それを見送るセーラー服の少女の姿があったが、彼女を見ている者は誰もいない。だから彼女がそのまま夕闇に溶けてしまったかのように、すっと姿を消してしまったことも、誰も知らないことだった―――





桃井がまだ帝都東京の勤務先で、慌てふためいて切れ者の上司から有給をとるべく四苦八苦していたのと、ちょうど同じ時間にさかのぼる。

人口二〇万人強の地域中核都市・銀嶺市内のメインストリートに面した高級ホテル最上階のスイートルームで、三人の男たちが膝づめで会話をしていた。ホストとなるのはむろん、スイートルームの宿泊者たる老いた紳士である。そしてホストの用件をガラステーブル越しに仲良く並んで聞いているのがどこか顔つきの似た壮年の男と学生風の若者の、コンビであった。

「富田靖史といいます」。まずコンビに名刺を差し出しつつ、そう自己紹介したのは老紳士の側だ。クリーム色の上等なじゅうたんが敷き詰められ大理石の壁に囲まれた、市内でも三つとはないであろうその贅沢なスイートルームのあるじに相応しい身なりをしている。カシミヤの緑色のセーターに、アルマーニの金縁の眼鏡。あいにく顔のほうは痩せているばかりか色合いもあまり良くない。青を通り越えて土気色じみている。健康状態に問題があることは明らかだ。しかしその表情は力強く、皮膚の色調からは予想もつかぬほど何かを決意している風情にも見てとれる。

「土岐興信所の所長で、土岐完治といいます」。受け取った名刺をすばやく確かめ、かれの肩書きから市内でも有数の地主であることを察知した年かさのほうが、じぶんの名刺も差し出す。「あと、こっちはわたしの助手で息子の肇。学生アルバイトです」

「どうも、肇です。アルバイトなので名刺はありませんが」

肇がぺこっと頭を下げる。いかにも好奇心と不安がない交ぜで、もの慣れぬふぜいだ。富田はちょっと不審そうに首を傾げたが、何も言わなかった。

いくら不景気とはいえ。やはりちゃんとした助手を雇えるようになりたいもんだ。あと、女の子の事務員も。

富田の表情を読み取った完治は、心の中でそうつぶやいた。

不景気の「波」が来て、おりしも結婚退職してしまった女性事務員の後釜をあえて雇わずにいるものの。男やもめに何とやら、古ぼけた壁のしみこそどうにもならないなりに掃除と整理だけ行き届いていた彼のオフィスは、散らかり放題になりつつある。ちょうど大学が春休み中の息子の肇をほぼ無給にちかいアルバイトに使役しているのも、そのためである。肇は肇で、最低限の学資を得るためにも時間が許す限り家業を助けることに異存はないのだが、単純な力仕事や取り立ての自動車免許の訓練をかねた運転代行といった仕事ばかりやりたがるので、書類仕事では役に立たない。

「君のところは、この界隈のえらいさんに評判がいいと聞いているよ」

富田はわざと、ゆっくりと頷く。じぶんは事情通なのだというサインである。じっさい地方都市で探偵家業をやっているような人物にとっては、土地の有力者との関係がライフラインだ。

県や市の地方政治家のため、敵対政党のターゲットにはりこんで弱みを下調べさせられたり、地元名士の妻の不倫監視をさせられたり、あげく妻にばれない愛人の世話なんてことまでやらされる。蛇の道はへび。地方都市でも金や利権のある人は、何か秘密を持ちたがるものらしい。リスクをわざわざ抱えたがる贅沢など土岐完治には想像もつかない境地だが、現に需要があるかぎり彼らの下世話な要求に応えうるスキルをもつ者が、ここ銀嶺市にも必要だ。その任にあたることで生活できるのならば、善悪を問うても仕方ない。報酬がよければすべて良し、だ。

とはいえ職種がら「波」はある。しかるにその「波」が最低のときにちょうど息子が、大学に合格した。十年前に妻を失っていらい男手ひとつで育ててきた忘れ形見の一人息子・肇が、大願成就したのだ。めでたくないはずはない。だがその大学、地元でも屈指の名門で、偏差値も高いが学費が高いことでも知られている。まさに悲喜こもごも。今やうっかりするとさして高くもない事務所の賃貸料すら、滞りかねなくなっている。仕事を選ぶ権利はない。肇がせっかくの春休みに事務所の仕事に無給奉仕しているのも、自身が家計圧迫の当事者となっている自覚があればこそだ。

「まあ、わりときわどい業務でもしっかりこなしてくれる上に秘密厳守という点が評判どおりなら、わたしとしては言うことはありません」

富田は銀製のティーセットをガラステーブルの上に置き、みずから紅茶を注いで探偵父子に勧めながら、うなずいてみせる。

「だが具体的な依頼に入る前に、知っておいて欲しいことがあるのです。なるほどわたしは出資はするが、あくまで協力者。実質上の依頼人は、わたし自身ではないということですな」

「はあ?」

「具体的な仕事の依頼主は二人の女性で、今日はそのうちの一人がここに来てくれていましてね。彼女をまじえて話をしたい」

富田がそう言いざま背後を振り返る、するといつから居たものか、彼のすぐ後ろの調度類に紛れるように、どこか古めかしいセーラー服姿の女学生が佇んでいた。髪は短くカットしているが見た目はボーイッシュというほどでもなく、細面で柔和な顔立ち。まちがいなく可憐な娘だったが、それより何より、その存在に今までまったく気がつかなかったことに、完治は密かに職業上の自尊心を傷つけられていた。

「はじめまして。木下まつりともうします」

「土岐です」完治がうなずく。娘は、協力者である富田の隣に空いているソファに座り、土岐父子と向かい合う。

「まずはこちらの新聞を、ご参考までに」

そういって少女は地方新聞を完治に手渡す。そこには「ニューランドマーク社、銀嶺市にリゾート開発」の見出しが踊っていた。

すかさず富田が説明する。

「この会社についてはご存じかと思いますが、銀嶺市の地方財閥から一代で身を起こして全国展開した会社が、地元への『お礼』をこめて郊外の綾樫郡に、ちょっとした観光目玉をこしらえてくれるというわけです」

「お礼」という富田のことばには砂糖のような甘い感謝ではなく、胡椒のように刺激的な皮肉の香りが込められていた。

「なかなか派手な投資をしてくれるものですな。ええ、わたしも銀嶺市民です。その会社がらみの案件にも、関わったことはあります」

そう応じる完治の声には、依頼主への媚びだけと言い切れない複雑な感情がこもる。関わったというのはむろん仕事がらみで調査したということであり、末橋という一代の風雲児の個性のあくの強さと、時代に愛されているかのごとき不思議な強運には反感とか敗北感という感覚すらこえて、ただただ感嘆したことを覚えている。もちろん守秘義務上この場で言える話ではないにせよ。完治の様子に意を強くしたのか、まつりが透き通った声で話題を引き取る。

「この会社が綾樫の森林地帯の土地を取得するまで、代々の地主であられたのはこちらの富田さんです。寝かせていただけの土地ですから、ニューランドマークさんに売却すること自体は、富田さんも異論はありませんでした。もちろん適正な条件や常識的な価格での、という前提ではあったのですけどね・・・」

「それがなかなか、そうではなかったということですね?」

すかさず完治が尋ねたが、富田は青ざめた唇を、ごくわずかに歪めただけだった。「まあ、ご想像におまかせしますよ。わたしはとっくに棺桶に片足をつっこんだ人間だし、妻には数年前に先立たれ、子供らも独立している。いまさら余命に間に合わぬと知っていながら、ごちゃごちゃした裁判ざたに使う時間は残っていないのです。しかしあの世に持っていけないカネはともかく、義理は果たしておきたい。ニューランドマーク社による今回の土地取得が、こちらの女性の身の上に関わってしまったのですよ」

「実はもう一人の依頼主、わたしの養い親にあたる方が神職に就いておりまして」と、まつりが引き継ぐ。

「綾樫郡の森林の中に、ほんの百坪ほどの神社がございまして。名前は、ええと・・・」

「ヤタ神社っていいます」。すかさず、富田が補足する。

「八つの蛇、と書いて八蛇神社。地元でもすっかり忘れられていて、祭のたぐいも半世紀以上やっていない無人の神社なのですが『主人』はおられます。

それがこちらの木下さんを養っておられる太田さんという女性で、わたしも土地売却が決まってからその存在を知ったのですが。ところがこのたび森ごと社有地になったということで、その神社も壊される廃屋の一つになってしまったのです」

「待ってください。つまりその、宗教法人の土地権利が関わっていたということですか?」

まつりが肩をすくめる。「いいえ。どの宗教法人にも属してません。土地所有権はすべてこちらの、富田さんのものです」

従って、よくある宗教法人の利権がらみのトラブルではないとのことだった。戦前からの神社には違いないが神社本庁とも関係がなく、起源すらあいまいだという。明治時代にも村社ですらない無格社で、市町村から幣帛料の供進を受けたことは一度もない。太田という女性自身も、参拝客や地元の祭祀から利を得ているわけではないと、まつりは断言した。

「じゃあ、神社に個人的な未練があるとか」

「否定しませんが、あきらめるしかないことはわかってます。屈指の財閥を阻止するなんて、あなた方にだってご無理でしょう」

完治は首を傾げた。「つまり、裁判のための証拠集めという仕事ではないわけですね・・・」

それから、ちょっと緊張した面持ちになり、余人がいるわけでもないのに声を潜めた。「ニューランドマーク社に含むところあっての、『特殊なご依頼』と受け取ってよろしいですかな?」

「特殊」というのは、暗に違法すれすれの依頼ということを意味している。はたして富田は頷くように視線を下にやった。

「問題は太田さんとニューランドマーク社の会長が『他人じゃない』ということ、それに尽きます」

防音壁のしっかりしているスイートの室内で、富田もまたが声を潜める。まるで何か、ものすごい秘密を知っていると言わんばかりに。

「太田さんはニューランドマークの会長こと末橋雄斗とは昔、懇意の仲だったとのことで。まあ詳細はご想像にお任せしますが他ならぬ八蛇神社で二人は遭い、そして深い仲になった、と形容しておきましょう―――そういう関係だったのだそうです。

その縁で太田さんはこれまで会長の面倒をさんざん、見てあげていたらしい。かれが今をときめく巨大財閥として全国展開するまでに成り上がれたのも、彼女の内助なくしては考えられないというわけで」

もっとも末橋は二〇年以上も前に東京に上京してしまっているし、そもそも日常的に顔を合わせる関係ではなかったこともありで。かれが銀嶺市を去ったことについては、太田女史とやらもとくに責める気はなかったらしい。ところが。

「末橋は、成功者にありがちな万能感に陥っておりましてね。旧恩への感覚が麻痺してしまったらしい。最近のインタビュー記事を読むと彼女との思い出を別人、それも彼女よりは世間に認知されている、著名人とのそれであるかのように吹聴しはじめているのです」。

ふうむ。どうやら男女の情のもつれだな? 完治も察して、それ以上は問い質さない。

「さらに、それだけならまだしも・・・」

そこで軽く一息つき、富田はティーカップの紅茶をすする。

「末橋はそういう相手に手厚くして己を飾るいっぽう、今回の開発計画で、二人の思い出であるはずの八蛇神社を消してしまおうとしている。意図的な仕打ちかとも思ったが、彼のことです、ナチュラルに記憶を改竄しているのでしょうな」

「思いこみが強い人のようではありますね」。完治もうなずく。「都合の悪いことは認めないだけでなく、強引に記憶を合理化する。あそこの会社に関わったとき感じたが、トップの意志が絶対なのに自分の矛盾を自覚できないから、下の者はムチャとわかって無理を通すはめになる。たしかに決断は早く大きな成果を上げていたが、下っ端には可哀想な会社でした」

「まあ太田さんも、もともと気まぐれで援助していた男だけに、よほどおかしな真似をしないかぎり干渉する気はなかったそうです」。富田がゆっくりとうなずく。「しかるに八蛇神社の取り壊しは、彼女にとっての地雷でした。愛想が尽きたというか、ささやかながら『債務』を取り立てたい気になった風情なのです」

「なるほど、お気持ちはよくわかりますよ」

完治はうなずいた。同時に、念を押すのを忘れなかった。

「しかし、我が社としては違法な報復活動の片棒をかつぐことは、やりかねますな」

「その心配はいりません。あなた方に荒事をしてくれなどと頼むつもりはありません」

まつりが軽く微笑をうかべる。白い顔に心なしか、侮るような色が浮かぶ。

すかさず富田が、助け船を出すように補足する。

「ただ神社に置きっぱなしになっている太田さんの私物を、いくつか回収しておかねばならないことが分かったんです。とりわけ御神体は、値打ちにかかわらず神職の方には大事なものですしね。で、そのお手伝いをしてほしい。それだけのことなのですよ」

要するに、こうだ。八蛇神社はすでにニューランドマークの社有地の一部になっているので、相手方の了承なくしては立ち入れない。しかしだからといって、忘恩の輩である同社に頭を下げて立ち入り許可をいただくなどという、不快な思いをさせられるのは甚だ遺憾である。

さいわいまだ工事には入っておらず、回収作業そのものは容易である。屈辱的な手続きを経ることなく『思い出の品』である神社の備品を、まんまと回収してしまいたいのだという。

「土地を売却してしまってから太田さんの事情を聞かされたわたしとしては、同病あい哀れむというか、他人事と思えない気分になりましてね。一肌ぬぎたくなり、一枚かむことにしたと、まあそういうわけなのです」

何より、見ての通り老齢で体調もわるい。もはや体力的にもそういう作業をこなすのが辛くなっていると、富田は弁解するのだ。

かれがそこで言葉を切らすとすかさず、まつりが畳みかける。

「もちろんいったん神社に入ってしまえば、こっちのものです。その中の物品はニューランドマーク社にしてみれば二束三文のがらくたにすぎませんし、本来の持ち主が回収するのだから盗難ではないわけです。末橋が買ったのは土地であって、神社の備品ではないのですから」

少女はあらかじめ反論を封じるかのように、語気を強める。「もういちど申しますが御神体をふくめて、ほんとうに金目のものは一つもありません。ただその中に末橋会長と太田さんの、思い出の品が混じっていることだけは否定しませんが・・・」

ははあ。なんとなく話が見えてきたなと、肇は思った。その思い出の品とやらには、冷徹非情なる末橋会長をして鳩が豆鉄砲をくらったような顔にさせるだけの「過去の爆弾」があるのだろう。太田とか言う女性とかれとの過去の関係を証拠立てる、写真とかラブレターといったたぐいのものが―――

富田もその舞台を用意したプロデューサーとして、ささやかな溜飲を下げることが出来よう。だからこそ、これまでその存在に注意を払ってすらいなかった女の神職のもちこんできた話に、乗ったというわけだ。

とはいえ。肇は隣で納得顔の父がうなずく前に、尋ねざるを得なかった。どうせ力仕事はかれの分担なのである。

「回収すべき備品ってのは何です? 持ち運ぶのに人数が要るのですか」

まつりの赤い唇に、妙につめたい微笑が浮かんだ。

「むろん、重たい思いが詰まっていますよ」。ゆっくりした口調で、彼女はそう答える。「ただしあなた一人が手伝ってくれれば十分です」。

「むろん建物の鍵のたぐいは、すべてこちらで用意します。木下さんに持たせますよ」と、富田が続けた。完治と肇は話は決まったとばかりに、ゆっくりとうなずいた。


打ち合わせを終えた探偵父子が辞すると、富田はどっと疲労に襲われた。

年齢もさることながら問題は体調だった。ところどころ木下まつりが助け船を出してくれたとはいえ、小一時間もしゃべって残り少ない精力を使い果たした気分だ。

元々いまいましいニューランドマーク社なんぞに関わりさえしなければ、静かに亡妻の待つ冥界の迎えを待つだけの、隠居の身でしかなかった彼である。それでも強引かつ横暴な取引相手からまるで焼けた鉄板に乗せられた猫のように翻弄されて土地を買いたたかれた恥辱を思い出すと、じぶんでもどこにそんな熱い血潮が残っていたのかと不思議になるほど、富田は憤慨で吐く息が熱くなるのを覚えてしまう。まつりという不思議な娘―――さらに言えばその背後で糸を引く、太田なる女と取引しようと決意したのは、そのためである。

どうせことの顛末を見届けることはできまいが、それはもはや詮のないことだ。そもそも銀嶺市からかなり離れた町の屋敷に住んでいる彼が、市内でも最高とされる高級ホテル「セイレーン銀嶺」に宿泊したのは、探偵と会うためというより、むしろ入院の準備であった。明日にはこの部屋から鞄ひとつで出発し、市内最大の病院の個室に入院しなければならない。ただしすでに担当医から検査結果は聞いてある。もうそう長くないことを、彼はすでに知っていた。

ふとまつりの名を呼んでみたが、あんのじょう彼女の姿はすでになかった。

いずれにせよ依頼料と当面の経費は現金で渡しておいた。もちろん相場よりも、だいぶ色を付けてある。これで自分の役目は終わったのだ。

ちらと窓外に目をやる。ひとりごちているうちにも窓外の陽射しはじわじわと夕焼けに染まり、やがて人工の光源が広がっていた。摩天楼とはいえないまでもそこそこ高いビルが連なるなかに、とりわけカラフルなグリーンのネオンサインが目を引く。流線型の文字で「ニューランドマーク」と書かれているその社名を、かれはいつまでも凝視していた。





ニューランドマーク社は建前として東京本社と銀嶺市本社の二頭体制であり、実質的な本社は東京のほうである。これは地方で勃興して帝都に上洛した企業の多くが過渡期におこなう郷愁まじりの措置であり、地方に残された「本社」が骨抜き状態でしかない点、ニューランドマーク社もご他聞に漏れない。とはいえ地元の開発事業の、ましてカネのからまない些末な案件をわざわざ東京本社の会長に問い合わせるほど、権限を失っているわけでもない。

土曜のこととてダメ元ではあったが、五階立ての銀嶺本社オフィスビルを訪れてみると幸い、リゾート開発という大仕事が目前ということもあって数人が休日出勤していた。

「わたくし銀嶺大学のほうから参りまして。地方の廃神社のフィールドワークをしている、こういう者なのですが」

朝一〇時をすこしまわったころ。オフィスの窓口で、完治は愛想よくバーバリーの名刺入れに入れた名刺を見せる。「綾樫郡の鎮守の森にある八蛇神社について、取り壊される前に調査してみたいと思いまして」

対応に出た女子社員はくたびれた背広姿の、風采のあがらない五〇がらみの小男よりも、その男が提示してみせた「銀嶺大学」「准教授」という肩書きと名刺入れのブランドのほうに敬意を払い、すぐさま担当者である事業部の部長を呼んでくれた。

「八蛇神社ねえ。神社っぽい廃屋があるのは現地調査で見てますけど、あれ、そういう名前だったんですか」

「稲村」という名札をつけたその部長はいかにも場違いだと言わんばかりに横柄な口調であり、応接スペースにこそ通してくれたものの茶の一杯も出なかった。

「ええ、御社の工事によって取り壊されるその八蛇神社の写真撮影と、できれば遺物のいくつかを回収したいのです。長くても二時間以内に終わります。ちなみに物件の元の所有者からの許可はもらっています。むろん、必要とあれば正式な書類を準備します」

差し出された以前の所有者・富田靖史の署名と電話番号が記入された紹介状を目にして、部長は「ふむ」とため息まじりに鼻を鳴らした。そもそも神社があることさえ、かれは図面でしか知らなかった。とまれその取り壊し作業について本社からまたしてもうるさ型の常務が急に顔出ししてくることのほうに、このときの部長は神経を集中させていた。

たしかに今回の案件でも莫大な資金を調達している責任者とはいえ、ほんらい財務畑の重役である。事業そのものよりも使っているカネの件でお小言をいわれるのかもしれない。まあ、秘書と不倫しているという噂も聞くから、今回の土曜日出張も妻の目を盗む口実づくりという可能性は有るのだが、とにかくその社内VIPとの打ち合わせが一時間後に控えている。そんな時に学者の道楽じみた依頼の中身など、時間をかけて精査などしたくはなかった。ただ、多少気になることもある、

土建関係の仕事にたずさわっていると、地中から考古学的に価値のありげな土器だの遺構だのが顔を出すことがまれにある。すると国がしゃしゃり出て、工事がストップする。最悪の場合はそのまま中止という危険だって無くはない。現場の判断で見ない振りをして埋めてしまうのが、しばしば暗黙のルールだった。こいつは考古学者ではなく民俗学者とのことだが、結局のところ同類ではあるまいか?

「あ、別にお手間はとらせません。入る許可だけいただければ。発掘のたぐいじゃないのでご心配無用。データの積み上げのための写真撮影だけなんです」

「本日の午後、二時間ほどで終わるんですね?」。部長は、そこだけに念を押した。現時点ではロープで仕切っているだけの、ただの空き地でしかない。資材その他の搬入もこれからであり、盗まれたり見られて困るものもない。現時点なら、課外授業に毛の生えたような学者がうろつくぐらいのことで目くじらを立てることもない。

「いいでしょう、許可証を発行するように言っておきますよ。人数は?」

「予定では私とカメラマンの二人ですが、私の代わりに助手になる可能性もあります。あと、念のため予備も一枚いただければ・・・」

「おーい、真田君」

ぞんざいな態度で、稲村は部下の女子社員を呼ぶ。「こちらのお客さんに許可証を発行しておくように」

部長はそのまま席を立ち、振り向きもせず去ってしまった。あとを引き継いだパートタイマーの女子社員は手書きでラインを引いた大学ノートに署名や目的を完治に記入させたあと、ナンバリングで赤く日付を刻印された許可証の紙片を三枚手渡しつつ、念を押した。

「社有地にはその許可証をいつでも提出できるようにして、入ってください。まあ、巡回の警備員に出会ったときしか使いようもないはずですが―――終わったら、捨ててくださってかまいません。当方が同行する必要もないでしょう。いずれにせよ今回だけです。どうせさ来週には重機が入って、本格的に作業が始まりますから」


大学の学者というふれこみでまんまと許可証を手にした完治は、シルバーのトヨタアクアで自分の巣である探偵事務所に戻った。メインストリートのオフィス街から探偵事務所のある裏通りの雑居ビルまでは、およそ一〇分かかる。別件の仕事で手に入れた名刺を使ったこともあり、ドライブがてら探偵事務所まではわざと隘路をじぐざぐ走ってから戻ったものの、用心するほどの相手ではないことも分かっていた。

もしあのまま、銀嶺大学のほうに問い合わせされていたら面倒なことになっただろう。だが案のじょう、あの部長は「一日で終わる」という口約束にのみ注意を示していた。まあ最悪のばあい無断で侵入することも視野に入れてはいたものの、侵入罪に問われないためだ。保険をかけておいて損はない。

「ここから先は、おまえの仕事だ」

三枚の許可証を息子の肇に手渡して、完治は言った。「現場の案内は木下さんがしてくれる手はずになっている。一四時半に、JR銀嶺中央駅で彼女が待っている。車で迎えに行ってやれ」

「まずは順調だね」。肇はうなずいたが、仕事のことは心あらずだった。久しぶりにまとまった現金もあることだし、「今夜は奮発して焼き肉でも食いにいこう」という提案を父にどう切り出すかで、頭が一杯だったのである。





そしてその日の昼下がり。まつりは独り銀嶺中央駅前のロータリーでぽつんと立っていた。肇が運転するアクアが到着したのは約束の時間より七分ほど早かったのだが、クライアントに先を越されていたようである。

「待ちました?」車を寄せつつそう尋ねると彼女は、「いいえ、今までに比べればぜんぜん」と応じて助手席に乗りこむ。今まで? なんのことだろう。

「打ち合わせたとおり、今日は太田さんも一緒です。ただし彼女は先に現地で待っていますよ。神社にいるはずです」

え? と肇は、目で質問した。せっかく彼女のぶんも許可証を用意しておいたのに。

「まあどうせ、今のところは警備なんて有って無いようなものですし。たぶん夜間の産廃不法投棄だけじゃないかって、太田さん言ってましたから」

心の中でため息をつきつつ、肇はアクセルをゆっくりと踏む。初心者とはいえ彼の運転技術の筋はいい。すべるようにアクアは進み始める。

「太田さん・・・ええと、下の名前もいちおう聞いておきたいんだけど」

「そういえば、打ち合わせの時に言わなかったかしらね? 『りか』です。果物の梨に、神様の神と書いて『梨神』」

まつりはそれだけ言って、あとは言葉を惜しむように黙りこむ。決して不機嫌という気配ではないし、いくら仕事関係とはいえ出会って日の浅い若い男に、多少よそよそしくなるのも無理はない。だがそれ以上に、じぶんの「上役」にあたる依頼主を詮索されるのを、好まない風情であるのは見て取れた。それに肇としても(末橋会長の旧知という話から察するに相当の年配者であろう梨神よりも)、二人きりで助手席に座る、美しい女子高生のほうにこそ関心を抱かざるをえない。

「木下さんは、太田さんとはどういうご関係なのかな。親戚とか?」

「いいえ。まったくの他人です」。まつりは視線をあくまでも窓外に向けながら答える。「わたし、ある事情で独りぼっちの身になってからずっとずぅっとあの人に、長くお世話になっていましてね。あの人の望みは何であれ聞いてあげるのが役目なんです。まあ、そういう関係です」

ははあ、要するに彼女は何かあって孤児となり、養女として引き取られたということか―――肇はそう察すると、その話題に深くつっこむことは得策でないと判断した。とはいえ半ば好奇心、半ば駆け出し探偵の職業意識で質問を続ける。

「どこの学校なの? この辺では見ない学生服だけど」

「私立パウロ女学院よ。聞いたことくらいあるかもね」

「あ、おれ一応カトリック。まあ死んだお袋がハーフで祖父さん、つまりお袋の父親がアメリカ軍兵士だったという縁だけなんだけどね」

すかさずそう答えてから、肇は心の中で首を傾げる。

銀嶺市の市内に「パウロ」という校名を掲げた高校は、たしかにある。私立パウロ高校というのがそれだ。だがあそこは女子校じゃないし、それに制服も彼女のものとは違う―――?

「私自身は、べつにカトリックでもなんでもないけどね。レベルがそれなりだから入っただけで。カリキュラムも宗教色は少ないし」

あいかわらず変化する窓外の景色を凝視しつつ、不意にまつりの声が低くなる。「ただ、家から遠い学校をえらんだのは失敗だったかも。裏道ルートがあの神社のそばにある、寂しい林道だったのも良い環境じゃなかったわね。一人でうかつに通るのは、やはり止めるべきだった・・・」

「え? なに」

なにやら独り言めいてきた。なんとなく気味悪さを感じた肇は、わざと大きな声で尋ねる。だがまつりは無視しているのか本当に心ここにあらずなのか、なおも小声でつぶやいている。

「怖かった。苦しかった。つらかった」

声がどんどん小さくなっていく。

「だけどもうすぐ、それも終わる―――そう、終わる―――帰れる―――」

「木下さん! ねえどうしたの?」

「そう、いまこそ終わる・・・終わらせて帰るんだ」

ゆっくりと頷く彼女の双眸には、幽鬼のような光が宿る。心ここにあらずというべきか、彼女はぶつぶつ呟き続ける。

さすがに軽い恐怖を感じて、肇はまつりに、やや声を大きくして語りかけた。「具合が悪いの? どこかで休憩しようか?」

返事ひとつするわけでもなく、まつりは黙りこくった。肇も気まずくなり、それ以上は何も言わなかった。GPSの案内音声だけが、抑揚のない声で二人を目的地へと誘導し続けた。進むにつれ町並みがどんどん寂しくなっていき、いつしか民家すらまばらとなり、あげく鬱蒼と生い茂る山林とその田畑だけが、道路の両脇に広がるようになっていく。あげく終盤の林道にさしかかるとアスファルトの舗装とすら別れを告げて、むき出しの砂利道に取って代わった。車内に伝わる振動もきつくなるなか、肇はスピードを緩めざるを得なかった。

「あ、この林道をもうすこし先に進むと、ふたつ空き地があります」

さっきまでの奇妙な態度とは打って変わって、まつりが事務的な口調で指示を出す。「奥の方の空き地に駐車してください」

「OK」

肇は胸をなで下ろす。見た目は細面のかわいい娘だがこの依頼主、なんだか変わり者みたいだ・・・下心はないまでも「割がよくかつ簡単で、おまけに綺麗な娘との共同作業で楽しい仕事」という、当初の期待はいまや紙風船のように萎んでしまっていた。まあ、こういう訳の分からなさも含めての、破格のギャラだったのかもしれないな。

「ここからは徒歩よ。そんなには歩かないけど、急ぎましょう」

車を空き地に停めると、まつりはかすかに笑って頷いてみせる。「早くしないと、間に合わなくなるから」

どういう意味だい? 一瞬疑問が口をついて出そうになったが、とにかく早いところ終わらせたいという気持ちだけは共有できた。どうやらまつりも人格障害めいた態度はなくなり、事務的ではあるが愛嬌も示し、普通の様子にもどっている。とはいえ何かがあって、情緒不安定になっているらしい。さっさと仕事をすませて、お別れしたほうが良さそうだ。




時刻は十五時を過ぎていた。まだ太陽は高い位置にあるとはいえ林道の中にはじゅうぶんな陽射しが届かず、やや薄暗い。まつりに先導されて肇は、細い林道を進んでいった。歩を進めるたびに地面に充満している粗朶や木の葉が乾いた音を立てる。まつりはそれほど急いでいるふうでもないのに、未舗装の悪路を思った以上の早足で進んでいく。肇もふだん歩きとさほど変わらぬスピードで、彼女について行った。

「ついたわ」

まつりがそう言って背後の肇を振り向くまで、徒歩で四分とはかからなかった。「見ての通り、ちいさな神社」

「これはまた―――」

視界にあらわれた境内を境内として認識するなり、肇は絶句する。聞いた話で想像する以上の惨状というか、まったく肝試しにはお誂えの廃墟といっていい。

草ぼうぼうの敷地、壊れかけた建物、そしてまったく視界のない周囲の森林―――わざわざ回収すべき物品があるにしては、もとから手入れされているとも思えない。太田さんとかいう神主さんは、何をしていたんだ?

「簡素な神社でしょ? わたしはそれなりに、気に入っているのだけど」

簡素という以前に、君の養い親とやらは草取りや掃除のひとつもしなかったの? と聞きたくなるのをこらえて、肇は鳥居に向かう。木肌がむきだしで塗装すらしていない、いわゆる素木鳥居だ。虫食いだらけで背丈が低いこともあり、いつ倒壊してもおかしくはなさそうだった。背の高い草むらの海に溺れかけている小さな狛犬、誰かに蹴倒されたとおぼしき灯籠、そして境内を染める緑、緑、緑―――すべてはこの神社が、久しく管理されていない廃屋でしかないことを証明していた。

もはや草原と化した短い参道を十数歩も進めばたどりつく拝殿およびその背後に控える正殿はありふれた切妻造りで、屋根材は檜皮とおぼしい。ともあれ建物は至る所に蔦がからみついており、狭いとはいいつつも境内を進むことさえ一苦労しそうではあった。

まあ規模が小さすぎて、あまり「大物」の物の怪は住んでいそうもないのが取り柄? といえば取り柄だが。正直いってこんな気味の悪い「物件」に長く時間をとられるのは、たとえ同行している少女がサイコパスっぽく見えなかったとしても遠慮こうむりたい。肇はまつりに声をかけた。

「じゃあ僕の後についてきて。正殿の鍵は、準備しているんだよね?」

まつりが頷く。肇は草を踏みしめかき分け、境内に足を踏み入れた。

「待ってたわ」

鳥居をくぐったとたん声がして、肇はぎくりとした。見れば蜘蛛の巣と枯れ葉をベールのようにまとっている拝殿の欄干に、あざやかな赤いワンピースをまとった、ロングヘアの女が居たのである。ただし声音はどこか間が抜けているほど剽軽で、顔立ちは若いだけではなく可憐といっていい童顔でもあった。

「あ、どうも。太田さん」

「その子が、わたしの助手というわけね。うん、気に入った。異人風の美男だわ」

女―――太田はするする階段を下りてくると、衣装からは想像しがたいほど軽やかに雑草の野を歩いて肇の前に立つ。「話は聞いていると思うけど、あなたの依頼主。この八蛇神社の主で、太田」

「梨神さんです」と、横からまつり。

「あ、よろしく」。相手が依頼主とわかりほっとしたものの、同時にちょっと意外でもあった。神職でもあり七〇才のニューランドマーク社の会長と因縁めいた旧知の仲と聞いていたから、若くとも五〇がらみの熟年世代だと予想していたのだが・・・目の前の女はどう見ても二〇才前後、下手をすると女子高生の木下まつりより若く見える童顔―――いくらなんでも若すぎる!

「まあ、聞きたいことは色々ありそうだけど、依頼主はわたし。詮索は後回しね」。太田こと梨神がほほえみながら茶目っ気をこめてウインクする。

それからまつりのほうに顔を向け、問うた。「鍵は受け取っているのよね?」

「はい、富田さんから」。まつりがスカートのポケットから鍵を出し、肇に手渡す。「正殿の扉の鍵です。開けて中に入って」

そうそう、そのとおりだ。依頼主の実像などあれこれ詮索してもしかたない。少なくとも今すべきことではない。肇はうなずいて鍵を受け取り、正殿の方に向かった。梨神とまつりも後に続く。正殿正面の階段はぎしぎしと嫌な音をたててしなり、壊れてしまうのではないかとドギマギしたが、意外にも青年期にさしかかった肇の体重をしっかり受け止め、肇は真鍮の枠で四方を縁取られた木の扉の前に立つことが出来た。扉に鍵を差しこむと、最初の数秒だけ錆つきの抵抗があったものの。むしろ呆気にとられるほどアッサリと錠前が外れるときの独特の音と感触が響いた。蝶番はぎしぎし悲鳴をあげつつも扉を開放しようと踏ん張る肇の腕力にしぶしぶ協力し、かくして祭神を祀る闇の奥をさえぎるものは、闇そのものだけとなったのである。そしてさすがに小型の懐中電灯くらいは、肇もあらかじめズボンの尻のポケットにつっこんでいた。

ライトを照らすとはたして、おおよそ四畳もあるかないかという正殿の奥に、鹿の角の台座に鎮座し、鞘におさめられた刀剣が見える。

「軍手をはめておいてください。手が汚れますから」

この女子高生、まるで母親だな。ちょっと肩をすくめたものの肇は言われたとおりにした。

「じゃあ、中に入るのは僕だけで・・・下手に全員で入ったら、腐った床が抜けるかもしれませんし」。職業意識とメンバー唯一の男性であるがゆえの義務感で肇はそう言ったが、梨神は「床は心配いらないんだけどな、まあ任せるね」と根拠があるのか無いのか、きっぱり言う。なんの手入れもしていないくせに、神主として気を悪くしたのだろうか。

肇はおっかなびっくり、右足のつま先を殿中に入れて慎重に体重をかけていった。運動靴ごしに伝わってくる足の裏の感触は、あんのじょう傷みが進んで脆くなった床がかすかに沈むさまを伝えてくる。だが梨神の断言もあながち、はったりではないらしい。よほど目に見えない部分を凝って造った神社なのか、そのまま歩を進めてもきしむ音は思ったより小さく、肇はすぐに足を早めて台座の前まで進み入ることができた。ただしカビと湿気と腐った木のむせるような臭気は、さして長く嗅いだでもないのに頭がくらくらするほど強烈ではあったが。

「回収してほしいものは、全部でみっつよ」

刀剣の前まで歩を進めた肇の背後から、梨神の指示が飛んでくる。「まず、御神体であるその宝剣。それを取ってちょうだい」

肇は言われたとおりにした。宝剣はざっと刃渡り七〇センチくらいにはなろうか。暗闇の中ではそうとう埃をかぶっていることしか分からないが、手に重みが伝わる・・・あれ、あんがいと軽いかも? でも下手に警察に見つかったら、やっぱ銃刀法違反だろうな。

「それから、台座の周りを調べてご覧なさい。封書があるはずよ?」

刀を右手に携え、左手で懐中電灯の光を床にはわせてみる、すると確かに部屋の隅に、これまた埃まみれになった紙片があった。拾って見ると、それはありふれた封筒である。ただ懐中電灯の光源で照らしてみると封筒の表には達筆とはいえないものの勇壮な書体で「誓紙」とのみ書いてあった。何気なくひっくり返すと、そこには同じ筆跡で署名があった。

「一九六六年三月 末橋雄斗」

「はやく持ってきなさい! 読まなくて良いから」

叱りつけるような梨神の声。「は、はい」と反射的に答えて肇は正殿を出る。

「扉を閉めて」

肇は言われたとおりにした。施錠した正殿の扉の鍵は、まつりではなく梨神が受け取る。

さらに彼女は満面の笑みをうかべて、手を差し出した。「封書を」

肇は梨神に、封書を差し出す。受け取ると彼女は軽く手で塵を払う。しかしなぜかそのまま、肇に返したのである。

「ポケットに入れておきなさい。受け取るのは、ちょっと後のことになりそうだから」

それから、まつりにうなずきかける。

「ご苦労様。これでわたしも、外に出られる―――おまえはここで待ってて」

まつりは頷いて、踵を返す。その表情は、能面のようだった。ただでさえ白い顔が今や血の気がなく、死体のようだ。肇は改めて背中に氷水でもかけられたかのような、ぞくりとした悪寒をおぼえる。やっぱりこの娘、様子がおかしい―――

「回収するのは、この二つだけでいいんですか? たしかさっき、三つと」

背を向けながら、まつりが首を振る。「ううん、あと一つ大事なものがあるんだけど・・・それは今でなくても結構」

「え、いや。それはまずいよ」

肇は急いで抗弁する。「知っての通り、許可が降りているのは今日だけ。来週からこの森には重機が入って、更地にされる。この神社も跡形無く解体されて地面まで掘り起こされる。今しかないんだ」

「大丈夫。説明が足りなかったけど、残りを回収するのはあなたの仕事じゃないし」

すかさず梨神の、からかうような間延びした声が響く。肇はちょっとばかりむっとする。

「どういうことですか?」

「心配いらないってこと。あなたはただ、忠実に指示だけを果たしてくれたら良いのよ」

梨神の声は柔らかだったが、肇を沈黙させるだけの不思議な威圧感があって、彼の疑問を疑問のまま封じ込めてしまった。

「じゃあ、まつり。おまえとはここでお別れね」。梨神がまつりのほうを向いて、にっこり笑いかける。「すぐに迎えはよこすから。ちょっとだけ待ってて。長いこと引き留めちゃったかもだけど、これでおまえの役目はおしまいよ」

まつりは何も言わず、ただ軽く会釈する。相変わらずの能面。

そしてそのまま足取りも軽やかに歩きだし、正殿前の裏へと姿を消してしまったのである。

「え? ちょっと、どこ行くの」

反射的に、肇はその後を追う。だが正殿の背中の空間には、誰もいない。肇は今度こそ、悲鳴をあげた。

「心配しないで。ちょっとかくれんぼしてるだけ」

梨神がややうんざりした顔で、背後から声をかける。

「あなたはそのご神体を―――宝剣を持って、私と一緒に来なさい。ここからは当面、一緒に活動してもらうわ」

「いや、でも・・・」

そのとき梨神の双眸がふいに、青白く光った。

そこから先は声にならなかった。肇は急に猛烈な立ちくらみを覚え、瞬時に意識を飛ばしていたのである。




そのあとどれくらい、意識を失っていたのだろう。目を開くと、だいぶ空は暗くなっていた。どこかで悲鳴のような山鳥の声が響きわたる。

かれは、仰向けに地面に倒れていたのだ。ただし意識を取り戻してからの頭のぐあいはすっきりしていた。

「あれっ?」と狼狽するひまもなく、上体を起こして肇は周囲を見回す。

やや離れた場所に鳥居があるのが見て取れた。何のことはない、そこは八蛇神社から百歩ばかり離れた林道の上だったのだ。だがあらためてすぐ近くに視線を泳がせているうちに、肇は異質なものを見いだした。ほんの十歩と離れていない場所に、男がうつ伏せに倒れていた。男の周りの草木は真っ赤な血潮で染められており・・・そして男の首は胴体を離れてちょっとばかり離れた場所に転がっていた。

「・・・?」

肇は、うつろな視線を自分の右腕に移す。手には、例の刀剣が握られていた。心なしか、すこし重くなったような? すでに抜き身となっており、白銀の刀身がにぶく光っている。いや、光っているだけではない。赤く濡れている。かれはほとんど本能的に指先でその赤い液体をすくい、その感触をたしかめる。ぬめる―――

血だ!

声にならない叫びをあげる。潮のように、恐怖と困惑の黒い波が肇の心の中に押し寄せてきた。だがすぐに、かれの肩を強く揺さぶる手がかれをパニックから救い出した。

「いいから立ちなさい、土岐肇くん」

それは梨神の声だった。美しいが地の底から響くように落ち着き払った声だった。「面倒なことになってるみたい。。とにかくここを離れましょう」

「面倒な・・・こと?」

ほとんど反射的に、肇は叫ぶ。「何のことだ!」

声を震わせながらかれは続けた。「この死体はいったい・・・」

「まあ、事故死みたいなもんじゃないかな」

まるで虫けらの死骸でも見つめるかのように男の生首を見やりながら、梨神は冷然と言い放つ。「肇くん、大丈夫よ。あなたがいま刀をもっているのを知っているのは、わたしだけだから」

「ま、待ってくれ」せきこむような勢いで肇は問いただす。「僕は殺してない。そうだろ?」

「せんさくは後回し」。梨神の手が肇の腕をつかみ、無理やり彼を立ちあがらせる。「とにかくこの場を離れましょ、警察に見つけられたら厄介だわ」

「え、いや。やってないから!」

梨神は、ため息をつき、さっきの言葉を繰り返す。「そうね。そういうことでいい。でもね、あなたは刀を持っている。血の付いた刀を。そして目撃者は、わたししかいない」

梨神の腕をつかむ指のつま先が、痛いくらい強く食い込む。「あなたの無実を証言できるのはわたしだけよ。法廷でいくらでも主張してあげられるけど、その前にまずわたしの指示に従いなさい。いったんここを離れるの」

それでもなお肇は、しばらくためらっていた。しかしかれは死体の、それも覚えのない「己の罪」に関わっているらしい死体の傍にいつづけることが怖かった。ついにかれは言われるまま、歩き出していた。やがてそれは早歩きになり、さいごは半ば駆け足になった。手には刀を持ったまま。

「あ―――あの、木下さんは?」

肇がようやくそれに気がついて声を上げたのは、駐車していた車に戻ってエンジンを始動させてからのことである。「彼女はどこに?」

「まつりのことは、心配いらない」

乗車するとき、肇からひったくるように奪った刀を大事そうに抱えながら、助手席の梨神が答える。「説明はあと。それより今から案内するから、このままホテルに直行しましょう」

「ホテル?」

「セイレーン銀嶺。場所は分かってるよね。あなたが富田さんと会ったスイートルームだから。まつりからこれも、預かったし」

ポケットからカードキーを取り出して見せて、彼女は言う。「当分はあのホテルが、わたしとあなたのねぐらになるわ―――今夜は帰れないと父親に電話しなさい」





東京都の摩天楼の一角。地下鉄銀座駅にほどちかいオフィス街の一角に、いまや発展いちじるしい「ニューランドマーク」社の本社ビルがそびえ立っていた。

一見ありふれた九階建てのオフィスビルだが、屋上に掲げられライトアップされた看板には、古代日本風の赤い装束をまとった記紀の女神のごとき女性のイラストが描かれており、それがこの新興企業のイメージキャラクターである。ちょっと神秘的な美貌の女神像で好事家の評価も高いが、いっぽうで如何にも神話を想起させるそのデザインが「オカルトめいている」という、一部の批判もある。

ビルの七階は会議室スペースになっており、その中の最大の会議室が毎週火曜の午前一〇時に設定されている、定例重役会議に用いられている。

「会長、ご入室!」

「会長の腰巾着となることだけで出世した」と陰口をたたかれている三一歳の部長のかけ声とともに、居並ぶ重役連はいっせいに起立する。ニューランドマーク社の創業者にしてオーナー、生ける伝説の実業家にして、社内における半神の登場である。頭髪はまだ黒々としており、口をかたく一文字に閉めた表情と体格は精悍そのもの。漆黒のスーツに身を固め、ゆっくりした足取りでかつ、若くて美しい秘書をしたがえての入室である。先週まで仕えていた秘書は退職したばかりであり、後釜は彼女のようだ。これから会長に何か意見具申するさいには彼女の名前を覚えておいて損はないなと、重役たちはすばやく計算する。

会長・末橋雄斗はすでに七〇歳。年齢もさることながら性にかんしていえばむしろ淡泊といっていい人物であり、美しい秘書たちは別にかれのハーレムではない。なるほど、見た目はぱっとしない総務課の三十路前半の女性社員がかれの愛人であることも、公然の秘密ではあるものの。公式の場では子供を産まなかった糟糠の老妻を立てることでも知られている。

しかしそれはそれとして。末橋会長は社内における自己の絶対的権威を誇示する道具としての美女の価値は、十分に知り尽くしているのだ。会長室所属の秘書は一流どころの大学の卒業証書を得た有能な才媛であると同時に容貌でも優秀な必要があり、とりわけ公的な場で会長のお茶をくみ傍で書類を準備してみせるなど、演出効果を主目的とする会社の最重要任務を果たす者には、最高の美貌が不可欠なのである。

「だからって楽して遊んでいられるわけでなく、通常業務のほうも目が回るほど忙しい・・・あげく子供じみた王様ごっこに付き合わされてちゃ、かなわないっての」

と、いうわけで。会長のお気に入りになった秘書の大半が苦笑まじりに短期間で辞職してしまうので、結果的に「お局」がうまれることもなく適宜、世代交代が出来ているのは皮肉ではあった。ともあれ、秘書の介添えを受けながら上座に着席し、重役たちも一斉に席に着く。

「それではまず、本社財務部からのご報告から始めさせていただきます。

まず会長の現地指導よろしきを得て展開している、各種リゾート事業に要する資金調達の件ですが・・・」

まず会議の劈頭を飾るのは、重役の中でも古株であり信任あつき金庫番と目される、神無月守男常務である。

「そんなことはもう良い!」

すでに老境とはいえ、会長の物事を判断する知力は衰えていない。あるていど状況を把握してしまうと、うるさそうに手を振って打ち切ってしまう。

「いまわしが気にしているのは、銀嶺リゾート建設の進捗状況なのだ。行って帰ってきたばかりになってしまうが、君は明日にでも現地に向かい状況を視察し、カツも入れてこい。どうもあそこの副社長はまだ、土地買収や事業許可の取得で本社が味わった苦労を理解できておらず、先行きを楽観しておるきらいがある。まだ何が起きるか分からん。手を抜くことはまかりならんのだ」

かしこまりました! 最敬礼とともに元気よくそう応じつつ、心中でほくそ笑む。銀嶺市のリゾート開発で会長の懐刀として銀嶺市におもむき、新事業のために市議会の政治家や有力者、地主やと折衝をしてきた切り込み隊長こそが彼、神無月である。

もともと地元だけに、ニューランドマーク派の地盤もあることではあり味方してくれる現地有力者や当局サイドの人間も居る反面―――社の発祥地だからとて手加減するような社風ではないだけにいつもながらの強引な手段が、あらたな反感や猜疑を買ってしまっている。会長の心配は当然であった。だがそれはそれとして。出張が多いのは、かれには大歓迎だったのである。

(頼子に、さっそくホテルの手配をさせなければ。当たり前だが温泉つきで。とにかく、社の連中の目につかない場所だ)

妻の目を盗んで逢い引きを重ねている秘書社員の豊満な姿態を脳裏に思い浮かべながら、神無月はおのれの幸運を喜んでいた。実を言えばつい先週末も架空の社用をでっちあげて銀嶺市にむかう航空便を社費で手にし、秘書を連れてドライブと温泉旅行を楽しんできたばかりの彼なのである。

銀嶺市は風光明媚な土地柄でうまい料理と温泉には事欠かず、今回のプロジェクトが決定してからは浮気旅行のための、お気に入りの場所になっていた。すべてはニューランドマークの資金調達係として、メインバンクとの水面下の深すぎる関係をしっかり掌握している、かれなればこそ黙認されている芸当。周囲の重役たちの半ばうらやむような呆れたような見透かすような表情も、事実上のナンバー2と目される神無月常務にとっては、網戸のむこうの蠅ほども気にならない。

ともあれ会議の進行は、いつも紋切り型だった。マンネリ時代劇におけるお白州裁きのようなもので、重役たちが直立不動で挙げていく様々な議題を永遠の裁判官である会長が裁断し、採点し、あらたな命令をくだすのみ。会議といっても実態は、全能の祭司王が臣下たちを導いていることをお互いに再確認するための、いってみれば儀式でしかない。

室内に居並ぶ重役たちが一通り、会長から教師の前の小学生よろしき訓戒をうけて萎れた野菜のような顔になったところで、会議はテレビ回線を用いての各支社との連絡に移る。全国の支社ともリアルタイムで連絡をとりあうこのシステムもまた、同社の体制を強化する一助となっている。

「銀嶺本社副社長の、根本であります」

そういってプロジェクターで映し出される大画面いっぱいに占めたのは、痩せた狐のように神経質そうな男の顔だった。発祥地の「旧本社」であることから本社の名義を残しているが、質的には支社長でしかない。じっさい根本という名のこの男、学歴がよく会長の前ではネズミのようにおとなしくて真面目一徹だが、器量といい才能といい、支社長どまりであることは誰の目にも明らかな人物である。

「じつは例のリゾート予定地におきまして、ちょ、ちょっとばかり問題が起きており―――まずそれにつきまして、ご報告いたしたく存じます」

重役たちがざわめく。よく見ると今の根本は、狐を完全にやめてネズミ一直線。顔色が青いことが、モニター越しにもあきらかであった。

「綾樫郡の敷地内におきまして、惨殺死体が発見されたのです」

「なに?」

会長の眉がつり上がる。だが根本副社長はいつもに似合わず、会長の顔色をうかがいもせず言葉を継ぐ。

「まだ身元は警察のほうで調査中らしいのですが、チェックアウトしないままビジネスホテルに荷物を預けっぱなしの初老の男性がおり、これが該当の人物ではないかと、発表されています。そして・・・」

そこでいったんつばを飲みこみ、かれは秘密でも打ち明けるように声を潜めた。

「その男は、鋭利な刃物で首を切られていたそうです」



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