サイゴ

病院の個室で生命維持の機械の音と林檎を剥くシャリシャリという音が響いている。

「お母さん、林檎が剥けましたよ」

 男がお母さんと呼ぶ女に、きれいに切り分けた林檎を皿にのせて渡す。

 女は両手でそれを受け取ったが食べようとしない。しばらく林檎とベッドに寝かされた人物を見比べ口を開いた。

「聞いてくださるかしら」

「なんでしょう?」

 男はナイフを拭きながら返事をする。

「私ね、子育てに失敗したの。息子は私や夫が何も言わなくても何でもできる子供だったから、あれもこれもってどんどんやらせたの。勉強が一番得意だった。下の娘は不器用で、そういうことが出来なかったの。だから息子ばかりかまっていたのね。息子の成果が自分たちの子育ての、親としての成果だと信じていた。息子にはそれがプレッシャーで、娘にとっては見捨てられたように感じたのかも」

 女はベッドの上の娘を見る。全身を火傷してもう見る影もなかった。

「息子はアルコール中毒で死んで、娘はそれを一人で発見して私にメールしてきたの。私は全然本気にしなかった」

 女は目じりを指で拭う。そこに男が白いハンカチを差し出した。ありがとうと女はそれを受け取り、涙をふく。

「娘は一人でつらかったのね、きっと。すぐに彼氏のところに行ったみたいだけど、そこで火事に巻き込まれてね」

 火事はガス漏れが原因だった。出火場所はまさに彼氏の部屋で娘は逃げられなかったのだろう。

「娘は風呂場にいたから一命はとりとめたけど、一緒にいた彼氏と友達は死んじゃったみたい」

 彼氏とその友達の遺体は出火場所付近の寝室で発見されていた。娘が生きているのは不幸中の幸いと言える。だが救出されてから娘は一度も目を覚ましていない。

 話を聞きながら男はもう一つ林檎を剥き始めた。

「私はこの子に謝りたい。ずっと構ってやらなかった分、愛してあげたい。これは、私のエゴかしら。子育てをやり直すなんて、虫が良すぎるかしら」

「そんなことありませんよ」

 男は即答した。

「誰にだって間違いはあります。娘さんもきっとわかってくれます」

 男の手元には再び六切れに切られた林檎を載せた皿が現れた。

「娘さんがきっとすぐ目を覚まします。目を覚ましてすぐそこにお母さんがいたら娘さんだって喜びますよ」

「そう……そうかしら」

 女は男に促され、林檎を一切れ口に運んだ。

「もちろんですよ。傍にいてあげてください」

 女は何度もうなずいた。娘が起きるまで傍にいてあげよう。起きたら目いっぱい愛してあげよう。

 その時病室のドアがノックされた。

「失礼します。点滴変えますね」

 看護士が二人入ってきててきぱきと娘につながった点滴の管や薬を交換する。

 片方の看護士がじっと娘を見つめる女に言った。

「あんまり根を詰めると体に悪いです。ご自宅に戻って休まれては?」

 女はかぶりを振った。

「この子が起きたとき私がいないとダメなんです。大丈夫、すぐ目を覚ましますよ」

 女は何日も寝てないようで、青白くやつれて見えたが眼だけは爛々と見開かれていた。その様子に看護士は母親に対してもカウンセリングなどを勧めた方がいいと医師に進言しようと考えた。看護士は気が付かなかった。母子しかいないその部屋に、もう一つ椅子が置いてあることと、その椅子に齧りかけの林檎があることに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幸福の死神 久世 空気 @kuze-kuuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ