ピエロ

 茉麻は走った。とにかく家から離れたかった。

 柊哉の母親は柊哉が死んでから狐の面をかぶった柊哉が出てきたと言った。茉麻は勝明の映像から柊哉の幽霊を知ったが本当はもっと早くから出ていたのだ。もしかしたら研一も? そう考えたら家にいてられなかった。

 駅に着き改札を通り電車に乗り込む。体は自然と隆貴のもとに向かっていた。もうそこ以外考えられない。もし史乃がいても頭を下げて居させてもらおう。もう浮気だなんて思うのもやめよう。とにかく泊めてほしいと。携帯からメールを送る。返信はない。両親からの返信もまだなかった。

 最寄りの駅に着き恐る恐るホームに立つ。すでに昼間の事故は片づけられ、何もなかったようにきれいになっていた。ダイヤが狂ったせいか遅い時間の割に人が多く感じたが、誰も彼もが時間や電光表示板を気にして動き回るだけでいやに静かだ。

 茉麻は改札を出て隆貴のマンションに向かう。今日で二回目なのに何日もたったような感覚を覚える。何日分も茉麻は疲弊していた。きっとひどい顔をしているだろう。隆貴と史乃はそれを見てきっと笑う。でも一人でいるよりはずっとましだ。そう自分を納得させてできるだけ大股で歩いた。

 インターホンを鳴らすが昼間と同じで何の反応もない。二度三度鳴らしても静かなままだった。ずっと史乃がいるのだろうか。それとも……ふと、家で感じたいやな感覚がよみがえる。なぜ気づかなかったのだろう。もしあれが柊哉なのだとしたら真っ先に狙われるのは隆貴だったはずではないのか。茉麻は居ても立っても居られなくなってドアを開けようとした。鍵がかかっている。

「隆貴!」

 ドアを叩くと意外に響いた。まるで中が空っぽのようだ。

「隆貴! お願い開けて!」

 なお叩き続けるとようやく中から鍵の開く音がした。そしてドアの間から伸びてきた手に腕をつかまれ部屋に引きづり込まれた。

「何時だと思ってんだよ!」

 隆貴だった。彼の部屋から彼が出てくるという当たり前のことに茉麻はほっとして、その場に座り込んだ。

「大丈夫か?」

 部屋の中は真っ暗だった。でもそこの声で隆貴の表情が優しげなものだと茉麻には分かった。

「あの、あのね」

 帰りに晴彦が電車に飛び込んだこと、そのときおかしな男に話しかけられたこと、そして研一が死んだこと。話しているうちに涙があふれてきて嗚咽が混じる。それでも隆貴は口を挟まずに聞いてくれた。

「ここに来ること、誰かに言ったか?」

 話が終わると茉麻の涙を指で拭きながら隆貴が訊いた。

「ううん。誰とも会わなかったし。それより、もし、もしね、あれが柊哉君だったら」

「……うん、俺のところに来るな」

 静かに隆貴が頷く。

「晴彦から聞いたんだろ? 最低だよな、俺。どうしても興味あるやつには口が悪くなるんだよ。いじめてるって思われてもしょうがないよな」

 隆貴の口調が自嘲気味になる。顔が見えないからそれが嘘なのか本当なのかわからない。だけどもし隆貴が言うことが本当でも、柊哉は自分の両親すら追い詰めているのだから、いじめの真偽は関係ないのではないだろうか。

 考え込んでいると隆貴に抱きしめられた。

「茉麻、お願いがあるんだ」

 聞いたこともない泣きそうな声。抱き返してみるとさらに強い力で抱き返された。

「俺と一緒に死んでくれ」

「隆貴?」

「もう嫌なんだよ。友達が死ぬのも、俺が悪いことにされるのも。もし柊哉が本当に俺を狙っているなら、ちゃんと自殺して反省してるところを見てもらいたいんだ」

「いじめてないんだよね」

「いじめてないよ? でも、あいつが傷ついてたなら同じだよな」

「史乃さんは?」

 抱きしめる隆貴の体が少し硬くなった。

「史乃は……あいつはもういい」

 そっか、とだけつぶやいて茉麻は隆貴の背中をゆっくりとさすった。だが心が弾んでいる。あの後何があったのか知らないが、隆貴は史乃を捨てたのだ。最期に選んだのは茉麻。史乃に勝ったのだ。

「いいよ、一緒に死んであげる」

 喜びを悟られないように低い声で言うと、ありがとうと隆貴は茉麻の手を握った。その手はひんやりとして冷たかった。

 茉麻たちはガスで自殺する方法を選んだ。ガスの元栓を開き、隆貴の持っていた睡眠薬を飲んで眠り、苦しまずに逝くことになった。

「遺書、書いておく?」

 隆貴は茉麻にメモ帳を渡した。茉麻は少し考えてから『ご迷惑おかけしました。さようなら』と書いた。母と父にあてた遺書だ。他に書きたいことはたくさんあった。出来が悪い子だということとか学校に行かなくなったこととか、最近はほとんど口を利かなかったこととか。それを全部含めた遺書だ。書き終わってふと顔を上げると隆貴がじっと茉麻の手元を見ていた。

「何か変?」

 茉麻が訊くと「いやなにも」とあいまいに返事をした。

「もうガス栓開いていいか?」

 茉麻は急いで睡眠薬を口に入れた。隆貴も手元に会った錠剤を口に入れ水を飲む。

「あのね、隆貴」

「うん?」

「最期にキスしたい」

 最期のわがままだ。隆貴ははっとしてすぐに微笑んだ。そして茉麻を抱きしめ唇を重ねた。

「じゃあ、逝こうか」

「うん」

 ベッドの上に横たわり、手をつなぐ。隆貴に選ばれたという喜びと、これから死ぬという興奮で茉麻の心臓は激しく鼓動していた。

 なかなか眠気は来なかった。隆貴も何もしゃべらない。すでに眠っているのだろうか。茉麻は自分のドキドキという心音を聞きながら、早く寝なくてはと瞼を強く閉じる。

 すると突然胸をせりあがってくるような感覚がした。吐きたい。茉麻は思わずベッドがら飛び起き部屋を出た。

「おい!」

 隆貴の声が追ってくる。茉麻は振り返れずにそのまま洗面所に行きすべて吐き出した。が、出てきたのは胃液だけだ。今日はほとんど何も口にしていないことを思い出す。それなのに吐いてもまだむかつきが収まらない。

 ふと顔を上げる。一枚の大きな鏡に茉麻の顔とその後ろにすりガラスの引き戸が映っている。その先はバスルームだ。

「茉麻」

 鏡の中に隆貴も入り込む。

「ごめん、睡眠薬もでちゃったかも」

 鏡越しに謝ったその瞬間、ガラス戸がひとりでに開いた。さっきも同じことがあった。その時は研一の死体を見つけた。そして茉麻はまた見つけてしまった。鏡のずっと奥、バスルームの浴槽から覗いた人の頭を。

 茉麻は隆貴の横をすり抜けバスルームに入った。浴槽の中には史乃がいた。両目をかっと見開き天井をにらんでいる。

「隆貴、史乃さんが」

「うん」

「き、救急車、呼ばないと」

 茉麻は自分自身何を言っているのかわからなかった。どう見てもすでに死んでいた。首に汚い痣がついている。首を絞められたんだ。

 誰に?

 茉麻はガクッと背中からバスルームのタイルに背中を打ち付けた。襟首をつかまれ引き倒されたのだ。

「救急車は呼ばない」

 抵抗しようにもそのままバスルームから引きずり出され寝室に戻された。

「なんでお前ってそんなに間が悪いの?」

 隆貴の冷たい声。

「史乃さんは?」

「お前が殺したんだよ」

 隆貴の手には睡眠薬のシートがある。片手で器用に残りの錠剤をシートから押し出していく。

「お前と史乃が俺の部屋で俺をめぐって俺のいない間に争って、お前が史乃を殺して、お前は罪の意識から自殺する」

 茉麻は口をこじ開けられ錠剤を押し込められる。恐怖に手足がしびれて動かない。振り払うことが出来ない。

「史乃も馬鹿な奴でさ、俺の言うことを聞いてればあそこまでしなかったのに。なんで俺の周りにはばかな女しか集まってこないのかね」

 笑う隆貴。

「なんで?」

 涙が溢れ、視界がゆがむ。柊哉を傷つけて後悔してるというのは嘘だったのか。茉麻を好きだと言ったのは嘘だったのか。

 なんでと、茉麻は思う。

 なんで何もしていない私がすべてを失うことになるのか。

「あのさ、あんなやつの妹と俺が付き合うと思う? 使いようがあるかなって思ったんだけど、本当に間が悪い。頭も悪いし空気読めないし。でもやっと俺の役に立てるんだ。よかったね」

 隆貴はベッドの下からウイスキーの瓶を取り出した。瓶の口を唇に押し当てられる。首を横に振ろうとするがそれすら抑え込まれ熱い液体が口の中に入ってくる。飲み込まないようにすると鼻に逆流し息ができない。せき込むこともできない。

「早く死ね」

 隆貴がそう言った時だった。


「それでは彼らが死ぬまでの間、僕らの英雄、下田隆貴の生い立ちを軽く振り返ってみましょう」


 アナウンサーのような落ち着いた男性の声がした。

 隆貴が酒瓶を取り落す。

 茉麻が瞬きした瞬間に、そこはすでに隆貴の部屋ではなかった。まるで映画館のように一人掛けの椅子が同じ向きにたくさん並んでいる。満席だ。みんな一様にハンカチを握りしめ、時々鼻をすすっては目元を拭っている。正面には壁一面のスクリーンと、祭りの出店に売っているようなヒーローのお面をかぶったスーツ姿の男がいた。

 スクリーンにはまだ乳児と思われる子供が映っている。

「下田隆貴は下田家の長男として生まれ、一人っ子で大切に育てられました。スライドは生後一週間といったところでしょうか」

 ぽかんとする茉麻と隆貴をよそに男は解説を始めた。

「初めて動物を殺したのは幼稚園の時。交通事故で怪我をした汚い猫にとどめを刺しました。これが近所に知られたため彼は父親からひどい折檻を受けます。彼は幼いながらにこれを耐え抜きます。たとえ父親でも彼を操ることが出来なかった。そしてこれこそが彼の素晴らしい経歴のスタートとなるのです」

 スクリーンには猫の頭を石でつぶして笑っている、スモッグを着た幼稚園児。おお、と歓声が上がる。次にスライドは小学生の隆貴の写真を映した。隆貴の前には土下座するクラスメイトの姿。

「彼は七歳にして人を支配すること知ります。一般人がやっと集団生活について学び始める頃です。馬鹿なクラスメイト全員を奴隷にできたのは小学三年生の時。素晴らしい才覚も、大人たちには理解されず五年生の時に弾圧にあいます。しかし彼は決して諦めなかった」

「やめろ!」

 隆貴は男のもとに向かおうとするが、シートはぎっちりと敷き詰められ男のいる場所にたどり着けそうにない。

「おまえ、柊哉か? ふざけんなよ! 死人が!」

「さて、ほそぼそと奴隷を作り水面下で努力する日々が続き高校生。彼の偉業の集大成にして伝説が生まれます。それが真鍋研一の支配です。これはどんな人間も手に届かない神の支配と言えるでしょう」

 ヒーロー面の男は笑っているように見えた。自分のもとにたどり着けずもがいている隆貴を嘲笑っているのか、スライドに映った研一のミミズを食べさせられている顔がおかしかったのか。ふと彼は腕時計を確認して肩をすくめた。

「おや、残念時間切れです」

 そういった瞬間、座っていた人々が立ち上がり隆貴に向き直って拍手をし出した。知らない顔ばかりだがみんな泣いている。

 戸惑う隆貴に男は青いグラスを持たせた。

「ありがとう、僕らの英雄! 下田隆貴よ! 永遠なれ!」

 拍手の音は一層大きくなる。

 隆貴は満更でもないような顔で、気取ってグラスを高く掲げた。

「待って!」

 茉麻が叫ぶ。しかし隆貴はそれを一気に飲み干した。

 そしてグラスが空になると同時に誰も居なくなった。スタンディングオベーションしていた人々も、隆貴も。隙間なく並べられたシートも、スクリーンも。後には茉麻と仮面の男が残された。

「柊哉君だよね? 柊哉君」

 男は何も言わない。

「もうやめて、これは復讐?」

 やはり返事はない。茉麻は男の正面に立った。

「私がわからない? 茉麻だよ。隣に住んでた、研一の妹」

 お面の目の穴から瞳がのぞいていた。茉麻の記憶にある優しい瞳だ。

「お願い、隆貴を助けて。悪い奴だけど、最低な奴だけど、もうやめてほしい。もう柊哉君にこんなことして欲しくない」

 言葉は届いているのだろうか。いくら面の穴をのぞき込んでも見返してくる目があるだけだ。

「柊哉君!」

 まるで人形にでも話しかけるような虚しい呼びかけを続ける。この男が柊哉なら届くはずだ。あの優しい少年なら。

「テントウムシの話をしようか」

 男がおもむろに口を開く。

「テントウムシは光の強い方に進む走光性という習性がある。テントウムシの他にも街灯に集まる蛾やハエなども同じだ。逆に負の走光性、光から逃げる。ゴキブリがその習性を持っているね」

 やっぱり柊哉だ。子供にもわかるように優しい語り口調で話してくれるのはあの日と同じだ。

「柊哉君」

 男は大きな手で茉麻の頭をゆっくり撫で、そして黙って黒い布をかぶせた。

 慌てて布つかむと乗せてあっただけであっさりと除けられた。

 そしてそこはまたもや別の場所だった。

 強い光が真上から降り注ぎ、熱気が茉麻に襲い掛かる。ハイテンポのBGM、湧き上がる歓声。

 茉麻は舞台の上にいた。客席は二階席まであり満員だ。

「レディース・アンド・ジェントルメン! さあ! お待ちかね! 真鍋茉麻嬢の登場です!」

 柊哉はべっとりとしたピエロのメイクをしていた。塗ったばかりなのかテラテラと光を反射して光っている。

「さて、まずは玉乗りだ!」

 茉麻の前に直径が身長ほどもある赤地で黒いドットのある大玉が転がってきた。

 これに乗れというのか。

「柊哉君、私……」

「スタート!」

 無理だと訴える前にピエロの格好をした柊哉に抱き上げられ、投げ飛ばされた。刹那の浮遊感。落下。ダメだと思ったが足はあっさりと玉の上に乗った。普通に歩くだけで大玉が転がり観客が盛り上がる。

「お次は空中ブランコ!」

 目の前にふわりとブランコが落ちてくる。思わずつかむとそのまま引き上げられ茉麻は再び飛び上がった。そして勢いよく地面に向かう。そこに別のブランコに足をひっかけさかさまになったピエロが現れる。

 手を放す。なぜそうしたかわからない。ただそうすることがみんなの望みなのだろうと思った。そして高く上げたままの両手をピエロが掴み、茉麻は再び高く持ち上げられる。

 その時観客の様子が見えた。

 両親が茉麻を見上げて笑っている。

 研一が口を開けて見上げ、隆貴が大笑いをしている。

 史乃もハラハラしているようだが楽しんでいた。

「ではこのまま綱渡りだ!」

 ピエロは揺れるブランコの勢いに乗せて茉麻の手を放す。茉麻はくるんと空中で一回転すると舞台の中央に向かって落ちた。そこにはいつの間にか一本のロープが渡っていた。地面から三メートルくらいだろうか。今の茉麻にはまったく恐れるに値しない。予想通りすとんと爪先がロープの上に乗る。

 歓声。拍手喝采。

 茉麻は投げ渡されたピンクのパラソルを持ち、優雅にロープを行ったり来たりした。みんなが笑い、喜んでいる。手を振ると手を振り返してくれる。

 ふと下を見ると両手を広げているピエロがいた。茉麻はパラソルを放り投げてその胸に飛び込んだ。軽々と受け止められ、それに対しても拍手が起こる。

「そして最後に、火の輪くぐり!」

 茉麻はそれを聞いても何も思わなかった。私ならできる。みんなを喜ばせることが出来る。しかし目の前に火の輪が現れた瞬間、その自信は霧散した。

「がんばれー!」

 晴彦の声がした。

「それでは飛んでいただきましょう!」

 ピエロが言う。

 出来ない。私はこれが出来ない。全身から冷や汗が流れだす。

「大丈夫、君ならできるよ」

 ピエロが茉麻の心を見透かしたように耳元でささやく。

「どうしたぁ! やってみろよ! 出来るって!」

 魁人の声も聞こえてきた。

 出来るわけない。これまでのが出来たのがおかしいのだ。茉麻は知っている。自分には何も期待されていなかったことを。それなのになぜ今、歓声を浴びているのか。それに応えることが出来ているのか。

 隣にいるピエロを見上げる。

 その眼は変わらず優しげだ。

「出来ない、私には出来ない」

 応援する声がますます大きくなる。

「あのね、私、誰からも期待されてないんだ。小さい頃はいい子でいようとしたの。でもお兄ちゃんの方がずっとそれが上手くて、期待に応えるのが上手くて、不貞腐れてた。そうしたら誰も私に期待しなくなった」

 そんな自分に自分が一番がっかりした。自分に期待しなくなって、何もしなくなった。誰か自分に優しくしてくれそうな人にすり寄っていた。何もできないくせに、甘えさせてくれる人を探してた。

「もう、夢を見させるのはやめて。私は何にもできないつまらない人間なんだよ」

 観衆の声がやむ。

 誰も居なくなっていた。観客席はもともと何もなかったようにがらんとしている。

「茉麻ちゃんは、えらいね」

 ピエロは泣いているように見えた。そして火の輪に向かって走り出した。

「待って!」

 ピエロは手を伸ばし頭から火の輪に飛び込んだ。茉麻も慌てて追いかけ、火の輪をくぐった。

 その先は夜だった。とっさに両手をついて体をかばったが、勢いが付きすぎて体が転がり肩を地面に打ち付けてしまう。コンクリートの上。さっきまでは感じなかった体の痛みが急によみがえる。

 隆貴のマンションから少し離れた歩道橋の上だった。隆貴のマンションがよく見えた。マンションは赤く染まっていた。煙と響くサイレンの音でそれが火事だと気付いた。

 茉麻は自分の体を確認する。ところどころ痛いが両足でしっかりと立つことが出来た。

 隆貴はまだマンションにいるのだろうか。グラスに入っている何かをあおって消えた隆貴。あれは夢なのか、それとも現実なのか。茉麻はマンションに向かった。

 しかしマンションに近づくほど野次馬が増え、前に進めなくなる。

「ガス漏れがあったんだって」

 野次馬の中で誰かが言う。

「誰か死んだ?」

 はっきりと明るい声が聞こえ、茉麻は声の主を探した。そしてウサギの被り物をかぶった男を見つけた。男も茉麻を見つけたようで首をひねって顔を向ける。肩を揺らし笑っているようだった。

 隆貴はまだあの部屋にいるのだと茉麻は直感した。

「すみません、どけてください」

 無理やりにでもマンションに近づこうとする。その声は誰にも聞こえないようで道を作ってくれる人はいない。

「お願い」

 正面に立つ女の耳元で叫ぶ。女はまったく気づかなかった様子で火事を携帯で撮っていた。

「誰か、道を開けて。あそこに彼氏がいるんです」

 誰も茉麻を見ない。誰も気づかない。声が潰れるくらい叫んでも、わめいても、気づかない。

 まるで街灯の光に集まる蛾のようにその場にいる野次馬たちはマンションを燃やす炎に引きつけられていた。

「急がないとね」

 ふいに声をかけられ振り返る。ウサギの被り物がすぐ横にいた。

「こっちだよ」

 ウサギが走り出す。不思議なほど人の隙間をきれいに縫って。茉麻もその後を追う。茉麻はなんども人に引っかかったが少し離れてウサギが待っていた。そして追いつきそうになると再び走り出す。

 柊哉がどこに向かっているのかわからない。それでも自分を見てくれる存在がいることに安心感を覚える。

「待ってよ、柊哉君」

 何度転んでも、顔を上げるとウサギは茉麻が起き上がるのを待っている。早く追いつこう。

 茉麻は何度もウサギを追いかける。

 ウサギは時々足をとめながらも、茉麻の前を走り続ける。

 何度それを繰り返しただろう。

 茉麻はもう隆貴のことも、なぜウサギを追いかけているのかすらわからなくなっていた。

 それでも追いかけ続ける。

 彼が見ていてくれるから。

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