第八話 「そんなの決まっているじゃない!」
雪国の学校は、夏休みが短くて冬休みが長い。
しかし仙台市は雪国と言えないため、夏休みは他の東北各県と同じように期間が短いのに、冬休みは関東以南と同じく「十二月二十四日から一月七日まで」に設定されていた。
そのかわりに秋休みが二日設定されているものの、なんだか損をしているような気がして仕方がない。
冬休みは曜日の関係で多少前後することがあり、その年の暦は二十三日の天皇誕生日が水曜日、二十四日のクリスマスイブが木曜日にあたっていたので、実際は二十三日から休みに入る。
しかし、弓道部の練習はクリスマスイブの日も普通に行われたので、全員が弓道場に顔を出していた。
出来ればここで、女の子にとって年間最重要行事である「クリスマスイブ」の部員達の動向を、あれこれと詳細に語りたいところである。
けれど、その日はたいしたイベントもなく普通に過ぎ去ってしまったため、悲しいことに語るべきことは何もなかった。
一年生部員は、残念ながら全員がシングルである。期待していた西條先輩は、両親とホテルのクリスマスディナーパーティーに行くとのことで、これは詳細に語ると悲しくなるのでスルーする。
そして、実は部員全員――特に早苗ちゃんと加奈ちゃんが、
「三笠先生は、クリスマスイブに何か動きを見せるんじゃないかな」
と、虎視眈々と狙っていた。例えば、普段とは違う香水とか、普段より気合いの入った化粧とか、そんな気配を期待していたのだ。
ところが、ボスキャラの三笠先生は普段通りに練習にやってきて、特に何ということもなく帰っていった。
「先生、彼氏いないのかしら……」
先生が帰った後、控室で早苗ちゃんがそう呟いたので、私は慌てて彼女から目を逸らす。如何にも怪しげな仕草は誰の目にも止まらなかったようで、私は安堵した。
みんなから問い詰められたら、笠井さんのことを黙っていられるかどうか、私には自信がない。
笠井さんの一件は、先生の「無理」の一言で終わっていた。後で笠井さんが三笠先生に、個人的に何か意見を伝えたかもしれないが、その内容は私には分からない。
笠井さんと三笠先生の関係も曖昧なままであったけれど、話の内容から笠井さんが妻帯者であることは確実だった。
あの様子では、二人が不倫関係ということはないだろう。むしろ「戦友」という表現が近いように思う。
さて、冬休み前半は弓道部の練習があったが、さすがに十二月二十九日から一月三日にかけての年末年始は、お盆と同じ理由でお休みとなる。
そして、二十八日の別れ際に私達一年生はある約束を交わして、お休み期間に突入した。
それでゆっくり身体を休めることができるかと思うと、そうでもない。むしろ年末になると、家の手伝いで大忙しになる。
昔気質の本屋は、大掃除も昔気質で大真面目である。二十九日から三十日にかけて、店内の本棚からすべての本を丁寧に抜き出して、棚を拭き清めて乾燥させたところで、また元通りに本を差し込むのだ。
この気の遠くなるような作業を、毎年律儀に続けているのだから恐ろしい。この時だけは本屋に生まれたことを怨みたくなる。
その大掃除の後、家族三人とも全身の筋肉痛に襲われることになるから、大みそかの当日はテレビの前から動けなくなる。
そこで毎年申し合わせたように、父曰く『人生ゲームの、回して進む数を決めるやつ』が、いつの間にか炬燵の上に置かれていた。
もちろん、ゲームをする訳ではない。どうしても立っていかなければならない用事が発生した場合に、その犠牲者を決めるためのものである。
三人で順番にルーレットを回して、出た数が一番少ない人が用事をこなす。幼少期から容赦ないそのルールの洗礼を浴び続けた私にとって、『人生ゲームのルーレット』は神にも等しい存在だった。
何度かその神からの過酷なご神託に晒されながら、私のその年は暮れていき、やがて年が変わった。午前零時に部員全員からのメールが一斉に届く。私のものも届いていることだろう。
そして、その文面には言葉は違えど等しく「一月一日午後十三時」のことが記されていた。
ところで、仙台市の元旦の名物といえば、二日から四日まで行なわれる『初売り』である。その時期になると、近県から買い物客がどっと仙台に押し寄せるという、大規模なイベントになっている。
「正月ならば、どこの町のショッピングセンターでも、元日から同じような売り出しをやるんじゃないの」
と、事情を知らない人は思うかもしれないが、決してそうではない。
仙台の初売りは、実は特別なのだ。
事の発端は江戸時代まで遡る。旧仙台藩領内では、年始の初売り出し時に景品をつけることが商習慣となっていた。それが現代まで受け継がれており、仙台の商店街では年始の三日間に限り豪華な景品や特典つきの商品を売り出す。
また、普通であれば豪華な景品や特典を付けて商品を売り出すことは、景品表示法に抵触したり、不当廉売と見做される可能性がある。しかし、仙台の『初売り』だけは伝統行事として「旧仙台藩領内で三日間だけ行われる場合に限り」、公正取引委員会からの認可を受けて適用を除外されていた。
そのため、一月二日朝から一斉に行なわれる仙台の初売りは、お上御墨付で過激なサービス合戦が繰り広げられるという、他にはない特徴がある。初売りのために早朝から特別列車が出るほどの人気なのである。
そして、逆に一月一日は殆どの店舗が休んでいるから、元旦の仙台市内は閑散としていた。
*
その一月一日の、十二時三十分頃。
私は仙台駅前西口に広がる日本有数の規模を誇る歩行者専用通路、ペデストリアンデッキ上に一人でぽつんと立っていた。
約束した時間よりも早めに現地に到着していないと落ち着かないのは、私の癖である。待たせるよりも待つ方が好きで、だいたいが約束した時間の三十分前には到着している。
そして、仙台でこの性格だと明らかに損をする。「仙台時間」と言う言葉があるほど、仙台の人は時間通りには集まらない。最近はだいぶんとましになったほうで、母によると昔は集合時間の三十分後に全員が揃ったら珍しかったらしい。もともとは「仙台時間」には「集合時間に自宅を出る」という定義があるらしく、その時間間隔の鷹揚さに驚く。
ともあれ、その習慣のお陰で私は待ち合わせの度に合計で一時間近く待つことになるのだが、自分のこの癖を変えたいとは思わなかった。晴れた日の寒風の中、私は大きめの茶色いダッフルコートに身を包んで、立ち続けていた。
普段であれば人でごった返している駅前も、元旦の昼にはまばらにしか人の姿はない。翌日の戦闘開始に備えて町全体が待機しているような状態だ。
仕事の都合だろうか、今朝になって東京方面から到着したらしい薄着のサラリーマン男性が、素早い足取りで目の前を横切ってゆく。
初詣の帰りだろうか、縁起物を手にした四人家族が何か話をしながら歩いてゆく。
私は、前日の夜更かしの影響が奥の方にどんよりとした疲れとして残っている目で、それを眺めていた。謹賀新年の晴れ上がった空が目に染みて痛い。
私が自宅を出る時、父と母は既に絶好調で翌日の初売りの準備を始めていた。さすがは仙台商人の末裔である。その辺は抜かりない。私は「あの中年男女のパワーはいったいどこから出てくるのだろうか」と頭を捻る。
そんなことをつらつらと考えていると、
「美代ちゃん、相変らず早いねえ」
という声が聞こえてきた。
見ると理穂ちゃんと早苗ちゃんがバスターミナルのほうからゆっくりと歩いてくるところだった。
理穂ちゃんは茶色のダウンジャケットに身を包んでいる。中は完全な防寒対策が施されているに違いない。身体が丸く見えることからそれが分かる。
早苗ちゃんは黒のロングコートと黒のタートルネックで、重ね着をほとんどしていないように思われる。彼女はいつも以上にほっそりとして見えた。
点と線――そんな言葉が頭をよぎった。
二人は鉤取方面からバスや地下鉄を使ってやってくる。
八木山動物公園から青葉城址に抜けるルートは、観光シーズンになると県外ナンバーのバスで渋滞するため、そもそも移動時間が読めない。七夕祭りの時のように、渋滞に巻き込まれて遅れることもある。
それもあって早めに動く癖がついていたから、この三人が最初に揃うのはお約束みたいなものだった。
「美代ちゃんと早苗ちゃんは、いつ見ても寒そうな格好しているね」
理穂ちゃんの言葉に私と早苗ちゃんは苦笑する。むしろ、私達にはどうして理穂ちゃんが重ね着の熱に耐えられるのかが不思議だった。あれだけ着込んだら、中心部はかなり熱が籠っているはずである。
「理穂ちゃんのほうこそ、むしろ熱くないの?」
「いやいやまだまだ。これでも寒い」
「「えーっ」」
そんなことを三人で話しているところに、明るい黄色のコートを着た加奈ちゃんがやってきた。彼女は常に集合時間の五分前に到着する。ただ、その時私は、
「あけましておめでとー」
と、五十メートル向こうから変にテンションの高い新年のご挨拶をしつつ近づいてくる彼女に、ひとつの危惧を覚えた。
彼女の家は四人兄妹で、三人いる兄はいずれも大学生である。そして今日はお正月だったから、当然のことながらどこの家庭でも家族そろって新年のご挨拶をしたはずだ。
そこで、高校生になったばかりの末娘は、彼らの毒牙にかかってしまったに違いない。目の前までやってきた加奈ちゃんの様子から、私はそれが妄想ではないことを知った。
「加奈ちゃん、少し酔っているでしょう」
「えへへへ、お屠蘇飲み過ぎちゃった」
ほんのりと赤くなった加奈ちゃんは妙に色っぽい。まあ、歩けなくなるほどではなかったから、見なかったことにする。
残るはかおりちゃんと西條先輩だが、この時点で私達は駅東口へと移動した。なぜなら、二人は自宅の車で移動することになっていたからである。
庶民派四名が集合した時点で二人に連絡を入れる。その後、庶民派四名がとぼとぼと駅を横切って東口に出た時には、ワンボックスカーが二台、ロータリーに横付けされていた。
いずれも黒のヴェルファイア。
私は竹駒神社からの帰りに、既にその洗礼を浴びていたので免疫が出来ていたが、他の三人は目を丸くした。
「これって、その筋の方ご愛用の例の車だよね!」
加奈ちゃんが相変らずおかしなテンションでそう言う。
「迫力あるね。中も相当温かそうだし」
と、理穂ちゃんが完全に炬燵と間違えた発言をする。
立ち尽くす四人の目の前で、二台のヴェルファイアの後部スライドドアが同時に開き始めた。
「明けましておめでとうございます」
「明けましてー、おめでとー」
降りてきたのは完全武装の和服少女達だった。
年末の弓道練習最終日、私達は元旦に初詣をする計画を立てた。
言いだしっぺは加奈ちゃんである。彼女は年の初めに神様の御加護を授かるべく、周囲に同好者を募ったのだ。
最近の西條先輩の活躍ぶりを目の当たりにしていた一年生部員は、流石に全員が志願した。西條先輩は、
「今度は皆さんの番ですね。私は付き添いに徹しますから」
と言って、同行することになった。
行先について、当初は竹駒神社が候補に挙がっていたが、
「いやいや、それでは美代ちゃんとかおりちゃんにハンデがある」
と、加奈ちゃんがよく分らない理論を展開したため、結局のところ同じく弓に縁のある『大崎八幡宮』を訪れることになった。大崎八幡宮では、九月の例大祭の時に流鏑馬が行われるので有名である。
さらに駅前からバスで移動しようと考えていたところ、西條先輩とかおりちゃんが、
「車を出しますよ」
と言い出したので、有り難くお受けした。
この時点で、起こり得る事態を想定しておくべきだったのだが、加奈ちゃんと早苗ちゃんは神様の御加護方面で頭が一杯になっていたために、竹駒神社の時のような危険予知が働いていなかったのだ。
西條先輩は黄色を基調として、紅白の花を散らした振袖である。
かおりちゃんは赤を基調として、やはり絢爛豪華な花柄をあしらった振袖である。
それを見た早苗ちゃんが、その他四人の気持ちを代弁して言った。
「これじゃあ神様、他のところ見ている場合じゃないよね……」
まったくもってその通り。
いつもは渋滞がひどい街の中心部も、元旦に限っては車が疎らである。駅東口を出発した二台の車は、新寺通りから愛宕上杉通りに入り、途中で作並街道に向かって左折した。
信じられないほど車はスムースに街中を走ってゆく。私は加奈ちゃんと一緒に、西條先輩の車に同乗しており、助手席に加奈ちゃんが、運転手の後方右側に私が、そして左側に西條先輩が座っていた。
座席は目いっぱいまで後ろに引かれていたので、私の背丈でも全然窮屈さを感じない。
――それにしても。
「西條先輩、着付けやお化粧は一体どうしたんですか?」
私が気になったことを訊ねてみる。
「ああ、元旦の朝からやってくれるところがちゃんとあるんですよ。浅沼さんとそこで一緒になりましたし」
なんと、セレブ御用達の業者が存在するらしい。
「それに、こんなことができるのも今年限りですから」
西條先輩はいつものおっとりとした口調でそう言ったが、私にはその奥にある先輩の思いがよく分った。来年のこの時期、西條先輩は受験生である。戦闘開始直前に、こんなことをやっていられる余裕はない。
そして、東京方面の大学を狙っている先輩は、大学進学後に東京で一人暮らしを始めることになる。年末年始は移動で慌ただしいだろうから、こんなに余裕を持って新年を迎えられるのは今年が最後だ。
そういう意味だった。
前の座席から加奈ちゃんの可愛い寝息が聞こえている。余りの気持ちの良さに、乗った直後に彼女は眠りに落ちていた。全体的に平和な空気が流れている。
そして、そういう空気の後にはおうおうにして嵐が控えていることを、私は忘れていた。
作並街道の左車線で車を降りると、横断歩道を回り込んで大崎八幡宮の正面に向かう。表参道から鳥居を抜けて境内へ。参道の隣に流鏑馬用の馬場があるせいか、社殿まではかなり奥行きがある。
そこを六人で進むのだが、やはり二人の存在感は際立っていた。周囲の初詣客からの視線が痛い。外国人観光客に至っては、わざわざ写真の許可を貰おうと近づいてくる。それを西條先輩が英語で捌いていた。
ともかく、社殿まで進んでお参りをする。
大崎八幡宮では、初詣の時になると賽銭箱の前に十五本の鈴の緒が並ぶ。中央の三列だけが並ぶ必要があり、両脇にある十二本は好きに参拝してよいのだが、常に中央三列には数十人の行列が出来ていた。
神様の御加護が目的だった私達は、当然のように中央三列に並ぶ。しばし行列の中で待つと自分達の番がやってきたので、三人ずつ前に進んだ。
弓道部方式で参拝を行なう。「一揖(ゆう)二礼二拍手一礼一揖」――最初と最後の「揖」がポイントだ。
私は加奈ちゃんとかおりちゃんと並んで参拝し、次に控えている西條先輩、理穂ちゃん、早苗ちゃんに場所を明け渡した。神前から退出しながら加奈ちゃんに訊ねる。
「何をお願いした?」
「そんなの決まっているじゃない!」
二人で顔を見合わせてにっこり笑いながら声をあわせて言った。
「「神様の御加護!」」
全員の参拝が終わったところで、第二の目的であるおみくじに向かう。初詣でこれは絶対にかかせない。しかも神様の御加護がかかっているから、今年のおみくじは気合いが入る。
いろいろな種類のおみくじが売り出されていたが、私達は一番古めかしい雰囲気のおみくじのほうに自然に足を向けた。弓道の神様にはそちらのほうが相応しいように思えたからである。
「おりゃああっ!」
理穂ちゃんが最初に籤を振った。出た数字の引き出しを開いて、中からおみくじを取り出すと「大吉」だった。さすがは一本目の的中率が高い理穂ちゃんである。
早苗ちゃんは小吉。加奈ちゃんとかおりちゃんが中吉で、私の番となる。
「美代ちゃんは意外に勝負強いからなあ」
加奈ちゃんがそう言ったので、私は少しだけ気を強くした。籤を振る。気合いが入り過ぎて大変な音が鳴り響いたが、ともかく数字が顔を出した。
引き出しを開けて紙を取り出す。それを顔の前まで持ってきて、私は息を飲んだ。
見事に「凶」。
もうお約束過ぎて言葉も出ない。早苗ちゃんが、
「美代ちゃん。こんな時まで最後を締めようとしなくてもいいんだけど」
と言ってくれたので、なんとなく笑いが漏れたが、このおみくじをどうしたものかと思う。途方に暮れていると――
目の前にいた男の子と目があった。
*
さて、ここで作者のいつもの癖が出て、物語は時間を遡る。
宮城第一高校弓道部一年の芝谷(しばたに)博(ひろし)は、ペデストリアンデッキの上にいた。
時刻は十二時三十分。南仙台駅から電車に乗って、仙台駅に着いたばかりである。
博はいつものようにばんやりとした顔をしていた。正月だから気合いが入るというものでもないが、一年の計をどうこうするつもりもない。
それに、今日は同じ弓道部の一年生に大晦日に呼び出されてここまで来てしまったが、本来ならば積んである本を少しでも消化したいところである。
待ち合わせの場所に着いた彼は、背負っていたリュックから文庫本を取り出そうとして、同じようにデッキの上に立ち竦んでいる女子高生に気がついた。
――どこかで見たことのある子だな。
博はいつもぼんやりしているように見えるが、その実、記憶力に優れている。すべてを覚えている訳ではないが、興味を引かれたものについてはなかなか忘れない。
その時も、少しだけ頭を捻ると記憶が奥から転がり出てきた。
――ああ、竹駒神社の時の一女の生徒か。
それはただの偶然だった。
竹駒神社の奉納弓道大会に参加していた博は、自分の順番が終わったところで彼にしては珍しく、日の当たるところで本を読みたいと考えた。
場所はどこでもよかったのだが、弓道着のままで竹駒神社の境内をうろうろするのも気が引けたので、観客席に座ったに過ぎない。そして、本を開く前に美代子の射を見た。
一本目の離れを見た途端、
「あ」
と、彼にしては珍しいことに口から声が出る。それとともに前に座っていた男性が振り向いた。
「やあ、どこかで聞いたような声だと思ったら、芝谷君じゃないか」
「あ、北条先輩。こんちわ」
北条は頻繁に宮城一高に顔を出して後進の指導にあたっていたので、二人は顔見知りである。それどころか北条は博に目をかけていた。
「お前が声をあげるなんて珍しいな」
「ええ、まあ」
そこで博は、北条の隣で自分を見つめている綺麗な女性に気がつく。
「北条君の後輩?」
と、その女性が外見に似合った優しそうな声で言ったので、何故か博は動揺した。
「そうです。一高の弓道部員で、しかもかなり素質がありそうなやつです」
「ふうん。北条君がそこまで言うのは珍しいわね。阿部さんの時と同じだわ」
女性に微笑みかけられて博は内心慌てた。ただ、そういう時ほど彼は無表情になるので、落ち着いているように見えてしまう。
「そろそろ二本目ですよ」
と北条が声をかけたので、女性は前に向き直った。博はなんだか残念な気がしたが、二人が見つめる先に目を向ける。そして、そこにはさっきの女子高生がいた。
――さっきの離れはなかなかだったな。
博は視覚から入るタイプで、インターネット上にある弓道動画から好みの射を見つけては、それをコレクションしていた。
一方、一般の大会になると期待外れの選手が多いので、なるべく見ないようにしていた。だからこそ、この時観客席にいたのはかなり確率の低い出来事だったと言える。
美代子の二射目を見た彼は、またしても、
「あ」
と声を出してしまった。さきほどの射よりもさらに離れが鋭くなったような気がしたのだ。
暫く呆然として我に帰ると、北条が振り返って笑っていた。
「お前、本当に趣味がいいよな」
そう言うと北条は前に向き直る。恥かしくなった博は、美代子の三本目の時、意地でも声を出すまいと歯を噛みしめた。ただ、その時は声の代わりに思わず鼻から息が出た。
――なんだ、あいつ?
さらに離れの切れが良くなっている。一高の弓道選手で彼女と同じぐらいの離れの切れを出せるのは、主将の川上ぐらいだろう。
とうとう目が離せなくなって、博は美代子の射を本格的に見つめた。そして四本目の離れを見た途端――
「あ」
と、本当に素直に驚きの声が漏れてしまった。それほどに技の切れが凄い。あれほどのものは彼のコレクションの中にもそうそうなかった。
そこでやっと、スマートフォンで動画を撮っておけばよかったと考えるが、既に遅い。そこで彼は、彼にしては珍しい行動に出た。
「あの、北条先輩」
「おう、どうした」
「今の女子高生のことを知っているんですか」
「ああ、知っているが――お前が興味を持つとは珍しいこともあるもんだな」
「からかわないで下さいよ」
博が迷惑そうな声をあげると、北条は、
「悪い悪い。彼女は一女の弓道部員で、名前は阿部さんだよ」
と、教えてくれた。
その後、個人戦の予選通過がなくなったところで、博は着替えて再び観客席に行こうとした。
ところが、彼の動きを見ていた同じ弓道部一年の三杉が「俺も一緒に行く」と言い出してついてくる。
北条を見つけて美代子に関する詳しい話を聞こうと考えていた芝谷は内心迷惑だったが、それをストレートに言う訳にもいかなかった。
しかも、実際に観客席に向かってみると事態は混迷の度を深めている。肝心の北条が肝心の美代子の隣に、すっかり腰を下ろしていたのである。さらには一緒に来た三杉が、
「おい、あの北条先輩の隣の隣にいる子、すげえ可愛くね?」
と言い出して、じろじろと見つめ出した。それが美代子の気づくところとなり、博と三杉は彼女の険しい視線を浴びることになる。
「いや、僕は違うんだ」
と内心言い訳するものの、興味を持ったこと自体は同じであるから同じ穴のムジナである。結局、その時はどうすることもできずに帰ることになった。
しかしながら、なまじ記憶力に秀でているために、彼の脳裏から美代子の鮮烈な映像がなかなか消えない。しばらくの間は一日何度も再生されて困ったが、一週間ぐらいで収まる。
そのため、美代子を見てもすぐには気がつかないほどに記憶は後退していたが、気が付いたら気が付いたで、若手芸人のように前に出てくる。
どうやら他の人が来るのを待っているようなので、博は少し離れたところで様子を伺うことにした。
それにしても、自分が他人のことをこれほど気にすることになるとは思ってもみなかった。しかも同年代の女子高生である。色恋沙汰ではないが、落ち着かないことこの上ない。
しばらくすると向こうは待ち人が集まり始めた。異様なほど着膨れした女の子と、驚くほど薄着の女の子。やたらにハイテンションな女の子。つまりは同級生でお出かけということだ。彼女達が立ち去った直後にこちらの待ち人もやってきたので、博は彼らとともに大崎八幡宮行きのバスに乗った。
昨年まで中学生だった博達にとって親を同伴しないお出かけというのは冒険のようなものである。初詣というのは口実で、その実、自分たちの世界を広げることに躍起になっているに過ぎない。バスを降りて表参道を歩くと、そのことがよく分かる。同級生達は参道を埋め尽くした屋台にいちいち引っかかっては、思い思いに冷やかしてゆく。
博はその集団から離れて、一人で社殿に向かった。群れるのは性に合わない。
人ごみは苦手なので、そこから離れて端のほうで参拝する。個人的に祈ることは何もないので、世界平和を頼んでみようかと考えたが、寸前で思いとどまる。
――そういえば。
たったひとつだけ願いがあった。阿部と話がしてみたかったのだ。あのような見事な離れをする射手は見たことがなかったので、彼女が何を考えて弓道をやっているのが興味があったのだ。
――彼女と話がしたい。
それを神前で願う。終わって振り向いてみると――
本人がいた。
随分と神様も性急なやり方をするものだ、と博は苦笑する。どうやらおみくじを引くらしいので、彼もその後ろを追った。それにしても占いに対する女の子のテンションは尋常ではない。今後の人生がかかっているかのような騒ぎ振りである。そのうち美代子の番になって、ひときわ大きな音をたてながら彼女はくじを引いた。番号に従っておみくじを取り出して、それを手元に広げて見る。
とたんに彼女の顔色が変わったので、博にはおみくじの内容がすぐに分かった。同行していた同級生が、
「美代ちゃん。こんな時まで最後を締めようとしなくてもいいんだけど」
と言って慰めていたが、彼女の困惑は収まらない。
――はてさて。
と博が考えていた時、彼女と目があった。
*
目の前に立っていた男の子がぼんやりとした顔で言った。
「おみくじの凶というのは、今後の運命を示しているわけではなくて、注意すれば回避できることを教えているんですよ。だから、別に怖がらなくても大丈夫なんです。神社の木に結び付ける手もありますが、正しくは財布に入れて、たまにそれを見て行動を改めるという使い方が正しいんです。その結果、大吉と同じくらいの幸運が訪れる可能性もあります」
「はあ」
私は突然そんなことをすらすらと言い出した男の子を、あっけにとられて見つめた。
「あの、有難うございます。そうなんですか。別に怖がる必要はないんですか」
「はい。むしろ神様が注意すればいいことがあるよと教えてくれたのですから、喜ぶべきです。今日、ここでそれを教えてもらえなかったら危ないところでした」
「はあ」
「すみません。見ず知らずの僕が勝手なことを言ってしまいました」
「いえ、とても助かりました。おかげで気持ちを切り替えることが出来ました。このおみくじは大切にお財布の中に入れておこうと思います」
私は素直に頭を下げる。とたんに男の子は顔を赤くすると、
「いえ、お礼を言われるほどのことでは」
と狼狽した。
後ろから、
「なんだか変わった人だね」
という理穂ちゃんの声が聞こえてくる。そして、
「おや、元旦から珍しい組み合わせの人に会った。今年も運がよさそうだ」
という声が聞こえてきた。
北条さんだった。
「北条先輩、お久しぶりです」
「やあ、芝谷君。あけましておめでとう。それから阿部さん、今年も宜しくお願いします」
「あ、こちらこそ旧年中はお世話になりました」
私は頭を下げつつ、今知った情報をすばやく整理する。
目の前の男の子は北条さんを「先輩」と呼んだ。そして、見た目から自分とそう変わらない年代だと推測する。ということは北条さんと同じ宮城一高の生徒――しかも弓道部員だろう。
芝谷と呼ばれた男の子は、相変わらずぼんやりとした顔で北条さんと話を始めた。
「なんだかやつれていませんか」
「ああ、そう見えるかな。はは、そうだよね。なにしろ昨日は夜中まで射会をやっていたものだから」
「射会、ですか」
「そう、百八射会。除夜の鐘を聞きながら百八本目を引き終わるやつ」
北条さんは眩しそうに目を細める。
「いやもうくたくただよ。それなのに初詣までやっちゃった。神様のご利益があるといいんだけどねえ」
そう言って、彼は楽しそうに笑う。
その顔を見ながら、私は、
――そういうやり方もあるんだ!
と、ただただ驚いていた。
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