第六話 「ごめん、それは無理」

「仙台市が、三大不美人都市の一つと言われているの、知ってる?」

 弓道場の控室で、西條先輩以外の部員が着替えている時、理恵ちゃんが長袖のシャツを着ながら急にそんなことを言い出した。

 面白いネタを仕入れてきては、それを部員の前で披露するのが、理穂ちゃんの癖である。

 ただ、西條先輩はああ見えて知識の幅が相当広いから、今日は一年生だけになったところを狙って、仕掛けてきたのだろう。

 しかも、あまりにも衝撃的な内容だったので、全員の耳が急激に大きくなった。

「残りの二つは水戸市と名古屋市ね。いずれも太平洋側に位置している、山に大量の雪を落として乾燥した空気が、そのまま吹き付ける土地柄なんだよね」

「じゃあ、ただの見当違いだよ」

 加奈ちゃんが即座に切り捨てる。

「乾燥した空気はお肌に悪いから、そのせいで肌が荒れてブスに見えただけじゃないの?」

「私も気候のせいで不名誉な言い方が広まってしまったのではないかと思うけど、他にも諸説あってよく分からないんだよね。ただ、仙台に関して言えば、犯人は明らかに坂口安吾だよ」

 理穂ちゃんがそう断言したので、

「えっ、なんでそこに彼の名前が出てくるの?」

 と、私は思わず声を上げた。

 坂口安吾は戦前から戦後にかけて活躍した作家で、『堕落論』『白痴』『不連続殺人事件』などの著書で有名である。

「坂口安吾が随筆『美人の消えた街』の中で、『仙台には美人がいない』と書いたもんだから、特に有名になってしまったんだよね」

 驚愕の新事実。

 もしこれが現代の出来事だったら、即座に彼の著作は宮城県内の書店から姿を消していたに違いない。 

「しかも、坂口安吾は続けてこう書いた」

 踝までカバーするスパッツを履いた後、理穂ちゃんは前に両手を垂らしながら言った。

「『それは高尾の祟りであろう』」

「何それ? 東京の高尾山がどうして仙台に祟るのよ?」

 最近なんだか機嫌のよい早苗ちゃんが応じた。

「いや、そっちの高尾じゃなくて、この高尾は『仙台高尾』を指しているんだよ」

 理穂ちゃんは、苦笑いしながら答えた。

「江戸時代、吉原遊郭の三浦屋には花魁の筆頭を指す『高尾太夫』の名が引き継がれていて、その中でも特に二代目高尾太夫は『仙台高尾』という別名で呼ばれているんだ」

「じゃあ、質問を変えるけど、どうして吉原の花魁が仙台に祟るのよ」

「それはね、仙台藩三代目藩主の伊達綱宗が、嫉妬に狂って仙台高尾を殺した、と言われているからなのよ」

「つまり坂口君は、その仙台高尾の呪いによって仙台には美人が生まれなくなった、と言いたいのかな?」

 早苗ちゃんが、大作家をクラスメイトのように扱う。

「そういうこと。でもね、綱宗が遊興三昧であったことは事実らしいんだけど、仙台高尾との因縁話は俗説と言われているんだ」

「じゃあ、坂口君は噂に騙されて妄言吐いただけじゃない。凄い迷惑」

「それにしてもー、遊女を殺したと噂さされる藩主ってー、どうなんだろうねー」

 かおりちゃんが話を変えると、理穂ちゃんはそれ用の話も準備していたらしく、にやりと笑って言った。

「綱宗の所業に業を煮やした一関藩主の伊達宗勝――この人は綱宗の叔父さんにあたるんだけど、親族と連名で幕府に綱宗の隠居と嫡子の家督相続を願い出たんだ」

「えっ、そんなこと可能なの?」

 私が驚くと、理穂ちゃんはジャスの上のジッパーをきっちりと首元まで閉めて、言った。

「まあ、本格的に幕府に睨まれると御家断絶になるから、最後の手段に近いよね。結果として綱宗は二十一歳で隠居させられて、当時まだ二歳だった伊達綱村が四代目藩主になった」

「二歳だとー、まだ赤ちゃんだからー、なんにもできないよねー」

 かおりちゃんがもっともなことを言う。

「当然できないよね。それで後見人がつくんだけど、彼が権力を握ったために起こったのが世に有名な『伊達騒動』なんだ」

「えっと、何となく聞いたことはあるけど、『伊達騒動』ってどんな話だっけ? 乳母が若君の命を助けるために、自分の息子に毒見させる話だっけ?」

 加奈ちゃんが頭を捻る。

 理穂ちゃんは、靴下を二枚重ねにしながら言った。

「それは、歌舞伎の『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』に出てくる政岡の話で、史実じゃないよ」

「私は、山本周五郎の『樅ノ木は残った』のほうで知ってるよ」

「さすがは美代ちゃん。小説ネタになると最強だね」

「いやいや、それほどでも」

 照れる私。理穂ちゃんは靴下の上に足袋を履きながら、さらに話を続ける。

「まあ、『樅ノ木は残った』の解釈は、それまでの一般的な説とはかなり違うものなんだけどね」

「あ、違うの?」

「そう。幼い綱村が藩主になると、一関藩主の伊達宗勝が後見人となって権力を握ることになった」

「あ、前のお殿様を隠居させた張本人」

 加奈ちゃんがツッコむ。

「そう、その宗勝ね。しかも、御家存続のために放蕩三昧の殿様を強制的に隠居させた宗勝が、自分が権力を握った途端に、それを乱用し始めた」

「駄目じゃん。ダブルスタンダードもいいところだね」

 早苗ちゃんが鋭い言葉で駄目出しをする。

「それに、いわゆる御家老様の地位にあった原田宗輔が加担し、反抗的な藩士を御家断絶に追い込んだ。美代ちゃん、『樅ノ木は残った』では原田甲斐という名前になっているよね」

「そうだよ。しかも御家の先行きを憂える善意の主人公だけど、理恵ちゃんの口調だと逆みたいだね」

「どっちが本当の姿かは分からないけどね。宗勝の圧政に耐えかねた藩士は、その親族の伊達宗重を先頭にして幕府に訴え出る。それで、宗重と原田、そしてもう一人の家老が江戸に呼び出された」

「ああー、幕府が裁判するんだー」

「老中や大目付が集まって審問をする日、控室にいた原田が急に宗重を斬殺するんだよね。さらに、幕府の重心が控える部屋に突入しようとした原田を、一緒にいた家老が切っちゃった。その家老も死亡したため、渦中の人物が誰もいなくなっちゃう」

「あれ、張本人の宗勝君はどこいったの?」

「もちろんただでは済まないよね。所領だった一関藩は改易になり、宗勝は土佐藩預りとなって、そこで亡くなっている」

「綱村ちゃんはー」

「この後、綱村は自ら藩の立て直しを図り、仙台藩中興の名君と讃えられることになる」

「そうなんだー、理恵ちゃんはー、よく細かいところまで知ってるねー、凄いねー」

「いやいや、それほどでも」

「でもー、なんだか理穂ちゃんー、話をしているうちに身体中、もこもこになってないかなー?」

 かおりちゃんが最後の最後に、美味しいところをすべて浚っていった。


 *


 宮城県仙台市は北国にも拘らず、普通の年であれば殆ど雪は降らないし、積もることもない。

 ところが十年に一度ぐらいの頻度で、急に思い出したように豪雪になることがあるから、注意が必要だ。準備を怠っていて北国全開モードに巻き込まれると、それこそ命にかかわる。

 そこで、年末が近づくにつれて弓道場では寒さ対策が本格化した。

 前にも説明した通り、弓道着というのは出し入れが結構面倒なので、通常練習ではジャスと胸当てが基本スタイルである。

 従って、寒さ対策は「ジャスの下に何を何枚着込むか」の問題となり、「さらにカイロまで投入すべきか否か」の問題となる。

 弓道部の中で一番寒がりだったのは、意外なことに理穂ちゃんで、

「農家の人は冬に薄着なんか絶対にしないから。下手すると農作業中に死ぬから」

 と、彼女は真顔で主張しており、寒さ対策に余念がなかった。

 理穂ちゃんの次に寒さに弱いのはかおりちゃんだ。

 流石に呉服屋のお嬢様なので、理穂ちゃんのような大胆な着膨れ対応はしていなかったが、その代わりにお金がかかっている。

 職人さんが作ったオリジナルの綿入れ半纏は、縫製はもちろんのこと、素材の選定からかなり念入りに防寒対策が施されているようで、原価がどうなっているのか恐ろしくて聞けなかった。

 また、彼女は備品係兼お茶入れ係として電気コンロの管理を任されていた。それで彼女は非常に助かっているらしい。

 寒さが日増しに強くなってくるにつれて、綿入れ半纏を着たかおりちゃんが電気コンロの傍らにいるのが、道場の日常風景になっていた。

 西條先輩や早苗ちゃんは、あまり「寒い」と口に出して言わないのでどちらなのか分からない。それに、二人とも「寒い」という事実すらスルーしそうな精神構造をしている。

 私と加奈ちゃんは、寒さに強い。加奈ちゃんは、

「暑苦しい兄貴や寒いギャグを連発する父と年中一緒に生活しているので、暑さ寒さには慣れた」

 と笑いながら言っていたけれど、恐らくは子供の頃から兄と一緒に外で遊んでいたからだろう。

 私は、子供の頃から店の手伝いをしていたからである。

 うちの両親は昔堅気の本屋なので、店舗に火の気は一切ない。エアコンは最近になって導入されたものの、それで店全体を暖めるのは難しいので、私は冬になると肌寒い店の中にいることが多かった。

 それもあって、その日は早朝に思い立って弓道場に足を運んだわけなのだけれど、そこで私は思いがけないものを見ることになった。


 *


 十二月初旬の、時刻は六時半のほんの少し前。

 私は白い息を大量に吐きながら、学校へと向かっていた。授業のためではない。朝早くに弓の練習をしようと思ったからだ。

 最近になってやっと、私のゆがけからキチキチという音が安定して発せられるようになってきた。的中は相変わらずだったものの、離れの勢いが前とはずいぶんと違ってきたように自分でも感じる。

 そこで、少しでも他の一年生に追いつきたい一心で、早めに自宅を出て授業が始まる前に弓の練習をしてみようと思い立ったのだ。

 その日は風が強く、マフラーが少しでも緩むと項(うなじ)から凶暴な冷気が入り込んできた。寒い季節の寒い時間である。いくら寒さに強いといっても限度がある。

 好き好んで寒風に身をさらしたいとは思わないので、私は大き目のマフラーを首の周りにぐるぐる巻きにしていた。

 マフラーで口元は隠れている。さらにその上からコートを羽織ると、上体がさらに大きく見えるので、男らしさが際立つ。

 家を出る時に母親から、

「スカートだから間違われる心配はないけど、腰から上を後ろから見たら男にしか見えないね」

 と、ストレートに言われて憤慨したが、電車の中で窓に映る自分の姿を見た時、自分でも、

「あ、なるほど」

 と思ってしまった。そんなことを思い出しながら、私は校門をくぐると右に曲がった。

 弓道場は前方、校舎の裏手にある。その古めかしい木造建屋を目にして、私の足は一瞬止まった。

 十二月の六時半はまだ薄暗い。そのため、弓道場の窓から漏れる明かりが目に入ったのだ。

 ――こんな時間に来ている人がいるなんて。

 自分のことは棚に上げて、私はそう考えた。

 ――佳奈ちゃんかな。

 彼女は私と同じく寒さに強いし、真面目だから早朝練習もあり得る。私は再び足を進めて、弓道場に近づいた。


 弓道場にいたのは想定外の二人だった。


 一人目は三笠先生である。ただ、初めて見る弓道着姿だった。

「あら、まさかこんな時間に部員がくるとは思いませんでした」

 そう言って複雑な笑みを浮かべる先生に、私は思わず、

「すいませんでした!」

 と頭を下げてしまった。

「謝るほどのことでもありません。それに、口の堅い阿部さんでよかったと思います」

 三笠先生はいつもの笑顔に戻ると、神棚のほうを向いた。

「他の一年生部員だと、彼の存在が公になってしまいますからね」


 ――彼?


 私もつられて神棚のほうを見る。

 するとそこには確かに男性が、穏やかに笑いながら座っていた。

「女子高ですからね。学校関係者ではない男性が、無許可で入ってよいところではありません」

 その男性は、表情と同じ穏やかな声でそう言う。無断侵入という自覚があるにもかかわらず、全然こそこそしていなかった。

 見事な白髪頭に、少しだけふくよかな体型。眼鏡の奥にある瞳は細められていた。三笠先生と比較すると、随分年上に見える。父と娘と言っても通りそうな貫録だ。

 これで白い髭があったら、和風サンタクロースか和風カーネル・サンダースのような人物である。

「お邪魔しております。私は笠井と申しまして、三笠さんとは大学時代の同級生です」

 笠井と名乗った男は、丁寧に頭を下げた。私も慌てて頭を下げる。


 と、そこで彼の発言に思い切り引っかかった。


「は、あの、今、同級生と仰いませんでしたか?」

「はい、そのように言いました。年齢も一緒です」

 笠井さんは平然としている。

「笠井くん、悪い癖だよ。そうやって最初からいきなりインパクトのある話をして、人を自分の土俵に載せようとするのは。計算していたでしょう?」

 三笠先生がいつもよりも砕けた口調でそう言ったので、二人が親しい関係であることを私は理解する。

「ああ、失礼。つい、いつもの癖で。それで今日は三笠さんに呼ばれて、弓を射るところを見に来ました」

 笠井がそう言ったので、私は彼が三笠先生と同じ奥羽大学弓道部の関係者だと考えた。

 いや、ちょっと待て。


 ――三笠先生が弓を射る、だと?


 先生の姿を見れば当たり前のことであるものの、私はその言葉に驚いた。

 前に先生が弓を射る姿は見ていた。しかし、あの時は借り物の弓に素手での行射だ。自分の道具で本格的に弓を射る姿は見たことがない。

「言っている先からまたやる。阿部さんが目を白黒させていますよ」

 三笠先生は苦笑すると、私のほうを向いて言った。

「ここで道場から出すわけにもいきませんから、阿部さんも前で笠井君と一緒に見ていてくださいね」

 そして先生は、弓立から一本の竹弓を手に取った。

 その弓を見て、私は呆然とする。

 ――なんて綺麗な弓だろう……

 弓の形を見て驚いたのは初めてである。

 弓道を始める前は全く関心がなかったし、入部したての頃はどれも同じように見えた。竹駒神社の大会でも、周囲にある大量の弓にそんな感想を抱いたことはなかった。

 先生が教えてくれる竹弓の扱いで、次第に目が肥えてきたのだろうか。そこで、竹駒神社で会った仙台第二女子の早池峰さんの顔が頭に浮かんだ。彼女ならば目を輝かせるに違いない。

 その弓を使って先生が何度か肩入れを繰り返している姿を横目で見ながら、私は笠井さんの隣まで進んだ。

 笠井さんはパイプ椅子に座っていたが、私と同じぐらいの背丈ではないかと思われた。

 それにしては大柄な印象を受ける。そして、大柄な男性に見られる威圧感とは無縁な、安穏とした雰囲気を周囲に振りまいていた。さながら童話に出てくる優しい白熊である。

「お邪魔します」

「お邪魔しています」

 なんだか分からない会話をしつつ、私は笠井さんの左隣にあるパイプ椅子に座った。

 座面が冷たくないことから、ちょっと前までここに三笠先生が座っていたことを知る。そのことで私は少しだけどきりとした。

「あのう――」

 私はおずおずと笠井さんに接触を試みる。

「はい。何でしょうか」

 笠井さんは最初から無防備な、全開受入モードである。

 聞けば何でも答えてくれそうな雰囲気だからこそ、逆に優柔不断な私の口からは言葉は出なくなってしまう。加奈ちゃんや早苗ちゃんならばこんな時、もっけの幸いとばかりに突撃するだろう。

「あ、いえ。なんでもありません」

 私はおずおずと引き下がる。笠井さんは終始にこにこ笑っていた。


 三笠先生は肩入れを終えると、竹弓を弓立に戻して、その前に正座した。弓立の下に置いてあった布包みを手に取る。そして、その中から三本指のゆがけを取り出した。

 離れたところからでも、かなり使い込んでいることが分かるゆがけだった。

 元々は濃い目の茶色だったのだろう。甲の部分にその痕跡が残っていたものの、他の部分は黒ずんでおり、ゆがけの親指部分である堅帽子のところが白い。

 三笠先生はそれを丁寧に右手に嵌めると、静かに立ち上がって、矢立のところに歩み寄った。矢立には竹矢が二本だけ入れられている。先生はそれを取り出すと、矢の先端にあるやじりの部分を右手で握った。

 私達は先端ではなくやじりが見えるようにして矢の本体部分を握るから、私は少しだけ奇異に感じる。しかし、それを声に出すことはなかった。先日の先生の射と同じく、あれは流派固有の持ち方なのだろう。

 先生は左手で弓を弓立から取り上げると、入場ラインを無視して三的の本座の位置までいきなり進み、そこに座った。それも体配にうるさい先生らしくない。

「それでは始めます」

 三笠先生は厳かな声でそう宣言すると、的に向かって一礼した。背筋の伸びた美しい礼だった。


 本座で滑らかに立ち上がる。

 そして、射位に向かって先日のように弓を的に向けて伸ばしながら進んだ。

 射位で腰を落とす。

 再び的の方に向かって弓を垂直に立てると、弓の弦を返す。

 弓を身体の正面に戻し、座った姿勢で矢を弦に嵌めると、二本目を逆に向けて左手の小指に差し込んだ。

 一本目の筈と二本目のやじりを右手で押さえ、立ち上がると左足、右足の順に開く。

 そして弓の本はずを左ひざ上にあてると、二本目の矢を右手の薬指と小指で握り込む。

 その右手をお腹のところへと持っていった。


 すべての動作は滑らかに行われ、そして美しかった。私は息をつめて、それを見つめる。隣にいる笠井さんは、相変わらず春の海のように望洋としていた。


 三笠先生が『取り懸け』――右手の親指の根本に弦を引っかける。

 それから、左腕を右前方に伸ばして弓を握り直した。

 親指と小指の間に窮屈そうに中指と薬指を差し込む。

 それを終えると、的に目を向けて左斜め前に弓を打ち起こした。

 弓はするすると持ち上がってゆく。

 無造作な、どこにも力が入っていない動き。

 腕が四十五度の角度まで上がったところで、一瞬動きを止める。

 そして、やはり無造作に眉のところまで引き下ろすと、そこでも一旦動きを止めた。

 動きは止まっているが、力の伸びは止まっていないと感じる。

 矢は再び静かに下りてゆく。

 それとともに私の耳に音が聞こえてきた。

 ゆがけが発するキチキチという摩擦音。

 それは矢が唇の位置まで下がり、そこで上下運動を止めた後も、間延びし続けた。

 目には見えないけれど、左腕と右腕が絶妙な力のバランスを取っていることが分かる。


 三笠先生の会は懐が広く見えた。私達一年生はえてして身体が矢に近づく、ある意味「平板な射」をしていたが、先生の射は矢と肩の間に余裕があった。

 だからといって間が抜けている訳ではない。むしろ私達の普段の射が、いかに窮屈で余裕に欠けているかを知った。

 会は十秒近く続いた。その間、摩擦音は絶えることがない。次第に間延びしてゆく音。見ている私のほうが息苦しくなるほどの緊張感。


 そして、離れがやって来る。


 右拳は「キチ――」という音の伸びの最後で弦を開放する。

 会から残身まで、無駄な動きを省き最短距離を移動する両腕。

 右腕の肘はその反動で開くものの、鋭角の範囲に留まった。

 左腕は的に向かって伸びる。

 柔らかく握られた弓は、僅かに上はずを的方向に倒しながら左拳の周りを滑らかに回転し、収まるべきところに収まる。

 両腕の動きに従い、胸が割り込むように前に出る。


 射場での一連の動きが収まった時、矢が的を貫く音が響き渡った。私は思わず視線を的のほうに向けた。霞的の中白――的の中心部分に矢が刺さっているのが見える。

 そして、目の端で笠井さんが三笠先生のほうを見つめ続けているのを捉えた。笠井さんが的を見て、それから頭を戻した形跡はない。ということは、彼は的のほうをまったく見ていないことになる。

 私は少し恥ずかしくなって、大慌てで視線を先生に戻した。なんだか、はしたないことをしてしまった気分になる。三笠先生は既に腰を下ろそうとしていた。

 その姿を見つめていると、隣から声がかかる。

「阿部さん。貴方から見て三笠さんの射はどう見えるのですか?」

 無論、笠井さんだ。急な問いかけだったけれど、私もちょうど自分の頭を整理していたところだったので、感想を素直にそのまま答える。

「正直、何がどうなっているのか私には全然分かりませんでした。ただ、凄いことだけはよく分かります。あんな風に引いてみたいと思います。でも、見たからといって真似が出来るレベルではありません」

「ふうむ――そうでしたか。なるほど、なるほど」

 私は思わず笠井さんの顔を見る。

「あの、不躾な言い方で大変恐縮なのですが、笠井さんの今の『なるほど』の意味が私にはよく分かりません」

 今度は自然に言葉が出た。 

 笠井さんは組んでいた両腕を解くと、私のほうを向いて微笑んだ。

「今日、三笠さんが私に何を期待しているのかが分ったのです。お陰で時間の短縮になりました。どうも有り難う」

 そう言って、彼は急に深々と頭を下げた。

 年長者の丁寧な礼に私は滅法弱い。時折店にやってきて、文庫本をゆっくりと選んで購入してゆく古くからの馴染客が、会計の後にこんな風に頭を下げてくれるのだが、その度に私は少し慌てた。

「あの、お礼なんか――」

 両手を振って恐縮する私に、頭を上げた笠井さんはこう言った。

「ところで、そろそろ二本目が始まりそうなので話はまた後にしましょうか」

 実にマイペースな人である。


 さて、二本目の動作の詳細は省くけれど、私は一本目と全く同じに見える動きに幻惑されながら、さっきの射で見落とした点があることに気がついた。

 それは会の最中の、ごく些細な動きだった。

 唇のところまで引き下ろされた矢は、そこで動きを止めているように見える。しかし、よく見ると止まっている訳ではなく、あまりに変化が僅かすぎて気がつかなかっただけだった。

 左拳の上で、矢がじわりじわりと弓と弦の間に引き込まれてゆく。弓と鏃との間が詰まってゆく。

 ――いや、そうじゃない。

 正しくは、弓を持つ左腕が矢の側面を擦るようにして伸びているのだ。

 私は子供の頃から目が良かった。といっても通常視力や動体視力ではなく、視界の中に起こる僅かな動きを感じとる能力に優れていた。

 まだ小学生の頃、車の中で、

「父さん、なんだかいつもより車が揺れているよ。危ないよ」

 と言いながら泣き出したことがある。父と母は頭を捻っていたが、一応、近くにあった車用品店に入って検査を受けてみた。すると店員さんから、

「よくもまあこんな僅かな変化に気がつきましたね。タイヤの空気圧が下がっているからパンクの兆候だと思いますが、それでも普通は分かりませんよ」

 と、感心しているのか呆れているのか分からない言い方をされたという。

 さすがに自分でも詳細は覚えていないが、恐らく私は空気の抜けたタイヤから生じる僅かな揺らぎを感じ取ったのだろう。

 その時は両親から大いに驚かれ、事故を未然に防いだことに感謝されたはしたものの、日常生活に役立つ特殊な能力ではない。

 むしろ、球技のような激しい動きには不向きな能力である。相手が動きを見極める余裕を与えてはくれないからだ。

 それで、すっかりその視力のことを忘れていたのだけれど、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。


 三笠先生の弓は微細な速度で矢の側面を擦ってゆく。

 そして、次第にその速度は鈍化してゆく。

 それは確かに「葉の上で水滴が育ってゆく様子」を連想させた。

 見た目が似ているわけではない。

 結末に向かって力がゆっくりと溜まってゆくところが似ているのだ。

 ゆがけが発する間延びする摩擦音で、余計にその印象が高まる。


 そして、離。


 金属がぶつかりあった時に生じる火花のような一瞬。

 それまでの静は上辺だけのものであり、その奥底には動が溜まっている。

 それが一気に噴き出す瞬間だ。

 矢は的に向かって真っ直ぐに飛び、そして一本目の矢の隣、中白でぴたりと並ぶ。


 私はまた的を見てしまった。

 そして右眼の端に見える笠井さんは、相変らず三笠先生を見つめていた。

 

 *


 三笠先生が射を終えて、あづちに矢を取りに行っている間、笠井さんがまた私に訊ねた。

「阿部さん。貴方から見て三笠さんの射はどう見えましたか?」

 先程と同じ問いかけのように見えるが、微妙に違う。

 私はそれが一本目と二本目の見え方の違いのように思えたので、

「一本目はよく分かりませんでしたが、二本目でやっと、先生が会に入ってからも動きを止めていないことを知りました。僅かずつでしたが、弓は最後まで押され、弦は最後まで引かれていました」

 と、感じたことを正直に答えた。

 すると、笠井さんは驚いたような顔をする。

「もしかして阿部さん、かなり視力がよいほうですか?」

「いえいえ、そんなことはないです。ただ、細かい変化を見分けるのは、昔から得意でした」

「そうなんですか――ふうむ」

 そう言って、笠井さんは何かを考え始めた。そして、それは三笠先生が戻ってくるまで続いた。

 私は急に話しかけづらくなった笠井さんから、矢道を戻ってくる三笠先生に視線を移す。先生は冷たい空気の中を、背筋を伸ばして歩いていた。

 北側のガラス戸を開けて先生は道場に戻る。矢立に矢を入れると、笠井さんのほうに向きなおった。引き終わってから矢取りを終えるまでの間、先生は終始無言だった。

 笠井さんが身体を少しだけ前に傾ける。そして言った。


「三笠さん、何を迷っているのですか?」


 思わぬ問いかけに私は驚く。しかし、三笠先生はにっこりと笑うと、

「さすがは笠井君ね。問題は既に把握済みということかしら。ならば、解決方法も分かっているのね」

 と言った。二人の間では了解が出来上がっているらしい。私にはまったく意味が分からなかったが、今、二人のやりとりに入る訳にはいかないと我慢する。

 ところが、

「恐らくは。まあ、ここに阿部さんがいなければ分からなかったかもしれないけれどね。彼女から聞いたことで理解できました」

 と、笠井さんはのんびりとした声で私を話に引き込んでしまった。

 私は慌てた。先生が聞いていないところで勝手な話をしていた、と思われては困るではないか。

「えっ、あの、私は殆ど何も言っていないような気がするのですが――」

「大丈夫よ。阿部さん」

 三笠先生は眉を上げていた。

「笠井君は、普通の人とは違うから。何気ない言葉から、いつの間にか大切な情報を抜き出すのよ。まったく昔と変わらないわね――」

 そして、先生は目を細くすると、

「うちの部員に手を出さないでよね。貴方には前科があるんだから」

 と言い切る。私は思わずぎょっとして笠井さんから身体を離しかけたが、彼の表情を見て思いとどまる。

 笠井さんはとても懐かしそうな顔をしていた。

「ひどい言い方だなあ。それではまるで僕が女衒(ぜげん)みたいじゃないですか」

 女衒とはまた随分と古風な言い回しである。江戸時代に村々を巡って、遊女を買い付けた男のことだ。

「私は未だに根に持っていますからね。恩を返すつもりが、やりすぎてしまったと。運命の出会いまで演出する気はなかったんですから」

「いやあ、その節は実にお世話になりました」

「お世話なんかしていません。笠井君が勝手に命まで張って、女子高生を自分のものにしただけです」

 言葉と話の内容は実に激しかったが、二人のやりとりは何故かほのぼのとしていた。

 それに、ここまで自然な表情を見せる三笠先生を、私は今まで見たことがなかった。 

 呆気にとられていた私に気づいたらしく、三笠先生は視線を和らげて言った。

「ともかく、阿部さんが慌てていますから、ちゃんと説明してあげて下さい」

「私からでよいのですか」

「構いません。それに笠井君がどこまで理解しているのか、私も知りたいので」

「承知しました」

 笠井さんは身体を起すと、背中を伸ばし、私のほうを向いた。


「まず、阿部さんに確認したいことがあります。阿部さんは、三笠さんの射を殆ど見たことがありませんね」

「はい。今回で二度目と言いますか、前回は素手で引かれていたので、本格的な射は初めてです」

「その点については、先程の阿部さんのお話から推測することが出来ました。阿部さんは実に目が良い。にもかかわらず一本目の時は何も分からなかったと言ったので、普段は目にしていないことが分かります」

「はあ――確かに」

 私は言われてやっと、その理屈に気が付いた。

 笠井さんは話を続ける。

「こんな早朝に女子高の弓道場に呼び出されたことを、私は最初『男が出入りしていることを学校に知られたくないため』と理解していましたが、よく考えればこれはおかしい。なぜならば、公共の施設でやれば最初から問題はありませんし、それこそ奥羽大学の弓道場を使えば良いはずです。そこが疑問でしたが、教え子にすら自分の射を見せていないことを知った時、やっと理解できました。私以外の人間には見せたくなかったのですね。だからこそ、冬の早朝の、女子高にある弓道場を選んだ。ここならば間違いなく人が来ないと考えて」

「あ、すいません。知らずに来てしまいました」

 私はまた頭を下げた。三笠先生と笠井さんの目は笑っている。

「先を続けますね。私以外の人間には射を見せたくないと考えている割に、彼女の今日の射には曇りが全くなかった。そこから、練習を休まずに続けていることが分かります。すると、いろいろ矛盾が見えてくる」

 確かにそうだと私も思う。

 三笠先生は、誰にも射を見せたくないのに、練習は絶えず続けていることになる。

 どこで、いつ、なんのために練習しているのか。必要ならば学校の弓道場で出来ることなのに。

「そこで、僕から三笠さんに質問があるのです」

 笠井さんの口調が微妙に変わる。表情は相変らず穏やかだったが、声には先生の覚悟を確認する響きがあった。

「僕が仮に『皆さんの前で弓道をすべきだ』と言ったとして、三笠さんは何と答えるのですか?」

 三笠先生は、急に哀しそうな目でその問いに応えた。


「ごめん、それは無理。少なくとも今は無理」

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