第七話 「知らないうちに別々の道を歩んでいたみたい」
状況の変化に気がつく瞬間というのは、だいたいが天災のように突然にやってくる。
もちろん、天災とは違って細かい変化が連続して進行していたはずだし、それによって状況は僅かずつ姿を変えていたはずである。
そして当事者である私達は、そのことをずっと目の当たりにしていたはずなのだ。
しかし、その「状況の変化」が一定の値を超えるまで、誰もそのことに気がつかなかった。値が臨界点を超えた時、初めて自分達が新たな段階にいることを知ったのだ。
そのことに最初に気がついたのは、早苗ちゃんだった。
冬休みに突入する寸前の十二月中旬。授業が終わった途端に、私は教室を出て道場に駆けつけたのだけれど、既に早苗ちゃんが到着していた。
練習が始まる前の弓道場は冷え切っている。静止していると足の裏が痛くなるほどだ。その中で彼女は、身動きをせずに黒板を見つめていた。
「どうしたの?」
私は彼女の隣に寄って、同じように黒板を眺める。そこには昨日の練習の記録が消されずに残っていた。
名前が学年順のアイウエオ順に並んでいる。そして「立射、立射、立射、座射、座射」、合計十六本の的中記録が並んでいる。
浅沼 ×○○○ ×○○○ ×××× ×× ×○
阿部 ××○× ××○× ○×○× ×○ ××
桑山 ○××× ○○×○ ×○○× ○× ○×
篠島 ×××× ×××× ×○×○ ○× ×○
藤波 ×○×○ ○○×× ×××○ ×× ×○
西條 ○○×○ ○××○ ×○×○ ○× ○○
どう見ても私には、いつもの的中記録にしか見えなかったけれど、早苗ちゃんはそれをとても真剣な顔で見つめていた。
そして、彼女はそのままの姿で私に訊ねた。
「ねえ美代ちゃん。昔の記録帳は美代ちゃんが管理しているんだったよね」
「うん、そうだけど」
道場内にある書籍や記録の類は、すべて私の管理下にあった。
というより、「お店の子だからー、本の整理は得意だよねー」というかおりちゃんの一言で、備品係の範疇から書籍だけが私に押し付けられたのだ。
「ひとつ前のやつを見せてもらえないかな」
「いいよ。ちょっと待っててね」
記録帳というのは、黒板に書いてある的中記録と同じものを、延々とノートに書き連ねてあるものだ。
最近更新したばかりなので、黒板の隣に置いてあるものは二週間ほどの記録しか載っていない。つまりは、その前の記録が見たいのだろう。
――でも、昔の的中記録なんて今更見る意味があるのかな?
私は半信半疑ながらも、控室の棚に年代順に並べてある記録帳からひとつ前のものを採り出し、早苗ちゃんに渡した。
早苗ちゃんはノートの一番後ろ、つまり「一番現在に近い方」から過去に遡るようにして、記録を確認してゆく。そして、ノートの途中までめくり終えると、
「はあっ――」
と溜息をついて、両腕を下に落としてしまった。ノートのページがその先で所在なさそうに揺れている。
そのまましばし放心していた早苗ちゃんは、やがてぽつりと言った。
「――思った通りだ」
「どうしたの、早苗ちゃん? なんだか早苗ちゃんらしくない様子だけど?」
彼女が無防備な姿になっているのは珍しい。というより初めて見た。
「あ、ああ、そうだよね。なんだかぼおっとしてた」
そう言って、早苗ちゃんは恥ずかしそうに微笑む。
「ねえ、さっき『思った通り』って言っていたけど、この黒板の記録から何かが分かったの?」
「そうね。この黒板だけじゃヒントにしかならないんだけど、昔の記録を加えてみると凄いことが分かった」
「えっ、何それ!? 何が分かったの?」
私の目の前にある早苗ちゃんの瞳は、いつもの陰謀論者めいた閃きではなく、純粋な研究者のような輝きを湛えている。
そして、彼女はとても素直にこう言った。
「私達、知らないうちに別々の道を歩んでいたみたい」
*
その日の練習が始まって以降、早苗ちゃんはずっと無口だった。普段も口数は少ないほうだけれど、それがさらに極端になった。
私はもちろんその理由を知っている。まるで「離婚寸前の夫婦が口走りそうな台詞」の後で、他の部員が来る前に、私は早苗ちゃんから話を聞いていたからだ。
「美代ちゃん、何だか早苗ちゃん気合入ってない?」
細かい変化に敏い佳奈ちゃんが、小さい声で訊ねてきたので、
「えっ、そうかなあ。いつもの早苗ちゃんだよ」
と、私は盛大にしらばっくれる。加奈ちゃんにはとても通じない下手な演技のはずなのだが、それでも彼女は、
「ふうん。美代ちゃんがそう言うならいいや」
と、すんなり引いてくれた。加奈ちゃんは、私が隠し事を苦手としていることをよく知っていたので、「いつか話してくれるだろう」と思っての配慮だろう。いつも有り難くて涙が出そうになる。
それに、今日の練習が終了するまでに結論は出るだろう。そうしたら、みんなに話ができるはずだ。
最初の的前練習で、私は三人立の一番後ろになった。前にいるのは理穂ちゃんと西條先輩である。理穂ちゃんが打起しを始めるのを後ろから見つめながら、私は早苗ちゃんの言葉を思い出していた。
「私が気がついたのは、理穂ちゃんの昨日の記録を見ていた時なんだ」
そう言いながら、早苗ちゃんは黒板を指差す。私は彼女の指の先にある理穂ちゃんの的中を見る。しかし、
「そう言われても、私には全然ピンとこないよ」
と言わざるをえなかった。
早苗ちゃんは軽く笑う。それは決して嫌味な感じではなく、どちらかといえば照れているような感じだった。いつもの彼女らしくない振る舞いだけど、本来の彼女らしい振る舞いだ。
「じゃあ、説明するね。理穂ちゃんの的中記録をよく見ると、最初の一本の的中率が高いのが分かるかな?」
「あ、本当だ」
言われてみてやっと気がついた。確かに理穂ちゃんは最初の一本を一回しか外していない。
「最初は私も偶然かなって思ったんだけど、そういえば同じ立で練習している時、理穂ちゃんは一本目を外していないような気がしたんだ。それで美代ちゃんの手を煩わせたんだけど」
そう言いながら、早苗ちゃんは記録簿を私に差し出す。
「美代ちゃんも見てごらん。理穂ちゃんの一ヶ月の一本目的中率が凄いことになっているんだ」
私は大急ぎで理穂ちゃんの記録を遡る。確かに彼女は一本目だけを高い確率で中てている。記録簿上の一ヶ月でいえば七割近くになる。他の時はざっと見た感じで五割以下だから、いかにも不自然だった。
「これ、理穂ちゃん本人は気がついているのかな」
「多分、まだだと思う。彼女のことだから、気がついていたらみんなに教えてくれるはずだよね」
早苗ちゃんの推測に私も頷いた。彼女がこんなに面白いネタを放置するはずがない。
理穂ちゃんは一本目の会に入ろうとしている。
身体の中心線が僅かに右腕方向に傾く、いわゆる『退き胴』という癖がなかなか治らないため、本人は日頃から悪戦苦闘していたが、他のところはかなり良くなっている。
なによりも会が長い。西條先輩ほど極端ではないものの、十秒ぐらいは保っている。その上で、離れる。
ゆがけの人差し指と中指をピースサインのように大きく開く癖があり、それも本人が気にしているところだが、離れ自体は鋭い。
そして、一本目は的の左下ぎりぎりに中った。
理穂ちゃんが離れたと同時に、西條先輩が打ち起こす。私はその後ろで弓構えをしていたが、まだ取り懸けには入っていなかった。
なにしろ西條先輩は会が長い。タイミングを間違えると一緒に会に入ることになる。加奈ちゃんが頭で数えた時には二十秒を超えていた。
その姿を後ろで眺めながら、私はやはり早苗ちゃんの言葉を頭の中で再生していた。
「西條先輩は的中が安定しているので分かり辛いんだけど、ちょうど理穂ちゃんとは逆の方向に向かっている」
早苗ちゃんは黒板の該当する部分を指差した。
「先輩は最後の一本を殆ど外さない。さすがは二年生、理穂ちゃんよりもそれは徹底していて、記録簿上の的中率は九割近いと思う」
話を聞きながら記録を目で追っていた私は、その言葉通りのものが目の前に展開していくことに驚く。
「本当だ。西條先輩は最後の一本を殆ど外していない」
「ね。しかも、次第に全体の的中率も上がっているのが分かる。西條先輩は既に中てる技術を身に着け始めているのかもしれないね」
「竹駒神社での入賞以降、西條先輩はなんだか好調だよね」
遠近競射の緊張感や、それに打ち勝って入賞したという事実が、先輩をさらに大きく成長させたに違いない。せっかく竹駒神社で技を身に着けたのに、それが全然生かせていない自分とは大違いである。
私がいつものように少しだけへこんでいると、早苗ちゃんはこう話を続けた。
「西條先輩と理穂ちゃんは、これからどんどん的中を伸ばしていきそうな気がする」
「えっ、それはどうしてなの? 最初か最後が中るだけじゃなくて?」
「美代ちゃん。恐らくなんだけど、最初の一本が確実に中るようになるということは、他の矢だって同じように中ることを意味するんじゃないかな」
西條先輩の会はまだ続いていた。
さすがにそろそろだろうと考えて、私は取り懸けを始める。頭を的に向けたところで、西條先輩はやっと離れた。
左手も右手も真っ直ぐに伸びる十文字のような離れ。一年生の頃からずっとそう教えられてきたために、それは先輩の癖になっている。ただ、以前は少しだけ両腕が下がる癖があったが、それがすっかり見られなくなった。
矢は十文字の横線の延長線上を真っ直ぐに飛び、的の真ん中より少し上のところに中った。
あまり人の射に気を取られていると自分の射が疎かになるので、打ち起こしを終えたところで私は気分を切り替える。
西條先輩は確かに神社で神様の御加護を得たに違いない。残念ながら私はそこまで幸運ではなかった。
ただそれだけのことだ。
*
美代子と同じく、立射で加奈とかおりの後ろに立つことになった早苗は、二人の射をじっくりと眺めていた。
加奈が会に入る。五秒ほど保った後で、彼女は離れた。弓が左の掌の中で回転しながら落ちる。矢は的の右前方に外れ、彼女の左掌の三分の二に矢擦り籐が残った。
初期の癖が災いして、加奈はなかなか左掌を緩ませて弓を回転させる癖が抜けない。逆に思い切り握り込んだら、矢があらぬ方向に飛んで行ってしまったため、最近ではそれを差し控えていた。
彼女の悩みは深いはずだったが、それをあまり表に現わさないから凄い。そして、心配でもある。
「加奈ちゃんは極端だよね。ここまで説明したら分ってきたと思うんだけど」
早苗がそう言った時、美代子は頭を大きく縦に振った。
「うん、さすがに分かった。加奈ちゃんは大器晩成型だよね!」
目を大きく見開きながらそう言い切る美代子に、早苗は少しだけ眩しさを感じた。
言いたいことは良く分かる。より適切には「スロー・スターター」だと早苗は思うのだが、美代子のポジティブな思考には物足りなかったらしい。
「まあ、そういうことだね。加奈ちゃんの的中は後半に固まっていることが多い。しかも、立ごとというよりは全体を通じて後半に偏っている」
「どうしてこうなるんだろう。理由がよく分らないなあ」
それは早苗も同じ思いだった。最初から最後まで同じように変わりのない的中だったら、むしろ分かりやすい。
頭を捻りつつ、早苗は加奈の射を見守り続けた。立ち順が変わって、加奈が後ろで引いていることもある。その時でも、音を聞き逃さないように注意していた。
それでやっと分ってきたことがある。加奈は練習が続けば続くほど、次第に弦音が澄んでいくらしかった。
最初のうちは「べよん」と濁った弦音が、次第に「びよん」から「びょん」へと変化してゆく。四立目の座射で、目の前で引く加奈を見た時、早苗はやっとその理由に気がついた。
――加奈ちゃん、途中で引き方を変えているんだ!
ごく僅かな試行錯誤だったが、彼女は一本引くたびに次の射で新たに試みる何かを見つけているらしい。それが次第に実を結んで、後半の的中を生み出しているらしいのだ。
それは器用な加奈にはとても似合いのやり方だったが、早苗は一抹の不安を感じる。ただ、それが具体的にどのような不安なのかは、早苗にも分からなかった。
分からないと言えば、かおりの的中もよく分からない。
彼女は立の後半に的中が偏っている。しかも、それはいずれの立でもそうだった。加奈と違って、かおりは立単位でスロー・スターターである。
しかもそれが持続しない。最初の立の二本目で的中したとする。そうするとかおりが三本目と四本目を中てる確率はかなり高い。
逆に、三本目まで外れが続くと四本目はほぼ外れる。三中か二中か、さもなければ残念。この偏りの理由がよく分らない。
加奈と同じように後ろからじっくり観察していても、早苗にはかおりの変化が分からなかった。彼女は常に変わりない。会の長さも、十秒に固定されているように思えるほど変わらない。
――かおりちゃんはかおりちゃんだからなあ。
唯一無二の「かおりちゃん」という存在であって、周囲から観察しても何も分からないのかもしれないと、早苗がぼんやりと考えていた時、
「ばしっ」
という破裂音がした。見ればかおりの矢が的枠を叩いている。
それで早苗ははっとした。
――そういえば、かおりちゃんは的枠を叩くことが多い!
記録帳に記載されないから気がつかなかった。しかし、記憶を辿ってみると、かおりの的枠叩きは珍しくないように思う。
それを前提としてかおりの的中を見ていた早苗は、次第に驚きを隠せなくなっていった。
なぜなら、かおりの矢は最初の一本が刺さったところに、殆どバラつくことなく密集して刺さっていくのだ。
しかも、それはどの立でもそうだった。彼女の矢は、最初の一本が飛んで行った位置に、後を追うように集まってゆく。途中で中った時には、そこに向かって集中して飛んでゆくのだった。
ある意味、加奈とは真逆なやり方で、かおりは外れたとしても決して自分の射を変えることはなく、僅かに狙いを修正しているだけに違いない。
その頑固ともいえる姿勢に、早苗は呆れると同時に戦慄した。
――つまり、かおりちゃんが最初の一本を中てられるようになったら……
それこそ凄いことになる。
早苗がその衝撃からなかなか立ち直れずに、的前で矢を抜いていると、次の立が射場に入っていた。
美代子が大前にいる。最後の座射であったから、彼女はなんだか居心地が悪そうに背中を丸めていた。
四人の的中の解説を聞いた後もそうだった。
「みんな凄いなあ。それで早苗ちゃんはどうなの?」
美代子はそう言いながら早苗の記録を見つめる。
「残念ながら、私には何の法則性も見つからないようなの。早気だからかな」
「早気とは関係がないと思うけどなあ。確かに私にも分からないや。一緒だよね」
「そう、だね」
「私だけ的中が少ないし、なんだか置いて行かれた気分だなあ」
そう言いながら美代子はいつものように背中を丸める。
それを見つめる早苗は、言葉を出しそうになったが敢て我慢した。
なぜなら、美代子のその日の練習態度に影響を与えたくなかったからである。
「大丈夫だよ。道は遥か先まで続いているんだから」
「そうだよね。うん」
美代子は途端に背筋を伸ばす。この切り替えの早さが、早苗には羨ましくて仕方がない。自分と違い、美代子だったら疲れた母親を見た途端に駆け寄っていただろう。
矢道を歩きながら、早苗は美代子を見つめる。
――やはり、言ってあげたほうがよかったかな。
言っても、切り替えの早い美代子の場合は影響なかったかもしれない。それに、彼女がどうこうできる傾向ではなかった。
今日の黒板にもその傾向が現れている。
美代子は、他の誰もが外してしまった時に、それを食い止める役割を果たすことが多い。
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