Q.D.B. 第二章 新たな段階へ

阿井上夫

第一話 「どうしてそうなったのか全然分からない」

 西條先輩は個人戦予選を通過して、五位決定戦に出場することになった。

 六射皆中したのは第二女子大落だけなので、彼女の個人優勝は確定していた。

 六射五中の者は三名いたので、遠近競射で準優勝から四位まで振り分けられることになる。

 そして、五位は六射四中した十名から選ばれることになった。

 私とかおりちゃんは、とりあえず西條先輩の出番が終わるまで、竹駒神社弓道大会「高校生の部」を観戦することにした。

 以前の私たちであれば、自分達の出番が終わった途端に会場から退散していたはずである。高校総体県予選がそうだった。

 この「順位決定戦に出場できるようになった」事実が、三笠先生による指導の賜物なのか、私にはよく分からなかった。

 みんなが急に上手になった感じはしていなかったので、西條先輩には大変失礼ながら「今日はまぐれだろうな」と、その時の私は思っていた。


 控室に呼び出しがあり、西條先輩は射場裏の控に向かったので、私とかおりちゃんは他の高校の生徒に混じって、観客席から先輩が遠近競射に挑むところを見守ることにした。

 既に帰った高校もあるのだろう。観客席は比較的すいていたので、私たちは先輩がよく見えるように、射場に近く、矢道に近いところに座る。そこで、私ははたと気がついた。

 二人とも既に私服に着替えていたので、並んで座っていると私は完全に引き立て役である。

 しかも、こんな目立つところに座ってしまった。実際、先程からどこかの男子高校生がこっちのほうをちらちら眺めては、小さな声で話をしていた。

「先輩、どうだろうねー」

 自分が野生動物に狙われるという危機的状況に陥っていることを知ってか知らずか、私の右側に座ったかおりちゃんがのんびりした口調で言った。

 私は落ち着かない気分だった。というのも、

「それにしても、三人とも随分と上達したねえ」

 と言いながら、北条さんが私の左側に涼しい顔をして座っていたからである。こちらは、並んで座っていると私のほうが頭半分高い位置になる。それが何だか申し訳なくて、自然に背中が丸くなってしまった。

 高校生の部が終ると一般の部が始まるので、北条さんは既に弓道着姿だった。

「そうですかー、あまり自覚はないのですがー」

「そうなの? まあ、そうかもしれないね。ただ、もうすぐしたら分かると思うよ」

「そうなんですかー、なんだか楽しみですー」

「そうだよね。分かると何だか楽しいからね」

「はいー」

 そんな、今一つ意味の分からない曖昧な会話が、私の両側で繰り広げられる。にも拘らず、どうやらお互いに言いたいことがちゃんと伝わっていると思っているらしく、実に楽しそうだった。

 もしかしてこの二人、ものすごく気が合うのではなかろうか。

 私がいろいろな意味で間に嵌(はま)り、いろいろな意味で窮屈な思いをしながら、西條先輩の出番を待っていると、射場に初老の男性が姿を現した。

「只今より五位決定戦の遠近競射を始めます」

 張りのある声で、そう宣言する。

 いよいよ始まるのだ。私は周囲の状況を一旦忘れて、射場に注目した。


 遠近競射というのは、矢を一本だけ射て的の中心から一番近いところに中った人を勝者とする決定方法である。事の性格上、全員が的を外すとやり直しになる。

 西條先輩は十人いる予選通過者のうち、一番最後に射場に出てくる。

 そして、西條先輩が背筋を真っ直ぐに伸ばし、悠々とした動作で射場に入ってくる様子を見つめながら、私は先程北条さんが「もうすぐしたら分かるよ」と言った意味を、確かに理解した。

 他の高校の生徒と比較すると、西條先輩の体配の優雅さがよく分かる。

 場の雰囲気に飲まれることなく、先輩は本座まで進んだ。

「体配の重要性は、団体で行射する際に全員の動きをあわせて美しく見せる、というところにある訳じゃない」

 北条さんが静かな声で言った。

「弓道はあくまでも個人の技能による競技だ。そして、勝負の場に臨んだ時に自分の身体が自分の思い通りに動くかどうかは、実は結果に大きく影響する」

 自分がやっている時にはよく分からなかったことも、他人事として客観的に見ているとよく分かる場合がある。予選通過者のうちの半分は、動作がまごまごしていて落ち着かなかった。

 途中で審判係の先生から、射位での立ち位置を修正されたりしている。あれでは気が散って競射に集中できないに違いない。西條先輩は落ち着いているように見える。この差は大きい。

「むむむ」

 私は思わず変な声で唸ってしまい、顔を赤くする。

 北条さんは小さく微笑んでから話を続けた。

「射場内での射手の基本的な動きは、全て定められている。例えば、競射中に弦が切れた時の射手の動作はちゃんと決まっているし、弦を張り替えた人が射手に弓を渡す時の動作まで決まっている」

 目の前で最初の射手が矢を放つ。矢は的の縁ぎりぎりに中ったので、少なくとも遠近のやり直しはなくなった。

「さすがに突発事故への対処方法まで細かく定められてはいないけれど、基本的な考え方は決められている。例えば、弓と矢を同時に落とした時はどちらを優先して処理すべきか、ということだ」

 二人目は的から大きく外れた。

「だから、どんな事態が発生したとしても基本的な考え方に従って行動すればよい。この『基本が決まっている』ことが、特に緊急時に役立つ。緊急時ほど身体は思うように動かなくなるからだ」

 三人目は的枠すれすれに外した。二人目と三人目は、中心からの距離で言えば異なるが、外れた事実に違いはなかった。

「緊急時や非常時に落ち着いていること。常に、いつも通りの体配が出来、いつも通りの射が出来ること。これが弓道では重要なんだ」

 四人目の矢が、最初の一人よりも明らかに的の中心に近いところに中る。それでもまだ、的の中心から三分の二のところよりも外側だった。

 それでも観客席から感嘆の溜息が漏れる。失敗した時の溜息とは全然違う、軽やかな息である。

「しかしまあ、弓道の勝負にはさらに別な要素も入り込むことがあるんだけどね」

 五人目が打ち起こしを始めた時、北条さんがまた、よく分からないことを言った。

「別な要素って何ですかー」

 かおりちゃんが天真爛漫に突っ込む。

「そうだなあ。弓道の結果判定は『的に中ったか否か』という、極めて単純な尺度で行われるから、時として途中経過に関係なく、結果が出てしまうこともあるんだ」

「なるほどですー」

 かおりちゃんは納得したようにそう言ったが、私には北条さんが何を言っているのか皆目見当がつかない。

 私の疑問符を無視して、五人目が矢を放つ。それはふらふらと山なりに飛んでゆき、ぼすんという鈍い音を立てながら、的の中心付近に刺さった。

 先程よりも大きな溜息が漏れる。小さな悲鳴も交じっていた。

「偶然やまぐれも実力のうちだ。特に遠近競射では、本人の習熟度や技能の確かさとは全く無関係に、結果として真ん中に矢を中ててしまう人が出る。そうなると、次からが大変だ」

 ここまでは的枠に近い的中しかなかったから、その内側を狙えば勝つ可能性があった。それが今の的中により、ほぼ真ん中に中てなければ負けとなる。難易度が格段に上がった。

 六人目と七人目は、観客席から見ても身体ががちがちに固まっていた。矢は大きく的から逸(そ)れてしまう。

 七人目は辛うじて的に当てたものの、最初の射手よりも縁に近く、的枠を内側から敲いた音が道場に響き渡る。

「遠近競射は、後になればなるほど狙える範囲が厳しくなる。仮に、狙って真ん中に的中させることが難しい技能の選手であっても、狙わざるをえない。それが力みに繋がる」

 八人目は的のはるか上に矢を飛ばしてしまい、幕にあたりそうになる。

「だからといって、じゃあ的を狙わなければ良い結果につながるかというと、もちろんそんなことは有り得ない。狙ったところに飛ばして中てるのが弓道だ」

 九人目の射は素晴らしかった。切れの良い離れから飛び出した鋭い矢が、的を貫く。しかし五人目の矢の外側であることは明らかだった。

 射手の技量からすると、九人目の選手のほうが高いと誰もが思うに違いない。しかし、勝負を決するのはあくまでも中心からの距離だ。

「さあ、君ならここで何を考えて弓を引くかな?」

 北条さんは穏やかに語り、私たちの視線の先には西條先輩の姿がある。

 先輩が今何を考えているのか、私には全く想像できなかった。

「北条さんは、的の中心を狙って確実に的の中心に中てることができますか?」

 私は失礼とは思いつつ、西條先輩のほうに目を据(す)えたまま、北条さんにそう尋ねた。

 北条さんの、苦笑したらしい息遣いが聞こえる。

「無理だよ、そんなことは。昔の『弓の名手』と呼ばれた人々の中にも、的の中心部を狙ってそれを確実に射抜けた人は、皆無とは言わないけれど、かなり少ないと思うよ」

「でしたら、私は多分、的の真ん中は狙いません。狙っても中りませんし」

 北条さんの言葉を受けて、私は即答した。

「ふうん、それじゃあどうするのかな」

 北条さんが楽しそうに尋ねてきたので、私は特に気負うことなく次のように答えた。

「いつものように的を狙うだけです」


 西條先輩は会に入った。

 先輩はずっと私の後ろで弓を引いていたので、今日、私が先輩の射を見るのは初めてである。

「何か昨日までの射と違いはあるのだろうか」

 そんなことを考えながら、私は身を乗り出して先輩の射を見つめた。

 しかし、目の前にいるのはいつもの西條先輩である。

 いつも通りの長い会の後、先輩は離れた。

 矢はすんなりと飛んでゆく。

 そして――


 そのまますんなりと、的の中心部分に吸い込まれていった。


「えええ」

 私は戸惑った。

 これは「中ると思っていなかった」という意味ではない。中ったところが五人目の選手よりも的の中心に近いかどうか、私の眼では判別できなかったからだ。

 観客の殆どが私と同じ状況にあるらしい。的の中心付近に中ったにも拘らず、なんだか中途半端な空気が場内に漂っている。

 直ぐに看的(かんてき)から赤い旗が出されて、三人の男性が飛び出した。三人とも的の前で腰を屈め、なにやら話をしている。中心からの距離を見定めているのだ。

 さほど時間がかからずに的から矢が抜き取られ、その中の一本だけが男性の手で高々と掲げられて、矢道の真ん中を通ってゆく。私は目を凝らした。

 練習中の矢取りで西條先輩の矢は見慣れているから、すぐに分かるだろうと思ったが、よく分からない。ちょうど五人目の射手と西條先輩の矢の色遣いが似通っていたのだろう。

 先輩の矢のような気もするし、違うような気もする。ただ、まったく違う訳ではない。それだけが分かった。

「どっちだろうねー」

 かおりちゃんにも分からないらしい。

 射場の方には出迎えるように和服の先生が立っており、矢はその先生に手渡された。和服の先生は、神棚の下に並んだ先生方に矢を一旦示してから、選手のほうにそれを向けた。

 五人目の射手と西條先輩がそれを見る。


 そして、西條先輩の右手が上がった。


 *


 北条は控室の外から、個人優勝でもしたかのように五位入賞を喜んでいる三人の姿を眺めて、目を細めていた。

 そこに、相模がやってきた。

「何だか娘の成長を見守るお父さんみたいなんですけど」

 そう言って、彼女は笑った。

「やだなあ、俺はそんな歳じゃありませんよ」

 北条は苦笑したが、確かにそんな顔をしていたかもしれないとも思った。

「で、何か分かった?」

「ええ、とても面白いことが分かりました」

 北条と相模は、三人の射を最初からずっと見つめていた。

 正直に言うと、そんなに急に上達するとは思っていなかった。

 多少の改善はあっても、癖はなかなか治らない。しかも、夏休み前までは自己流の相互指導を、試行錯誤で行なっていた女子高生である。

 しかし、三人が最初に入場した時点で、二人はその考えが甘かったことに気づいた。

 体配のところどころにぎこちなさは残っているものの、三人の息合いは揃っていた。

 動作を揃えるよりも息を合せるほうが難しいから、普通はそっちのほうが後になる。ところが、三笠は動作よりも息合いのほうを先に、入念に指導しているらしい。

 射そのものについては、まだまだこれからの印象が強かった。基本を重視する三笠らしいやり方だなと二人はその時は笑った。

 しかし、立射になってからの三人は違っていた。

 恐らく場の雰囲気に慣れたのだろう。

 三人とも、引分から会、離れに至る一連の流れが滑らかになっていた。そして、驚くべきは真ん中にいた美代子である。明らかに座射の時とは違っていた。しかも、そのことが外から見ても分かる。

 試合の最中に何かに目覚めて、前後の成績が別人のように変わる射手がいる。大学の試合は長丁場のことが多いから、特に目立った。美代子はそれだろう。引いている最中に何か思いついたらしい。

 離れの切れが格段に良くなった。的中にこそ恵まれなかったものの、あの離れの切れは見る者が見れば、その凄さが分かる。実際、射場の桟敷で観戦していた先生の何人かが、身を乗り出していた。

 そこで、北条と相模は美代子に接触してみようと思いついた。三笠の指導がどこまで浸透しているのかを知るためである。

 最初、北条は「相模さんのほうが女同士だから話しやすくてよいのでは」と言ったのだが、相模に「女同士だと弓以外の話になりそうだから駄目」と却下された。

 それで、北条がしぶしぶ観客席に向かい、美代子に警戒されながら話を始めた。ただ、美代子はあまり乗り気ではなく、かおりのほうが積極的に受け答えする。

 それはそれで楽しく、三笠の指導が思った以上に浸透していることを証明することにもなったのだが、何故、三笠が美代子に微妙に肩入れしているのかが分からない。

 北条と相模は気が付いていた。

 特に考えもなく女子高校生に竹弓を使わせるようなことを、三笠は決してしない。あえて竹弓を使わせたのであれば、それは三笠が美代子のことを、

「長期的な視点で鍛えたら面白そうな人材だな」

 と、考えたことを意味している。

 北条と相模は既に自覚していたが、グラスファイバーやカーボンでできた弓と、竹でできた弓とでは、手の内の使い方が微妙に異なる。

 材質の違いから、グラスファイバーの弓よりも竹弓のほうが、会の時に弓にひずみが蓄積されるようになっている。このひずみが、離のときの弓返りに連動する。

 グラスファイバーの弓はひずみが蓄積されないから、離れの瞬間に強く弓を捻る必要がある。

 ひずみが弓自体に蓄積されやすい竹弓の場合は、むしろ会の最中にどれだけその蓄積を逃さずに維持できるかが問題となる。

 どちらがよい、悪いではなく、異なるのだ。ただ、普通の高校生が竹弓に触れる機会はほとんどないから、高校生の段階でこれを認識している者は少ない。北条も知らなかった。

 それをどうやら三笠は美代子に体験させようと考えているらしい。

「しかも、彼女はかなり面白いメンタルを持っていますね」

 先程の遠近競射の件である。

 まず「狙っても中らないから、的の真ん中は狙わない」と答えた美代子に対して、北条はそれではどうするのか、と尋ねた。

 すると、美代子は「いつものように的を狙うだけです」と答えたのだ。

「『いつもの通りやるだけだ』なんていう台詞は、弓道を初めて半年しかたたない子が断言できることではないです。どうしてそうなったのか全然分からない。彼女、何か別な競技でもやっていたのかな」

 北条は頭を捻った。

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